QUOD TIBI HOC ALTERI

QUOD TIBI HOC ALTERI

„Was du dir wünschst, das tu dem andern“.

 本日は、白金台の松岡美術館に行ってきた。その前に、まずは、お昼。

 

 

 

 お昼の後、白金台駅まで移動し、そこから歩く。

 

 

 

松岡美術館

 

 それでは、入ってみる。

 

エミール=アントワーヌ・ブールデル「ペネロープ」

 

 google Artsの解説によれば、「古代ギリシアの叙事詩『オデュッセイア』に登場する英雄オデュッセウスの妻ペネロープ(ペネロペイア)の像。戦場で消息を絶った夫を待ちわびる姿が、 作者ブールデルの夫人をモデルにして作られている。悲痛な主題ながらも瞑想的な雰囲気を示すこの作品は、胴から腰、脚にかけて流れるような曲線をもち、優雅な作品に仕上げられている」という。

 

ミネルヴァ(ヘレニズム後期)

 

 解説によると、「ローマ近郊の出土と伝わるこの像は、頭、胸、下半身と大きく3つに分けて作られ、各部を枘ほぞで接合しています。兜の頭頂飾りにはグリフィン(頭・前肢・翼がワシで、胴と後肢はライオン、神々の車を牽くとされた)の首しか残っていませんが、かつては左右にグリフィンの翼なども差し込まれていたと考えられています。金箔の残存が少量認められ、往時は着衣全体が金色にきらめいていたと推測されます」という。

 

アフロディテ&ゼウス(ローマ期)

 

女性装飾瓦(紀元前5世紀末)

 

エネヘイ像(エジプト新王国時代)

 

 展示室3(古代東洋彫刻)。

 

如来立像(北朝時代)

 

 解説によると、「柔らかな曲線を描いて線彫りされる衣は布をまとっただけの質素なものですが、本作の耳と螺髪に微量の金箔片の痕跡が認められることから、人間を超越した存在であることを示す三十二相のひとつ、「金色相」にならい、かつては全身黄金に輝いていたものと想像されます」という。

 

菩薩半跏思惟像

 

 解説によると、「1961年頃にパキスタンのペシャワールで発見され日本に伝えられた、ガンダーラの半跏思惟像を代表する作品です。籐椅子に座ってサンダルを脱いだ右足を左膝にのせ、やや前屈みで右手を頬に寄せる「半跏思惟」のポーズをとる本作は、京都広隆寺の国宝 木造弥勒菩薩半跏思惟像(宝冠弥勒)、奈良中宮寺の国宝菩薩半跏思惟像の源流を示すものとしてたびたび紹介されてきました」という。
 

ガンダーラ彫刻群

 

仏陀坐像&菩薩坐像

 

菩薩立像

 

 

 

仏陀立像

 

 

菩薩立像

 

破風伝仏図

 

仏陀説法図

 

仏陀説法図

 

菩薩諸相像

 

菩薩坐像

 

仏陀坐像

 

菩薩坐像

 

 

仏陀坐像

 

 インド神像

シヴァとパールヴァティ

 

 

 「シヴァは、破壊神であるとともに温和、寂浄、吉祥など相反する側面を併せ持つヒンドゥー教の中心的な神です。神妃パールヴァティーはヒマラヤ山の娘で、シヴァはパールヴァティーを左膝に抱き寄せています。足元には二神の乗り物(牡牛、獅子)と子供たち。上方には、創造を司るブラフマーとその神妃サラスヴァティー、維持を司るヴィシュヌと神妃ラクシュミーも表されて」いるという。

 

 

シヴァ神像

 

踊るクリシュナ神像

 

アイヤナール神像

 

ヴィシュヌ神像

 

 

ヴィシュヌ&ラクシュミーなど

 

ブラフマー神像

 

スーリヤ神像

 

サラスヴァティー

 

楽女

 

クメール彫刻

 

 2階に上がる。展示室4(中国陶磁)。

 

灰陶加彩鵞鳥(後漢) 

 

三彩馬(唐)

 

 

 

 「三彩馬は唐時代の王侯貴族の墳墓に納められた副葬品の一種です。唐朝の貴族たちにとって、駿馬を所有することはステータスであり、さらに愛馬の姿を象った陶馬を副葬させ、死後の生活のお供としました。本作のように首を下げたポーズの馬は類品が少なく、珍しいものです」という。

 

三彩駱駝(唐)

 

三彩婦人(唐)

 

加彩白馬(唐)

 

三彩鳳首瓶(唐) 

 

三彩大壺(唐)

 

白磁龍耳瓶(唐)


 展示室5(日本画)。

 

「老松古木花鳥図」(江戸時代)

 

 

横山大観「梅花」

 

 「厳しい冬の寒さに耐え早春に他にさきがけて花を咲かせ清香を放つ梅、大観は梅の古木を堂々と風格ある姿にとらえています。屈曲し節くれだった幹は輪郭線を描かない没骨描法で、その苔むした様子には大正期に研究した琳派風のたらし込み技法がみられます。力強く黒々とした樹幹とは対照的に、胡粉を薄く塗り重ねた花弁や薄紅色を丹念に点じたつぼみの咢は繊細な表現で、細部にもこだわる大観の仕事ぶりがうかがえます」という。

 

川合玉堂「春峡」

 

出目満毘「能面増女」

 

渡辺省亭「桜にやまどりの図」

 

酒井抱一「菖蒲に鷭」

 

渡辺省亭「藤花游鯉之図」

 

 展示室6(日本画)。

 

 川合玉堂「夏江驟雨図」

 

寺崎廣業「夏之山」

 

川合玉堂「白鷺」

 

小林古径「朝顔」

 

小林古径「茄子」

 

冨田溪仙「挿花小禽」

 

 この他、撮影禁止だった伊東深水の作品も良かった。ひと通り見たので、これで帰宅した。

 本日は、竹橋の東京国立近代美術館に行ってきた。今回は、皇居東御苑経由ではなく、大手町から東西線に乗って竹橋で下車。

 

東京駅

 

日本工業倶楽部

 

丸の内仲通り

 

東京国立近代美術館

 

一階ロビー

 

 それでは、四階1室から見ていく。

 

米原雲海「清宵」

 

 「文化遺産オンライン」によれば、「本作品は、明治中期から大正期を代表する彫刻家の一人である米原雲海の手になるもので、月光に照り映える梅樹の下で詩想を練る11歳の菅原道真を主題とする。…日本彫刻の伝統をくみ、日本の伝統的な主題を扱いながらも、西洋彫刻の優れた部分を採り入れる積極的な姿勢が現れた作品で、芸術的な完成度が高いばかりでなく、明治期における我が国の近代彫刻発展の過程を示す作品として、近代彫刻史上重要な作品である」という。

 

松林桂月「春宵花影図」

 

川合玉堂「行く春」

 

 

 解説によれば、「晩春の桜花が散りゆく渓谷。川に繋留されている3隻の水車舟。玉堂は前年の秋と同年の早春にスケッチ旅行で秩父の長瀞を訪れ、川下りを楽しんでいます。その時の風景を出発点として、小雪のように舞う桜をあしらったのがこの《行く春》です。作者は繰り返し同じリズムでまわる水車に特に興味をおぼえ、その動きを伝えようと、勢いよく水が流れるさまを表現するのに最も苦心したといいます。自然の 雄大さと季節の移ろいが見せる繊細さ、そうした自然の多様な表情とそこに生きる人々の生活とを結びつけながら、詩情豊かな世界を描き出しています」という。

 

オスカー・ココシュカ「アルマ・マーラーの肖像」

 

ポール・セザンヌ「大きな花束」

 

 2室。

 

五姓田芳柳「静舞」

 

横山大観「迷児」

 

 解説によると、「童子のそばに現れた四聖。左から孔子、釈迦、キリスト、老子。それぞれの教えをささやいているのだろうか。ありがたがってもいいはずの童子は、四人の誰とも目を合わさず、戸惑いの表情も読み取れる。横山大観三十四歳の時の作品。大観は、『当時の日本の思想界というか、信仰界というか、それはひどく動揺混乱して』いたと述懐している。童子は東洋と西洋の思想のはざまで揺れる明治の社会を象徴している」という。

 

中沢弘光「おもいで」

 

 

 「文化遺産データベース」によれば、本作品は、「光明皇后が奈良の法華寺を建立する際、池に映る観音の姿を見たという伝説をもとにしたものであるが、最終的には、現代の尼僧がこの光明皇后の故事を回想しながら池のほとりにたたずむ中で体験した幻覚、という設定に変更したと中沢自身が語っている。外光派の作品はしばしば細部の描写が疎かであるとの謗りを受けたが、この作品においては、観音の装束や尼僧の足許の草花、あるいは背景の寺院等の細部が克明に描写され、その細密な表現がかえって、黄金の光に包まれた観音の顕現という浪漫的な主題に、一層の幻想味を与えているように思われる」という。

 

 3室。

 

中村彝「大島風景」

 

 「文化遺産オンライン」によれば、「彝は1914−15年の大島滞在中、この《大島風景》を含め数点の風景画を残している。遠景の山並み、中景の建物、近景の樹木という構図は、彝が影響を受けたセザンヌの構築的な風景画を思わせる。しかしその構築性は手前の樹木の荒々しいタッチによって乱されている。…『大島での作品は皆努力が目立つて気持が悪い。おそらく健康の関係でせうが、統一と余裕が著しく欠けて居ります』(1916年4月14日、洲崎義郎宛書簡)。現在正方形の画面は、裏側へ折られたキャンバスから当初はかなり横長であったことがわかり、フォーマットの決定にも幾度も試行錯誤した跡が見られる」という。

 

辻永「椿と仔山羊」

 

岸田劉生「壺の上に林檎が載って在る」

 

 「文化遺産オンライン」によれば、「1916年の夏、一時健康を損ねた劉生は、戸外での写生を禁じられて風景画を断念し、それまであまり手がけたことのなかった静物画の制作に意欲を向けた。バックの布の手触りや、バーナード・リーチ作の重い陶器の質感などが、対象に噴い入るなかでみごとに掴み出され、「存在する=在る」ことの不可思議さに打たれた画家の驚嘆が伝わってくる。…裏にはこの作によって彼の画が「或る進歩を一段つけてした」ことが書き記してあり、自己の表現の飛躍を自覚した画家の、自信と喜びをうかがうことができるだろう」という。

 

安宅安五郎「白蓮樹」

 

藤島武二「匂い」

 

 この作品《匂い》は、(藤島の)帰国後の移行期にあたる作品である。チャイナドレスをまとい、香を楽しむ女性には、浪漫主義的な優美さがまだ認められるが、一方で筆致や色彩はより単純化され、また女性の腕や左端の花瓶などが形成する画面構成の堅固さなど、造形的要素への関心の強さもうかがえる、という。

 

川瀬巴水『東京十二題』より「春のあたご山」

 

伊東深水「対鏡」

 

高村光太郎「手」

 

 この作品は仏像の手の形、「施無畏」の印相から着想を得て自分の手を見て制作したといわれている。冷たい金属(ブロンズ)でできているとは思えない、血の通った人間の手の温かみを感じさせる。印相という、手の表情で何かを語らせようとする東洋的発想と、ロダンに始まった西洋の近代彫刻の写実性を融和させた光太郎ならではの作品であろう、という。

 

 4室。

 

月岡玉瀞「羽衣」

 

月岡玉瀞「草紙洗」

 

月岡玉瀞「松風」

 

月岡玉瀞「富士太鼓」

 

月岡玉瀞「竹雪」

 

月岡玉瀞「落武者」

 

徳力富吉郎「壬生狂言」

 

鳥居忠雅『隈取十八番』より「赤塗筋隈・坂田金時」

 

鳥居忠雅『続隈取十八番』より「道成寺・後シテ隈」

 

鏑木清方「《女歌舞伎》のための小下絵」

 

 

 5室。

 

イヴ・タンギー「聾者の耳」

 

パウル・クレー「花のテラス」

 

 「文化遺産オンライン」によると、「1933年、半ば亡命に近いかたちでドイツを離れ、故国のスイスに戻ったクレーは、35年に皮膚硬化症と呼ばれる難病にみまわれたが、小康をえた37年頃から最晩年のきわめて多産な制作期をむかえた。この《花のテラス》にみられるように、線描を主体にしたこの時期の絵画には、以前にもまして自然の営みの奥深く分け入ったような作品が多い。一筆書き状に成長し、運動する線の軌跡は、樹木や草花が階段状に折り重なる花檀の情景というよりも、植物と動物の区別すらない、生命の、あるいは創造の神秘の園をそこに彷彿とさせるのである」という。

 

 6室。

 

梅原龍三郎「北京秋天」

 

 「…梅原は、北京滞在中、緑のなかに朱の甍が散在する市街の情景を俯瞰した多くの風景画を描いているが、この作品は、秋の空そのものを表現の中心においた、他にほとんど例のない作品である。大地に沿って空間が延び拡がるというよりは、空一天蓋一が手前に向かって高く抜けてゆくかのような爽快感をおぼえるが、そうした効果の一切は、秋空の色と、紙のうえを走る筆勢の表現とによる。このうえなく単純な構図と相まって、風景画の粋ともいうべき空間感情そのものをテーマにしたようなところのある作品である」という。

 

国吉康雄「誰かが私のポスターを破った」

 

松本竣介「Y市の橋」

 

 解説によると、「Y市とは横浜市のことで、横浜駅にほど近い新田間川にかかる月見橋と国鉄の工場、そして京浜線と国鉄を跨ぐ黒いアーチ状の跨線橋が描かれている。松本は、都会とそこに生活する人々を、ヒューマニスティックな視点から詩情豊かに描いたが、その抒情性を支える堅牢な下地と的確な線描も見逃せない。加えてこの作品では、薄く何度も塗り重ねられた絵具による沈んだ青い色調が印象的であり、水面の反映像に見られるような繊細な描写ともあいまって静謐な世界をつくりあげている」という。

 

 10室。

 

鏑木清方「弥生の節句」&「端午の節句」

 

横尾深林人「紅艶焼人」

 

山口蓬春「残寒」

 

平櫛田中「鶴氅」

 

 「鶴氅」とは鶴の羽毛でつくった衣のこと、また被布のような仕立てで、白地に黒の縁をとった服のことを指し隠者などが着たという。旧日本美術院時代に発行された雑誌『日本美術』に「鶴氅」と題して岡倉天心の写真が載っており、そこでは天心は白いかぶりものをつけ、襟の黒い打ち掛けのような看物を着ている。おそらくボストン美術館の東洋部長時代に、ガードナー夫人の夜会のために特別に天心がつくらせたものであろう。田中はこの写真から2メートル近い木彫の大作を制作したわけたが、写真が全身像でなかったところから、裾の部分は実際と異なっているといわれる。しかしその直線的で簡潔な衣紋の表現は、この像に写実よりもむしろ様式化された記念碑的性格を与えるのに役立っている、という。

 

安田靫彦「六歌仙」

 

 

 

 

 

10室全景

 

山本丘人「到春」

 

小林古径「紅梅」

 

船田玉樹「花の夕」

 

安田靫彦「伏見の茶亭」

 

菊池芳文「小雨ふる吉野」

 

冨田溪仙「紙漉き」

 

 「文化遺産オンライン」によれば、「第15回再興院展に発表した作品で、テーマはその2年前に天皇、皇后両陛下銀婚式奉賀の現代風俗絵巻4巻の制作に加わった時の《越前紙漉》に続くものである。向かって右に大きな水船、左に紅白の椿のからむ小袖垣を置き、その前に小さな水船で作業をする古風な時代風俗をした三人の乙女を配し、全体のバランスをほどよくとっている。土佐派に南画風の描線を巧みに突き合わせたような作品であるが、一方で袖垣の光琳風な点や、墨汁のたらしこみなどには琳派の技法の影響も見られる。また、その色彩はカラリストとしての溪仙の面目をいかんなく発揮しているが、当時フォーヴィスムやドイツ表現主義の画集を集め研究していたともいわれており、既成の伝統にとらわれることなく、そうした枠の外に新しい真の剣造を試みようとする溪仙の積極的態度が見られる」という。

 

鈴木主子「和春」

 

 鈴木主子の《和春》(1936年)は、昭和前期の日本画が到達した一つの静かな頂点を示す屏風作品である。六曲一隻という伝統的形式の中に、季節の移ろいと精神の均衡とを同時に封じ込めたこの作品は、単なる春景の再現ではなく、近代日本画が抱えた問いへの、穏やかで確かな応答として立ち現れている。そこには、女性画家として時代と向き合い続けた鈴木主子の、美意識と覚悟が、過度な主張を避けながら深く刻まれている、という。

 

跡見玉枝「桜花図巻」

 

 2階のギャラリー4で小企画展をやっていたので、見てみる。

 

岸田劉生「麗子六歳之像」

 

ジョルジュ・ブラック「女のトルソ」

 

新海竹太郎「ゆあみ」

 

 解説によれば、「ドイツで彫刻を学び、その技術と東洋的な主題との融合をもとめた新海竹太郎が、第1回文部省美術展覧会(文展)に出品した、日本における裸婦彫刻の先駆的作品。 天平風のまげを結い、薄布を手にした控えめなポーズをとる日本人をモデルとして、ヨーロッパ風の理想化された人体像を示しています。和洋美術の融合を見せつつ、清楚な姿には気品が漂っています」という。

 

 ひと通り見たので、これで帰宅した。

 本日は、中野坂上の成願寺の月例坐禅会に行ってきた。

 

山門

 

六地蔵

 

本堂

 

 

 

開山堂

 

 

観音堂

 

 

ハクモクレン

 

 

 近くを流れる神田川沿いで桜が咲いていた。

 

 

 今回は、提唱ではなく、何回も聞いているが、ご老師の気づかれた時の話が印象に残った。というのも、提唱で聞きたいと思っていた箇所(「無常観是法明門、観参界慾故。苦観是法明門、断一切願故。無我観是法明門、不染著我故。」)が、何故か聞けなかったからである。

 

 それで、そのご老師の体験の話であるが、すなわち、「十五、六歳のとき、僧堂の台所で菜っ葉か何かを刻んでいるとき、タンタンタンタンって、刻んでいるだけになった。これだけですよ。それで、それまでは、『井上君、これやって』と言われてやるので、何をやるにしても、その頼んだ人のことをやっていると思っていた。人のことをやっていると思っていた。しかしそのとき、自分が菜っ葉を刻んでいる様子しかなかった。自分の様子しかなかった。他人のことなんて、全くやっていなかった。こんなことがあっただけで、それ以降、何があっても腹が立たなくなった。怒れなくなった。…」他人が立たなくなれば、全て自分のことなので、怒りを向ける相手がいない以上、腹も立てられなくなる。理屈としては単純ではあるし、そしてそれが本当の事実(勝義諦)なのであるが、ここまで徹底してしまうのは、文字通り稀有なことであると思う。

 

 それで、ご老師も示唆されていたが、この理法を多くの人(特に指導者)が了知すれば、一人の誇大妄想狂的な権力者が原因で、今や全世界に広がるかもしれない戦争を、この地球上から根絶できるわけであるが、お釈迦様の祖国(カピラワットゥ)でさえ、お釈迦様の在世中に、当時の強国であったコーサラ国によって滅ぼされたのである。そんなことを鑑みると、戦争がなくなるなどということは、夢物語だろうというのが、今現在の私の見解である。

 

 最後に、「如何なるか是れ仏」という質問は、必ずした方が良いと言われていた。その理由は、それが我々の目標だからである。私の場合、振り返ってみると、昔、二回目の独参で川上雪担老師にお尋ねしたのが、「仏とは何ですか」という問いで、その時は、いきなり人差し指を示された。「?」であった。その後、井上義寛老師に参禅して、仏そのものを見た。そして今のご老師の下で、皆仏であることを知った。

 アーティゾン美術館(1)の続き。

 

クロード・モネ「ポプラ並木、風の日」

 

クロード・モネ「ルーアン大聖堂  扉口  朝の太陽」&

「ルーアン大聖堂  扉口とサン゠ロマン塔  陽光」

 

クロード・モネ「ルーアン大聖堂  扉口とサン゠ロマン塔  陽光」

 

 wikiによると、「ルーアン大聖堂(Cathédrales de Rouen)は、フランスの画家クロード・モネが1892年から1894年にかけて、ルーアンの大聖堂をモティーフに制作した連作。当時ジヴェルニーに住んでいたモネは、1892年と1893年、ノルマンディー地方のルーアンに取材旅行に出かけ、大聖堂の西側正面の建物にイーゼルを構え、わずかに異なる3つの場所から、連作を描いた。そして、ジヴェルニーに戻って、アトリエで仕上げた。作品の数は30バージョンにも上る。モネは、既に、移り変わる光の影響を捉えようとした「積みわら」や「ポプラ並木」の連作を手がけていたが、「ルーアン大聖堂」連作では、同一のモティーフがほとんど同じ角度から描かれているため、光の推移による変化がよりはっきり捉えられている」という。

 

クロード・モネ「ヴェトゥイユ、日暮れ」

 

クロード・モネ「チャーリング・クロス橋、ロンドン」

 

クロード・モネ「ロンドン国会議事堂、霧の中に差す陽光」

 

 解説によると、「本作は1899年から1901年にかけて、数回に分けて滞在(各滞在は2~3ヶ月程度)し、ロンドンとテムズ川の風景を連作的に制作した作品の中の一点で、今では名物ともなっているロンドンの霧に包まれる冬の≪国会議事堂≫と≪陽光≫を描いたものである。モネは1870年に普仏戦争を避けて半年間ロンドンへと移住しており、今回の制作も、1898年にロンドンへ留学していたが同地で病に臥してしまった息子ミシェルを訪ね滞在したことが切っ掛けとなったと推測されている。本作はロンドンの聖トマス病院からの視点によって制作されており、本作同様、水辺を描いた(印象派の名称の由来ともなった)『印象 -日の出-』と比較してみると、濃霧ゆえの国会議事堂の鬱屈した雰囲気や重質感、それを劈くように射し込む太陽の光の表現や、光による強烈な幻想的色彩など表現様式やその手法に如実な変化が示されている」という。

 

クロード・モネ「黄昏、ヴェネツィア」

 

 5階に降りる。

 

 

クロード・モネ「ジヴェルニーのモネの庭」

 

クロード・モネ「ノルウェー型の舟で」

 

クロード・モネ「ジヴェルニー近くのセーヌ川支流」

 

クロード・モネ「睡蓮の池、緑のハーモニー」

 

クロード・モネ「睡蓮」

 

クロード・モネ「睡蓮の池」

 

 wikiの解説によると、「クロード・モネは1870年代以降、アルジャントゥイユ、ヴェトゥイユ、ポワシー(いずれもパリ近郊のセーヌ川沿いに所在)と転居を繰り返した後、1883年からはジヴェルニー(パリから西へ直線距離で65キロ)に居を移し、ここが彼の終の棲家となる。モネがその後半生をかけて取り組んだ『睡蓮』の連作は、ジヴェルニーの自邸に造成した「水の庭」の池とそこに生育する睡蓮をモチーフに制作された。

 モネは1890年代に『積みわら』『ポプラ並木』『ルーアン大聖堂』などの連作を制作している。こうした連作は、同一のモチーフを反復して用いながら、季節、天候、時刻などによって微妙に移り変わる光の効果を捉えたものである。『睡蓮』の制作は前述のように1895年に開始された。睡蓮をモチーフにした作品でこの年に制作されたものは3点が確認されている。このうちもっとも古い作品とみなされているのは『睡蓮の池、冬』(w.1392)だが、この作品を撮影した写真は白黒のものしか知られていない。1895年に制作された他の2点(w.1419, w.1419a)は池に架けられた日本風の橋を主モチーフとしたもので、2点の構図はほとんど同一である。

 続いて、1897年から1899年にかけて描かれたとされる『睡蓮』8点がある(w.1501 - 1508)。これら8点の画面からは日本風の橋は姿を消し、池の岸の地面も描かれず、水面と睡蓮のみが描かれている。これら8点は、後に描かれた『睡蓮』の作品群に比べると、比較的写実的なタッチで描かれている。なお、8点のうちw.1503のみは画面のサイズが一回り大きいうえに、タッチも他の作品と異なっていて、制作年について異説もある。

 以上の初期作に続いて制作されたのは、日本風の橋を中心モチーフとした連作である。このグループに属する作品は「第一連作」と呼ばれ、1899年に12点、1900年に6点が制作されている。1899年作の12点(w.1509 - 1520)は、池の西岸から見た橋を中心に据え、池の水面と睡蓮、岸に生える陸生の植物とそれらの水面への反映などを克明に描いたものである。これら12点は、相互にわずかな違いはあるが、いずれもほぼ同じ、左右相称の構図をとっている。これに対し、1900年作の6点(w.1628 - 1633)は、ほぼ同じ地点から橋を見て描いたものではあるが、画家の視線はやや左方にシフトしており、画面左側に描かれた岸の部分の割合が大きくなっている」という。

 

ピエール゠オーギュスト・ルノワール

「クロード・モネ」

 

ポール・ポーラン「クロード・モネ」

 

アリスティド・マイヨール「欲望」

 

 4階に降りる。4階はモネではなく、「カタリウム」という別の展覧会。

 

 

「洛中洛外図屛風」

 

「江戸天下祭図屛風」

 

小杉未醒「山幸彦」

 

 解説によると、「小杉未醒は洋画家五百城文哉に絵を学び、1899(明治32)年不同舎へ入門しました。…1913(大正2)年ヨーロッパを巡遊、翌年、日本美術院の再興に参加しました。再興第4回院展へ出品されたこの作品には神話の一場面が描かれています。平坦な人物表現に奥行きの排除された背景、象徴主義の先駆けとなるフランスの画家ピュヴィス・ド・シャヴァンヌを想起させる装飾的な画面は、小杉の渡欧を支援した銀行家渡辺六郎の依頼で壁画として制作されました」という。

 

「平治物語絵巻」(常盤巻)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「文化遺産オンライン」によれば、「平治物語のうち、常磐の都落ちから頼朝配流までを五段に描いた絵巻である。…平治物語絵としては、「三条殿夜討巻」(ボストン美術館)、「信西巻」(静嘉堂)、「六波羅行幸巻」(東京国立博物館)等の一群のものが著名であるが、それと比べると本巻は、一巻中に異なった話譚をまじえ描く形式が異種であり、人物をより小振りに描く点でも違いがある。また先の一群と別系統と目される「常磐巻」(模本、東京国立博物館)は常磐の段を擁するが、本巻はそれとも内容を異にしている。このように本絵巻は、他の平治物語絵遺品とは別系・別種の一本として注目されるものである」という。

 

クリスチャン・ダニエル・ラウホ「勝利の女神」

 

 大変充実した展覧会で、大いに満足し(疲労し)た。これで帰宅した。

 本日は、京橋のアーティゾン美術館に行ってきた。その前に、神楽坂でお昼。

 

飯田橋

 

本日のお昼処

 

 

本日のお昼

 

 お昼の後、飯田橋から東京駅に移動する。

 

アーティゾン美術館

 

 今回は、「クロード・モネ:風景への問いかけ」という展覧会。それでは、入ってみる。

 

 

アルフレッド・シスレー「森へ行く女たち」

 

コンスタン・トロワイヨン「牧場、曇り空」

 

ウジェーヌ・ブーダン「洗濯女のいる風景」

 

クロード・モネ「荷車、オンフルールの雪道」

 

クロード・モネ「かささぎ」

 

 

 解説によれば、「1868年暮れから妻カミール・息子ジャンと共に滞在したノルマンディー海岸のエルタトで制作された本作は、一面を雪に覆われた田舎の冬景色を描いた作品で、翌年(1869年)のサロンに出品されるも受理はされなかった作品としても知られている。本作で最も特筆すべき点は、画面の大部分を占める野原に積もった雪の描写にある。白色を多用する雪の風景は陽光と影の関係性やそれらが織り成す効果を探求するのに適しており、力強い大ぶりな筆触によって描写される青を基調とした雪の複雑で繊細な色彩表現など、本作にはモネの野心的な取り組みが顕著に示されている。また本作の名称となった画面右側の木戸に止まるかささぎの黒い羽は、白色や中間色が支配する本作の中で際立った存在感を示しており、絶妙なアクセントとして画面を引き締めている。…本作は後のラ・グルヌイエールに通じる、重要な印象主義作品として位置付けられている」という。

 

アルフレッド・シスレー「雪の下で―マルリー゠ル゠ロワの農場」

 

アルフレッド・シスレー

「マルリー、クール゠ヴォランの坂道、雪景色」

 

クロード・モネ「トルーヴィル、ロシュ・ノワールのホテル」

 

 1870年の夏、モネは、この年の6月に正式に結婚したカミーユ・ドンシュウを連れてトゥルヴィルに滞在し、ブーダンと共に制作に励んだ。この作品はその折りに描かれた1枚である。強い海風が吹くノルマンディーの夏の日の様子が、明るいパレットによって鮮やかに描き残されている。まだ陽の高い時間で、わずかに地面に落ちる建物の影が、暗色を廃した画面の中のアクセントとなっている、という。

 

クロード・モネ「アルジャントゥイユ」

 

クロード・モネ「アルジャントゥイユの係船池」

 

 解説によれば、「1871年、パリ北西10km程のセーヌ河畔にある、アルジャントゥイユに 居を構える。本作の遠景に見えるのが鉄道橋。1870年から翌年の 普仏戦争でフランス軍により破壊され、モネが引越しをしてきた時には まだ修復中だったといういう。左手からの陽光、樹木の影が印象的な作品」という。

 

クロード・モネ「アルジャントゥイユのセーヌ川」

 

クロード・モネ「アルジャントゥイユ」

 

クロード・モネ「昼食」

 

 モネの「昼食」は二点あり、これは1873年の作品。Wikiによると、「本作は、『装飾パネル』 (panneau décoratif) というタイトルで、1876年の第2回印象派展に出展された。画面左下には、帽子を被ったジャンが木によって作られた日陰の中に座り、木でできたおもちゃで遊んでいる様子が描かれている。帽子は、赤色のリボンと縁取りのついた麦わら帽子であり、1873年の『ひなげし』や、1875年の『散歩、日傘をさす女性』に描かれたものと同じものである」という。

 

クロード・モネ「石炭の積み下ろし」

 

クロード・モネ「サン゠ラザール駅」

 

 Wikiによると、「モネは、1877年1月、一時的にアルジャントゥイユを離れてパリにやってきて、サン=ラザール駅の構内やその周辺で絵を描く許可を得るために奮闘し、また駅の付近に、絵を描くための部屋を借り、4月まで同駅の連作の製作に取り組んでいる。この連作については、ウィルデンシュタイン作品番号で W438 から W449 までの計12点の作品が確認されているが、1877年4月に開催された第3回印象派展では、その中でいくつかの作品が出展されている」という。ちなみに本作は、W438。

 

クロード・モネ

「パリ、モントルグイユ街、1878年6月30日の祝日」

 

クロード・モネ「アルジャントゥイユの洪水」

 

 解説によれば、「印象派の風景画家モネは、1871年から1878年までの間、パリの北西の街アルジャントゥイユに暮らし、すぐそばを流れるセーヌ川沿いの風景を繰り返し描きました。この作品の左側にぼんやりと見えるのはマラント島。奥には城館のみならず工場の煙突が見えて、この地域が近代化されていることがわかります。1872年12月から翌年2月にかけて雪解け水でセーヌ川が増水し、アルジャントゥイユは洪水に見舞われました。木立の左側にあるはずの散歩道も水浸しになっています。川の上を鳥が舞うことで、暗い色彩で描かれたこの作品の緊迫感や動感が増幅されます」という。

 

クロード・モネ「ポール゠ヴィレのセーヌ川」

 

クロード・モネ「ヴェトゥイユのセーヌ川」

 

クロード・モネ「ヴェトゥイユの雪景色」

 

クロード・モネ「ヴェトゥイユの教会」

 

クロード・モネ「ヴェトゥイユの解氷とラヴァクールの風景」

 

クロード・モネ「戸外の人物習作―日傘を持つ右向きの女」

 

 Wikiによると、「『戸外の人物習作(右向き)』は、『戸外の人物習作(左向き)』とほぼ同時に描かれたと思われる作品で、『日傘の女(右向き)』とも呼ばれ、モデルはシュザンヌで、表情はほとんどわからない」という。

 

クロード・モネ「オランダのチューリップ畑」

 

クロード・モネ「ボルディゲーラのヴィラ」

 

 解説によれば、「モネはこの前年の1883年に、ルノワールとともにリヴィエラに短い旅行をした。これがモネの初めての地中海への旅行であったが、翌年が明けるとすぐまたリヴィエラに向かい、フランス国境に近い保養地ボルディゲラに2ヶ月半ほど滞在した。その時、このボルディゲラの邸宅を同構図で描いている。この作品はベルト・モリゾの求めに応じて新たに描かれたもの。地中海の光線と空気が、対象の鮮やかな色彩を引き出している」という。

 

クロード・モネ「税関吏の小屋、午後の効果」

 

ウジェーヌ・ブーダン「エトルタ、アモンの断崖」

 

クロード・モネ「ベリールの岩、コート・ソヴァージュ」

 

クロード・モネ「嵐、ベリールの海岸」

 

クロード・モネ「雨のベリール」


 解説によれば、「ベリールは海岸線の奇岩で有名で、モネはここで数多い作品を描いている。ベリールの作品はその多くが、同一構図で数点の連作になっている。この作品も同じ視点から描かれた作品が他に4点確認されているが、他の4点は全て縦長の画面が用いられている。縦長の画面の方が、ずっと峻厳な印象が強まるため、最初にこの作品を制作した後でカンヴァスを縦長に使うことにしたのかもしれない」という。


(続く)

 梅を見に三渓園に行ってきた。その前に、まずは石川町でお昼。

 

 

本日のお昼

 

 次に、元町商店街経由でバス停まで歩く。

 

元町商店街

 

 

 チャーミングセールということで、元町商店街は、大変な人出であった。商店街を抜け、「山下ふ頭入口」バス停から「三溪園入口」まで、バスに乗る。

 

本牧桜道

 

 

三渓園入口

 

大池&旧燈明寺三重塔

 

 

御門

 

白雲邸

 

臨春閣玄関

 

臨春閣

 

 

 

 

 臨春閣は、江戸時代前期、1649年(慶安2年)建築の旧紀州徳川家藩別邸(岩出御殿)。紀州徳川家の初代徳川頼宣が紀州和歌山(和歌山県岩出市)に建てたもので、数寄屋風書院の建物である。第一屋に玄関がある。第一屋と第二屋が平屋、第三屋のみが二階建てである。屋根は檜皮葺き、庇は杮葺きで、狩野派の襖絵などが見所である。1915年に移築という。

 

旧天瑞寺寿塔覆堂

 

 この建物は、豊臣秀吉が母の長寿を祝って建てたものといわれる。1591年(天正19年)建築。旧大徳寺塔頭天瑞寺より1902年に移築という。

 

亭榭

 

臨春閣第三屋

 

 

 

 

 

月華殿

 

 

 

 

 月華殿は、安土桃山時代、1603年(慶長8年)建築の、三室戸寺金蔵院(京都府宇治市)の元書院。1918年移築。屋根は檜皮葺き、入母屋造で、庇は杮葺きである。内部は、檜扇の間(十二畳半)と竹の間(十五畳)から成る。檜扇の間と竹の間の境には欄間があり、この欄間の縁は黒漆塗り、狩野永徳の下図によると伝えられている菊花と菊の葉の透彫が入れられている、という。

 

天授院

 

 この建物は、元は鎌倉市にあった心平寺の地蔵堂で、1651年(慶安4年)建築。1916年に移築という。

 

聴秋閣


 この建物は、1623年(元和9年)、徳川家光の命により佐久間実勝が京都・二条城内に建築し、当時は「三笠閣」と称した。これが家光の乳母である春日局に下賜され、春日局の孫の稲葉正則の江戸屋敷に移築。さらに1881年に東京府牛込区若松町(現・東京都新宿区若松町)の二条家に移築。三溪園には1922年に移築、という。

 

春草廬

 

 この建物は、先の月華殿同様、三室戸寺金蔵院より1918年移築。元は同院の客殿であった月華殿に付属していた茶室である。織田有楽斎の作といわれ、九窓亭とも呼ばれた。現在の春草廬は、月華殿から切り離され、新たに八畳の広間と水屋が付加された形になっている。外観は軒の深い切妻造杮葺きの屋根である。茶室は、三畳に台目畳を加えた広さで、点前座と向き合って床の間がある。特色は窓が多いことである。窓は、点前座に勝手付の色紙窓(2つ)と風炉先窓の3つ、床の間の墨蹟窓、客座の三方に5つの合計9つある。天井は点前座が化粧屋根裏天井で、客座が一面の棹縁天井である、という。

 

梅園

 

 

 

 

 三重塔を見に行く。

 

 

 

旧燈明寺三重塔

 


 室町時代の1457年(康正3年)の建築。京都府相楽郡加茂町(現・木津川市)より1914年に移築。降りて旧東慶寺仏殿を見に行く。

 

臥龍梅

 

 

旧東慶寺仏殿

 

 江戸時代初期、寛永11年(1634年)の建築。東慶寺(神奈川県鎌倉市)より1907年に移築。

 

旧燈明寺本堂

 

 

 室町時代初期の建築。上記の三重塔があった燈明寺の本堂で、1948年まで京都府加茂町(現・木津川市)にあったが、同年の台風で大破して長年、解体・格納されていた。1982年、三溪園に移築。

 

 

三溪園天満宮

 

観心橋

 

 

 

大池&三溪記念館

 

大池&鶴翔閣

 

 

 

 これで帰宅した。

 東京国立博物館(本館)の続き。本館は見終わったことにして、次に東洋館に入る。

 

東洋館

 

 エレベーターで5階まで上がり、まずは10室(朝鮮の美術)に入る。

 

李上佐款「雨中猛虎図軸」

 

 李上佐(号学圃)は中宗(在位1506~44)時代の画員画家。中国13世紀の著名な禅僧画家、牧谿の画風を継承し、粗放な墨を使って雨風を呼ぶ虎の姿を勇壮に描いている、という。

 

李霆「竹図軸」

 

 李霆は第4代国王の世宗(位1418~50)の玄孫にあたる王族で、墨竹、墨蘭などの文人墨戯の名手として知られる。黒く染めた絹に金泥を使って描く墨戯作品の流行は、朝鮮半島16~17世紀に特有の現象である、という。

 

柳徳章「雪竹図軸」

 

 柳徳章は、李霆・申緯と共に三大墨竹画家に数えられる墨竹の名手で、その筆力は八十歳(耊)を超えても衰えなかったと伝わる。本図は徳章晩年期とされる作で、雪の重みに耐える竹の姿を描いている、という。

 

 4階8室(中国の書画)。鑑賞するのが力仕事と言えるほど、量・質ともに充実している。

 

管道昇款「墨竹図巻」

 

 

 管道昇は元時代の女性画家。元時代を代表する文人・趙孟頫(1254~1322)の、よく夫を助けた理想の妻として知られ、画は墨竹をよくしたと伝えられる。狩野常信(養朴、1636~1713)、および5代後にあたる惟信(養川院、1753~1808)による極がある。

 

樊良枢「行草書座訓一則軸」

 

張瑞図「行草書七言絶句軸」

 

 張瑞図は、科挙の最終試験に第三席で及第して要職を歴任後、後に罪に巻き込まれて辞官した。書は明末四大家に数えられ、日本にも早くから伝来した。号の二水から、水星の化身にして火難防除の利益があるといわれ、その書は一層珍重されたようである、という。

 

張瑞図「草書五言律詩軸」

 

米万鍾「草書題画七言絶句軸」&朱逢明「行書七言絶句軸」

 

丁雲鵬「樹下人物図軸」

 

盛茂燁「元旦試題図軸」

 

文徴明「草書尺牘冊」

 

 文徴明が双梧先生と子重先生に詩稿を贈った両尺牘の合冊。前者は七言絶句7首(「閏正月十一日遊玄妙観歴諸道院晩登露台乗月而帰次第得詩七首」『甫田集』巻13)、後者は同じく2首を記す。本作は王羲之や智永の書法に加え、黄庭堅の影響が窺える、という。

 

陳淳「行草書千字文巻」

 

 陳淳は、蘇州の文人。詩書画に優れ、楷書は文徴明、行書は楊凝式、林藻に学び、米芾の筆意を汲むと伝える。本作は52歳時(1535)、金粟山蔵経紙に行草書で「千字文」を記した一巻。躍動感に富む字姿である、という。

 

韓道亨他「明賢詩翰合作巻」

 

丁雲鵬「羅漢図巻」

 

 

 

董其昌「行草書羅漢賛等書巻」

 

 

 解説によれば、「万暦31年(1603)3月、董其昌が蘇州の雲隠山房で雨に閉ざされ無聊をかこっていると、范爾孚、王伯明、趙満生が来訪した。そこで虎丘の茶を喫し、高麗の墨を磨り、新たに筆をおろして揮毫に及んだ作。巻末では、唐の懐素「自叙帖」風の狂草が見事である」という。 

 

董其昌「草書書論冊」

 

陳継儒「草書五言律詩扇面」

 

 陳継儒は、松江(上海市)の人。博学で詩文と書法に優れ、著述出版を生業とした。書は蘇軾、米芾や親交のあった董其昌の影響が指摘される。本作は避暑を題材とした自詠詩を記し、涵六なる人物に贈った扇面。墨量の変化が紙面に奥行を感じさせる、という。

 

盛茂燁「竹林七賢図扇面」

 

 盛茂燁は、蘇州(江蘇省)の人。日本にも多くの作品が伝来し、彭城百川、与謝蕪村などに影響を与えた。本図は魏の末期、3世紀頃の有名な7人の隠者「竹林七賢」を描き、長尾雨山の箱書をともなう、という。

 

王建章「蘭亭春禊図扇面頁」

 

徐枋「山水図軸」

 

戴明説「風竹図軸」&「行書孟浩然五言律詩軸」

 

楊文聰「山水図巻」

 

 

鄒之麟「行書山居七律詩冊」

 

丁元公「山水図扇面」

 

姜実節「江南半幅図巻」

 

 

 

 姜実節は、清代初期に蘇州(江蘇省)で活躍した文人。本図では、渇いた筆致を重ねて西湖(浙江省杭州)の情景を描き、「江南半幅」と題す。題は江南山水画の祖とされる五代の画家、董源の作品を意識したものであろう。手前の山から180度見渡すような視点が新鮮である、という。

 

朱舜水「草書服深衣議巻」

 

 朱舜水は中国・明時代末期の人。清に滅ぼされた明王朝の復興を図ったものの果たせなかったため、日本に亡命した。はじめ筑後柳川の儒者・安東省庵の援助を受け、後に徳川光圀の知遇を得て水戸に住み、日本の儒学に大きな影響を与えた、という。

 

王鐸「墨蘭図扇面」

 

 この辺で中国の書画も見たことにして、次に、2階3室(西域の美術)。

 

「菩薩立像幡」

 

 解説によれば、「この幡は上部の三角形(幡頭)、左右の飾り紐(幡手)、長方形の画面(幡身)、切り込みのある長方形(幡足)および最下部の飾り板までが完全に残るきわめて貴重な作品。菩薩像は頭に宝冠を戴き、胸元に瓔珞などで飾るなど、そのスタイルはとても華やかである」という。

 

「菩薩立像」

 

 最後に、地階13室の「インドの細密画」を見に行く。

 

ビーカーネール派「ジャハーンギール立像」

 

ビーカーネール派「アクバル帝胸像」

 

後期ムガル派「ラフィー・ウッダラジャート帝坐像」

 

後期ムガル派「ラフィー・ウッダウラ帝坐像」

 

ハイデラバード派「弓を引くアーラムギール2世」

 

ビーカーネール派「花を持つ王子立像」

 

ビーカーネール派「アウラングゼーブ帝立像」

 

ビーカーネール派「ダーラー・シコー胸像」

 

カンパニー派「ズィーナト・マハル像」

 

 あまり人気のない地階の一番奥にあるインド細密画であるが、今回は、私も聞き知っている著名なムガル帝国皇帝の肖像画もあり、見ごたえがあった。

 展示替えがあったので、東京国立博物館に行ってきた。

 

正門

 

本館

 

大階段

 

 それでは、見ていく。まずは、国宝室。

 

 

丹波康頼撰『医心方』巻第一「治病大体部」

 

 

 解説によると、「『医心方』は、日本に現存する最古の医学書です。平安時代・永観2年(984)に、朝廷の医師であった丹波康頼(912~995)が、中国の様々な医書から引用して、病気の原因や治療法を述べたもので、全30巻からなります。出典のなかにはすでに失われた書物も多く、『医心方』は東洋医学の歴史において極めて貴重な著作と言えます」という。つまり、美術・芸術的視点からは見るべきものはない。

 

 3室(平安~室町)。仏教美術は、阿弥陀如来像ばかりであった。

 

「阿弥陀如来像」


 

 

 

 

「阿弥陀聖衆来迎図」

 

「来迎図」

 

中村三之丞他「洛中洛外図屏風」(模本)

 

 

雪舟等楊「梅下寿老図」

 

 「文化遺産オンライン」によると、「雪舟は室町時代の禅僧画家。京都の相国寺で修行したのち、30代半ばで山口へ移り、大内氏の庇護の下で活躍。応仁元年(1467)画家として遣明使に随行し、北京で中国の画家に絵を学んだ。寿老が松竹梅の枝や鹿と絡みあうような不思議な構成が目をひく」という。

 

万里集九賛「渡唐天神図」

 

 同じく「文化遺産オンライン」によると、「天神(菅原道真)が中国に渡り、禅の名僧、無準師範に禅を学んだという説話が、室町時代の禅僧の間に流行し、数多くの渡唐天神が描かれた。本図は道服を着て、手に梅枝を持つ典型的な図様である。万里集九は漢詩文を得意とした禅僧として著名である」という。

 

虎関師錬「七言律詩梅花第八」

 

一休宗純「教外別伝不立文字」

 

 「文化遺産オンライン」によると、「一休は、禅宗の退廃を批判し、あるべき禅を純粋に追究した禅僧です。教外別伝とは、釈迦の言葉による教えのほかに、心から心へと直接に伝えられ得るもののことを言い、不立文字とは、真理は概念で規定し得るものではない、という意味です。ともに禅宗の核心をつく言葉です」という。

 

狩野松栄「梅に小禽・梔子花に叭々鳥図」

 

狩野派「梅に鵯図」

 

狩野派「梅樹禽鳥図屏風」

 

 「文化遺産オンライン」によれば、「柔らかな筆使いや、こまかく屈曲する梅の枝などは、狩野派の三代目・松栄の作風に通じる。梅の幹にとまる鳥のとぼけた表情が何とも微笑ましい。修理がなされて目立たないが、よく見ると所々に欠損や補筆がみられる」という。

 

 特別室で企画展示がされていたので、入ってみる。

 

 

「五百羅漢図」(第二十三天聖尊者)

 

「阿弥陀三尊図」

 

「観音菩薩坐像」

 

観音菩薩坐像納入品

 

 解説によると、「左足を下に垂らし、右膝を立ててその上に腕を自然に掛けた、遊戯坐の姿勢をとる観音菩薩像。このような姿は絵画において描かれたものはありますが、立体による高麗時代の現存作例は本像が唯一です。最近の韓国国立中央博物館の調査により、材質はマツとモミであること、像の内部からは多数の納入品が発見され、造立年代を裏付けることができました」という。

 

「大方広仏華厳経」巻第十二

 

 

 一階に降りて、18室の「近代美術」を見に行く。

 

大智勝観「梅と蓮」

 

 勝観は、日本美術院の再興に参加して、小林古径らとともに同人に推挙され、後に美術院経営者となるなど、院の発展のために尽くした。横山大観の画風を慕いながら、清爽と梅と蓮を形つくる本作のように、軽妙な趣を感じさせる作品を描いている、という。

 

服部雪斎「花鳥」

 

 伝統的な花鳥画の形式をとるが、細い描線と綿密な明快な賦彩によってそれぞれの対象がきわめて強い印象を与える。在外の「花鳥図」(ニューオーリンズ美術館所蔵)などとともに、数少ない雪斎による単体の作品の遺例である、という。

 

中林清淑「月梅」

 

 背景に薄く墨を掃き、かすかに映える月とそれを撫でるように枝を伸ばす古梅を表す。こぼれんばかりの梅花の繊細さとざっくりとした樹皮の対比が魅せる一幅。父・中林竹洞の墨梅図に近似したものがある。42歳の清淑がアトリエ・墨水学堂にて描いたもの、という。

 

西郷孤月「春冬花鳥」(春)

 

 春は梅に鵯のつがいを、冬は雪持ちの柳を描く。四季花鳥画として制作されたもので、夏秋の二幅は東京芸術大学所蔵である。孤月は、橋本雅邦に学び、本作品でも筆法と濃淡の調子にその成果があらわれているが、画面からは孤月独特の物悲しい情趣が感じられる、という。

 

梶田半古「春宵怨」

 

横山大観「松竹梅」

 

 

 松と梅を左右に配し、その根元に根笹を描く。金泥のすやり霞が横に棚引き、装飾性を増している。松の描写は安土桃山時代の画家、長谷川等伯(はせがわとうはく)の「松林図屏風」を彷彿させるが、大観は自然の風景を写実的に写すだけでなく伝統的絵画からも着想を得ている、という。

 

前田青邨「燕山之巻」

 

 

 

 

 

 「文化遺産データベース」によれば、「はじめて中国を訪れた青邨は、上海から揚子江をさかのぼり、南京、漢口、北京など各地を巡った。画面全体が黄土の色調で包まれた広大な空間を生み出している。万里の長城を経て、巻末の燕山の城は、雨に煙り、象徴的に描き出されている」という。

 

五姓田芳柳「勿来関」

 

 芳柳は江戸時代末から明治初期にかけて活躍した洋画家で、油彩画ではなく絹地や紙に陰影法を用いた独特の作風を編み出した。横浜で外国人の肖像画や風景画を描き、土産ものとして人気を博した、という。

 

長原孝太郎「晩春」

 

 長原は、はじめ医師を志したが、洋画に転進し、小山正太郎の画塾不同舎に学んだ。またドイツから帰国した原田直次郎にも影響を受けた。白馬会の平明な外光表現と一線を画した作風で、本作品のように油彩による屏風を制作するなど、装飾的な洋画も描いた、という。


荻原守衛「女」

 

 

荻原守衛「戸張孤雁氏像」

 

 本館は見終わったことにして、次に、東洋館に入る。

 

(続く)

 浜松明徳寺の月例坐禅会に行ってきた。

 

和地西交差点

 

明徳寺参道

 

 

本堂

 

 

境内から見える浜名湖

 

浜名湖

 

 お昼休みに近くの稲荷社を参拝に行く。

 

紅梅

 

 

 

 

 今回の提唱は、『碧巌集提唱録』第十五則「雲門倒說」。


 「倒の字に引っかゝるまいぞ。今の天地は只倒一説の天地あるのみと知れ。引っかゝりやうもないことぢや。
 

 (垂示)垂示云。殺人刀活人劍。乃上古之風規。是今時之樞要。且道。如今那箇是。殺人刀活人劍。試擧看。

 (訓読)殺人刀活人剣。乃ち上古の風規、是れ今時の樞要なり。且く道へ如今那箇か是れ殺入刀活人則。試に舉す看よ。


 (提唱)『殺入刀活人剣。乃上古之風規、是今時之樞要』差別の念をぶち切った時が殺人刀ぢや。それが直ちに活人剣で、差別のまま融通無碍である。この時が平等性智となり、活人剣が妙観察智と名をかへて出る。白隠は坐禪和讃に、四智圓明の月冴えて、この時何をか求むべきといふた。餘の二の大圓鏡智と成所作智は自らその中に含まれてる。念とはその物それの外に自己を認むるを指すのぢや。起信論に忽然念起謂無明とある。払ふべき雲(即ち念)が別にあるのではないのに、わざと念を起して雲即ち相手をこしらへる。只その人のおもはくさへとれば、依舊眼横鼻直ぢや。念其物も相手さへ認めねば、更に嫌ふにたらぬものである。この故に馬鳴は無明無體依真如、真如無體依無明といふてをる。この殺即活の妙應無方難留朕跡處が、古佛古祖の宗風とし、規則とせられたところでまた青原南嶽以來法は沙界に遍く一弛一張しつつ遂に鎌倉時代に我が大日本國に流れ込んで来たが、今や正に殘燈明滅の危機に際し、この古風を以て一大肝要とし標本として令法久住せしめねばならぬ。然るに此道今人棄如土。徒らに名相に走って、實地に遠ざかるは、實に痛嘆に堪えざると同時に、我らに於て一層の努力を要する所以である。
 

 『且道如今那筒是殺人刀活人剣。試擧肴』まあいふて見よと殺活自在の妙用はどの邊であるな。これ果して何人の行履であるなととひかけたが、却って請ふ和尚道へと槍頭を捩轉するものもなかつたと見え、試に古人を出して看せるからすぐ見てとれよとなり。


 (本則)舉。僧問雲門、不是目前機、亦非目前事時如何。(𨁝跳作什麼。倒退三千里。)門云、倒一說。(平出。款出囚人口。也不得放過。荒草裏橫身。)

 (訓讀)擧す。僧、雲門に問う、「是れ目前の機にあらず、亦た目前の事にも非ざる時は如何」。(𨁝跳して什麼をか作さん。倒退三千里。)門云く、倒一説。(平出す。款は囚人の口より出づ。也た放過することを得ず。荒草裏に身を橫ふ。)

 

 (提唱)『擧借問雲雲門、不是目前機、亦非前事時如何』目前は即今ぢや。機は心機で働く前の心的狀態で、物理學でいへば張力ぢや。事は事用で、活用ぢや。大機には大用あり、小機には小用がある。兎に角この二つの前に物はない筈ぢゃが、そんなことは珍しくない。それを離れた境界をこそととひかけた。突然斯う出らるると越格の力量がないとこの坊主の舌のさきに引っかかるところぢや。これらを藏鋒問といふのである。然し本分の眼から見ると、やはり一物をもつておる。目前の機と目前の事の外にこの人なし。またこの世なし。これを否定しやうがない筈ぢや。矢張矛盾を免れぬぢゃ「へちまとはへちまににたるへちまかな」。

 『門云倒一説』一寸見ると汝の問は顛倒してる、矛盾してると奪うたやうに見えるが、そのやうなところで雲門を見んとせば禪は亡ぶるよう外はない。只是れこの倒一説、元來殺活を超越してをるのだから、よりつきやうがないところに、一線路を見出すのぢや。實參實究して冷暖自知するがよい。(以下略)」

 

-------------------------------

 

 「念とはその物それの外に自己を認むるを指すのぢや。起信論に忽然念起謂無明とある。払ふべき雲(即ち念)が別にあるのではないのに、わざと念を起して雲即ち相手をこしらへる。只その人のおもはくさへとれば、依舊眼横鼻直ぢや。念其物も相手さへ認めねば、更に嫌ふにたらぬものである。」

 

 自ら起こした念(思い)に騙されて、七転八倒しているのが、我々だと言われている。「求自己不可得」であり、「その物はその物の外に知りやうがない」。すでに出来ているのだから、求めるべきものなどあり得ない。それなのに、「悟りを得る」とか「真理に達する」云々とか、寝言を言いながら、馬鹿なことを飽きもせず、よくやっていると本当に思う。

 

 「『門云倒一説』一寸見ると汝の問は顛倒してる、矛盾してると奪うたやうに見えるが、そのやうなところで雲門を見んとせば禪は亡ぶるよう外はない。只是れこの倒一説、元來殺活を超越してをるのだから、よりつきやうがないところに、一線路を見出すのぢや。」

 

 「倒一説は倒一説」と聞いて、「そういうことか」と理解して、わかったつもりになる。それで済ませてしまうから、仏教と言いながら仏などどこにもいない、今のこの国の仏教があり、禅宗と自称しながら禅などどこにもない、今のこの国の禅宗がある。欓隠老師が示されているように、「此道今人棄如土、徒らに名相に走って、實地に遠ざか」った結果、仏教も禅宗もすでに滅んで久しい。事実は人為とは全く関係がないということが、周知されていない所以であろうか。 

 

帰りの電車から見えた富士山(原付近)

 四国八十八ヶ所巡礼(五十八番&五十九番)の続き。本日は、六十五番三角寺を巡拝する。

 

お宿の部屋から見えた朝の景色

 

 今治駅から川之江駅まで予讃線に乗車し、そこから路線バスに乗って、HITO病院前バス停下車、歩く。

 

今治駅ホームに入構する観音寺行き車両

 

川之江駅前から見えた川之江城

 

「HITO病院前」バス停付近

 

 Googleマップを頼りに進む。

 

 

新池調整池

 

 

 松山自動車道の高架をくぐる。

 

 

 

 

 

 

 瀬戸内海(伊吹島?)が見える。

 

 

 

 

 

 途中、朝日山古墳という看板が目に入ったので、行ってみる。

 

 

 

 

 

 朝日山古墳は、愛媛県四国中央市金田町金川にある古墳。形状は円墳。愛媛県指定史跡に指定されている。愛媛県東部、宇摩平野を一望する原峰丘陵尾根上に築造された古墳である。墳形は円形で、直径17メートル・高さ4.5メートルを測る。墳丘周囲には周溝状の遺構が認められる。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南東方向に開口する。玄室・玄門・羨道・羨門が良好な状態で完存する点で貴重な石室になる。副葬品としては須恵器があったが、現在までにほとんどが散逸している。築造時期は古墳時代後期の6世紀後半(または7世紀代)頃と推定される、という。さらに進む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そろそろ到着。

 

 

三角寺寺標&石段

 

仁王門

 

 

仁王像

 

 

客殿

 

弁財天祠

 

薬師堂

 

 

大師堂

 

 

 

延命地蔵菩薩像

 

本堂

 

 

 

 三角寺は、愛媛県四国中央市金田町三角寺75にある高野山真言宗の寺院。由霊山、慈尊院と号す。本尊は十一面観世音。四国八十八箇所第六十五番札所。寺伝によれば天平年間(730年 – 749年)に聖武天皇の勅願により行基が弥勒浄土を具現化しようと開基したとされる。その後、弘仁6年(815年)空海(弘法大師)が来訪した際に十一面観音を刻んで本尊とし、さらに、不動明王を刻んで三角形の護摩壇を築き21日間「降伏護摩の秘法」を施したとされる。この護摩壇の跡が境内にある三角の池の中の島として現存し、寺院名の由来とされる。また、嵯峨天皇が本尊を深く信仰し、寺領300町歩を下賜し、堂塔を建造したとされ、往時は12坊を持ち、七堂伽藍を備えていたという。三角寺で納経後、HITO病院まで戻り、川之江駅までバスに乗り、そこから松山駅まで予讃線に乗り、松山空港から飛行機に搭乗して、羽田空港に戻ってきた。

 

伊予西条駅に入ってきた松山行き車両

 

松山駅前

 

松山空港出発ロビー

 

帰りの飛行機