341)吉田宿を過ぎると豊橋を渡る | 峠を越えたい

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 東海道五十三次の宿場を西に辿って、三河国に入って出ても豊橋宿はありません。東から西へ(白須賀宿)、二川宿、吉田宿、御油宿、赤坂宿、藤川宿、岡崎宿、池鯉鮒宿、(鳴海宿)と並びます。地図を掲げます。『小学校社会科地図帳』(帝国書院、1960)より、

 現在の地名をカッコして示してくれているので有り難いです。如何して改称されたのでしょうか。豊橋市の基礎知識は『コンサイス地名辞典』(三省堂、1975)より。発行は50年近く古いですが。

 先を一部割愛してあります。今橋→吉田→豊橋と地名が変わって行ったようです。吉田藩の城下町が、いとも簡単に改称されたのには訳がありそうです。小栗風葉氏は知りませんが、「細雪」と「あすなろ物語」に豊橋が登場するとのこと、まことに親切です。「あすなろ物語」にも恐らく出て来たのでしょうが、「しろばんば」には確かです。父母と妹が豊橋に住んでいて、洪作はおぬい婆さんと一緒に湯ヶ島から遠路会いに行きました。確か豊橋の町中で洪作は迷子になるんでした。「細雪」は主に関西が舞台でしたが、何処かで豊橋が出て来たんでしょう。

 改名前の吉田宿の情報も仕入れます。『吉田宿』(Wiki.)の「概要」より。

 “慶長6年(1601年)の伝馬朱印状があり、東海道が設定された当初からの宿場であった。江戸の日本橋より西方73(約287km)に位置し、…………町並は23町30(約2.6km)の長さがあった。……、吉田城城下町と湊町(吉田湊、船町)を合わせた宿場町であった。……本陣のあった札木町(豊橋市札木町)は吉田城大手門のそばにあり、…………。

 街道は東から吉田城東惣門(豊橋市立八町小学校の南東あたり)の南を通過、吉田城の総堀に沿って続き、吉田城西惣門西側を北上し征夷大将軍の直轄の天下橋である吉田大橋(現在の豊橋(とよばし))(橋の南は渥美郡)で豊川を渡り下地(しもじ、当時は宝飯郡)とつながっていた。………………”。

 「とよばし」が現れました。これ臭いですね。吉田城下(吉田宿)における東海道の辿り方が詳しいです。吉田宿の横幅と言ったら良いか、2.6kmということは歩いて40分近く掛かる勘定です。長いですね。城下町且つ宿場の吉田宿が改称された経緯はコンサイスに書かれていません。『豊橋市』(Wiki.)の出番です。

 “………明治新政府は当時の三河国吉田藩の藩名が伊予国吉田藩……に似て紛らわしいとのことで藩名変更の命を下した[3]。その命を受け藩主は「豊橋、関屋、今橋」の3つの名を選んだ。新政府はその一番目の「豊橋」を採用して、正式に「豊橋藩」という藩名とすることを命じた。その後廃藩置県の後も豊橋の名が使われる。

      豊橋(とよはし:吉田大橋)

 ……酒井忠次の吉田川(豊川)への架橋以前に、橋は存在しておらず、鎌倉時代の史書(『東関紀行』・『海道記』・阿仏尼の『うたたねの記』および『十六夜日記』)にも、川の浅瀬を渡っていることが記述されている。 徳川氏の武将の酒井忠次が、1570年元亀元年)、関屋口から下地にかけて吉田川(豊川)に吉田大橋(土橋)を架ける土木工事を実施した。[4]その後、池田輝政が、……吉田大橋を木橋に架け替え、その位置も整備した下流の船町に移動させた。………江戸時代には、江戸幕府が整備、管理する長さ120間の大橋であった。

 この船町の吉田大橋(吉田橋)は、明治時代に架け替えた時、とよはしと名称を変更した。さらに、昭和に入ってから国道1号を整備した際、その上流(関屋口から下地)に新たに掛けられた橋を、以前の船町で呼称していた吉田大橋(よしだおおはし)と、再び名付けた。この国道整備により、かつての東海道は愛知県道496号白鳥豊橋線として県道になり、正式にはもともと架かっていた県道の大橋(西側の橋)の名を豊橋(とよはし)とするようになった。ただ、市名と橋名を区別するため、橋名を(とよばし)と呼ぶようになった”。

 「吉田」から「豊橋」に変わった事情が記されています。未だ橋の掛けられていない豊川を歩いて渡った阿仏尼ははだしになったのでしょうか。浅瀬といっても跨いで渡れるほどならまだしも。橋の名前と架かった位置が難しいです。地図をじっと見ながら文章を追えば何とかなりましょうか。Google地図です。

 左方向(西側)が豊川の下流です。江戸時代に吉田川(豊川)に架かる吉田大橋(土橋)を廃止して、下流の船町に造った木橋を同名の吉田大橋と呼んだ。明治になって今度は同じ場所で架け替えられた吉田大橋(吉田橋)を「とよはし」と改称した(旧・東海道、県道496号が通る)。この「とよはし」の上流で、江戸時代にあった橋(土橋)とほぼ同じ位置に架けた新橋を吉田大橋と名付けた(国道1号が通る)。こんな理解で良いでしょうか。

 どうも豊川に架かる橋だから「豊橋」なんでしょうけれど、橋の名前を「とよはし」にしたのと、吉田藩が豊橋藩になったのとは、後者の方が古い気がしますが。『府藩県対照表』(「岩波日本史辞典」、岩波書店)より、

 

 版籍奉還の時豊橋藩になり、廃藩置県で一旦豊橋県が生まれています。名古屋県もあったんですね。情報としてもう一つ、『吉田藩から豊橋への改名の由来|きんしゃちブログ』を引用させて下さい。

 “……………その吉田大橋が後に豊川に架かる橋から豊橋と呼ばれるようになった

そして版籍奉還に際して伊予に同じ吉田藩という藩があった関係で豊橋藩へと改称され、その豊橋が現在まで繋がっているという”。

  江戸時代の何時の頃から、吉田大橋は豊橋と呼ばれていたんでしょう。明治時代になってから、版籍奉還や廃藩置県よりも後に、橋の名前の「とよはし」が創造されたのではなさそうです。

 吉田宿の位置を確かめて終わりたいと思います。

 

 『東海道と吉田宿について』(豊橋市美術博物館)より借りました。豊川(吉田川)がUの字に蛇行している南側、つまり豊川の左岸に吉田宿と吉田城は位置します。東海道は角々を幾つも作って東西に通っています。南東から北西に走る東海道本線の豊橋駅は南西方向に直ぐで、吉田宿は豊川と東海道本線に挟まれて存在するので、正に豊橋の町なかです。

 一つ奇妙に思うのは、東海道は吉田宿を、豊川左岸のままで通り抜けますから、吉田大橋とか豊橋などの立派な橋は東海道にとって余り重きを成さないのではないか、と考えたのは間違いでした。上の絵図の時代は木橋の吉田大橋(後の豊橋)を、それ以前の時代には土橋の吉田大橋を東海道は渡っていたんです。つまり豊川の左岸から右岸へと移ったのです。