342)「左富士」を眺めてから平塚、大磯、国府津へ | 峠を越えたい

峠を越えたい

戻るより未だ見ぬ向こうへ

 律令体制に於ける全国の行政区分で、「…国」の言わば県庁所在地を探して歩くのに、「府中」なる地名を追い求めましたが、「国府」(こくふ)という地名も手掛かりになります。読みが「こくぶ」(国分)であると国分寺跡に関係しているようですが、その近くに「国府」や「府中」などの地名がなければ「こくぶ」の名前から「国府」を探して行けるでしょう。

 東京から東海道本線に揺られて平塚を過ぎ、やがて「国府津」駅に近づくと御殿場線への乗り換え案内が聞えてきます。「蜜柑の花が咲いている。………」の歌が駅に停まると流れます。熱海を過ぎて伊東線に入り、宇佐美駅や伊東駅でも同じ歌を聴くことになります。この歌は人気がありますね。蜜柑畑(“何時か来た丘”の蜜柑畑)の場所は別にして、“遙かに見える青い海”のイメージは3駅から相模湾の同じ沖辺りに収束しそうです。

 御殿場線(国府津~沼津)が東海道本線であった昔、小田原、湯河原、熱海は本線上にありませんでした。往時、小田原経由で箱根へ、湯河原温泉へ、熱海温泉へ、熱海から更に伊豆へ、などの乗り換え客で賑わったであろう「国府津」(駅)の名前に、東海道本線での行き来の際、心引かれるものがあります。港にある国府(国庁)の意味でしょうか。相模国府候補地(?)は神奈川宿でも横浜でも平塚でも小田原でもない国府津です。いや間違い、神奈川宿や横浜は武蔵国です。期待して『コンサイス地名辞典』の「こうづ」を読むと直ぐ解決して拍子抜けを感じながらも、記載は有り難いです。

 世が世であれば国府津市の誕生を目にしたでしょうか。相模国府の外港であったことによる名前だそうです。首里城の外港が那覇港でした。大磯に「国府町」が以前ありました。同コンサイスです。

 大磯近辺の地図上で、「国府跡」を探しました。

 あれ、変ですね、大磯町の六所神社は指摘されず、平塚駅北の相模川右岸に「推定相模国庁跡」の印(赤)が付きました。『相模国』(Wiki.)に説明されていますが、主に3つの説があって、現状のまとめの部分をコピーします。

 “現代の考古学発掘調査成果では、1989年(平成元年)に平塚市四之宮の稲荷前A遺跡で「国厨」「大住厨」銘のある墨書土器が出土したことや[15]、2004年(平成16年)の湘南新道建設事業に伴う調査で同市四之宮の六ノ域・坪ノ内遺跡から国府脇殿と見られる8世紀前葉の大型掘立柱建物が検出されたことで[16]、相模国府は成立当初から平塚(大住郡)にあり、後に余綾へ移転したとする「二遷説」が有力化してきている[10][11]”。

 国府は平塚の大住郡(地図の赤しるし)にあったものが、後に余綾(六所神社)に移ったという説が有力とのことです。六所神社が旧・大磯町国府村にありました。『四之宮(平塚市)』にはこのように書かれています。

 “相模国府推定地 - 四之宮地内の稲荷前A遺跡で「国厨」と記した土師器が発見され[18]湘南新道建設事業に伴う発掘調査でも、六ノ域遺跡・坪ノ内遺跡から脇殿と見られる8世紀前葉の掘立柱建物が検出されたため[19]古代の相模国府が四之宮にあった可能性が有力化している[20][21]

 『相模国』(Wiki.)の「歴史」には、いくつかの説がもっと詳しく述べられています。

 “相模国府の所在地は、史料では『和名類聚抄』(931年938年編纂)と『拾芥抄』では「大住郡」(平塚市)、『伊呂波字類抄』(平安時代末~鎌倉時代初期成立)では「餘綾郡」(中郡大磯町)にあったと見えることから、所在地に変遷があったとして長く論争が行われてきた[10]。いずれも国分寺の所在地である高座郡海老名市)と異なるため、江戸末~明治時代に「高座郡(海老名)→大住郡(平塚)→余綾郡(大磯)」という「国府三遷説A」が提唱された[11][12]。また大正昭和初期には「大住郡(平塚または伊勢原市)→余綾郡(大磯)」の「国府二遷説」も浮上した[11]。さらに1950年代以降、小田原市足下郡)で発見された「千代寺院(千代廃寺)跡[13]」を初期の相模国分寺と見て、その付近に初期国府もあったとし、「足下郡(小田原)→大住郡(平塚)→余綾郡(大磯)」という「三遷説B」(足柄国府説)が提唱された[12][11]。”

 相模国府推定地については3遷説と2遷説があるようです。『伊能図』(『伊能図大全』、河出書房新社)を掲げます。

 「国府本郷村」と「国府新宿村」が見えます。「国府津村」はもっと西側、酒匂川や酒匂村の東手前です。「大磯」(宿)があるくらいなので、小磯村も並んでいます。相模川の下流は「馬入川」と呼びますが、「馬入村」があります。

 相模国府地推定だけでは物足りないので、余談です。平塚~大磯にその推定地があると言うことには関わりますが、「左富士」という語を聞いたことがあるような無いような。東海道本線を上野東京ラインに揺られて伊豆を目指していて、(大概は海側の席に坐っています)、平塚駅東で相模川(馬入川)を渡る少し手前、窓のかなり急角度前方に雪を頂く富士山が何の気なしにふと目に飛び込んで来て、驚いたことがあります。以後何回か上野東京ラインに乗っているものの、未だ写真には捕え損ねています。地図で捕えようと思います。

 列車が茅ヶ崎駅を過ぎて相模川を渡る直前の線路の角度は少し立っています。その辺りの縮尺を大きくします。

 

 海側座席から富士山が見えるわけはこの角度(むらさき矢印)に依ります。なんとか次の機会に空気の澄んだ冬に撮影できないかしら。「左富士」は南湖(なんご、茅ヶ崎市の地名)と吉原宿の2か所で有名なんだそうです。上の地図に「南湖」がありますね。吉原宿については面白い事情を知りました。『吉原宿』(Wiki.)より、

 “吉原宿は当初現在のJR吉原駅付近にあった(元吉原)が、1639年寛永16年)の高潮[1]により壊滅的な被害を受けたことから、再発を防ぐため内陸部の現在の富士市依田原付近に移転した(中吉原、現在の八代町付近)。しかし1680年延宝8年)8月6日の高潮[1]により再度壊滅的な被害を受け、更に内陸部の現在の吉原本町(吉原商店街)に移転した。このため原宿 - 吉原宿間で海沿いを通っていた東海道は吉原宿の手前で海から離れ、北側の内陸部に大きく湾曲する事になり、それまで(江戸からに向かった場合)右手に見えていた富士山が左手に見えることから、"左富士"と呼ばれる景勝地となった[2]

 高潮に2回襲われ、その都度内陸方向へ吉原宿は移転を繰り返して、東海道は北へ湾曲することになり、「右富士」が「左富士」に変わったそうです。歌川広重の『東海道五十三次 14』の「吉原宿左富士」に描かれました。そして茅ヶ崎からの左富士は同じ歌川広重に成る『五十三次名所図会 七』の「南湖の松原左不二」です。