339)天橋立を辿れば丹後国府は近い | 峠を越えたい

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 『コンサイス地名辞典』(三省堂、1975)に載る「府中」の3つ目で、京都府宮津市に律令制下の県庁所在地、国府を尋ねます。コンサイスの『みやづ 宮津』の中の「―市」(宮津市)だけをコピーします。

 「府中」村が存在し、そこの地域に丹後国府が置かれていました。Google地図を見ます。

 

 宮津の町に立って、宮津湾を眺めた向こう岸、天橋立を北に渡った辺りが「丹後国府推定地」だそうです。天橋立の砂州は随分長くて、途中で引き返した記憶がありますが、渡り切ったなら直ぐそこにあったんでした。尤もその当時は国府のことなど眼中にありません。この国府推定地辺りには、ケーブルカーの府中駅、宮津市立府中公園;府中小学校、天橋立府中海水浴場などの名前が探せます。『丹後国』(Wiki.)の「国内施設」>「国府」より、

 “和名類聚抄』および『拾芥抄』では、国府は加佐郡にあると記載されている。現在の舞鶴市内とする説があるほか、宮津市とする説もあるが、詳細は不明[2]

なお近年では、宮津市の府中地区にある安国寺遺跡(宮津市小松)で方形の柱穴が認められており、同地が国府跡である可能性を高めている[5][6]”。

 宮津市ホームページを覗いてみました。『第6回 丹後国と国府の謎-宮津市ホームページ』より、

 “「丹波国加佐、與(与)謝、丹波、竹野、熊野五郡を割きて、始めて丹後国を置く」(『続日本紀』)。今から約1300年前の和銅6年(713)、丹波国北部の五郡が分割され、丹後国が誕生しました。

 …………鎌倉時代に書かれた『拾介抄』には、国府の所在地として加佐郡・与謝郡が併記され、これまで丹後国府の位置については、河守(旧大江町)・男山(与謝野町)など様々な説がありました。

 こうした中、宮津市府中には丹後国分寺跡や丹後国一宮である籠神社、国印や鑰といわれる倉庫の鍵を祀った飯役社など、国府と関連の深い社寺が集中し、国府の有力な候補地となっています。特に、府中一帯には、国分寺の南北軸に直交する地割が部分的に残り、………。

 小松遺跡や安国寺遺跡など未調査の遺跡も多く、地割の施工時期や丹後国府の解明は、府中の発掘調査が重要な鍵を握っています”(更新日:2021.1.29)

 添えられた地図も借ります。

 加佐郡に国府があったという記載から、以前より舞鶴近辺もその候補地の一つだったらしく、『舞鶴市』(Wiki.)も目を通していて、新知識を得ました。

 “元来この地域は「田辺」と呼ばれていたが、明治時代に山城(現・京田辺市)や紀伊(現・和歌山県田辺市)にある同名の地名との重複を避けるため、田辺城の雅称である「舞鶴城」より「舞鶴」の名称が取られた[1]。田辺城が「舞鶴城」の別名を得たのは、城型が南北に長く、東の白鳥峠から眺めるとあたかも鶴が舞っている姿のように見えるからであるとされている[2]”。

 更に『田辺城(丹後国)』(Wiki.)には、

 “田辺城(たなべじょう)は、京都府舞鶴市にある日本の城

鎌倉幕府室町幕府の八田守護所(丹後守護所)の後身ともいわれ、戦国時代から江戸時代にかけて存在した。別名は舞鶴城(ぶがくじょう)。舞鶴市指定史跡[1]”。

 本来は「ぶがく」と読むようです。市の名前としては訓読みが断然良いでしょう。

 『丹後国』(Wiki.)をつらつら読んでいたところ、丹後守(かみ)に任官した人物の中に「渡辺綱(わたなべのつな)」の名前を認めました。酒呑童子の住む大江山は丹波国と丹後国の境目にあるので任官地に遠くないです、と言っても、全く関係ないです。源頼光に従い坂田金時等と共に、京の都から大江山へ向けて出発したのでしょうから。藤原俊成も丹後国府の長になっています。勅撰和歌集の一つ、「千載和歌集」を編んだ人です。藤原定家はこの人の息子であることを忘れていました。上記の国守2人は丹後半島の東海岸沿いを辿って任地へ赴いたのでしょう、まさか天橋立を短絡したなんてことはありません。