浜松明徳寺の月例坐禅会に行ってきた。
和地西交差点
明徳寺参道
本堂
境内から見える浜名湖
浜名湖
お昼休みに近くの稲荷社を参拝に行く。
紅梅
今回の提唱は、『碧巌集提唱録』第十五則「雲門倒說」。
「倒の字に引っかゝるまいぞ。今の天地は只倒一説の天地あるのみと知れ。引っかゝりやうもないことぢや。
(垂示)垂示云。殺人刀活人劍。乃上古之風規。是今時之樞要。且道。如今那箇是。殺人刀活人劍。試擧看。
(訓読)殺人刀活人剣。乃ち上古の風規、是れ今時の樞要なり。且く道へ如今那箇か是れ殺入刀活人則。試に舉す看よ。
(提唱)『殺入刀活人剣。乃上古之風規、是今時之樞要』差別の念をぶち切った時が殺人刀ぢや。それが直ちに活人剣で、差別のまま融通無碍である。この時が平等性智となり、活人剣が妙観察智と名をかへて出る。白隠は坐禪和讃に、四智圓明の月冴えて、この時何をか求むべきといふた。餘の二の大圓鏡智と成所作智は自らその中に含まれてる。念とはその物それの外に自己を認むるを指すのぢや。起信論に忽然念起謂無明とある。払ふべき雲(即ち念)が別にあるのではないのに、わざと念を起して雲即ち相手をこしらへる。只その人のおもはくさへとれば、依舊眼横鼻直ぢや。念其物も相手さへ認めねば、更に嫌ふにたらぬものである。この故に馬鳴は無明無體依真如、真如無體依無明といふてをる。この殺即活の妙應無方難留朕跡處が、古佛古祖の宗風とし、規則とせられたところでまた青原南嶽以來法は沙界に遍く一弛一張しつつ遂に鎌倉時代に我が大日本國に流れ込んで来たが、今や正に殘燈明滅の危機に際し、この古風を以て一大肝要とし標本として令法久住せしめねばならぬ。然るに此道今人棄如土。徒らに名相に走って、實地に遠ざかるは、實に痛嘆に堪えざると同時に、我らに於て一層の努力を要する所以である。
『且道如今那筒是殺人刀活人剣。試擧肴』まあいふて見よと殺活自在の妙用はどの邊であるな。これ果して何人の行履であるなととひかけたが、却って請ふ和尚道へと槍頭を捩轉するものもなかつたと見え、試に古人を出して看せるからすぐ見てとれよとなり。
(本則)舉。僧問雲門、不是目前機、亦非目前事時如何。(𨁝跳作什麼。倒退三千里。)門云、倒一說。(平出。款出囚人口。也不得放過。荒草裏橫身。)
(訓讀)擧す。僧、雲門に問う、「是れ目前の機にあらず、亦た目前の事にも非ざる時は如何」。(𨁝跳して什麼をか作さん。倒退三千里。)門云く、倒一説。(平出す。款は囚人の口より出づ。也た放過することを得ず。荒草裏に身を橫ふ。)
(提唱)『擧借問雲雲門、不是目前機、亦非前事時如何』目前は即今ぢや。機は心機で働く前の心的狀態で、物理學でいへば張力ぢや。事は事用で、活用ぢや。大機には大用あり、小機には小用がある。兎に角この二つの前に物はない筈ぢゃが、そんなことは珍しくない。それを離れた境界をこそととひかけた。突然斯う出らるると越格の力量がないとこの坊主の舌のさきに引っかかるところぢや。これらを藏鋒問といふのである。然し本分の眼から見ると、やはり一物をもつておる。目前の機と目前の事の外にこの人なし。またこの世なし。これを否定しやうがない筈ぢや。矢張矛盾を免れぬぢゃ「へちまとはへちまににたるへちまかな」。
『門云倒一説』一寸見ると汝の問は顛倒してる、矛盾してると奪うたやうに見えるが、そのやうなところで雲門を見んとせば禪は亡ぶるよう外はない。只是れこの倒一説、元來殺活を超越してをるのだから、よりつきやうがないところに、一線路を見出すのぢや。實參實究して冷暖自知するがよい。(以下略)」
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「念とはその物それの外に自己を認むるを指すのぢや。起信論に忽然念起謂無明とある。払ふべき雲(即ち念)が別にあるのではないのに、わざと念を起して雲即ち相手をこしらへる。只その人のおもはくさへとれば、依舊眼横鼻直ぢや。念其物も相手さへ認めねば、更に嫌ふにたらぬものである。」
自ら起こした念(思い)に騙されて、七転八倒しているのが、我々だと言われている。すでに出来ているのだから、求めるべきものなどあり得ない。あるいは、「求自己不可得」であり、「その物はその物の外に知りやうがない」のに、「悟りを得る」とか「真理に達する」云々とか、寝言を言いながら、馬鹿なことを飽きもせず、よくやっていると本当に思う。
「『門云倒一説』一寸見ると汝の問は顛倒してる、矛盾してると奪うたやうに見えるが、そのやうなところで雲門を見んとせば禪は亡ぶるよう外はない。只是れこの倒一説、元來殺活を超越してをるのだから、よりつきやうがないところに、一線路を見出すのぢや。」
「倒一説は倒一説」と聞いて、「そういうことか」と理解して、わかったつもりになる。それで済ませてしまうから、仏教と言いながら仏などどこにもいない、今のこの国の仏教があり、禅宗と自称しながら禅などどこにもない、今のこの国の禅宗がある。欓隠老師が示されているように、「此道今人棄如土、徒らに名相に走って、實地に遠ざか」った結果、仏教も禅宗もすでに滅んで久しい。事実は人為とは全く関係がないということが、周知されていない所以であろうか。
帰りの電車から見えた富士山(原付近)

























































































































































































































































































































































































































