340)「和泉」(国)の「和」はsilent | 峠を越えたい

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 コンサイス地名辞典に載る、国府跡の存在を推量させる「ふちゅう」5つの内、大阪府和泉市の「府中」を調べます。Googleマッより、

 和泉市府中町が今に至って存在します(赤い点線で囲まれた地域)。阪和線和泉府中駅もあります。実際の『コンサイス地名辞典』>「ふちゅう 府中」の一部を示します。

               

 和泉国の範囲を明らかにしたいと思います。『旧国名でみる日本地図帳』(平凡社)より、

 堺の辺りと岸和田市以南を除いた狭い範囲と思い込んでいた「和泉国」が摂津国、河内国、紀伊国に囲まれた区域であるということは堺市も和泉国の中です。そう言えば岸和田市の南に泉佐野市や泉南市があります。

 国名の由来についてコンサイスが語ってくれました。「泉井上神社」(いずみいのうえじんじゃ)の境内に湧く「和泉ノ井」(にぎいずみのい)なる泉の名前に由来するそうです。『泉井上神社』(Wiki.)の「歴史」を読んでみると、

 “詳しい創建年は不詳であるが、社伝によれば、神功皇后仲哀天皇2年4月に当地を行啓した際に突如として泉が湧き出たため瑞祥として喜ばれ、この水を霊泉とし、宮を築いて祀ったとも、仲哀天皇9年に神功皇后が三韓征伐へ出発する途上、当地を行啓した際に突如として泉が湧き出たため、凱旋後に霊泉として社を築いて祀ったともいう。本殿脇にあるこの霊泉は「和泉清水」と呼ばれ、和泉国の国名の起源とされる[1]”。

 日本武尊の第2王子である仲哀天皇はその后が神功皇后です(広辞苑)。応神天皇(5世紀前半頃)の両親ですから、仲哀天皇は4世紀から5世紀頃の天皇となりますが、実在性に乏しいとのことです(『日本史辞典』岩波書店、1999)。神功皇后にも同じことが言えます。今は昔突如として泉が湧き出てきたのは確かとして、その謂れは楽しいものです。もしかして皇族なり貴族なりが通りかかったら水が湧き出ていたのはその通りであるとも思えます。「和泉の井」から湧く霊泉=「和泉清水」ですか。今も滾々と湧き出ていると有り難いのですが、

 “和泉清水(大阪府指定史跡) - 農業用水として周辺の農地を潤してきた泉であるが、現在水は枯れてしまっている”。

 「いずみいのうえ」(泉井上)神社、そして「にぎいずみの」(和泉の)井、と読まれているということは、「泉」=いずみ;「和泉」=にぎいずみ、です。では何故「いずみのくに」は「和泉国」と書かれるのか。広辞苑が説明してくれました。

 “いずみ【和泉】イヅミ

①     (「和泉」は713年(和銅6)の詔により2字にしたもので、「和」は読まない。)旧国名。五畿の一つ。………” 

 そんなこと聞きましたね。律令政府のお達しで、国の名前を2字にしろと言うことだったか。では、「にぎ」とは何でしょう。

 国府跡の方に移ります。マピオン地図です。

 泉井上神社が見えます。これの東隣りに国府がありました。『和泉国』(Wiki.)の「国内の施設」>「国府」より、

 “国府所在地を記した文献は次の通り。

・『和名抄』(平安時代中期成立)では、「和泉郡」[3]

・『拾芥抄』(鎌倉時代中期から南北朝時代成立)では、「和泉郡」[4]

・『節用集』(室町時代中期成立)では、「和泉郡」[5]

国府跡は、現在の大阪府和泉市府中町の府中遺跡( 北緯34度29分7.97秒 東経135度25分45.16秒)とされる”。

 上記文章の右側に国庁跡の碑の写真が載っています。

 記してある府中遺跡の経緯度を調べたところ、和泉国府跡は泉井上神社の直ぐの東隣りではなく、御館山公園(御館山児童遊園)内に建つ上掲写真の「和泉国府庁址」碑の位置にありました。

 さて、和泉守に名を連ねる人物を見てみます。博学多才の源順(みなもとのしたごう)

は10世紀に任官しました。危うく「光源氏」のモデルの第一候補、源融(みなもとのとおる)と混同するところでした。源頼光(よりみつ;らいこう)は大江山酒呑童子征伐の伝説で名を覚えています。。

 そう、和泉市府中町の東隣りに和泉市桑原町が地図上に見えます。おまじない:「くわばら、くわばら」に関わる言い伝えの一説を成す場所でした。