QUOD TIBI HOC ALTERI

QUOD TIBI HOC ALTERI

„Was du dir wünschst, das tu dem andern“.

 脚のリハビリのために、武蔵五日市(あきる野市)に行ってきた。まずは、駅から阿伎留神社まで歩く。

 

武蔵五日市駅

 

都道33号

 

下町地蔵堂

 

 

「五日市」バス停

 

 左折する。

 

 

 

 社叢が見えてきた。

 

 

 阿伎留神社に到着。

 

阿伎留神社鳥居

 

手水舎

 

拝殿

 

 

 

 

本殿

 

 

神楽殿

 

境内社

 

神輿殿の彫刻

 

 

 

玄武&青龍

 

 東京都神社庁の説明によれば、阿伎留神社は、「延喜式神名帳、武蔵国多摩郡八座の筆頭に載る著名の古社。三代実録では従四位下勲六等、藤原秀郷が京の大原野明神の土を移して祀る。江戸時代は御朱印十石を寄せらる。明治六年郷社となる。現在三日間の神幸祭は近郷一の大祭として毎年行う」という。阿伎留神社参拝後、廣徳寺に向かう。

 

 

秋川

 

 小和田橋を渡る。

 

 

秋川

 

 

 右折する。

 

 

 

路傍の花

 

廣徳寺参道入口

 

 直進する。

 

 

 

 廣徳寺に到着。

 

廣徳寺総門

 

山門

 

境内

 

鐘楼

 

経蔵

 

本堂

 

本堂&庫裏?

 

玄関

 

 

本堂(裏)

 

庭園

 

 

廣徳寺のタラヨウ

 

廣徳寺のカヤ

 

 wikiによれば、廣徳寺は、「東京都あきる野市にある臨済宗建長寺派の寺院。1373年(応安6年)に鎌倉建長寺第70世住持である心源希徹禅師によって開山された。開基の龍応智雲尼の夫の正応長者が飼育していた馬が一本角の龍を産んだことから、山号が「龍角山」となっている。その後、一旦衰微していたが、北条氏康によって再興された。後北条氏との関係が深く、後北条氏から交付された文書が残されている。江戸時代は寺領40石が与えられている。これは周辺の寺院の中で、高尾山薬王院や深大寺に次ぐものであり、末寺は24か寺、塔頭は3か寺ある大寺院であった。あきる野市五日市の開光院、同市山田の能満寺、福生市福生の清岩院など、現在でも近隣地域に末寺が多く存在している」という。

 

 廣徳寺参拝後、本来なら天狗岩を見に金比羅山に登るか大悲願寺まで歩くのだが、無理はしないということで、これで秋川沿いを歩いて駅に戻り、帰宅した。

 

秋川

 

 

粟島神社

 

 久しぶりに、横浜の山下公園に行ってきた。横浜駅東口からシーバスに乗る。

 

横浜そごう

 

シーバス乗り場

 

 山下公園行のシーバスがやってきた。

 

 

 

 それでは、乗船する。ほぼ貸し切り状態。大丈夫だろうか。

 

 

ポートサイド

 

 

 

横浜市中央卸売市場

 

 山ノ内橋梁をくぐる。

 

 

横浜ノース・ドック&ハマウィング

 

みなとみらい地区

 

横浜ベイブリッジ

 

第三管区海上保安本部

 

横浜赤レンガ倉庫

 

横浜港大さん橋

 

 山下公園が見えてきた。

 

 

氷川丸

 

 

シーバス山下公園乗り場

 

 シーバス山下公園乗り場に到着。

 

 

ホテルニューグランド

 

 山下公園は、バラが見頃であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 山下公園を出て、元町商店街に向かう。

 

 

本日のお昼

 

 後は、元町商店街経由で石川町から電車に乗って帰宅する。

 

 

 じっとしていると脚が痛いので、気晴らしに、京橋のアーティゾン美術館に行ってきた。

 

アーティゾン美術館

 

 それでは、6階から拝見する。

 

 

(セクション 1:モティーフに最も近い場所で…)

 

カミーユ・コロー「ヴィル・ダヴレー」

 

 解説によれば、「フランスでは1830年代以降に鉄道網が発達し、画家たちは短い時間で遠くへ行けるようになりました。コローは、フランス各地を旅行し、その多彩な風景を題材とした風景画家です。春と夏に戸外での写生を行い、それらの写生をもとに、秋と冬にアトリエで作品を制作するのが常でした。パリの西12kmほどの郊外に位置する小さな街ヴィル・ダヴレーに、コローの父親が購入した別荘がありました。当時は家も少なく、自然豊かな土地でした。コローは母屋の一角をアトリエとして使用し、初期から晩年にわたるまで、その美しい風景を描いています。とりわけ1834年の2度目のイタリア旅行後は、作品制作のために国内を旅する合間、頻繁にこの地に滞在して制作を重ねました。この作品もその時期に手がけたもののひとつ。明暗の対比が効果的に使われ、細部までていねいに描かれた作品です。手前を暗く、背景を明るく表現することで、画面に奥行きが生み出されています。緑深い森と青空が広がり、道には木漏れ日が落ちています。リズミカルに並ぶ左側の木々の合間には、池の水面がわずかに見えます。茶色の牛と道の真ん中にたたずむ女性が、作品の叙情的な雰囲気を高めています」という。

 

アルフレッド・シスレー「森へ行く女たち」

 

 解説によれば、「1865年7月からパリでアトリエを共有していたシスレーとルノワールは、翌66年2月、友人で画家のジュール・ル・クールと3人でマルロット村に滞在して、制作を行いました。この作品に描かれているのは、村に暮らす人々。道の両側には石造りの家が並びます。季節は晩秋。中央の3人の女性は、冬の間に燃やす薪を拾いに森へ出かけようとしています。暗い色調の作品ですが、明暗の対比が効果的に使われており、日差しを浴びた前景は明るくなっています。この作品でシスレーは1866年のサロンに初入選を果たしました」という。

 

ウジェーヌ・ブーダン「洗濯女のいる風景」

 

(セクション 3:《かささぎ》とその周辺―雪の色)

 

クロード・モネ「荷車、オンフルールの雪道」

 

クロード・モネ「かささぎ」

 

ピエール゠オーギュスト・ルノワール「雪景色」

 

アルフレッド・シスレー

「雪の下で―マルリー゠ル゠ロワの農場」

 

(セクション 4:風景画と近代生活―「飾られた自然と、都市の情景」)

 

クロード・モネ「ボート、アルジャントゥイユのレガッタ」

 

カミーユ・ピサロ「ブージヴァルのセーヌ川」

 

クロード・モネ「アルジャントゥイユの係船池」

 

クロード・モネ「アルジャントゥイユのセーヌ川」

 

クロード・モネ「アルジャントゥイユ」

 

クロード・モネ「昼食」

 

(セクション 5:四季の循環と動きのある風景―「ここが私のアトリエだ」)

 

クロード・モネ「ヴェトゥイユのセーヌ川」

 

(セクション 6:1880 年代の風景探索―「表現された感覚の驚くべき多様性と大胆な新しさ」)

 

クロード・モネ

「戸外の人物習作―日傘を持つ右向きの女」

 

クロード・モネ「オランダのチューリップ畑」

 

クロード・モネ「ボルディゲーラのヴィラ」

 

クロード・モネ「雨のベリール」

 

 解説によれば、「フランスのブルターニュ地方は多くの画家に愛された土地でした。モネが一時期滞在したのは、ブルターニュ半島の南にある「美しい島」という意味の小さな島ベリール。モネは1886年9月から11月末までこの島にとどまり、滞在中に46歳の誕生日を迎えました。モネがベリールを描いた油彩画は現在40点ほど知られています。この作品の中央には、ポール=ドモワ湾の中央に位置する「ギベル」と呼ばれる岩が見えています。遠くの岩は雨でかすんでいます。横なぐりの雨は斜め向きのタッチで表現され、海の白い波は曲線で表されています。粗々しい水面の表現が印象的な作品です」という。

 

クロード・モネ「嵐、ベリールの海岸」

 

(セクション 8:連作—反復—屋内風景) 

 

クロード・モネ「ポプラ並木、風の日」

 

クロード・モネ

「ルーアン大聖堂  扉口とサン゠ロマン塔  陽光」

 

 5階。

 

 

(セクション 10)

 

クロード・モネ「ジヴェルニーのモネの庭」

 

(セクション 11:池の中の世界―睡蓮)

 

クロード・モネ「ノルウェー型の舟で」

 

クロード・モネ「ジヴェルニー近くのセーヌ川支流」

 

クロード・モネ「睡蓮の池、緑のハーモニー」

 

クロード・モネ「睡蓮」

 

 解説によれば、「モネは1883年より、パリ近郊ジヴェルニーに居を構えました。1890年には家と土地を購入し、セーヌ川支流のエプト川のさらに支流のリュー川から庭の池に水を引き、そこに睡蓮を浮かべて制作を続けました。1901年から翌年にかけては土地を買い足し、池を拡張しています。その後のモネは睡蓮の絵画制作に没頭することになります。この作品では全体を水面が覆い、ところどころに花をつけた睡蓮が浮かぶ様子が描かれています。画面は今にも動き出しそうな躍動感を持っています」という。

 

クロード・モネ「睡蓮の池」

 

 解説によれば、「睡蓮を扱ったモネの作品は膨大な数にのぼりますが、その中には同様の構図で描かれた連作があります。この作品は、1907年に描かれたおよそ15点からなる縦長のカンヴァスによる連作の1点です。水面に浮かぶ睡蓮と池の周囲にある柳の木の反映が画面に幻想的な空間を生み出しています。モネはこの連作において、太陽が高い昼間から日没にかけて刻一刻と空の色が変化していく様を同じ構図の中に描きました。この作品の淡い朱を帯びた水面は、日没が近づいていることを感じさせます」という。

 

ピエール゠オーギュスト・ルノワール

「クロード・モネ」

 

 4階。

 

 

「江戸天下祭図屛風」

 

 

小杉未醒「山幸彦」

 

『平治物語絵巻』「常盤巻」(鎌倉時代)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「文化遺産オンライン」によると、「平治物語のうち、常磐の都落ちから頼朝配流までを五段に描いた絵巻である。箱の蓋には「伏見常磐」と題が書かれており、常磐を主人公として単独に作られたとみなして、『看聞御記』に記される「常磐絵二篇」に相当するかと推測されることもあるが、疑問である。むしろ、上皇と主上の不知や、経宗・維方の糾問断罪の段が巻中にかなりの量を占めていることから、平治物語絵の中の一巻が残ったものと思われる。…彩色に彫塗の手法を多用し、文様を細かく施すなど丁寧な描法が行われるものの、建物の描写には簡略化ないし崩れが認められ、より古い原本の存在も考えられる。制作は鎌倉時代末期と思われる」という。

 

クリスチャン・ダニエル・ラウホ「勝利の女神」

 

本日のお昼

 南青山の根津美術館に行ってきた。地下鉄表参道駅から歩く。

 

 

 神社があったので、参拝する。

 

大松稲荷神社

 

 

 

 根津美術館に到着。

 

 

 

 

 それでは、入ってみる。

 

弥勒菩薩立像(クシャーン時代)

 

 解説によれば、「紀元1世紀半ば頃から3世紀前半にかけて、現在のパキスタン西北部に繁栄したガンダーラ美術は、それまで造形化されることのなかった仏の姿を表す先駆けとなったことで知られる。本像はその典型的な作品。体部に胸飾や護符紐(ごふひも)などの装飾品を身につける像容は、当地で制作された菩薩像に共通する特徴である。面部の目鼻立ちや、衣に刻まれた深い衣文の表現に、西方のヘレニズムあるいはグレコ・ローマの影響が顕著である」という。
 

菩薩坐像頭部(天龍山石窟第21窟)

 

 解説によれば、「中国・山西省の、隋から唐にかけて開鑿された天龍山石窟の第21窟北壁を飾る菩薩坐像の頭部。頭髪は高く結ってあり、その前面に宝珠をあしらった髪飾りをつける。頬から顎にかけての肉付けはふくよかで、やわらかな量感すら感じさせる。半円形の長い眉や切れ長の眼、中央と両端をくぼませた唇が、堂々とした菩薩の相貌をかたちづくる。天龍山石窟の唐代彫刻を代表する作例である」という。

 

宝慶寺十一面観音菩薩立像龕(唐時代)

 

 解説によれば、「唐の都長安にあった花塔寺(宝慶寺の名で知られる)に所在した浮彫石仏板群のうちの1面。現存する石仏板の半数に、長安3年(703)あるいは同4年の銘があるが、造像活動はそれ以前より始まっていた。すなわち、本像にみる流麗な衣文線や均整のとれた体軀の表現は、制作が7世紀末にまでさかのぼることを示している。溌剌として充実した表現は中国・初唐期の仏教彫刻の気風であり、それは当時の日本仏教彫刻の手本となった」という。

 

四面仏碑像(北魏時代)

 

如来三尊像(北魏時代)

 

如来三尊像(北斉時代)

 

如来立像(北斉時代)

 

 解説によれば、「中国北部、河北省の曲陽や定県では、北魏時代以来、白玉像とよばれる白大理石の仏像が盛んに制作された。その多くは小像であるが、本像は、北斉時代末期より大型化する白玉像の一例であり、左右の肘先を失うものの、台座までを完備する作例として重要である。大ぶりの頭部は下膨れで、切れ長の眼とわずかに笑みを浮かべた唇が独特な表情をつくる。体部に流れるような曲線をえがく大衣の表現が美しい」という。

 

展示室1&2入口

 

 展示室内は撮影不可。以下は、Wiki等から拝借した、今回展示された主な作品の画像。

 

尾形光琳「燕子花図屏風」

 

 

 解説によれば、「総金地の六曲一双屏風に、濃淡の群青と緑青によって鮮烈に描きだされた燕子花の群生。その背後には『伊勢物語』第9段の東下り、燕子花の名所・八つ橋で詠じられた和歌がある。左右隻の対照も計算しつつ、リズミカルに配置された燕子花は、一部に型紙が反復して利用されるなど、一見、意匠性が際立つが、顔料の特性をいかした花弁のふっくらとした表現もみごとである。作者の尾形光琳(1658~1716)は京都の高級呉服商に生まれ、俵屋宗達に私淑した。本作品は、江戸時代のみならず、日本の絵画史全体を代表する作品といって過言ではない」という。

 

渡辺始興「燕子花図屏風」

 

 

尾形光琳「夏草図屏風」

 

饕餮文方盉(伝河南省安陽殷墟侯家荘出土)

 

 解説によれば、「盉」とは注酒器のひとつで、酒をほかの酒や香料、水などと混ぜ合わせる撹拌器(かくはんき)であり、盃に注ぐ役割もすると考えられている。本作はいずれも四脚をもち、方形の胴部の側面に持ち手をつけ、古代中国の神である饕餮をあらわした頂面覆いに長くのびた注口をつける。胴部の各側面にも大きく口を開いた饕餮があらわされている。各々の盉の文様はわずかずつ異なり、細部まで凝った造形となっている。ほぼ同形同寸の3個の盉が一組になっている例は大変珍しく、殷王の所有品であった可能性が高い。殷代王墓のひとつである河南省安陽市殷墟侯家荘西北岡第1001号墓から出土したと伝えられている、という。

 

饕餮文瓿(伝河南省安陽殷墟侯家荘出土)

 

双羊尊

 

 解説によれば、「背中合わせに2匹の羊を合体させ、口の開いた器を背に載せているような姿の尊である。尊とは、酒を供える盛酒器である。羊が背負っている器の胴には、大きく目を見開いた饕餮のようにみえる獣面があらわされ、神前に供する器としての威厳を備えている。それを支える羊の身体は鱗状の文様で覆われ、脚の付け根には龍がとぐろを巻くなど、器表が隈無く文様でうめられている。ロンドンの大英博物館所蔵の双羊尊と本作のほか、同形の遺例はない」という。
 

 見頃だという庭園のカキツバタを見に行く。

 

望柱石

 

 

 

 

 

石造釈迦如来

 

石造浮屠

 

庭園から見た美術館

 

 脚の手術をしたので、歩行はもちろん、日常生活がかなり不自由であるが、医者に散歩程度はして良いと言われたので、近場の美術館に来てみた。

 鎌倉の鏑木清方記念美術館、英勝寺、及び海蔵寺に行ってきた。まずは、鏑木清方記念美術館。鎌倉駅から小町通り経由で歩いて向かう。

 

小町通り

 

 

 

 

 鏑木清方記念美術館に到着。

 

 

 

 

 それでは、入ってみる。館内は撮影不可。今回は、主な展示作品を展覧会パンフからスキャンしてみた。

 

鏑木清方「 朝涼」

 

 解説によると、「清方は大正9年(1920)から横浜の金沢に別荘を構えました。そして当地で過ごすときは、早朝に付近を散歩することを習慣としていました。夏のある日、白い残月のかかる朝焼けが始まる頃に、長女と連れ立ち歩いた光景から着想し、本作を制作しました。長女の立ち姿や横顔を何度も写生して本画に臨み、蓮や稲田が続く豊かな自然とともに写実的に表現しています。大正半ばから風景画に作域をのばし模索していた清方が、「全く自分を取り戻した」と後年に振り返った記念碑的作品です」という。

 

鏑木清方「舞妓」

 

 解説によると、「昭和5年(1930)の早春、ローマで開かれる日本美術展へ赴く友人たちを神戸で見送るため、清方は東海・畿内を旅しました。かねてからの憧れの地であった京都にも滞在し、京都生まれの弟子、山川秀峰の案内で家族とともに祇園を訪れました。そこで知り合った、芸子の姉、舞子の妹の姉妹をモデルにして描いた写生が残っています。本作は、舞妓特有の髪型である割れしのぶやだらりの帯がよくわかる構図になっています。清方は、描き慣れた江戸・東京の女性と異なる舞妓の姿を細部まで丹念に描き、自身の目で見た鮮やかな印象を留めるように表しました」という。
 

鏑木清方「虫の音」

 

 清方は、戦争末期の昭和19年(1944)から茅ヶ崎に疎開し、終戦間際に御殿場へ再疎開しました。美人画が描きにくかった暗い時代を経て、昭和21年(1946)春に鎌倉・材木座に転居し、本格的に美人画制作を再開させます。本作品には、萩の花に耳を寄せ、姿が見えない虫の音に聞き入る江戸の女性が描かれています、という。

 

山川秀峰「大谷武子姫」

 

 今回の注目作品。山川秀峰は、本名嘉雄、明治31年京都に生れ、鏑木清方・池上秀畝に師事した。昭和3年第9回帝展に「安倍野」を出品して特選となり、11回帝展の「大谷武子姫」は再び特選、翌6年には無鑑査となつた。第13回展の「序の舞」、二千六百年奉祝展の「信濃路の女」等の優品がある。また青衿会を伊東深水と共に催し、美人画の開拓に努めていた、という。

 

 鏑木清方記念美術館の次は、寿福寺を経由して、英勝寺まで歩く。

 

横大路

 

巌窟不動尊

 

 

 

寿福寺総門

 

 

中門

 

本堂

 

 英勝寺に到着。

 

英勝寺総門

 

通用門

 

 それでは、拝観する。

 

 

観音菩薩像

 

鐘楼

 

黄花菖蒲

 

山門

 

 

仏殿

 

 

 

祠堂門

 

 

竹林・書院への道

 

竹林

 

 

書院

 

 今回お目当ての白藤。ちょうど見頃であった。

 

 

 

 

 英勝寺の白藤を堪能した後は、海蔵寺に行ってみる。

 

 

 

 海蔵寺に到着。

 

 

底脱ノ井

 

山門

 

庫裏&鐘楼

 

 例年ならツツジが見頃のはずであったが、温暖化の影響であろうか、もう終わっていた。

 

薬師堂

 

 

本堂

 

 

本堂&庫裏

 

やぐら&芍薬

 

 

宇賀神?

 

書院&庭園

 

 本日は、これで帰宅した。

 十輪寺参拝後、次に、関方の猪之谷神社に歩いて向かう。

 

県道213号

 

「松崎団地」バス停

 

 焼津市に入る。

 

 

 策牛水路橋を渡る。

 

 

長福寺入口

 

猪之谷神社鳥居

 

拝殿

 

 

境内社

 

本殿(覆屋)

 

境内社

 

奥屋敷一号墳

 

 

 奥屋敷古墳群は、静岡県焼津市関方に所在する古墳時代終末期(7世紀)の古墳群。六鈴鏡が出土したことで知られる。奥屋敷1号墳(猪之谷神社古墳)は、猪之谷神社境内に所在し横穴式石室の玄室奥側部分が残存している。石室からは、江戸時代の1857年(安政4年)に銅鏡の縁に6個の鈴が付く「六鈴鏡」が出土した。鏡自体の製作年代は文様などから5世紀末~6世紀前半と考えられるが、古墳の築造年代は7世紀代と考えられるため、古墳時代当時からこの鏡が伝世品として大切に扱われていたことが示唆されるという。

 

 次に、隣接する長福寺。

 

長福寺山門

 

六地蔵

 

「いぼ地蔵」

 

本堂

 

 長福寺は、寛文12年(1672年)開創の曹洞宗の寺院。本尊は、大日如来。境内には「いぼ地蔵」と呼ばれる地蔵尊などがある。最後に、坂本神社。

 

高草山方面

 

 

坂本神社社号標&鳥居

 

鳥居

 

参道石段

 

拝殿

 

本殿

 

本殿背後

 

 坂本神社参拝後、バスに乗り、焼津駅に到着した。

 

「坂本」バス停

 

本日のお昼

 

お昼を食べに行ったホテルから見えた富士山

 

 日本という国は、石油がなければ一日もやって行けない国である。いわば、「油上の楼閣」である。石油がなければ、一切が崩壊する。これは、戦前も然り、そして戦後も然り、現在も然りである。それで、目下イラン情勢が好転する目処が立っていないわけであるが、この状況下で、いつまで持ちこたえることができるのだろうか。

 実家に帰省してきた。それで、例によって、付近の神社などを参拝してきた。まずは、岡部若宮八幡神社。藤枝駅から新静岡行のバスに乗り、「藤枝市岡部支所」バス停で下車、参拝する。

 

藤枝市岡部支所バス停(五智如来公園)

 

五智如来

 

 五智如来公園は、「誓願寺の境内に安置されていた五智如来像を移し、公園として整備した場所で、観光案内所が併設されています。この像は、田中城主が誓願寺の本尊に病気平癒を祈願したところ、願いが成就し、病気が治ったことから、そのお礼として寄進されたものです。五智如来像は2組あり、後列が田中城主が寄進したもので、前列は明治の中頃に作り直されたものです」という。

 

宮前橋

 

岡部若宮八幡宮社務所

 

岡部川

 

岡部若宮八幡宮注連柱

 

鳥居

 

神木

 

参道石段

 

拝殿

 

 

境内社

 

本殿

 

 

 

 

朝比奈川

 

 岡部若宮八幡宮は、908年に京都石清水八幡宮より勧請されたとされ、かつてこの地を治めていた有力者岡部氏・朝比奈氏ともゆかりの深い古社。3年に1度、秋の例祭で全国的にも珍しい神事「かみころばし」(市指定文化財)と「七十五膳」が奉納される、という。

 

 次に、神神社。「岡部支所」バス停から焼津駅行バスに乗り、「三輪神社入口」で下車、参拝する。

 

神神社参道

 

社号標

 

一の鳥居

 

神神社

 

社務所

 

二の鳥居

 

拝殿

 

 

三ツ鳥居

 

本殿

 

神門?

 

 神神社は、旧岡部町三輪地区の中心部に鎮座している神社。創建は皇極天皇3年(644年)、東国に疫病が蔓延した際に、退散祈願として、大和国(奈良県)の大神神社を勧請して創建したとされ、式内社としても記録されている古社である。

 

 次に、十輪寺。

 

 

 

十輪寺入口

 

「遊化の庭」

 

十輪寺山門

 

参道

 

庫裏

 

本堂

 

 十輪寺は、岡部宿の東、高草山の麓に1624年に開創された曹洞宗の寺院。本尊は延命地蔵菩薩。江戸時代の遊行僧・木喰上人が造った木喰仏2体と書軸(いずれも市指定文化財)が祀られている、という。

 

 次に、関方の猪之谷神社に向かう。


(続く)

 一部展示替えがあったので、東京国立近代美術館に行ってきた。東京駅から歩く。

 

東京駅

 

日本工業倶楽部

 

竹橋交差点

 

東京国立近代美術館

 

 それでは、四階の1室に入る。

 

 

松林桂月「水墨深林」

 

 「文化遺産データベース」によると、〈松林桂月(一八七六−一九六三)は、山口県萩町の生まれ。旧姓伊藤、本名篤。はとんど独学で日本画を修めた。文展で受賞を重ねながら南画界の重鎮として活躍。帝国美術院会員、ついで帝国芸術院会員となり、昭和十九年には帝室技芸員となる。戦後は日展の常任理事をつとめ、昭和三十三年に文化勲章を受章した。渡辺華山、椿椿山の画系に連なり花鳥画を得意とした桂月が水墨による南画山水に傾倒するようになったのは晩年のことである。「水墨の法には活墨といふものがある。これに反するものが死墨である。では活墨とは何なものであるかと言ふと、墨に濃淡の調子がはっきりと美しく出ることである」という持論の通り墨の濃淡に色彩や光を暗示させる「活墨」を最期まで追及した。この作品は昭和三十六年の日本南画院に出品された最晩年の大作である。賛に「遠處蔵孤寺、鐘残西日傾、千山皆暮色、萬木巳秋聾、僧望帰雲杳、樵邊落葉行、蕭條無限意、天地托詩情」とある。〉

 

川端龍子「新樹の曲」

 

 

 

 3室。

 

高村光太郎「手」

 

 10室。

 

鏑木清方「弥生の節句」

 

尾竹竹坡「おとづれ」

 

 

 

 

 文化遺産オンラインによると、尾竹竹坡は「新潟生まれ。本名染吉。はじめ笹田雲石に師事して南画を学ぶ。1896年に上京し川端玉章に入門、また小堀鞆音、梶田半古に大和絵系の技法を学ぶ。日本美術協会をはじめ初期院展などに出品、受賞する。1905年に石井林響らと大同絵画会を結成。09年以降は文展に活動の舞台を移し、19年に八火社を結成。本作品の、童子を従え、菊に竹、薄が生い茂る竹垣の間を進む男性は歌人でありまた密使でもあるというが、特定の物語などを題材にしたわけではない。竹坡は、以前知人を訪問した時に主人不在の書斎を見て、がらんとして物淋しい感じを受けたところから、この作品の着想を得たという。着色せず地色を生かした地面の表現は、金屏風の伝統的な空間処理を念頭に置いたものであるという。また輪郭線の目立つ草花の描写は当時装飾的と評された。強烈な色彩を抑えた秋の静かな雰囲気の中に、竹坡の装飾への志向がうかがえる」という。

 

寺崎広業「溪四題」

 

(夏の月&雲の峰)

 

(雨後&秋霧)

 

 「文化遺産オンライン」によると、「第3回文展出品作。第1回は正派同志会が、第2回には国画玉成会がボイコットしたため、この回に文展開設以来初めて各派が一堂に競うこととなったこともあって、審査委員である広業も四幅の大作を発表した。信州の上林温泉の奥での写生にもとづいて描かれたもので、広業はこの土地を好んで訪れており、後には別荘も建てている。支持体には知人から贈られたものらしい中国の紙を用いており、墨の滲みや絵の具の発色に独特の風合いがみられる。広業は狩野派の修業の後様々な画風を吸収しているが、こうした紙の扱いは日光時代に南画家菅原白龍に学んだと言われている。出品の記録では《雲の峰》と《雨後》とが「其の一」、《秋霧》と《夏の月》とが「其の二」とされており、二幅ずつの対幅として描かれたことがわかる。《雨後》は晩夏かあるいは初秋の山あいの風景で、驟雨の後みるみる雲が晴れてゆく様子が表されている。《雲の峰》では緑の美しい夏山と青空の色彩の対比がみずみずしい。《夏の月》は墨彩を生かして夜の風景を、《秋霧》は切り立った峡谷の深さを表現している。四季ではなく夏と秋だけを取りあげ、時間的にも自由な組み合わせがなされているところに、南画を基礎にしながらも伝統に縛られない姿勢が見られる。朦朧体の作品を意識しつつ折衷的に新しい表現を作り上げた彼の作品は、初期文展時代の主流であったと言えよう」という。

 

川合玉堂「二日月」

 

 「文化遺産オンライン」によると、「はじめ京都で四条派を、のち東京で橋本雅邦に狩野派の画風を学んだ玉堂は、両者の描法を生かしながら、温和な日本の風景を描いた。横山大観や菱田春草らが朦朧体とよばれる没線描法を試み、新しい日本画の創出をめざしていた日本美術院にあって、玉堂があくまで狩野派の伝統をふまえた線描を基本としていたことは、この作品からも見て取れる。その上で部分的ににじみも生かしながら情感ある四条派の画風を折り込んで、秋のタ幕れの澄んだ空気を活写しているのである。東京勧業博覧会に出品され、一等賞を受賞した」という。

 

菱田春草「賢首菩薩」

 

 解説によれば、「春草はこの作品で、線のように見える部分も色面もすべて点描式に塗りつぶし、その上に細密描法を用いて模様を入れ、明暗というよりは色調によって遠近や立体感を出す新しい技法を開拓した。しかしその苦心は当時の審査員には理解されず、落選しかけたが、天心、大観らの強い主張によって入選、二等賞第三席を得た。作品の題名になっている賢首菩薩は中国唐代の僧侶で、華厳宗第三祖である」という。

 

菱田春草「梅に雀」

 

横山大観「月明」

 

下村観山「清涼殿」

 

安田靫彦「日食」

 

小林古径「機織」

 

 文化遺産オンラインによると、〈第13回院展出品作。「あの機織は京の西陣の機屋に参った時、薄暗い土間の空気の中に、蔭の如くに動く機織る人々の姿々を見て、其処に興味を感じて描いたのです。勿論其の観照の中心は終始機其のものに置かれてをりました」と作者はこの作品の着想を得た時のことを語っている(『美の国』第2巻第10号)。その言葉どおり、画面の中央に描かれているのは二台の機であり、目を引き付けるのはそこに張られた色鮮やかな糸である。その周囲にわずかに刷かれた墨が薄暗い室内の空間を暗示し、しっとりとした京都の町屋の奥行きを感じさせる。直線からなる機の幾何学的な形態と、そこにかがみこむ二人の女性の柔らかな肢体とが緊張感のある構図を作り出している。画面に華やかさを加えている織り糸の彩色には、一方に白群、もう一方の紫色の混じった方には西洋絵具を用いたという。糸の色から描き始めて全体の色の調和を図ったというあたりには色彩家らしい古径の細かい配慮がうかがわれる。室内における器物と女性という主題、抑制のきいた線描には、1923年のヨーロッパ旅行で大英博物館所蔵の伝顧愷之筆《女史蔵図》を模写した経験が生かされているようである。歴史画を得意とした彼が初めて現代風俗を取り上げたのは18年に発表した《いでゆ》であったが、それを現在の状態に描きなおしたのがこの《機織》の描かれた26年のことであり、ともに古典に学んだ経験を現代に調和させる実験的な試みと言えよう〉という。

 

前田青邨「石棺」

 

 文化遺産データベースによると、〈青邨は、昭和の初めに同名同モティーフの作品を描いている。それが1932年の第19回院展に出品した〈石棺〉であり、その制作動機を『三彩』第65号(1954年12月号)に発表した「感想と思い出」にこう記している。「ある年の夏、男山の八播宮に行こうとして駅をおりると、石棺が一つ発掘してありました。ふと覗くと、内部に美しい朱のあとが残っています。その鮮かな印象にハッとして、これに美しい人を入れて描いてみたいと思いました。そして制作したのが『石棺』です」。この絵を彼は神奈川県のある寺に納めたが、終戦後の混乱のうちに行方不明になってしまった。この絵は彼にとって大変心残りのものであったらしく、30年後に再び制作したのである。図版で見ると最初の絵では石棺は水平に描かれているが、再制作では石棺は斜めからとらえられ、棺の一部は断ち切られている。そのため構図にダイナミックな動きが加わったばかりでなく、棺の内部を覗きこむという心理的な緊張感も強められた〉という。

 

横山大観ほか「東都名所」

 

安田靫彦「櫻田門」

 

川端龍子「日比谷」

 

小茂田青樹「御茶の水」

 

下村観山「日本橋」

 

前田青邨「大根河岸」

 

小林古径「銀座」

 

荒井寛方「代々木」

 

筆谷等観「築土」

 

近藤浩一路「湯島霊雲寺」

 

横山大観「不忍」

 

木村武山「根岸の里」

 

長野草風「金龍山」

 

橋本静水「堀切」

 

小川芋銭「四ツ木」

 

大智勝観「木場」

 

冨田溪仙「清水」

 

北野恒富「宗右衛門町」

 

新海竹太郎「ゆあみ」

 

 ひと通り見たので、これで帰宅した。

 浜松明徳寺の月例坐禅会に行ってきた。

 

参道

 

本堂

 

本堂前から見えた浜名湖

 

 

 お昼休みに近所の神社を参拝に行く。

 

水神社鳥居

 

拝殿

 

 

本殿

 

付近に咲いていた花々

 

 

 

浜名湖

 

 今回の提唱は、『碧巌集提唱録』第十七則「香林坐久」。以下、本文。 


 「香林は雲門の神足ぢや。迦葉的々四十一祖ぢや。十八年間侍者を勤めつつ骨折られた。雲門は常に遠侍者と喚んだ。はいと答うれば、是什麼とぶっかけた。悪い業障深重にして直下承當することができなかった。一日忽ち我會せりと叫んだ。尋常の會ではない。確かに冷暖自知するところがあった。雲門曰何ぞ向上に道ひ將ち来たらざると拶した。截人血を見るべしぢや。竹膜程残り物があったと見え、また三年工夫した。そこで愈々人の謾をうけざるを得た。根機の猛烈なる人ぢや。雲門廣錄は香林が潜かに紙子に筆記したものである。香林の法子が智門で、その弟子が雪竇ぢや。祖先のことを顯揚するは祖師門下の大孝である。香林院四十年なり、八十歲方さに遷化せんとし、衆に謂つて曰く、老僧四十年方に打成一片と言ひ訖つて逝く。打成一片とは純一無雜ぢや。野中の一本杉ぢや。とかく殘りものがあるやつぢや。容易の看をなすなかれ。白隠下の象匏六十隻手眞境界ともあるぞ。

【垂示訓読】釘を斬り鐵を截つて始めて本分の宗師たる可し。箭を避け刀に隈れば焉ぞ能く通方の作者たらん。針剳不入の所は則ち且く置く白浪蹈天の時如何。試に擧す看よ。 

【提唱】『斬釘截鐵始可爲本分宗師』煩惱妄想が凝固してブチ切りにくいところを釘や鐵に比したのぢや。それを金剛宝剣で跡方のなくなるまで截盡して、無始劫来の縛をといて、圓融無碍の 人たらしめ得るのが本當の正師といふものぢやが。

 

 『避箭隈刀能爲通方作者』學者の鋭鋒をさけ、その場を程よくつくらふが如きは、諸方面に通曉せるゑら者と許すことはできぬ。今時具眼の宗師殆んどなし。曾て明治二十五年の頃、ある師家が宗匠檢定法とて隱山卓州の公案調べを拵へ、これを妙心本山に持出した時、二十五道場の叢林一人もこれを打破しに出頭せし者がなかったと聞く、また以て卜するに足らんか。その調べが果して祖佛の然諾を得べきものか、これも請け合ひがたし。

 『針剳不入處則且置。白浪滔天時如何。試擧看』針剳不入とは針を刺すすきまもないといふのぢや。煩惱ぢやの菩提ぢやのと、名相の入るすきまのないこと、つまり自己一微塵もないことぢや。殺し切ったところぢゃ。大死一番せば、即所大活現前せねばならぬ。白浪滔天は大活動を形容した放行とも濟度門とも見てよい、暗に香林の答處にあてた。斯くて學者をして頭正尾正ならしめよと。然し香林許りの専有物ではあるまいぞ。

 

【本則訓読】擧す。僧香林に問ふ。如何なるか是れ祖師西來意。(大に人の疑着する有り。猶這箇の消息の在る有り。)林云く。坐久成勞。(魚行けば水濁り鳥飛べば毛落つ。狗口を合取せば好し。作家の眼目。鋸解稱鎚。)


【提唱】『擧僧問香林如何是祖師西來意』祖師は茲では達磨ぢや。達磨が西天より來つて宣傳さ れた直指人心教外別傅底の極意を伺いたい。即ち祖師禪の端的を問うた。如何是祖師西來意とは、 禪家者流出合がしらのきまり文句ぢや。諺に祖師は達磨に奪はれ、三蔵は玄弉に奪はるといふことがある。祖師といへば迦葉釋迦より嫡々相承して来た者は、皆祖師ぢや、達磨に限りはせぬ。支那に始めて来た最も有功の人で、殊に九年面壁で名を誰知らぬものなき故に不知不識達磨のことになった。「面壁の祖師の姿は山城の八幡あたりの瓜茄子か」。即ち師の持業釋に見るより、祖佛の師となる越格の力ある依主釋に見る方がよい。また三蔵はもと翻譯者の官名ぢや。經律論の三歳に達したものの意、玄弉ばかりではない、羅什もあり、法月もある。玄弉は大難を経て入竺して大般若六百巻を得て帰るに名ありしにより人口に膾炙するに至ったまでぢや。

 『 林云坐久成勞』正眼に見來れば人々本具箇々圓成の歴々三昧ぢや。物として脱落せざるはない。脱落とはなんにもくつついてをらぬ、皆落ちてしまふたのぢや。天是天地是地生是生死是死ぢや。こゝを第一則で雪竇が清風匝地有何極と豫告しておいたのぢや。されば今香林も當機覿面に久しく坐してをつたらくたぶれたわいと、これぞ眞個手つかずのホヤホヤの西來意ぢゃ。併し其位のことは 誰もいふが、それは模倣禪ぢや。禪は無師自悟で獨創的ぢや、匹馬單槍ぢや、他に依るものでない。 師家は只其の眞偽を点檢するまでぢや。まねではいけぬ。只坐久成勞になりきりて、自ら跳出さねばだめぢや。坐久成勞の圏繢(おり)の中にはまり込んでは何の役にもたぬぞ。とかく公案禪の悪弊は脚本的に文句を意釋して芝居をやる。芝居なら役者には叶はぬ。曾て天桂の室内にて幽霊濟度の公案を以て試みたら、学人すぐにおばけに成切って見せたから天桂はいつまでもそうしてござれと鐵鎚を下した。今時不融通の禪、大概皆如是。ああかようのなりかばねであらうぞなれば、祖師の眞風は夢にだも相續することはならぬわい。黄檗はこれを噇酒糟の漢といふたのぢや。猛省一番するがよい。

 

【本則著語】『大有人疑著』祖意といへばなんだか別のことのやうに思ふ。水瓶から火が出、空を 飛ぶこともできると思ふ。十六羅漢などの圖を見て本當にあったことと思ふ。意思の自在底を僅に形容したまでぢや。鐡鉢から龍を出すなど、あんなことがあったらそれこそ妖怪幻術ぢや。そこで西來意とださるると一寸コクビを傾ける。すぐに平常心是道と打消す勇氣がないといふことぢや。大は甚だの意ぢゃ。『猶有這箇消息在』おまへの處にはまだそんなたよりがあるのかと奪った。高く眼をつけよとなり。

 

 『魚行水濁鳥飛毛落』いへば夫れ丈跡がつく、思へば夫れ丈の染汚ぢや。西來意の中にゐて西来意をだすもおかし。雪上加霜は斯様の時にふてやるとよい。『合取狗口好』ムダ口吐くなと奪うておいて、然かも丸吞を恐れて次の著語あり。重々親切なり。『作家眼目』真個正眼ある宗匠なれば、昔覺えがあるからここは眼をつけねばならぬ、参究せねばなるまい。『鋸解稱鎚』稱鎚とは禪の分銅ぢや。中々ブチキレぬ、またきらんとすれば愈々きれぬ。分解せねばそれでよい。それでよいときめこむとまたきずがつく。とかく境界の平穏無事なるを要するぢや。昔乞食桃水は西來意に答ふるに、夏は醤油をしこむもの、冬はみそをつくものと答へたもおかし。


【頌訓読】一箇兩箇千萬箇。(何ぞ依つて之れを行せざる。麻の如く粟に似たり。群を成し隊を作して什麼をかなさん。)籠頭を脱却して角駄を卸す。(今日従り去って應に須く灑々落々なるべし。還つて體得するや也た未しや。)左轉右轉後へに隨つて來る。(猶自ら放不下。影影響響。便ち打たん。)紫胡劉鐡磨を打たんことを要す。(山僧拄杖子を拗折して更に此令を行せず。賊過て後弓を張る。便打たん。嶮。)


【提唱】『一箇兩箇千萬箇』大低今時の叢林では坐久成労でも趙州の無字でも、隻手でも二三年甚しきは一夏二夏も骨折ると、それでよいと許す。許されて學人も矢張これでよいのぢゃときめ込む。お荷物を澤山背負って居りながら何にもない積りぢゃ。


 『脱却籠頭卸角駄』籠頭は馬の轡つらぢや。自由を縛するに譬へたのぢや。角駄は荷物ぢや。馬にのせる荷作りが、大低長方形ぢやから名けた。従前の悪知惡覺を蕩盡して邪魔物がとれた積りぢや。元古佛は師乞ふ猥りに我を印する莫れと彈劾したは、さすが佛法の總府たる曹洞宗の御開山ぢや。さて刻實に點檢すれば、どこかに必ず縫罅がのこつてをる。日用底に自由がきかぬ。相手を使ひ得ぬ。少しばかりの瞋恚すら制することが出来ぬ。水戸風外が腹立達磨を書いたも故あることぢや。どうも微細の流注煩惱が勦絶しがたいのぢや。これがさつぱりせぬと禅は何の役にもたたぬのぢや。


 『左轉右轉隨後來。紫胡要打劉鐵磨』これは紫胡と劉鐡磨との問答ぢや。ある日紫胡和尚わざわざ當時傑出のきこゑある劉鐡磨をとうたは下問を耻ざる君子人なる哉。乃ち問ふ、おんみが劉鐡磨であるかと。勘破の微露ぢや。磨く不敢、マアそんな者ぢや。胡云、左轉か右轉か。磨に因なんでその臼は左へ轉るか右に轉るかと、風なきに波を起して海の深淺を試みた。磨云和尚莫顛倒、なんと血迷ひめされたかと、間不容髪やったところはすばやいやうだが、語に依って解を生じた。早是隋後来れるを免れぬぢや。すぐに打てばよかったのぢや胡和聲便打すぐに打つて彼が意根を殺盡せんとしたは、いかにも電光も猶遲き活作略ぢや。可惜許磨尼何ぞ知過不改か。碧巖は法の淺深を擧揚して以て山上向山あることを知らしむるのぢや。誰か猛省せざらんや。

 

【頌著語】『何不依而行之』なぜ正令(一喝一棒)を行じて彼をして猛省せしめざるか。『如麻似粟』然るに斯る卑劣漢が諸方に多きは嘆かはしき極みではないか。『成群作隊作什麼』一人でも本物がほしい。やくざ物の飯袋子を澤山こしらへて何になる。
 

 『從今日去應須灑々落々』重荷が卸りたなら再びふりかへったり引つかかつたりすることを許 さぬぞ。今日ではない、即今から如水如雲さら々々と縁に随つてよどみなくやつてゆけといふ。『還體得也未』さりながら佛も思惑難斷如藕絲といふたから、實際大自在を得ることは容易ではない。果してそれでよいかと坐下を試みた。


 『猶自放不下』まだそんなこと繰返へすのか。雪竇還つて人の尻馬について廻るのではないかと抑下した。『影々響々』向ふの影を認め、響について回り直に酒々落々といかぬやうぢや。大丈夫の志氣何くにかある。おれがゐたら何にもいはずに。『便打』痛く一棒を喰はさんものをと雪と劉に當りて坐下へ反省せしめる圜悟の血滴々ぢや。

 『山僧拗折拄杖子不行此令』圜悟ならば此時却つて拄杖子を折ってしまい、かゝる荒つぽい小供らしいことはせぬ。阿々大笑でもしてやらうものに、可惜許。『賊過後張弓』雪竇は打つのをお手柄に思うてをるが、こゝで打つのはもう遅いぞ。『便打』己ならそんな事頌する雪竇から打つてやる。『嶮』とかく油断大敵ぢや。八方に眼を配らぬといつ打たるるかも知れぬ。あぶないことぢや。」

 

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 「併し其位のことは 誰もいふが、それは模倣禪ぢや。禪は無師自悟で獨創的ぢや、匹馬單槍ぢや、他に依るものでない。」

 

 「とかく公案禪の悪弊は脚本的に文句を意釋して芝居をやる。芝居なら役者には叶はぬ。曾て天桂の室内にて幽霊濟度の公案を以て試みたら、学人すぐにおばけに成切って見せたから天桂はいつまでもそうしてござれと鐵鎚を下した。今時不融通の禪、大概皆如是。」

 

 モノマネが禅であると思っているわけであるが、たとえモノマネであっても、実は何をやっても、実際には「他に依るものでない」、その人その時一回限りの「獨創的」なことである。それはそうなのであるが、問題は、それで良しとしてしまって、そこに居座ってしまうことである。禅は芸ではない。人を離れてはじめて禅である。何にせよ、何かを握ったら、もはや禅ではない。私はそう思う。

 

 提唱後の茶話会で、ご老師がこんな事を仰っていた。「私は覚えていないのですけど、その場にいた人から後から聞いたことですが、私のところに哲学を研究している人が来て、自分の研究内容について、私に長々と説明してくださったそうです。そして、その説明が終わった後、私が、『それでそれがどうなるんでしょうね』と一言言ったそうなんですが、そしたらその方は、いきなり席を立って帰ってしまったそうなんです。私はそんなこと言ったことも覚えていないのですが、(その方が)そういう態度を取ること自体、ご自身に自信がなかった証拠、つまり、話した内容が借り物だったということを示しているんじゃないですかね。」

 東京国立博物館の続き。東洋館を出た後は、かなり疲れたが、今回は、西洋美術館にも入ってみる。

 

国立西洋美術館

 

オーギュスト・ロダン「考える人」

 

オーギュスト・ロダン「説教する洗礼者ヨハネ」

 

14世紀シエナ派「聖ミカエルと龍」

 

 解説によると、「龍と闘う騎士の像は聖ゲオルギウスとも考えられるが、この作品の騎士は天使のように翼を持っており、馬に跨っていないので、大天使聖ミカエルとする方が正しいであろう。天で戦争があったとき、ミカエルが龍と闘い地上に落下させたという黙示録(第12章7-9節)に基づく場面である。しかし龍退治に関するこの二つの主題はしばしば混同され、ここでもミカエルは地上で怪物を退治している。金地を背景に天使が楯を左手に持ち、右手を振り上げて龍を槍で刺し貫いているところである。赤、白、黄、緑青色の強い色彩の対照が美しく、また顔には緑などの微妙なニュアンスが施されていて、 14世紀シエナ派の装飾的でしかも叙情的な作風を充分に窺わせる。本作品はフィレンツェのローザー・コレクション旧蔵で、同コレクションではロレンツェッティに帰されていた。しかしエヴェレット・フェイおよびフェデリコ・デーリは、本作品をいわゆる「パルナ」(サン・ジミニャーノ僧院の新約伝壁画を描いた逸名画家)の作としている。また近年では、作者をアヴィニョンにおけるシモーネ・マルティーニ追随者「反逆天使の画家」であるとする説、ニッコロ・ディ・セル・ソッツォ周辺の画家であるとする説も出されており、作者の確定は今後の研究をまつ」という。

 

ティントレット「ダヴィデを装った若い男の肖像」


 解説によると、「ティントレットは、ヴェネツィアを中心に活躍した画家です。彼はティツィアーノの晩年の様式を強く引き継ぎつつ、その一方でフィレンツェのマニエリスムをも吸収しました。若者が手にする剣と背景の人物を見ると、旧約聖書「サムエル記上」に語られるダヴィデとゴリアテの物語であることが分かります。このようにダヴィデに見立てた肖像を描くことによって、剣によって示される力としての強さだけではなく、しっかりと据えられた視線に暗示される、心の強さや正義に対する意志の強さも同時に表そうとしていると考えられます」という。

 

ルドヴィーコ・カラッチ「ダリウスの家族」

 

エヴァリスト・バスケニス「楽器のある静物」

 

ピーテル・ブリューゲル(子)「鳥罠のある冬景色」

 

アントニオ・ディ・ニッコロ・ディ・ロレンツォ(に帰属)

「典礼用詩篇集零葉」

 

カマルドリ会士シモーネ「典礼用詩篇集零葉」

 

コルネリス・デ・ヘーム「果物籠のある静物」

 

ペーテル・パウル・ルーベンス「豊穣」

 

 解説によると、「《眠る二人の子供》同様、この《豊穣》の寓意画も習作であるが、前者がルーベンス35-36歳頃の作品と考えられるのに対して、後者はおそらく50代初めの制作であろう。本作品は、タピスリーのための下絵と思われ、同じルーベンスの手になる《正義》(個人蔵)と対をなす。画面中央の若い女性は「豊穣」を表わし、彼女の膝には「豊穣の角(コルヌコピア)」が置かれている。角からこぼれ落ちる果実は、人間に対する自然の恵みを象徴する。それを拾い集めているのは二人のプットーである。女性の足下の財布は、自然の豊かさに対する世俗的物質的な富を象徴しているのであろうか。ルーベンス自身の手になる油彩下絵の佳品である」という。

 

マリー=ガブリエル・カペ「自画像」

 

ウィリアム・アドルフ・ブーグロー「小川のほとり」

 

ポール・セザンヌ「散歩」

 

シャルル=ルネ・ド・ポール・ド・サン・マルソー

「マリー・バシュキルツェフの胸像」

 

 9室。

 

クロード・モネ「陽を浴びるポプラ並木」

 

クロード・モネ「黄色いアイリス」

 

 解説によると、「ジヴェルニーに居を定めてからのモネのモティーフは次第にその庭園の内部に限られてゆくが、その一つである本作品は植物を描いた作品の中でもとりわけ装飾性の強いものである。障壁画を思わせる縦長の大画面は日本趣味を感じさせ、上昇する線がうねるように重なって空間を曖昧にしつつ華麗な効果を生み出している」という。

 

クロード・モネ「睡蓮」

 

クロード・モネ「舟遊び」

 

 解説によると、「最初の妻カミーユを亡くしたモネは、1883年、2人の子供たち、そして後に正式に結婚することになるアリス・オシュデとその子供たちを連れ、ジヴェルニーへ移り住みます。画家はこの地で、自宅近くを流れるセーヌ川の支流エプト川で舟遊びを楽しむ家族の情景を何度も描きます。舟遊びは当時人気の休日の娯楽でした。 本作品は一連の「舟遊び」の作品のなかでも完成度の高いものです。画面いっぱいを占める水面の上半分は明るい空を映した青とバラ色、下半分は小舟と娘たちの影が濃紺や茶、青の筆触で描かれ、人も船も水面と同じ風景となって画面に溶けこんでいます。画家の関心は、揺らめく光と影が作りだす水面の色のハーモニーにあります。川の面を上空から見下ろす視点でとらえ、大胆に右半分を断ち切った小舟を配した構図は、日本の浮世絵からヒントを得たと考えられています。モネは浮世絵のコレクターでした」という。

 

クロード・モネ「睡蓮」

 

 「50歳を超えたモネは、ジヴェルニーの自宅で庭園造りを始めました。樹木や花を植え、池には睡蓮が育てられ、モネはそれを繰り返し描くようになります。その水面は天候や時間帯によって表情を変えるため、画家の関心は尽きず、本作品の制作時にはすでに20年近く睡蓮が描かれていました。花や水面の影に見られる、細部を大胆に省略した表現は、後の表現主義や抽象絵画にもつながる、モネの革新性を示すものといえます」という。

 

クロード・モネ「セーヌ河の朝」

 

 「1896年から翌々年にかけて、55歳のモネは早朝に起きて、「セーヌ河の朝」というシリーズを制作した。使用する色の数を抑え、装飾的効果をも狙ったと思われるこの連作の多くは、夏の朝、霧のたちこめるジヴェルニー付近のセーヌ河の風景を描いている。この連作中の一点とみなされる本作品《セーヌ河の朝》もまた、ほぼ同じ時期に同じ場所で制作されている。柳が水面に垂れ、草むらが波に洗われ、変転する自然の姿が、モネの立ち騒ぐ筆触の中から生まれ出てくる。しかし筆のめくるめく動きは、風に動く枝や葉や波そのものにとらわれるというよりは、移ろう自然の姿を一気に捉えようとするモネのいらだちと緊張を直に伝えているのである」という。

 

 10室は、「アーティスト・バイ・アーティスト-西洋版画に見る 芸術家のイメージ」という小企画展をやっていた。

 

 

コルネリス・コルト

『低地ゲルマニアの著名な画家たちの肖像』:ヒエロニムス・ボス

 

ルカス・フォルステルマン(父)「ジャック・カロの肖像」

 

レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レインレイデン

「柔らかい帽子と刺繍付きの外套をまとった自画像」

 

レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レインレイデン

「洋風を装った自画像」

 

アンゲリカ・カウフマン「自画像(希望)」

 

マリー=ジュヌヴィエーヴ・ブリアール「自画像」

 

 解説によると、「18世紀のパリにおいて華やかな宮廷文化の担い手となったのは、上流階級の才気にあふれる女性たちであった。このことは美術の領域にもあてはまり、世紀の後半にはかつてないほどに多くの女性画家が活躍した。そうした画家の一人であるブリアールは、ルイ16世の宮廷画家デュプレッシスらのもとで絵を学び、伝統的に女性が描くことを許されていた肖像画の分野で成功をおさめた。本作品のモデルは、フランスのアンジェール美術館に所蔵される1792年作の署名入りの自画像との比較から、画家自身であることがわかる。パステル画の特性を存分に生かし、明るく柔らかな色調で描き出された彼女の表情は、画家としての自信に満ちているようにみえる」という。

 

フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ

『ロス・カプリーチョス』:「画家フランシスコ・ゴヤ」

 

フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ

『ロス・カプリーチョス』:「理性の眠りは怪物を生む」

 

 解説によると、「ゴヤは、今日でこそ西洋版画史上屈指の巨匠に数えられているが、生前その分野での活動はほとんど知られることがなかった。彼の四大版画集、「ロス・カプリーチョス」(一般に“気まぐれ”と訳される)、「戦争の惨禍」、「闘牛技」、「妄」のうち、「戦争の惨禍」と「妄」は作者の死後40年近くを経てようやく出版され、「ロス・カプリーチョス」は、異端審問所の圧力を受けたのであろう、彼自身の言葉によれば2日間に僅か27部を売っただけで販売を中止している。それは、彼の版画がきわめて辛辣な社会批判を含んでいたこと、そして、その想像力があまりに独創的であったことによるものと考えられる。 「ロス・カプリーチョス」が発売されたのは、1799年2月であるが、その制作にはかなりの歳月を要したものと想像される。彼は1796年から97年にかけて描き綴った「サンルーカル画帖」と「マドリード画帖」のスケッチを一部参考にしつつ、セピア・インク、赤チョーク、赤インクなどさまざまな技法を用いて多数の習作素描を作り、これらをもとに版を刻んでいるが、エッチングによる線描を主体にしたものから、アクアティントによるハーフトーンに重きを置いたもの、描線を用いずに幾層ものハーフトーンだけで画面を構成するものまで、版画技法も多岐にわたり、曲折した推敲過程と版画技法の習熟に対するゴヤの熱意のほどが窺われる。ゴヤの制作意図は、自由主義の立場から当時スペインを支配していた堕落した貴族社会と教会を批判し、民衆の覚醒を促すことにあった。しかし、それと同時に、アルバ侯爵夫人との失恋や女性美に対する屈折した感情も赤裸に示され、また、理性の光の届かない闇の世界への憧れも垣間見られるなど、この版画集は1790年代後半のゴヤの置かれた情況を雄弁に物語っている」という。

 

エドゥアール・マネ「ベルト・モリゾの肖像」

 

フェリックス・ブラックモン

「セーヴルのヴィラ・ブランカスのテラスにて」

 

ウジューヌ・カリエール「オーギュスト・ロダン」

 

エドヴァルド・ムンク「眼鏡を掛けた自画像」

 

パブロ・ピカソ「1968年5月16日 VI」

 

 一階に降りて11室に入る。

 

ポール・セザンヌ「ポントワーズの橋と堰」

 

 「パリから約28km離れ、近代化された町並と田園の風景が融合した町ポントワーズで、セザンヌは1872年から1881年まで、印象派の画家ピサロと多くの時間を共有し、ときにイーゼルを並べ同じ風景を描きました。この経験は、それまで陰鬱な主題を暗い色調と重い筆触で描いていたこの画家を、明るく軽快な作風へと導きます。さらにセザンヌは、ここから単なる自然の再現ではない、創作物として自立した構築的な画面を作り出す道を辿ります。その際、全体の構図や色彩だけではなく、筆触のあり方もまた構成上の重要な要素となりました。本作の水面から橋、丘、空に向かって積み上げられた構図、様々な方向を向く多様な筆触は、この後晩年に向かうに従い、いっそう意図的に用いられるようになり、セザンヌ独自の様式を顕著に示すものとなりました」という。

 

モーリス・ドニ「踊る女たち」

 

ギュスターヴ・モロー「牢獄のサロメ」

 

 「モローは、19世紀フランスの象徴主義の画家です。本作品の主題は「洗礼者ヨハネの斬首」です。ヨハネは、ユダヤの王ヘロデが兄弟の妻ヘロデアを娶ったことを非難して捕えられます。さらにヘロデアが連れ子サロメの舞の褒美に彼の首を所望したため、斬首されました。世紀末芸術では、サロメは男を滅ぼすファム・ファタルとして描かれますが、本作では、ヨハネに対するサロメの微妙な心理面がクローズアップされています」という。

 

ポール・シニャック「サン=トロぺの港」

 

 「シニャックは彼とともに新印象主義の護持とその理論の普及を行なったスーラの死によって大きな衝撃を受け、その翌年の1892年、友人の画家クロスの勧めによってヨットによる地中海巡航の旅に出た。彼はこの旅行中、まだ小さな漁港であったサン=トロペを発見し、以後10年ほどは、こことパリを往復しつつ制作を行なうこととなる。この期間中、シニャックの芸術傾向は次第に著しい変化を見せる。まず構図の線的な厳格さが和らぎ、色彩の面では新印象主義絵画に特有の描点の粒が大きくなる。後者の変化は、点描派の当初の目的であった視覚混合よりも、個々の色彩の特性とそれらの対比を強調することになる。サン=トロペ港の全景を描いた本作品は、この時期の彼の絵画では最もモニュメンタルなものであり、またこうした様式の変化を端的に示すことによって、新印象主義からの脱却とフォーヴィスム誕生の準備という、世紀の変わり目におけるシニャックの業績を代表する作品となっている」という。

 

 ひと通り見たので、これで帰宅した。