QUOD TIBI HOC ALTERI

QUOD TIBI HOC ALTERI

„Was du dir wünschst, das tu dem andern“.

 浜松明徳寺の月例坐禅会に行ってきた。

 

和地西交差点

 

明徳寺参道

 

 

本堂

 

 

境内から見える浜名湖

 

浜名湖

 

 お昼休みに近くの稲荷社を参拝に行く。

 

紅梅

 

 

 

 

 今回の提唱は、『碧巌集提唱録』第十五則「雲門倒說」。


 「倒の字に引っかゝるまいぞ。今の天地は只倒一説の天地あるのみと知れ。引っかゝりやうもないことぢや。
 

 (垂示)垂示云。殺人刀活人劍。乃上古之風規。是今時之樞要。且道。如今那箇是。殺人刀活人劍。試擧看。

 (訓読)殺人刀活人剣。乃ち上古の風規、是れ今時の樞要なり。且く道へ如今那箇か是れ殺入刀活人則。試に舉す看よ。


 (提唱)『殺入刀活人剣。乃上古之風規、是今時之樞要』差別の念をぶち切った時が殺人刀ぢや。それが直ちに活人剣で、差別のまま融通無碍である。この時が平等性智となり、活人剣が妙観察智と名をかへて出る。白隠は坐禪和讃に、四智圓明の月冴えて、この時何をか求むべきといふた。餘の二の大圓鏡智と成所作智は自らその中に含まれてる。念とはその物それの外に自己を認むるを指すのぢや。起信論に忽然念起謂無明とある。払ふべき雲(即ち念)が別にあるのではないのに、わざと念を起して雲即ち相手をこしらへる。只その人のおもはくさへとれば、依舊眼横鼻直ぢや。念其物も相手さへ認めねば、更に嫌ふにたらぬものである。この故に馬鳴は無明無體依真如、真如無體依無明といふてをる。この殺即活の妙應無方難留朕跡處が、古佛古祖の宗風とし、規則とせられたところでまた青原南嶽以來法は沙界に遍く一弛一張しつつ遂に鎌倉時代に我が大日本國に流れ込んで来たが、今や正に殘燈明滅の危機に際し、この古風を以て一大肝要とし標本として令法久住せしめねばならぬ。然るに此道今人棄如土。徒らに名相に走って、實地に遠ざかるは、實に痛嘆に堪えざると同時に、我らに於て一層の努力を要する所以である。
 

 『且道如今那筒是殺人刀活人剣。試擧肴』まあいふて見よと殺活自在の妙用はどの邊であるな。これ果して何人の行履であるなととひかけたが、却って請ふ和尚道へと槍頭を捩轉するものもなかつたと見え、試に古人を出して看せるからすぐ見てとれよとなり。


 (本則)舉。僧問雲門、不是目前機、亦非目前事時如何。(𨁝跳作什麼。倒退三千里。)門云、倒一說。(平出。款出囚人口。也不得放過。荒草裏橫身。)

 (訓讀)擧す。僧、雲門に問う、「是れ目前の機にあらず、亦た目前の事にも非ざる時は如何」。(𨁝跳して什麼をか作さん。倒退三千里。)門云く、倒一説。(平出す。款は囚人の口より出づ。也た放過することを得ず。荒草裏に身を橫ふ。)

 

 (提唱)『擧借問雲雲門、不是目前機、亦非前事時如何』目前は即今ぢや。機は心機で働く前の心的狀態で、物理學でいへば張力ぢや。事は事用で、活用ぢや。大機には大用あり、小機には小用がある。兎に角この二つの前に物はない筈ぢゃが、そんなことは珍しくない。それを離れた境界をこそととひかけた。突然斯う出らるると越格の力量がないとこの坊主の舌のさきに引っかかるところぢや。これらを藏鋒問といふのである。然し本分の眼から見ると、やはり一物をもつておる。目前の機と目前の事の外にこの人なし。またこの世なし。これを否定しやうがない筈ぢや。矢張矛盾を免れぬぢゃ「へちまとはへちまににたるへちまかな」。

 『門云倒一説』一寸見ると汝の問は顛倒してる、矛盾してると奪うたやうに見えるが、そのやうなところで雲門を見んとせば禪は亡ぶるよう外はない。只是れこの倒一説、元來殺活を超越してをるのだから、よりつきやうがないところに、一線路を見出すのぢや。實參實究して冷暖自知するがよい。(以下略)」

 

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 「念とはその物それの外に自己を認むるを指すのぢや。起信論に忽然念起謂無明とある。払ふべき雲(即ち念)が別にあるのではないのに、わざと念を起して雲即ち相手をこしらへる。只その人のおもはくさへとれば、依舊眼横鼻直ぢや。念其物も相手さへ認めねば、更に嫌ふにたらぬものである。」

 

 自ら起こした念(思い)に騙されて、七転八倒しているのが、我々だと言われている。すでに出来ているのだから、求めるべきものなどあり得ない。あるいは、「求自己不可得」であり、「その物はその物の外に知りやうがない」のに、「悟りを得る」とか「真理に達する」云々とか、寝言を言いながら、馬鹿なことを飽きもせず、よくやっていると本当に思う。

 

 「『門云倒一説』一寸見ると汝の問は顛倒してる、矛盾してると奪うたやうに見えるが、そのやうなところで雲門を見んとせば禪は亡ぶるよう外はない。只是れこの倒一説、元來殺活を超越してをるのだから、よりつきやうがないところに、一線路を見出すのぢや。」

 

 「倒一説は倒一説」と聞いて、「そういうことか」と理解して、わかったつもりになる。それで済ませてしまうから、仏教と言いながら仏などどこにもいない、今のこの国の仏教があり、禅宗と自称しながら禅などどこにもない、今のこの国の禅宗がある。欓隠老師が示されているように、「此道今人棄如土、徒らに名相に走って、實地に遠ざか」った結果、仏教も禅宗もすでに滅んで久しい。事実は人為とは全く関係がないということが、周知されていない所以であろうか。 

 

帰りの電車から見えた富士山(原付近)

 四国八十八ヶ所巡礼(五十八番&五十九番)の続き。本日は、六十五番三角寺を巡拝する。

 

お宿の部屋から見えた朝の景色

 

 今治駅から川之江駅まで予讃線に乗車し、そこから路線バスに乗って、HITO病院前バス停下車、歩く。

 

今治駅ホームに入構する観音寺行き車両

 

川之江駅前から見えた川之江城

 

「HITO病院前」バス停付近

 

 Googleマップを頼りに進む。

 

 

新池調整池

 

 

 松山自動車道の高架をくぐる。

 

 

 

 

 

 

 瀬戸内海(伊吹島?)が見える。

 

 

 

 

 

 途中、朝日山古墳という看板が目に入ったので、行ってみる。

 

 

 

 

 

 朝日山古墳は、愛媛県四国中央市金田町金川にある古墳。形状は円墳。愛媛県指定史跡に指定されている。愛媛県東部、宇摩平野を一望する原峰丘陵尾根上に築造された古墳である。墳形は円形で、直径17メートル・高さ4.5メートルを測る。墳丘周囲には周溝状の遺構が認められる。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南東方向に開口する。玄室・玄門・羨道・羨門が良好な状態で完存する点で貴重な石室になる。副葬品としては須恵器があったが、現在までにほとんどが散逸している。築造時期は古墳時代後期の6世紀後半(または7世紀代)頃と推定される、という。さらに進む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そろそろ到着。

 

 

三角寺寺標&石段

 

仁王門

 

 

仁王像

 

 

客殿

 

弁財天祠

 

薬師堂

 

 

大師堂

 

 

 

延命地蔵菩薩像

 

本堂

 

 

 

 三角寺は、愛媛県四国中央市金田町三角寺75にある高野山真言宗の寺院。由霊山、慈尊院と号す。本尊は十一面観世音。四国八十八箇所第六十五番札所。寺伝によれば天平年間(730年 – 749年)に聖武天皇の勅願により行基が弥勒浄土を具現化しようと開基したとされる。その後、弘仁6年(815年)空海(弘法大師)が来訪した際に十一面観音を刻んで本尊とし、さらに、不動明王を刻んで三角形の護摩壇を築き21日間「降伏護摩の秘法」を施したとされる。この護摩壇の跡が境内にある三角の池の中の島として現存し、寺院名の由来とされる。また、嵯峨天皇が本尊を深く信仰し、寺領300町歩を下賜し、堂塔を建造したとされ、往時は12坊を持ち、七堂伽藍を備えていたという。三角寺で納経後、HITO病院まで戻り、川之江駅までバスに乗り、そこから松山駅まで予讃線に乗り、松山空港から飛行機に搭乗して、羽田空港に戻ってきた。

 

伊予西条駅に入ってきた松山行き車両

 

松山駅前

 

松山空港出発ロビー

 

帰りの飛行機

 四国八十八箇所巡礼(五十六番&五十七番)の続き。石清水八幡宮参拝後、標識を頼りに五十八番仙遊寺に向かう。

 

 

 

 菜の花が咲いていた。

 

 

 今治らしく、タオル工場が散見される。

 

 

 

 

 

 

 

仙遊寺山門

 

仁王像

 

 

 車道ではなく、ここから遍路道を登る。

 

 

 

 土砂崩れがあったようで、登るのは若干危険であった。

 

 

 

鐘楼

 

大師堂

 

 

手水舎

 

本堂

 

 

 

 仙遊寺は、愛媛県今治市玉川町別所にある高野山真言宗の寺院。作礼山、千光院と号す。本尊は千手観世音菩薩。四国八十八箇所第五十八番札所。天智天皇(在位661年 – 672年)の勅願によって伊予の大守越智守興が堂宇を建立した。本尊の千手観世音菩薩は海から上がってきた竜女が一刀三礼して彫ったという言い伝えがある。このことから「作礼山」が山号になった。また、40年にわたって伽藍を整備した阿坊仙人という僧が当寺に暮らしていたが養老2年(718年)に雲と遊ぶかのように突然姿を消してしまったことが「仙遊寺」の由来になっているという。仙遊寺で納経後、五十九番国分寺に向かう。

 

 

 

大野地蔵庵

 

遍路石

 

国道196号

 

上徳町谷線

 

 県道156号に入り、頓田川(国分橋)をわたる。

 

 

 

 標識に従い左折する。

 

 

国分寺参道

 

鐘楼

 

石柱門

 

本堂

 

 

大師堂

 

中門?

 

 伊予国分寺は、愛媛県今治市国分に位置する真言律宗の寺院。金光山、最勝院と号す。本尊は薬師瑠璃光如来(薬師如来)。四国八十八箇所第五十九番札所。天平13年(741年)、聖武天皇が発した国分寺建立の詔によって建立された諸国国分寺の一つである。国分寺は『金光明最勝王経』による国家鎮護の寺であり、当寺もそれから山号・院号がつけられている。史実としては、具体的な創建年は定かでないが、『続日本紀』には天平勝宝8歳(756年)、伊予国を含む26か国の国分寺に仏具等を下賜したとの記載があり、この頃には完成していたものと思われる。現在の境内は伊予国府のあった所とされ、かつての境内は東へやや離れた位置にあったとされる。寺の東方100メートルほどのところに塔の礎石が残されており、かつての国分寺東塔跡と認められているという。国分寺で納経後、隣接する旧鎮守の春日神社を参拝する。

 

春日神社鳥居

 

注連柱

 

拝殿

 

本殿

 

 

 

 春日神社参拝後、五十七番付近まで戻り、式内社で伊予国総社とされる伊加奈志神社を参拝する。

 

伊加奈志神社鳥居

 

参道石段

 

 

注連柱&拝殿

 

拝殿内

 

本殿

 

 

 伊加奈志神社は愛媛県今治市五十嵐に鎮座する神社。伊予国総社の論社。『延喜式神名帳』伊予国越智郡に記載された「伊加奈志神社」に比定される。古くから「総社明神」と呼ばれ、近くを流れる川は蒼社川(総社川)と呼ばれたという。伊加奈志神社参拝後、駅前で自転車を返却して、ホテルに戻った。

 

本日の夕食

 四国八十八箇所巡礼(五十四番&五十五番)の続き。延命寺で納経後、五十六番泰山寺に向かう。西瀬戸自動車道に沿って南下する。

 

 

 シェーンブルンを模した日本食研の工場が見えてきた。

 

 

 国道196号(今治バイパス)を進み、西瀬戸自動車道の高架をくぐる。

 

 

 

 右折する。

 

 

 

泰山寺寺標

 

門柱

 

鐘楼

 

境内

 

客殿

 

仁王像

 

 

本堂

 

香炉

 

大師堂

 

 泰山寺は、愛媛県今治市小泉にある真言宗の寺院。金輪山、勅王院と号す。本尊は地蔵菩薩。四国八十八箇所第五十六番札所。天長元年(824年)には淳和天皇の勅願所となり、七堂伽藍を備え10坊を持つ規模となったものの数度の兵火により衰退し、空海が不老松を植えた山麓の現在の場所へ移築された、という。泰山寺で納経後、隣接する旧鎮守の三島神社を参拝する。

 

三島神社参道

 

鳥居

 

拝殿

 

 

 

本殿

 

 

 三島神社参拝後、五十七番栄福寺に向かう。国道196号から国道317号に入る。

 

国道317号

 

 

 

 左折して蒼社川をわたる。

 

 

 

 標識に従い右折する。

 

 

 

 石清水八幡宮社号標。栄福寺が見えてきた。

 

 

寺標

 

鐘楼

 

金毘羅堂

 

薬師堂

 

大師堂

 

 

本堂

 

 

 

 栄福寺は、愛媛県今治市玉川町にある高野山真言宗の寺院。府頭山、無量寿院と号す。本尊は阿弥陀如来。四国八十八箇所第五十七番札所。真念の情報により書かれた『四国遍礼霊場記(寂本1689年刊)』によると遍路人は東から当山に上がり西に下って現在の境内前を通って次の札所(仙遊寺)へ向かっていて、東側山麓にあった浄寂寺の修行僧がその阿弥陀堂跡に遍路人の寄宿所を建て、その寺が八幡宮の催事を執り行っていた。なお、浄寂寺が催事を執行する以前は当寺が行っていて、長福寺と称したが、後に乗泉寺と称するようになり、寛政4年(1792年)に栄福寺と改称した。納経をになっていた当寺は江戸時代後期の納経帳によると本尊名は書かれず「伊豫一國石清水八幡宮 別當栄福寺」と記していた、という。栄福寺で納経後、隣接する石清水八幡宮(伊予一社八幡宮)を参拝する。

 

鳥居

 

参道

 

拝殿

 

 

本殿

 

 

 石清水八幡神社は愛媛県今治市玉川町に鎮座する神社。八幡山の山頂に鎮座している。云い伝えによると、この神、今治より巽(南東)の海岸の衣干に海中より上がり、その後、 貞観元年(859年)河野深躬が勝岡に勧請し、勝岡八幡宮と称した。永承年中(1046年から1052年)伊予守源頼義は荒廃していたのを見て河野親経と共に社地を八幡山に移し、山城国男山八幡宮の社殿に擬して建立し、石清水八幡宮と称し、その時期に伊予に建立した8箇所の八幡宮でも随一で、伊予一社八幡宮であった。いつからかは不明であるが、明治初年の神仏分離までは四国八十八箇所霊場の第五十七番札所として別当栄福寺とともに神仏習合の神社であった、という。石清水八幡宮参拝後、五十八番仙遊寺に向かう。


(続く)

 四国八十八箇所巡礼(六十一番&六十二番)の続き。本日は、今治市内の札所を巡拝する。まずは、五十五番南光坊。

 

お宿の部屋からの朝の眺め

 

今回のお宿

 

県道38号(今治街道)

 

今治市公会堂

 

スクリュー

 

 造船の町に相応しいオブジェ。

 

南光坊四天門

 

持国天

 

多聞天

 

増長天

 

広目天

 

大師堂

 

 

境内

 

本堂

 

金毘羅堂

 

薬師堂

 

中門

 

手水舎

 

 南光坊は、愛媛県今治市別宮町にある真言宗御室派の寺院。別宮山、金剛院と号す。四国八十八箇所第55番札所であり、本尊は大通智勝如来。由来は煩雑なので省くが、本来の55番札所は、隣接する別宮(大山祇神社)であったが、明治の神仏分離令により別宮から札所を受け継ぎ分離独立した。また、本式の遍路ならば大三島(大山祇神社)へ渡るとされていたが、これ以降、四国八十八ヶ所巡拝として大三島に渡る遍路はいなくなったという。南光坊で納経後、隣接する別宮を参拝する。

 

別宮大山祇神社鳥居

 

境内

 

奈良原神社

 

クスノキ

 

拝殿

 

本殿

 

 

 

阿奈婆神社

 

 

清高稲荷社

 

荒神社

 

 別宮大山祇神社は、愛媛県今治市に鎮座する神社。伊予国一宮の大山祇神社の別宮。旧社格は県社。戦国時代造営の拝殿は、愛媛県の有形文化財に指定されている。天正の兵火による災禍以降は、四国八十八箇所の札所である当社の別当寺として南光坊が納経を担当し、その時の納経帳には「日本總鎮守 大山積大明神 別當南光坊」と書かれていた。しかし、明治初年に神仏分離で南光坊と分かれ札所も移ったが、現在でも境内は隣接しており、当社と南光坊の両所参りは習わしである、という。別宮参拝後、駅前のレンタサイクルで自転車をお借りして、五十四番延命寺に向かう。

 

今治駅

 

 途中、式内社の姫坂神社の鳥居が見えたので、参拝する。

 

一の鳥居

 

二の鳥居

 

青木神社

 

手水舎

 

注連柱

 

拝殿

 

 

 

本殿

 

 

 

 「延喜式神社の調査」によれば、「往昔は蒼社川支流の泉川左岸・姫宮の地(現 南日吉町)にあつたという。現在地への遷座年代は不詳である。現在の祭神は近世に嚴島大明神とも称して宮島信仰の影響を受けたところの祭神名とも考えられ、当初からのものとは断定できない。延喜式神名帳が越智郡を大3座小4座として当社を「名神大」と記すことについては疑義がもたれている。…延喜式神名帳の越智郡にかかる記載は、大2座小5座の誤記であり、姫坂神社は小社と判断するのが妥当であると考えられる」という。姫坂神社参拝後、浅川沿いを進み、延命寺に向かう。

 

 

海禅寺

 

県道38号(今治街道)

 

 西瀬戸自動車道の高架をくぐる。

 

 

 

 標識に従って右折する。

 

 

 

 

 

仁王門&寺標

 

仁王門

 

仁王像

 

 

梵鐘

 

山門

 

鐘楼

 

本堂

 

大師堂

 

 

 

薬師堂(奥の院)

 

 

 延命寺は、愛媛県今治市阿方にある真言宗豊山派の寺院。近見山、宝鐘院と号す。本尊は不動明王。四国八十八箇所第五十四番札所。寺伝によれば、聖武天皇の勅願を受けて養老4年(720年)行基が不動明王を刻み現在地の北の近見山(標高243.5 m)の山頂に堂宇を建立して開基。弘仁年間(810年 – 824年)には空海(弘法大師)が嵯峨天皇の勅命によって再興し、不動院圓明寺と名付けたという。明治初年の神仏分離令で四国遍路は神社に参拝することがなくなったことから、本札所の大山祇神社を四国遍路として参拝することがなくなった。そのため大三島へ渡る理由がなくなり、かがり火(円い明かり)としての円明寺の意味合いを失ったためと、53番54番と同名の札所が続く混乱を避けるため、当寺は通称の延命寺を寺号とした、という。延命寺で納経後、五十六番泰山寺に向かう。 

 

 (続く)

 四国八十八箇所巡礼(六十三番&六十四番)の続き。六十三番吉祥寺で納経後、次に、六十二番宝珠寺まで歩く。

 

国道11号

 

 

伊予小松駅前

 

 宝寿寺が見えてきた。

 

 

宝寿寺旧本堂&寺標

 

手水舎

 

香炉堂

 

本堂

 

大師堂

 

 

五輪塔&石仏

 

 宝寿寺は、愛媛県西条市小松町にある真言宗善通寺派の寺院。天養山、観音院と号す。本尊は十一面観世音菩薩。四国八十八箇所第六十二番札所。聖武天皇の勅願によって天平年間(729年 – 748年)大国主大神の信託により大国主大神ら三神を白坪の里(現在地より約1km北に中山川があり、その北岸あたり)に奉斎したという、その際、道慈によって、その法楽所として傍らに建立され金剛宝寺と名付けられた。大同年間(806年 – 810年)空海(弘法大師)が逗留し光明皇后を模写した十一面観世音菩薩像を刻んで本尊とし、寺名を宝寿寺に改めた。明治初期の廃仏毀釈によって当寺は神社と分離され廃寺となったが、大石龍遍上人によって1877年(明治10年)に神社の南隣に移し再興され、大正10年(1921年)には予讃線鉄道工事にともない、さらに南側の現在地に移転した、という。宝珠寺で納経後、次に、六十一番香園寺まで歩く。

 

国道11号

 

 途中、鳥居が見えたので、参拝する。

 

三嶋神社大鳥居

 

注連柱

 

石造鳥居

 

拝殿

 

本殿

 

花陵霊社

 

 三嶋神社参拝後、香園寺に向かう。

 

案内板

 

寺標&門柱

 

鐘楼堂

 

大聖堂(本堂&大師堂)

 

子安大師堂

 

聖徳殿

 

大聖堂一階

 

大聖堂内

 

納経所

 

 香園寺は、愛媛県西条市小松町南川にある真言宗系の単立寺院。栴檀山、教王院と号す。本尊は大日如来。四国八十八箇所の第六十一番札所であり、子安大師の寺として親しまれている。実際の創建年は不詳であるが、奥の院の白滝不動から北へ行った海岸あたりで中山川下流に大日という場所があり、そこにあった大日堂が白滝不動で修行する人達の納経所になって、さらに大日如来を本尊とする寺になり、現在地へ移ったとも云われている。天正年間(1573年 – 1592年)兵火に遭って焼失したが、江戸時代に入り小松藩主一柳氏の帰依を得て寛永年間(1624年 – 1644年)に再興されている、という。香園寺で納経後、今治駅に向かい、本日は、これでお宿に向かった。

 

伊予小松駅ホームに入る松山行き車両

 

今治駅

 

今回のお宿

 

 

ピエール・オーギュスト・ルノワール

「勝利のヴィーナス」

 

LNGタンカー

 

東郷青児「婦人群像」

 

上村淳行「千鳥」

 

 今治ということで、造船業に関係があるホテルなのか、そこかしこに船の模型が展示してあり、絵画ギャラリーもあった。

 

今治城

 

枡形虎口

 

藤堂高虎像&模擬天守

 

山里門

 

 

 今治城は、慶長7年(1602年)、藤堂高虎によって築城開始され、慶長9年(1604年)に完成した。普請奉行として渡辺了の名が知られている。今治城完成以前の今治の支配拠点は、唐子山山頂にあった国府城であったが、より能率的な都市経営を目指すため築城された。構造は、三重の堀に海水を引き入れた特異な構造で、当時は海から堀へ直接船で入り、船が停泊できるほどの池が敷地内にあるなど海上交通の要所今治らしく海を最大限に活用した城となっている。日本三大水城の一つに数えられている、という。

 

本日の夕食

 四国八十八箇所巡礼に行ってきた。今回は、今治に宿泊して今治周辺の札所を巡拝。

 

羽田空港

 

保安検査場入口

 

搭乗ゲート

 

 松山空港に到着後、松山駅に移動し、石鎚山駅まで予讃線に乗車し、まずは六十四番前神寺に向かう。

 

松山空港

 

松山駅

 

石鎚山駅ホーム

 

石鎚山駅舎

 

 

石鎚神社(口之宮)大鳥居

 

西田のむく

 

二の鳥居

 

神門

 

随神像ではなく天狗像

 

 

 神門から二の鳥居まで戻り、その前の道を左折すると、前神寺が見えてくる。

 

 

前神寺寺標&山門

 

鐘楼堂

 

大師堂

 

金毘羅堂

 

参道

 

浄土橋

 

護摩堂

 

薬師堂

 

本堂

 

 

石鈇権現堂鳥居

 

石段

 

石鈇権現堂

 

 前神寺は、愛媛県西条市洲之内にある真言宗石鈇派総本山の寺院。石鈇山、金色院と号する。本尊は阿弥陀如来。四国八十八箇所第六十四番札所。日本七霊山の1つ、霊峰石鎚山 (1982m) の麓に位置する。発祥より千年法灯を守ってきた山岳寺院であったが、江戸時代以降の変遷により、麓の西田(標高50 m付近)に本拠を移すも、その後の神仏分離令により廃寺の憂き目に遭あったが苦難の末再興し現在の隆盛に繋げている、という。前神寺で納経後、次に、石鎚山駅から隣の伊予氷見駅まで電車で移動し、六十三番吉祥寺に向かう。

 

石鎚山駅ホームに入る松山行き車両

 

伊予氷見駅前

 

吉祥寺山門&寺標

 

鐘楼

 

福聚閣

 

手水舎

 

庫裏

 

大師堂

 

 

本堂

 

 

鎮守堂?

 

 吉祥寺は、愛媛県西条市にある真言宗東寺派の寺院。密教山、胎蔵院と号す。本尊は毘沙門天。四国八十八箇所第六十三番札所。毘沙門天を本尊とするのは、四国八十八ヶ所では当寺のみ。寺伝によれば弘仁年間(810年 – 823年)に空海(弘法大師)が光を放つ檜から毘沙門天・吉祥天・善賦師童子を刻み、安置したのが起源といわれる。吉祥寺で納経後、次に、六十二番宝珠寺まで歩く。

 

(続く)

 金曜土曜と、月例の坐禅会に出席した。以下は、土曜日の坐禅会の会場である中野成願寺の様子。山門前の有名なしだれ梅が咲き始めていた。

 

山門

 

しだれ梅

 

六地蔵

 

境内

 

本堂

 

 

開山堂

 

百体観音堂

 

鍋島地蔵

 

紅梅

 

 本日の提唱で取り上げられた箇所は、以下の通り。

 

 「慈是法明門、一切生處善根攝勝故(慈是れ法明門なり、一切の生處に善根攝勝なるが故に)。悲是法明門、不殺害衆生故(悲是れ法明門なり、衆生を殺害せざるが故に)。喜是法明門、捨一切不喜事故(喜是れ法明門なり、一切不喜の事を捨するが故に)。捨是法明門、厭離五欲故(捨是れ法明門なり、五欲を厭離するが故に)。」(『正法眼藏』第十一「一百八法明門」より)

 

 「欲とは、現実以外(以上)の状態を望むこと」と言われていたのが耳に残った。今の現実しかありえないのに、それではいけないと、土台無理なこと(現実を改変しようとすること)を望むことが、欲であると。それで、五欲は無意味であり、害悪であると思った。欲が害悪であることは聞き知っていたが、無意味であることまでは知らなかったのである。

 

 欲(渇愛)が無意味な理由は、それが絶対に満たされないからである。何故ならば、満足できないと感じた状況は即座に過ぎ去り、それに何かを付け加えることは、もはや絶対にできないからである。

 

 提唱後の質疑応答では、「空とは何か?」という、(非常に聡明そうな様子の)留学生の方の質問と、それに対する(文字で伝えることができない)ご老師のお答えが、興味深かった。「空とは、何もないこと(empty)ではなく、変化する過程(process)を意味する」といったご説明であったようだが、ご老師の握りこぶしをゆっくり開いていく様子と、「握りこぶしは何処に行った?」という問いを実際に見て聞いていないと、この文字だけの説明だけでは、「何のことやら」で、全く伝わらないとは思うが。

 香取神宮参拝の続き。本宮を参拝する。

 

赤鳥居

 

石鳥居

 

勅使門

 

 勅使門は旧大宮司邸の表門の転用で、天明元年(1781年)の造営、桁行三間、梁間二間、一重、切妻造。屋根は茅葺で、両袖塀が附属するという。

 

総門

 

手水舎

 

市神社&天降神社

 

楼門

 

 楼門は、本殿と同じく元禄13年(1700)の造営で、3間1戸で、屋根は入母屋造銅板葺であるがもとは栩葺であったという。昭和58年重文指定。

 

拝殿

 

 

 

 県教育委員会のホームページによれば、拝殿は、「重要文化財である本殿の正面に、権現造風に繋げて建てられている。昭和11年(1936)から15年(1940)にかけて行われた、内務省神社局の直轄による大修築に際し、造営されたもの。木造平屋建で、拝殿正面には、千鳥破風と軒唐破風を付け、足元から頭貫下端までの軸部は黒漆塗り、組物と蟇股は極彩色が施されているなど、本殿の意匠と釣り合った体裁をとっている。また、拝殿の内部は、床板と折上小組格天井の格縁が黒漆塗り、幣殿内部の床板・化粧垂木も同じく黒漆塗りであるのに対し、神饌所内部は、床・壁・天井とも素木で仕上げられている。屋根はいずれも檜皮葺きで、複雑な権現造と調和している」という。

 

本殿

 

 

 

 

 

 

 本殿は、平安時代には伊勢神宮などと同様の20年ごとの建替えの制度があったが、戦国時代に廃れ、現在の本殿は、元禄13年(1700)に幕府によって造営されたものである。正面柱間が三間で前庇と短い後庇を加えた両流造の全国でも最大級のもので、黒漆塗、檜皮葺の重厚な社殿である。また、蟇股や虹梁・組み物には極彩色の装飾が施され、前代の慶長期の桃山様式の手法を受け継いでいる、という。昭和52年重文指定。

 

神饌殿

 

 次に、境内社等を参拝する。

 

櫻大刀自神社

 

鹿島新宮社

 

六所神社

 

匝瑳神社

 

祈祷殿(旧拝殿)

 

 祈祷殿(旧拝殿)は、元禄13年(1700年)の造営。拝殿として造営・使用されていたが、昭和の大修築に伴って南東に移築され、昭和59年(1984年)にさらに西へ1.5メートルほど移動された。間口五間、奥行三間で、入母屋造である。屋根は現在銅板葺であるが、当初は栩葺で昭和40年(1965年)に改められた。壁や柱は丹塗である。拝殿としては比較的大規模なもので、彫刻等の随所に造営時の様式が示されているという。

 

諏訪神社

 

 本宮参拝後、次に、「御神井道」を降りていき、境外社を参拝に行く。

 

 

 

 

狐坐山神社一の鳥居

 

参道

 

二の鳥居

 

狐坐山神社

 

 次に、御手洗井に向かう。

 

 

御手洗井

 

 次に、氷室井に向かう。

 

 

氷室井

 

 次に、氷室坂を登り、姥山神社に向かう。

 

 

姥山神社入口

 

姥山神社

 

 

 姥山神社参拝後、次に、氷室坂を登り、総門前・旧参道を経由して、又見神社に向かう。

 

 

 若宮坂で梅が咲いていた。

 

 

八劔神社・若宮御社

 

 

 切り通しを進む。

 

 

 

又見神社鳥居

 

石段脇の巨木

 

又見神社

 

 

 又見神社は、香取神宮境外摂社。祭神の天苗加命は経津主神の御子神で、香取氏の祖神とされる。そのため「若御子神社」ともいう。本殿右横には古墳の石室が露出して残っており、「又見古墳」として香取市指定史跡に指定されているという。

 

三島神社

 

 香取神宮は、千葉県北東部、利根川下流右岸の「亀甲山」と称される丘陵上に鎮座する、全国でも有数の古社。式内社(名神大社)、下総国一宮。旧社格は官幣大社。祭神は、日本神話で大国主の国譲りの際に活躍する経津主神。関東地方を中心として全国にある香取神社の総本社。茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社。また、宮中の四方拝で遥拝される一社という。古くは朝廷から蝦夷に対する平定神として、また藤原氏から氏神の一社として崇敬された。その神威は中世から武家の世となって以後も続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬されたという。又見神社参拝後、香取駅に戻り、電車に乗って帰宅した。

 

「香取駅入口」バス停付近

 香取神宮に行ってきた。香取駅到着後、まずは、津宮浜鳥居を目指す。

 

香取駅

 

 駅前の道を北上する。

 

 

龍田神社

 

 

 龍田神社は、香取市津宮に鎮座する、香取神宮境外末社。創建年不詳。説明板によれば、本来は、「風神神社」か。参拝後、龍田神社の角を左折する。

 

 

千佛寺・毘沙門堂

 

 

 香取神宮が鎮座する亀甲山の北に位置することから、神宮はこの地に、北方を鎮護する四天王である毘沙門天(多聞天)を祀る、毘沙門堂を建立したという。数年前に私も見たのだが、隣にその毘沙門堂があったはずなのだが、ご覧の通り、土台が残っているだけで、お堂がない。

 

 

 更に西進すると、沖宮神社がある。

 

沖宮神社

 

 香取神宮境外末社。ここで再び北上する。

 

龍性院跡(行屋)

 

 

 

 龍性院(明治の廃仏毀釈で廃寺)の念仏堂という。さらに歩くと、津宮浜鳥居が見えてきた。

 

 

 

 

 往昔の表参道口に立つ大鳥居。香取神宮の祭神である経津主大神は、海路ここから上陸したと伝えられる。十二年に一度、午年に行われる式年神幸祭には、ここから神輿をのせた御座船が利根川を遡るという。ここから南下して、香取神宮を目指す。

 

 

 

忍男神社(東の宮)

 

 

 

 忍男神社(東の宮)は、香取神宮表参道沿いの津宮字東宮に鎮座する、香取神宮境外摂社。創建年不詳。祭神は伊弉諾命。現在の社殿は慶長12年(1607年)に徳川幕府により造営されたという。西の宮と共に浜手守護の神という。

 

瞻男神社(西の宮)

 

 

 

 董橋(草履抜橋)を渡る。

 

 

 説明板によれば、根本川に掛かるこの橋は、香取神宮への表参道に掛かり、例幣使の参向時には、ここで身を滌いだといわれ、衛兵の見張所もあったことから「董橋」の名がつき、「都宮大橋」とも呼ばれた。人々は、この場所で豊富な湧き水の流れに身を清め、衣と草履を履き替えて神宮に向かったことから、「草履抜橋」「靴脱橋」「じょん抜き橋」と転化されたともいわれる。南下する。

 

 

神道山古墳群入口

 

 

 県道253号を横断する。

 

 

 大坂方面に向かう。

 

 

 

宮司宅?

 

 

 大坂を登る。

 

 

茅葺き屋根のお宅

 

 

大坂井

 

 

 

 奥宮に到着。

 

 

 

 

 公式サイトの説明によれば、奥宮は、香取神宮境内、旧参道の中程に鎮座。経津主大神の荒御魂を祀る。現在の社殿は、昭和四十八年伊勢神宮御遷宮の折の古材に依るものという。奥宮参拝後、要石を見に行く。

 

 

押手神社

 

要石

 

 

 同じく公式サイトによれば、「古くより、この地方は大変地震が多く、人々はとても恐れていた─これは、地中に大きなナマズが住み着いて荒れ騒いでいるのだと。それで、香取・鹿島両神宮の大神等は、地中に深く石棒を差し込み、大ナマズの頭尾を刺し通されたという。当神宮は凸形、鹿島は凹形で、地上に一部を現し、深さ幾十尺と伝えられるという。貞享元年(1684年)水戸光圀公が当神宮参拝の折、これを掘らせたが根元を見ることが出来なかったといわれている。」要石を見た後は、本宮に向かう。

 

(続く)