QVOD TIBI HOC ALTERI

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Das ist ein Tagebuch...

 本日は、また鎌倉に行ってきた。まずは、鎌倉尼五山第二位の東慶寺。北鎌倉駅から歩いて向かう。

 

東慶寺

 

山門

 

 このお寺は現在写真撮影完全禁止なので、画像によって風情ある境内を紹介できない。元は太平寺(鎌倉尼五山第一位)の本尊とされる、国の重文指定の美しい聖観音立像を拝観できる。東慶寺参拝後、鎌倉五山第四位の浄智寺に向かう。

 

浄智寺

 

山門&石橋

 

 

参道

 

 今年は、この時期に見頃のはずのツツジ等がほとんど咲いていない。残念である。これも温暖化の影響であろうか?

 

鐘楼門

 

ビャクシン

 

本堂(曇華殿)

 

本尊 三世仏

 

 

観音菩薩像

 

本堂裏

 

書院

 

 

やぐら

 

 

 

観音菩薩

 

布袋尊

 

 

茶室

 

書院

 

 臨済宗円覚寺派寺院。山号は金宝山。鎌倉幕府第五代執権・北条時頼の三男である北条宗政の菩提を弔うために、弘安4年(1281年)に創建された。その後、高峰顕日や夢窓疎石らの名僧が住持し、最盛期には七堂伽藍を備え、塔頭も十一寺院に達した。しかし、15世紀半ばころから鎌倉の衰退と足並みをそろえて徐々に荒廃し、なお江戸時代末まで塔頭八院を維持したが、大正12年(1923年)の関東大震災でその大部分が倒壊し、今日の伽藍は概ね昭和になってからの復興という。浄智寺参拝後、長寿寺に向かう。

 

本日のお昼

 

長寿寺 山門

 

本堂

 

本堂、玄関&書院

 

開山像、本尊(釈迦如来坐像)&開基像

 

書院

 

 

 

小方丈

 

本堂、玄関&書院

 

 

観音堂

 

聖観音像

 

足利尊氏遺髪塚

 

竹林

 

小方丈&庭園

 

 

シャクヤク

 

 臨済宗建長寺派寺院(建長寺塔頭)。山号は宝亀山。本尊は釈迦如来。創建年・開基ともに不明であるが、鎌倉公方足利基氏が父尊氏の菩提を弔うために建立したと伝わるという。境内には足利尊氏の遺髪を埋めたと伝わる五輪塔がある。

 

 長寿寺参拝後、鎌倉駅まで歩いて駅前の豊島屋でパンを買って帰宅した。

 円覚寺舎利殿参拝の続き。小町通りでお昼をいただいた後、次に、英勝寺に歩いて向かう。


 

窟小路

 

 

寿福寺 総門

 

参道

 

中門

 

仏殿

 

 寿福寺は、鎌倉五山第三位の名刹。残念ながら、通常は非公開。このお寺のお隣が英勝寺であるが、今日は、いつもは閉まっている総門が開いていて、そこから境内に入るようになっていた。

 

英勝寺 総門

 

鐘楼

 

黄菖蒲

 

山門

 

 

仏殿

 

 

 

唐門

 

観音菩薩像

 

 

 

祠堂裏

 

竹林

 

書院

 

 

 

 白藤を見に来たのだが、今年はイマイチの様子であった。英勝寺参拝後、鶴岡八幡宮経由で帰路につく。

 

旗上弁財天社

 

 

源氏池辺の木にいたリス

 

鶴岡八幡宮 二の鳥居

 

 二の鳥居前の豊島屋洋菓子舗でケーキを買い、駅前の豊島屋でパンを購入して、家に帰ってきた。

 

 

 本日は、鎌倉の円覚寺及び英勝寺に行ってきた。まずは北鎌倉の円覚寺。今回は通常は見れない国宝建造物の舎利殿を拝観する。

 

寺標

 

 

総門

 

 

山門前

 

十王堂(桂昌庵)

 

 

山門

 

 

松嶺院

 

 

仏殿

 

 

本尊(宝冠釈迦如来坐像)

 

無学祖元(開山)像

 

選仏場

 

 

居士林

 

唐門

 

柏槇

 

方丈

 

庭園&書院

 

妙香池&一撃亭

 

正続院 山門

 

 いつもはここから中には入ることが出来ないが、本日は開いている。この奥に僧堂と舎利殿がある。

 

一撃亭?

 

鐘楼

 

正続院

 

舎利殿 唐門

 

舎利殿

 

 

 

 

 円覚寺舎利殿は神奈川県唯一の国宝建造物で、塔頭の正続院の中にある。入母屋造、杮葺き。堂内中央には源実朝が南宋から請来したと伝える仏舎利を安置した厨子があり、その左右に地蔵菩薩像と観音菩薩像が立つ。鎌倉市西御門にあった尼寺の太平寺の仏殿を移築したものと推定されている。

 

 かつては鎌倉時代の建築と考えられてきたが、規模・形式が近似する正福寺地蔵堂(国宝、東京都東村山市)が室町時代の応永14年(1407年)の建立とされたことから、同時期(15世紀前半)の建築と考えられている。善福院釈迦堂(国宝、和歌山県海南市)や功山寺仏殿(国宝、山口県下関市)とともに、禅宗様建築を代表するものと高く評価されているという。

 

 昔、内部まで見た記憶があるのだが、今回は外観のみの拝観であった。舎利殿拝観後、塔頭の黄梅院まで行く。

 

佛日庵(開基廟)参道

 

開基廟

 

 

白鹿洞

 

続燈庵

 

黄梅院 山門

 

方丈

 

 

観音堂

 

 最後に、鎮守の弁天堂を参拝する。

 

 

弁天堂 鳥居

 

 

弁天堂

 

鐘楼(洪鐘)

 

 円覚寺参拝後、電車に乗って鎌倉駅まで行き、小町通りでお昼をいただいた。

 

 

 

 小町通りでお昼をいただいた後、次に、英勝寺に歩いて向かう。

 

(続く)

 自分の管轄外のこと、手に負えないものについて考えたり論じるのは無意味であるが、ちょっと気になる記事を目にしたので、全文引用してみる。

 

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円急落は自ら招いた結果、為替介入は当面失敗する公算-ブルックス氏
Anya Andrianova
2024年4月30日 8:09 JST 更新日時 2024年4月30日 11:26 JST


◯政府のコストを抑えるため日銀には金利を低く維持する強い動機付け
 

 「日本を厳しい状況に追い込みつつある過剰な債務に関わる問題だ。」ゴールドマン・サックス・グループの元チーフ通貨ストラテジスト、ロビン・ブルックス氏は、日本の巨額の政府債務を背景に円相場の下支え努力が少なくとも当面は失敗に終わる可能性が高いとの見解を明らかにした。

 国際通貨基金(IMF)のデータによれば、国内総生産(GDP)の250%を超える日本の政府債務は主要国で最も多い。ブルックス氏によると、政府のコストを抑えるために日本銀行が金利を低く維持する強い動機付けがそこに働いている。

 政策変更がない限り、円相場の押し上げ努力の効果は打ち消されるだろうというのが、結論だ。

 現在はワシントンのブルッキングス研究所で研究員を務めるブルックス氏は「これは実のところ債務、日本を非常に厳しい状況に追い込みつつある過剰な債務に関わる問題だ。多くの債務を抱えていても、中央銀行を使って金利を低く抑えることができる。日本はそうしてきたし、欧州もそうしてきた。しかし、それが招いた結果が今ここにある」と認識を示した。

Source: International Monetary Fund projections, Fiscal Monitor for April 2024

 米連邦準備制度が縮小に動く量的緩和(QE)の一環として、日銀が国債買い入れを継続していることについて、ブルックス氏は、円相場の下支え効果を実質的に打ち消していると分析。「日銀は10年国債利回り上昇を容認し、引き締めに動くべきであり、そうすれば(政府・日銀による)介入はより効果的になるだろう。欠けているのはそれだ。」と主張した。

 「それは完全に自ら招いた結果だ。債務を減らす積極的意思を欠いている。先進国の財政余力に制限がないという説に疑問を投げ掛ける点で、これは興味深い」と同氏は指摘した。

 円の対ドル相場は年初来で10%近く下落し、先進国・地域通貨でパフォーマンスが最も悪い。

原題:Japan’s Debt Dilemma May Doom Any FX Intervention, Brooks Says(抜粋)

 

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 GDPの2.5倍もの政府債務を維持できるのも驚愕であるが、今度はその利払いが原因で利上げが出来ない。しかし利上げ(あるいは日銀による国債買い入れ縮小)をしないと円安が進み、それがインフレを高じさせるという状態、それが目下の日本の経済状況なのである。

 

 しかも、利上げをすれば、無利息融資によってなんとか延命している、いわゆるゾンビ企業が一斉に破綻し始め、深刻な景気後退に陥ることは、目に見えている。そんなことは選挙を控えている政府与党にとって絶対に容認できるものではなかろう。

 

 その上、目下の円安は構造的なものである以上、円買介入等の小手先の手段によって阻止できるものではない。要するに、もはや二進も三進も行かない状態にある。

 

 この構造をもたらしたのは、日銀買入を主体とした人為的な景気つり上げ策、要するに、アベノミクスという経済政策なのであるが、それを企画し推し進めたあの人物、存命であったなら、目下の行き詰まり状況に対し、どのような対策を取るつもりでいたのだろうかと思ってしまう。

 

 ちなみに、GDPは来年あたりインドに抜かれ、世界五位に転落する見通し、現在世界十二位の人口も、フィリピン等に抜かれて順当に順位を下げていく見込みという。「変わることができない国」、日本がどのように変化していくのか、少しは興味深い。

 天気が良かったので、コロナ以来初めて横浜の三渓園に行って来た。桜木町駅からバスに乗車して「三渓園入口」で下車、歩く。

 

 

三渓園 正門

 

大池

 

 

 

鶴翔閣(原富太郎邸)

 

 とりあえず、旧燈明寺三重塔まで行ってみる。

 

 

旧燈明寺三重塔

 

 

 

 

旧東慶寺仏殿

 

 

寒霞橋&横笛庵

 

旧矢箆原家住宅

 

 

 

待春軒

 

旧燈明寺本堂

 

 

天満宮

 

観心橋

 

涵花亭&大池

 

 

 

 次に、内苑に行ってみる。

 

御門(旧西方寺薬医門)

 

白雲邸(原富太郎隠居所)

 

臨春閣玄関

 

臨春閣(旧紀州徳川家別邸)

 

 

 

旧天瑞寺寿塔覆堂

 

亭榭

 

 

 

月華殿(旧三室戸寺金蔵院客殿)

 

 

天授院(旧心平寺地蔵堂)

 

聴秋閣(旧二条城三笠閣)

 

 

 三溪園は、実業家の原富太郎によって1906年に造園され、現在は公益財団法人三溪園保勝会が運営する庭園。園内にある国の重要文化財建造物10件12棟は、全て日本各地から移築した古建築である。普段は見れない旧東慶寺仏殿の内部が公開されていたが、何も残っていなかった。

 

本日のお昼

 鎌倉建長寺参拝の続き。半僧坊に向かう途中にある塔頭の回春院を参拝する。

 

参道脇の著莪

 

山門

 

 

 

 

大覚池

 

 回春院は、第二十一世玉山徳璇の塔所。山号は幽谷山。本尊は文殊菩薩という。回春院参拝後、奥の院の半僧坊に向かう。

 

半僧坊 参道&鳥居

 

 

 

 後はひたすら石段を登るだけ。鶯の囀りが響き渡っていた。

 

 

 

 

手水舎

 

 

 

半僧坊

 

 

半僧坊から見える建長寺伽藍

 

 建長寺鎮守。ここに祀られる半僧坊権現は、1890年に当時の住持であった霄貫道禅師が静岡県引佐郡奥山の方広寺から勧請したもので、火除けや招福に利益があるという。半僧坊権現とは、無文元選禅師(後醍醐天皇皇子、前述の方広寺開山)の元に忽然と現われ、無理やり弟子になった白髪の老人で、神通力を持っており、無文禅師が死去するとその老人もまた姿を消したという。半僧坊参拝後、建長寺と道を隔てて向かいの圓應寺に向かう。

 

 

圓應寺 山門

 

 

境内

 

鐘楼

 

本堂

 

 

 

奪衣婆&智覚禅師(開山)坐像

 

秦広王(初七日)

 

宋帝王(二十一日)

 

五官王(二十八日)

 

閻魔王(三十五日)

 

変成王(四十二日)

 

泰山王(四十九日)

 

平等王(百ヶ日忌)

 

五道転輪王(三回忌)&都市王(一周忌)

 

詫言地蔵

 

 臨済宗建長寺派寺院。開山は桑田道海とも伝えるが未詳。山号は新居山。鎌倉時代作の閻魔像や冥界の十王の像で知られ、別名「新居閻魔堂」、「十王堂」とも呼ばれるという。圓應寺参拝後、鎌倉駅から電車に乗って帰宅した。

 

鶴岡八幡宮 二の鳥居

 季節が良いので、鎌倉の建長寺に行ってきた。北鎌倉駅から歩いて参拝。ツツジや牡丹など、花の季節になってきた。

 

円覚寺 参道

 

明月川&藤

 

ジャスミンの花

 

第六天社

 

天下門

 

総門

 

参道脇の牡丹

 

三門

 

 

 

鐘楼

 

山ツツジ?

 

嵩山門

 

参道

 

参道の牡丹

 

西来庵(僧堂)

 

 

境内

 

蘭渓道隆お手植の柏槇

 

仏殿

 

地蔵菩薩坐像

 

 

 仏殿の前で何かの式典がある様子であった。

 

法堂

 

千手観音菩薩坐像&釈迦苦行像

 

 

唐門

 

方丈

 

 

唐門(裏)

 

方丈

 

庭園

 

 

 説明するまでもない大禅刹。臨済宗建長寺派大本山。正式には巨福山建長興国禅寺。鎌倉時代の建長5年(1253年)の創建で、本尊は地蔵菩薩。開基は鎌倉幕府第五代執権の北条時頼、開山は南宋の蘭渓道隆。鎌倉五山第一位。主要堂宇は国の重文指定。境内は「建長寺境内」として国の史跡に指定。方丈拝観後、次に、半僧坊に向かう。

 

オオデマリ

 

半僧坊参道

 

(続く)

 静岡浅間神社参拝の続き。浅間神社を出て麻機街道を北上し、臨済寺に歩いて向かう。

 

東雲神社(東照宮) 神門

 

銅鳥居

 

本殿

 

富春院(臨済宗) 山門

 

臨済寺 全景

 

山門

 

仁王像(旧静岡浅間神社仁王像)

 

 

石段

 

仏殿

 

鐘楼

 

 

僧堂(坐禅堂)

 

 通常は非公開であるが、坐禅堂に祀られている摩利支天像及び十二神将像は、本来は静岡浅間神社に祀られていたものという。

 

摩利支天像

 

十二神将像

 

 

本堂

 

 

唐門?

 

大書院玄関

 

 

今川神廟

 

通用門

 

 臨済宗妙心寺派寺院。山号は大龍山、同派の専門道場という。駿河の戦国大名・今川家の菩提寺で、今川氏人質時代の家康(松平竹千代)が教育を受けた寺としても知られており、駿府が徳川幕府直轄地となった江戸期を通じて徳川氏の手厚い庇護を受けたという。また、庭園が国の名勝で、天正年間(1573年 - 1592年)に築造された池泉回遊式のものとされるが、建物内部同様、特別拝観日以外は公開されないとのこと。

 

 臨済寺参拝後、近くのバス停からバスに乗り、静岡駅に戻り、電車に乗って帰途についた。

 坐禅会に出席したついでに、実家に泊まって、翌日は付近の寺社を参拝した。今回は、静岡浅間神社と臨済寺に行ってきた。まずは、静岡浅間神社。静岡駅から歩いて参拝。

 

石鳥居&総門

 

神厩舎

 

神馬

 

楼門

 

 

随神像

 

 

天井

 

廻廊

 

 

少彦名神社(旧神宮寺薬師社)

 

 

手水舎(右側)

 

 

舞殿&大拝殿(修復中)

 

大拝殿(2009年3月撮影)

 

本殿(2021年10月撮影)

 

八千戈神社(旧摩利支天社)

 

 

 

 

百段

 

麓山神社 参道

 

麓山神社 拝殿

 

本殿

 

 

大歳御祖神社 赤鳥居

 

随神門

 

拝殿

 

本殿(静鉄HPから拝借)

 

 式内社及び駿河国総社。徳川家康元服の神社。その関係で徳川将軍家の手厚い庇護下にあった。ほとんどの建造物が国の重文指定。立川流の彫刻に見られる装飾豊かな社殿群には目を見張るものがある。今年は初めて参拝。参拝後、次に、臨済寺に向かう。

 

(続く)

 坐禅会に行ってきた。今回の提唱は、『無門関』第四十二則「女子出定」。


 <世尊、昔、因みに文殊、諸仏の集る処に至って、諸仏各各本処に還るに値う。惟だ一りの女人有って、彼の仏坐に近づいて三昧に入る。文殊乃ち仏に白さく、「云何ぞ女人は仏坐に近づくを得て、我は得ざる。」仏、文殊に告ぐ、「汝但だ此の女を覚して参昧より起たしめて、汝自から之を問え。」文殊、女人を遶ること参匝、指を鳴らすこと一下して、乃ち托して梵天に至って、其の神力を尽すも出だすこと能わず。世尊云く、「假使い百千の文殊も亦た此の女人を定より出だすことを得ず。下方一十二億河沙の国土を過ぎて、罔明菩薩有り。能く此の女人を定より出ださん。」須臾に罔明大士、地より湧出して世尊を礼拝す。世尊、罔明に敕す。却って女人の前に至って指を鳴らすこと一下す。女人是に於て定より出づ。


 無門曰く、「釈迦老子、者の一場の雑劇を做す、小小を通ぜず。且らく道え、文殊は是れ七仏の師、甚んに因ってか女人を定より出だすことを得ざる。罔明は初地の菩薩、甚んとしてか却って出だし得る。若し者裏に向って見得して親切ならば、業識忙忙として那伽大定ならん」
 

 頌に曰く、「出得するも出不得なるも、渠と儂と自由を得たり。神頭并に鬼面、敗闕当に風流。」>

 

 <昔、文殊菩薩が、世尊の集会から諸仏が帰っていく場面に遭遇した。女性がただ一人残っていて、世尊に近づいて三昧に入った。文殊は世尊に申し上げた、「なぜこの女性は世尊に近づけて、私はできないのでしょうか?」世尊は文殊に告げた、「君、この女性を三昧から覚まして、自らそれを問うてみたらどうか。」文殊は女性の周りを三回めぐり、指をパチンと鳴らし、今度は女人を載せて梵天界に至り、その神力を用いたが、三昧より出だすことはできなかった。世尊は言われた、「たとえ百千の文殊がいくらあがいても、この女性を定から出すことはできないだろう。ここより下方、無数の世界を過ぎた所に罔明菩薩がいる。彼(女?)ならこの女性を出定させることができるであろう。」すると、たちまち罔明菩薩が地面より現れて世尊に礼拝した。世尊は罔明に命ぜられた。罔明が女性の前に行きパチンと指を鳴らすと、はたして女人は三昧より覚めたのであった。

 無門は言う、「お釈迦様が仕掛けたこの三文芝居、度量の小さい者では見抜けないだろう。だが言ってみよ。文殊は七仏の師匠、その彼がどうして女性を定より出すことができなかったのか。罔明は最下層の菩薩、その者がどうして女性を定から出し得たのか。もしここの所が見抜けてそのものに徹底成り切っているならば、世間の雑事の真っ只中にありながら無礙自在である。」

 頌って言う、「定から出すことができるのも、出すことが出来ないのも、各人各様。皆自由自在である。世間は塞翁が馬、文殊の負けもまた風流。」>

 

 今の御時世、男が優れていて女性が劣っているなどといった戯言を本気で信じているような輩は皆無であると思う。実際、私の極めて限定された個人的経験から言っても、学校でも、職場でも、常に、最も優秀であったのは女性であり、家庭でも、伴侶はもちろんのこと、娘にさえ頭が上がらないというのが実情である。それどころか、法に関しても、三十年、四十年の並み居る古参の中で、抜群の大力量人は、大概女性の参禅者であった。要するに、女性が男より劣っているというのは、全くの出鱈目である。

 

 それなのに、かの文殊菩薩は疑義を起こした、「どうしてお釈迦様の御前のような至尊の場所に女性がいることが許されるのか?しかも三昧の状態で!」と。知恵の文殊ともあろう者が、この体たらくである。あるいは文殊をして疑義を生じせしめるほど、世間とは、誤謬と迷妄がはびこっている穢所ということか。

 

 それで罔明菩薩の登場である。「罔明」とは盲を意味するという。見ようとしなければ完璧に見える。一番自ら見ようとしない者が現実には一番見える。だから罔明菩薩は七仏の師たる文殊菩薩を出し抜いて女性を出定させることが出来た。当たり前である。「自分が」があればそれが大瑕疵、「自分が」がない者に太刀打ちできるわけがない。

 

 とはいえ、勝っても負けてもただそれだけのこと。何のことはない。ないものを持ち出してきて比較考量さえしなければ何の問題も生じ得ない。だから文殊菩薩の負けも特段嫌うべきものでもないし、その負けっぷりは風情があるとさえ言える。

 

 急な葬儀が入ったということで、今回は独参することはできなかった。ご老師と直にお話する機会はなかなかないので、残念である。

 

坐禅会場のお寺

 

庭に咲いていた著莪