343)四国山地を貫くも讃岐山脈に遮られた吉野川 | 峠を越えたい

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 四国山地を南から北へ横断するという記述に、土讃線はこの峡谷(大歩危・小歩危)を旨く利用して通り抜けているくらいに考えて、気にも止めなかった吉野川の特殊性について(186)、「先行河川」なる名前を知った今、興味は倍増です。『吉野川流域の地形形成の謎(1)―「古吉野川は香川県を流れていた!」―』(水資源機構吉野川局長 杉村淑人)に出会えました。論文内の先ずこの部分を。

 “吉野川は四国山地を穿入蛇行する先行河川であり、…………”。

 吉野川の不思議な流れは『吉野川流域の概要|事業紹介|独立行政法人水資源機構 関西・吉野川支社 吉野川本部』より、その図示と文章を借ります。

 続いてその説明文です。

 “吉野川は、その源を高知県の瓶ヶ森(標高1,896m)に発し、四国山脈に沿って東に流れ大豊町敷岩において穴内川を合わせ北に向きを変えて四国山脈を横断し、銅山川、祖谷川などを合わせ、徳島県三好市池田町付近において再び東に向かい、阿波市岩津を経て徳島平野に入り、大小の支川を合わせながら第十堰地点に達し、旧吉野川を分派して紀伊水道に注いでいます。

その流域は四国四県にまたがり流域面積は3,750㎢(徳島県63%、香川県1%、愛媛県8%、高知県28%)に及び、四国全域の約20%を占めています。

幹線流路延長は194kmに達し、利根川の坂東太郎、筑後川の筑紫次郎と並んで四国三郎と呼ばれ、日本でも有数の大河川です。”

 帝国書院の地図も添えます。『小学生の地図帳』(帝国書院、2022)より、

 

 石鎚山の東側に「かめがもり」がありますね。ここに発し四国山地の南斜面(orまっただ中?)を東流し、「大豊」町を過ぎると向きを真北に変え、大歩危・小歩危を通って池田辺りからはまた流れが東向きになる、という如何にも不思議な流れ下り方です。

 大歩危の位置で四国山地を東西に、断面を切ってみました(国土地理院地図を使って)。

 一番深い谷が大歩危で、吉野川のこの辺りが先行谷の区間でしょうか。東(大歩危の右側)の谷を形成している祖谷川は四国山地を出たところで吉野川に合流します。

 冒頭に挙げた杉村淑人氏の論文には大変興味深い主張が記されています。“古吉野川は香川県を流れていた!”と題目で唱えた内容がmainなのです。

 “前期鮮新世から中期鮮新世にかけて(533~239万年前)、阿讃山地の起伏は現在よりもかなり 小さく、古吉野川と古土器川が阿讃山地を横断し、東西系の江端断層系の活動で形成された地溝 状凹地の中を山地に沿って西流していた。南方の三波川帯(中央構造線の南側に分布するから片岩礫が供給され財田層が堆積した。この財田層を不整合に覆う焼尾層(図-2オレンジ色)は、砂 岩礫、泥岩礫のみを含み片岩礫を含まない。ということは、焼尾層が堆積した時期(210~120百 万年前)に阿讃山地が隆起し、古吉野川も古土器川も山地を横断できなくなったことを意味する”。

 内容が難しいですが、阿讃山地(讃岐山脈)を南北に貫いて吉野川が香川県に流れ込んでいた遠い昔があったんだそうです。すると吉野川は瀬戸内海に注いでいましたか。讃岐山脈を横切る吉野川は、讃岐山脈の隆起が更に進んだときに横断できなくなったとは、この区域は先行河川になり損ねたのでしょうか。悠久の時の流れの中で興味ある経緯のあることを聞きました。四国山地を横断した吉野川は讃岐山脈(阿讃山地)には跳ね返されてしまったような具合ですね。。縮尺を大きくした地図です。

 大歩危と小歩危を北へ貫いた吉野川が阿波池田駅付近で急に流れを90°東に変えるのは、讃岐山脈が如何にも関わっていそうです。ここで真西に流れる吉野川は有り得たでしょうか。