12月24日 近鉄名古屋駅 7時31分発の急行で第62回の式年遷宮を終えて新しくなったお伊勢さんに詣でてきました。

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初詣もいいのですが、年末に「1年間ありがとうございました」と詣で、混雑していないおはらい町やおかげ横丁を食べ歩くほうが自分にはあっているように思います。

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外宮に詣でてバスで内宮へ、人が少ないのでゆっくりお詣りすることができました♪

さあ、お待ちかねのおはらい町へ

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まずは「岡田屋」さんへ。おかげ横丁の「ふくすけ」さんも食べたかったのですが行く前に決めていた岡田屋さんの伊勢うどん(450円)にしました。

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すぐ向かいの「ひもの塾」でにぎすとさんまを試食。

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「まる天」のじゃがバター(280円)を食べて、赤福本店の赤福盆(280円)をいただきます。

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お庭を通って通りへ出たところに「五十鈴茶屋」さんのみかん大福(300円)。もう食べるっきゃないでしょ。
「へんば餅」が臨時休業だったので、いいのか悪いのか食べることができずに、
鈴木水産(場外市場のほう)で浦村産の焼きガキを2個(380円)いただきました。

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「とうふや」さんの伊勢とうふと穴子、「すし久」さんのてこね寿し、
おかげ横丁の「八知玉屋」の蒟平餅(こんぺいもち)が食べられなかった
のが少し心残りです。

(そんないっぱい食べれるわけないやろ)

帰りは猿田彦神社の前からバスに乗り帰りました。
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蟹江の有名なパン屋さんポンレヴェックの看板メニューのポーク・シチュー(シチューランチB 1680円 毎日24個限定、この時期は30個作っているらしいです)をやっと食べることができました。
11時に携帯からランチの順番待ちリストに記入して出かけました。到着するとすぐに席に着くことができました♪
7日間ほどチルドで熟成させた塩漬けした国産の豚腕肉150g、ジャガイモ、人参、玉葱そして6時間かけて煮込んだデミグラソースを密閉性のよいルクルーゼで煮込み、翌日のカレーがおいしいのといっしょで、一日寝かすことによってまろやかさうまみがさらに増すということです。

 

ここのパンは雑誌でもよく取り上げられるほどおいしくて有名なお店で、特にハード系のパンが大好きな私にはたまらないパン屋さんですが、ここのポークシチューは言葉では表せないほど絶品です。是非食べてみてください。
 
ポンレヴェック
愛知県海部郡蟹江町学戸

 

職場の人が当たった「永遠の0」の試写会に誘ってもらい 21日より一足早く映画を観てきました。

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戦争モノなのに8、9割が女の人で、人気の岡田准一(「図書館戦争」はすごくカッコよかった♪)が主演だからかなと思っていたんですが、観終わった後は、これは恋愛映画なんだと思いました。

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映画の感想としては、映画でこんなに泣いたの久しぶりというぐらい泣けました。
つい最近やっと原作本が借りられて読んだばかりなので、原作が先に頭の中に蘇って、その感動のシーンになる前に先に泣いてるという感じでした。
映画の戦闘シーンも迫力があって、空母「赤城」は戦争映画にはいつも出てくるので何度も見ていますが、その独特な右舷のシャワー付き煙突の弩迫力に感動しました。こんなカッコいい「赤城」は初めてです。

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この映画は女の人に大人気になると思います。
450万部で文庫部門歴代1位の記録となった原作本に続き、映画も記録を作るかもしれませんね。
11月30日 第22回目の3人旅は美並の円空さんと下呂温泉を巡る旅です。

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東海北陸道の美並ICで下りて、美並ふるさと館へ向かいます。
円空ふるさと館のある粥川は、うなぎを食べないことで有名です。そのいわれは、昔自分たちを悩ませていた鬼を退治する手伝いをしたうなぎを神の使いとして崇め、以後食べることを禁止したということです。粥川の人々がうなぎを大切にしてきたため、うなぎが大量に生息し、大正13年には「うなぎの群生地」として国の天然記念物にも指定されたということです。

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星宮神社のすぐ前にある美並ふるさと館。円空仏が時代順に拝めるようになっていて、とても見やすかったです。なかでも、薬師如来は思わず手をあわせて拝んでしまうほど素晴らしい仏像でした。
写真撮影禁止でしたのでここに載せることはできないのが残念です。

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ネットで撮影OKの円空仏の薬師如来坐像を載せられている方がありましたのでお借りしました。
私が見たものはもう少しお口が細かったように思います。

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星宮神社のすぐ前のふくべ苑さんで鮎の塩焼きをいただきました。

そのまま道を進み山を越えて那比新宮神社へ向かいます。

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百人一首で有名な猿丸の
奥山に もみじ踏みわけ 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき 
の立派な石碑が建立されていて、石碑の裏の由緒書には
「三十六歌仙の一人として有名な猿丸太夫は、天暦年間に高賀山の鬼退治をした藤原高光公が当地山田小右ェ門の家に滞在中、娘おあきとの間に誕生した人であると伝えられている。」と記されていました。

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和良の重ね岩を見て、岩屋ダムのすぐ下流にある岩屋岩蔭遺跡へ。
縄文時代の古代太陽暦と銘打っていることに対してはさておき、とても楽しめました♪

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濃飛横断自動車道の一部として、2012年7月に開通したささゆりトンネル(全長4877m)を通って下呂温泉へ。

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今まで下呂へは中央道の中津川ICから257号を北上(55km)するのが一般的でしたが、このトンネルの開通で東海北陸道の郡上八幡ICから下呂へ行く道も選択肢に入れることができるようになりました。まだトンネルの延伸工事も行われていてもっと郡上と下呂が近くなるのが楽しみです。

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林羅山が「天下の三名泉」(草津・有馬・下呂)と呼んだ下呂温泉。幸乃湯へ


下呂温泉はPH9.18という高めなアルカリ性のため、ぬるっとしたお湯で、肌がつるつるになると言われています。それで料金はなんと350円。気軽に下呂温泉を楽しみたいのなら絶対おすすめです。

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下呂大橋から河原露天風呂「噴泉池」(水着着用必須)に入られている方が見えました。女性も水着を着て入られていました。もう少し暖かい季節に是非挑戦してみたいと思いました。
11月23日 1年ぶりに室生寺 長谷寺を訪れました。

 

下に昨年の12月2日の記事を載せましたのでご覧ください。

 

 

 

 

 

 

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今回の目的は、
今年の3月まで室生寺に勤められておられた中村一誠さんに一目お会いしたかったのと
1年間身につけていた長谷寺の大観音様との結縁の五色線をお返しし新たな五色線をいただくためです。

 

 

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室生口大野駅を9時20分発のバスで室生寺へ、720の石段を上り、奥の院に上がります。
紅葉の季節ということもありますが、多くの方が奥の院まで登ってこられていて、納経所で御朱印をいただいているのを見て、なんだかうれしくなりました。

 

 

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中村一誠さんが定年退職された後、網代 智宗(あじろ ちしゅう)さんが奥の院に上られているということでした。

 

 

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網代さんに弘法大師の御朱印をお願いして、中村一誠さんとのことなどをお話しし、ブログに載せてもいいとおっしゃっていただいて写真を撮らせていただきました。ありがとうございました。

 

 

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土門挙さんゆかりの 太鼓橋のたもとの橋本屋さんで、お昼にしめじ丼(とろろ汁付)をいただきました。

 

 

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このお店のとろろ汁は評判通り絶品でとてもおいしくておすすめです。

 

 

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橋本屋さんで中村一誠さんのお宅への道順を教えていただき、中村一誠さんにお会いしに山道を登ります。
15年以上も室生寺の720段の石段を登るだけでなく、この20分ぐらいの山道も毎日登り降りされていたんだと思いながら息を切らして登りました。

 

 

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やっと中村一誠さんのお宅まで辿りつきましたが、残念なことに中村一誠さんはお留守でした。
でもご家族の方とお話しすることができ、一誠さんの携帯にまで電話をかけていただいたり、電話番号も教えていただきました。
そのときは夜にまたお電話させていただきますと言って別れたのですが、突然の電話では失礼にあたると思い、来年また室生寺・長谷寺を訪れるときにお会いできるのを楽しみにして、結局お電話はしませんでした。
ほんとうにいろいろお世話になりありがとうございました。

 

 

室生寺からの直通バスで長谷寺へ向かいます。
昨年の12月から毎日つけていた五色線はこんなにボロボロになってしまいました。

 

 

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1年間災いを除いていただき、安心を与えていただいた五色線と新たにご縁を結んでいただいた五色線の両方をつけて大観音様の御足に触れて祈りをささげます。

 

 

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お詣りの後、古い五色線をお返ししました。1年間ほんとうにありがとうございました。
室生寺・長谷寺ともとても紅葉がきれいでした。

 

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あらすじ
北海道の港町で母と二人で暮らす紗枝。家の庭には、亡き父がある願いを込めて植えたハナミズキが育っていた。自身の夢のため東京の大学に進んだ紗枝と、故郷に残り漁師になった恋人の康平。互いを思いながらも、二人は少しずつすれ違っていく。それから十年。故郷のハナミズキが咲く頃、離れ離れだった二人に奇跡が訪れる…。珠玉の恋愛小説。

 

ひと言
数年前に、新垣結衣・生田斗真主演の映画を先に見たが、とてもいい映画だったので図書館でこの本を見つけたとき、吉田紀子さんの原作本を読みたくて借りた。
一青窃さんの「ハナミズキ」は2001年のニューヨークの9.11のテロの時、客船タイタニックの水難事故やノアの箱舟を連想して作詞したということや、日米両国間の友好を祈り1912年(明治45年)に日本からはアメリカの首都ワシントンに「桜の苗木」が贈られ、その返礼として1915年(大正4年)にアメリカから「ハナミズキ」が東京に贈られたということ。他にもいろいろな解釈をする方もみえるが、この一青窃さんの「ハナミズキ」の歌詞については純粋に泣けるほど素敵な歌詞だと思う。もう一度、レンタルDVDで映画を観てみようと思った。

 

 

ハナミズキ 作詞/一青窃 作曲/マシコタツロウ

 

 

空を押し上げて
手を伸ばす君 五月のこと
どうか来てほしい
水際まで来てほしい
つぼみをあげよう
庭のハナミズキ

 

 

薄紅色の可愛い君のね
果てない夢がちゃんと終わりますように
君と好きな人が百年続きますように

 

 

夏は暑すぎて
僕から気持ちは重すぎて
一緒に渡るには
きっと船が沈んじゃう
どうぞゆきなさい
お先にゆきなさい

 

 

僕の我慢がいつか実を結び
果てない波がちゃんと止まりますように
君と好きな人が百年続きますように

 

 

ひらり蝶々を
追いかけて白い帆を揚げて
母の日になれば
ミズキの葉、贈って下さい
待たなくてもいいよ
知らなくてもいいよ

 

 

薄紅色の可愛い君のね
果てない夢がちゃんと終わりますように
君と好きな人が百年続きますように

 

 

僕の我慢がいつか実を結び
果てない波がちゃんと止まりますように
君と好きな人が百年続きますように

 

 

君と好きな人が百年続きますように

 

 

 

その時、一陣の風が吹き抜けた。重く湿った風だった。風はハナミズキを揺らし、花びらをふわっと、空高く舞いあげた。その花びらが紗枝にふりかかる。肩を花びらにぽんと叩かれて、紗技は振り返った。ハナミズキに呼び止められたかのようだった。花びらは次々に舞い下り、紗枝の体に絡みつくように風に舞ったかと思うと、ぱっと闇の中に消えていった。ひらひらと舞う花びらの向こうで、いつの間にかトラックから降りた康平が、紗枝に向かって駆けだしてくるのが見えた。紗枝もその瞬間、彼に向かって駆けだしていた。ぶつかるほどの勢いで二人は固く抱き合った。自分たち以外のことは脳裏から全て消え去っていた。互いの腕の中の存在だけが全てだった。康平は紗枝の肩に顔を埋める。紗枝も康平の肩に頭をもたせた。二人は互いの腕の中にぴったりと収まっていた。(ハナミズキ 2001)

 

 

 

二人の間にハナミズキの花びらがはらはらと散った。康平は呪縛から解かれたように動き出すと、持っていた鞄の中から模型の船を取りだした。カナダのパブに置いてあった康平丸だった。「……これ。これ書いたの……紗枝?」康平は紗枝に向かって康平丸の旗を指し示す。「ガンバレ紗枝」という康平の文字の裏側には、以前にはなかった文字があった。「ありがとう」紗枝の字だった。海を越え時間を越えて紗枝の思いが康平に届いたことが嬉しくて紗枝は笑った。そして、笑顔のままで、康平に向かって小さく頷く。康平もゆっくりと笑みを返した。笑うことを忘れていたようなぎこちない笑いだった。「……おかえり」さらりとした口調で紗枝が言う。康平はかすれた声で応えた。「ただいま」二人は一歩ずつ歩み寄る。少しずつゆっくりと二人の距離が縮まっていく。「おかえり」今度は康平が言った。紗枝がはにかむような笑みを浮かべながら応える。「……ただいま」二人の頭上では、満開のハナミズキが見守るように柔らかな花びらをそっと揺らしていた。(ハナミズキ 2001)

 

 

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あらすじ
新たな視座を切り開く渾身の評伝!若き西行の忍ぶ恋、おもかげびととは誰だったのか。仏教者としての軌跡とは?その歌は、いつ、どこで詠まれたか。人生の半分を過ごした京都生活の真の姿とは。

 

ひと言
西行についてもう1冊。昨年の冬、吉野の西行庵を訪れたことがあった。西行の時代の奥平本のあたりは、木の枝を折って目じるしを作っておかないと道に迷う深い茂みであったのだろうなぁと西行庵までの道すがら思った。その場所に2畳ほどの茅葺きの粗末な草屋がひっそりと佇んでいた。
その庵を見て、徒然草ではないけれど「かくてもあられけるよと あはれに見るほどに」が心に浮かんだ。
巻末に「西行、収載歌索引」「西行外、引例歌索引」が載せられていて、とても便利なのだが、文章の表現が難しくて、なにもその言葉を使わなくても表現できるだろうと思ってしまうのが残念だった。

 

 

 

 

 

 山人よ 吉野の奥の しるべせよ 花もたづねむ また思ひあり

 

 

 

 
古野の最奥、青根ヶ峰を指顧にする「奥千本」に金峰神社がしずまる。この神社の境内を出て山腹
を回りつめたところに西行庵が現存する。結構はわずか二畳台目の茶室程度。茅葺きの粗末な草屋だ
が、芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で立ち寄り『笈の小文』でもふれているので、修復保存されてきた
のであろう。後年にわたって吉野山には幾つかの草屋を営んだかもしれない西行だが、最初に寝起き
をしたのはここではなかっただろうか。

 

 

 吉野山 こぞの枝折(しを)りの 道かへて まだ見ぬかたの 花をたづねむ

 

 

芭蕉は『笈の小文』の旅で吉野山中に三日間の逗留をしたといい、そのとき脳裡にうかべているの
がこの歌である。西行自身にも愛着のふかい一首であったとみえて、『御裳濯河歌合』に採っている。
「枝折り」は、道しるべ。昨年(こぞ)の枝折りを、「すがたこころともにをかし」と俊成は加判した。
往日の奥平本のあたりは、雑木の枝を折って目じるしを作っておかないことには道を見失う、深い
茂みであったのだろう。―― 昨年、目じるしを残して分け入った道を変えて、今年もまた、未だ見て
いない方面の花を尋ねよう ――。「道かへてまた」「まだ見ぬかたの」と、重ね読みに節をもとめて意
趣のふかさを味わいたい。

 

 

 空に出でて いづくともなく 尋ぬれば 雲とは花の 見ゆるなりけり

 

 

花にあくがれている精神状態は他のことにたいしてうわの空。西行はそんな意趣で草屋をあとに山
中をあてどなく歩きまわった。遠目に雲と見えるのが、すべて桜の花であった。

 

 

 おしなべて 花のさかりに なりにけり 山の端ごとに かかる白雲

 

 

桜は日本人の心馳せそのものの花とみなされるほどだから、もろもろの感情をおさえて、花の美し
さをのみ修辞するのはむずかしい。そのような意味で、悠揚として迫らず、これほど捨象的に、満目
の花をみずみずしく詠みあげた歌は、他に類をみないといえようか。俊成の加判にうなずかされる。

 

 

 
 
 谷の間も 峰のつづきも 吉野やま 花ゆゑ踏まぬ いはねあらじを

 

 

桜の花があるゆえに、西行はこの二年間で、古野の全山に足跡をしるしたのであろう。(吉野山二春)

 

 

注)
『御裳濯河歌合』……文治三年(1187)、70歳になる西行が自己の秀歌72首を選び,左方を山家客人,右方を野径亭主として36番の歌合に構成し,藤原俊成に判を依頼し伊勢内宮に奉納したもの。

 

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あらすじ
存分に旅をして、存分に歌を詠み、存分に恋して、そして死んだ西行。どうしたら、西行のように生きられるのか――自由に生きることが難しい時代だからこそ自由に生きたい、そう思う現代人の多くが共鳴する生き方をした日本人が、遠く昔にいた。没後千年近くもの間も、日本人の心を魅了し続け、古くは松尾芭蕉、近現代では、若山牧水、種田山頭火、さらには小林秀雄、白洲正子……といった知識人・教養人までもが魅せられたのはなぜか。俗世間を捨てて生きた西行は、どう考えどう行動したのか。それをもっとも克明に記した伝記物語こそがこの著者不明の名作『西行物語』である。西行の生き方に憧れる一人である新進気鋭の若手訳者が現代人の心に問いかけるように、訳・解説を施した。

 

ひと言
西行という人を知ったのは、中学だか高校だったかに習った「三夕の歌」
(末尾が「秋の夕暮れ」の体言で終わる歌)

 

 

心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ(西行法師)

 

 

が最初ではなかったかと思う。それから40年近く、西行に触れることが多くなるにつれ、こういう風に生きていければいいなぁと思うようになった。図書館でこの本を見つけたとき、一期一会の素敵な出会いのように感じました。読み終えた後、勝持寺の西行桜が見たくなって探していると「Petit-macaron's diary」さんのブログの「お茶室の庭の杉戸」の記事に出会いました。すごく嬉しくなって「Petit-macaron's diary」さんの了解も得ていませんが、リンクを貼りましたので是非訪れてみてください。こちらにも一期一会の素敵な出会いがあります。

 

 

 

 

 

この点において、小林秀雄は、『西行』という著作の中でこう喝破しています。「西行はなぜ出家したか、幸ひその原因については大いに研究の余地があるらしく、西行研究家たちは多忙なのではあるが、僕には興味のないことだ。凡そ詩人を解するには、その努めて現さうとしたところを極めるがよろしく、努めて忘れようとし隠そうとしたところを詮索したとて、何が得られるものでもない。…彼が忘れようとしたところを彼と共に素直に忘れよう」
この主張は、慧眼です。考えてみれば、人生の決定的な選択を、明確な理由があって、筋道立てて検討して決定したと言う人は、なかなか居ないのではないでしょうか。

 

 

 

 

花見にと 群れつつ人の 来るのみぞ あたら桜の 咎にはありける

 

 

 

この和歌が、多くの人に愛唱された結果、室町時代に世阿弥による能の名作『西行桜』が生まれます。毎年訪れる多くの花見客に悩まされた西行が、この歌を詠んで、桜の木陰に憩っているうちに、眠り込んでしまいます。その夢に、老桜の精が現れます。桜の精は、「桜の咎」という西行の言葉を軽くとがめ、「桜はただ、精一杯美しく咲くだけで、そこに何の罪もあろうはずがない。それを煩わしく感じるのは、人間の心だ」と西行を諭し、最後に鮮やかに舞います。そこで夢から覚めるというお話です。

 

 

願はくは 花のもとにて 春死なむ その如月の 望月の頃

 

 

(できることなら、春、満開の桜の花の下で、死にたいものだ。それも、お釈迦様が入滅された二月十五日に)

 

 

そして、まさにこの歌の通り、建久九年(1198年)二月十五日、信仰への確信に満ちた態度で、浄土のあるという西方に向かい、往生について記した法華経の一節を唱え、

 

 

仏には 桜の花を 奉れ わが後の世を 人とぶらはば

 

 

(私の死後、後世を弔ってくれる人がいるのなら、仏前にはどうか、私がもっとも好きだった、桜の花を供えてほしい)

 

 

と詠んで、ずっと念仏を唱えておりました。すると空の彼方から、音楽が聞こえてきます。薫(た)きしめた香の匂いがただよい、紫の雲がはるかにたなびいて、阿弥陀三尊と諸菩薩が、西行法師を迎えに来たのです。周りの人たちが驚嘆する中で、法師は見事、念願の極楽往生を遂げたのでした。

 

 

西行は、今風に言えば「がんばらない」生き方を、選んだ人でした。武門の家に生まれ、功名手柄を立てて、立身出世を目指すのが、がんばる生き方です。出家しても、僧侶の世界で少しでも高いくらいに使うたしたり宮廷に入り込んで政治の世界に介入したりしようとするのもがんばる生き方です西行はそういう競争にせよ向け自由な生き方を選びます旅をし歌をよみ小芋しましたしんどいときにはしんどいと平気で言ってしまいますただその軸になったのが仏法と若手そのために自由が自堕落にならずに済んだのです。いやむしろ、そこには、真に悟った人間のみが持つ、ゆとりと闊達さがあります。自分をしっかりと持っているからこそ、虚勢を張ったり無理をしたりせずに、おおらかで自分に正直でいられるのです。

 

 

なお西行の没年は、ここでは建久九年(1198年)となっていますが、文治六年(1190年)2月15日が定説です。西行の臨終の地についても、本章では、京都の雙林寺になっていますが、一般には『俊成家集』の記述から、河内(現在の大阪府)の弘川寺とされています。ただ弘川寺で病に倒れた後、少し持ち直し、年末に上京してから翌年二月十五日に亡くなったのか、年末に上京しようとしているうちに亡くなったのか、その記述にはちょっと曖昧な表現もあるのです。前者であればその雙林寺説も全くあり得ないわけではありません。

 

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あらすじ
直木賞授賞パーティの翌日、受賞作家は成田にいた。隣には何故か、人間に化けた作家の愛猫・夢吉が…。彼らが向かったのはイタリア・トリノ。まさに冬季オリンピックが開かれているその地だ。指さし会話で国際交流をしながら、驚きと感動に満ちた観戦旅行が始まった!冬季スポーツとオリンピックをこよなく愛する著者が描く、全く新しいオリンピック観戦記。

 

ひと言
読み終わった後、トリノオリンピックっていつだっけ?ウィキペディアで調べた。
2006年2月10日から2月26日にイタリア・トリノで行われた第20回の記念大会。日本勢は113人という大選手団を送り込みながら、メダルはフィギュアスケート、荒川静香の金メダル1個だけにとどまった。そうそう「イナバウアー」という言葉が流行語大賞になったなぁ。

 

 

「実際に五輪会場に乗り込んでみて感じたことは、日本は奇妙な国だということだ。韓国や中国のようにアジア人であることを自覚して特化することもなく、ひたすらに欧米人と同じことをやろうとしている。様々な会場で俺たちは、『なんでこんなところに日本人がいるんだ』という目で見られたよな。嘲笑や冷笑といったものまで浴びた。殆どの選手がゴールインした後、ようやく競技場に入ってきた日本人選手を見て、辛い思いをしたのも事実だ。それは世界における日本の立場を象徴しているようにさえ思えた。場違いなところに無理して出て行って、奇異な目で見られている。だけど俺は、そんな日本選手に感動したんだよ。クーベルタンの、『参加することに意義がある』という言葉の意味が生まれて初めてわかった。俺たちはここにいる、忘れてもらっちゃ困るぞ――それを堂々と主張できる場所が五輪なんだ。日本にも冬があり、雪が降り、池の凍る場所はある。だから冬季五輪に出て行く。国として、ふつうのことなんだ。メダルを獲れそうな種目だけじゃなく、二十位や三十位とかでがんばっている選手たちにもっと光を当てれば、冬季スポーツヘの関心度も変わってくると思うんだけどな」(6)

 

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あらすじ
終戦直前、挙式を間近に控えていた穴沢利夫少尉は、知覧から飛び立ち還らぬ人となった。婚約者へ宛てた手紙では、自分のことは忘れて幸せに生きよと綴りながら、最後に、ほとばしる感情を吐露していた―「智恵子会いたい、話したい、無性に」。戦後六十二年。残された婚約者が、今なお穴沢さんを想いながら語り尽くした貴重なノンフィクション。

 

ひと言
死ぬまでに必ず訪れたい場所がある。
鹿児島県南九州市にある「知覧特攻平和会館」だ。
鹿児島中央駅からでも、まだ1時間半ほどかかる場所にあり、昔から行きたい行きたいと思いながら、もう50歳を過ぎる年になってしまった。
知覧のほか宮崎の都城など九州各地から多くの若者が出撃し1036名もの若者が特攻で戦死した。
知覧からの出撃は439名と最も多い。

 

 

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他にも出撃基地はたくさんあるのに 多くの人が知覧に行きたいと思うのは、知覧特攻平和会館の初代館長 板津 忠正さん(陸軍特攻第213振武隊として出撃されたがエンジントラブルのため徳之島に不時着)が1995年(平成7年)まで50年という気の遠くなるような歳月をかけて全国を行脚し集めた全戦死者1036名の遺影がここにあるからだ。知覧に行けば、命をかけてこの国を守ったすべての英霊に手を合わせに行くことができる。

 

 

全国を行脚し遺影・遺品を集めた板津忠正さんの心の支えは、富屋食堂の鳥浜トメさんだった。挫けそうになると「あんたが生き残ったんは、特攻隊のことを語り残す使命があったからなんじゃないの」と励ましてくれ、なんとか鳥浜トメさんが生きているうちに、全員の遺影を集めようと頑張りましたが、残念ながら、1991年(平成3年)に鳥浜トメさんはお亡くなりになってしまった。「あと三名だったんですよ。悔しくってねぇ・・・・・」

 

 

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特別攻撃隊員が語った言葉
「九分九厘成功の見込みのない特攻。なぜ見込みのないのにこのような強行をするのか。
ここに信じてよいことがある。
いかなる形の講和になろうとも、日本民族が将に滅びんとする時にあたって、身をもってこれを防いだ若者たちがいたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に必ずや日本民族は再興するであろう。」

 

 

 

「思い出は懐かしむもの。おぼれるものではない」と、何かに書かれてあるのを見て、その通りだとはわかっていても、利夫さんと生きた時代におぼれそうになりました。そんなとき、利夫さんの遺書を思い出しました。彼は遺書に、「穴沢は現実の世界には、もう存在しない」と、書きながら、「智恵子 会いたい、話したい、無性に」と、最後に残していました。
私は未練という言葉があまり好きではありませんが、利夫さんのこの最後の言葉は、彼の純粋な未練であると思えました。そして、利夫さんがこの世へ未練を残しているのなら、私は思い出にひたるばかりではなく、あの人の遺志を継いで一緒に生きていこうと決めました。
彼が目指していた家庭生活や読みたかった本を、私の心の内に存在する利夫さんと一緒に経験していこう、こう思ったのです。もちろん、生きていることがむなしくてならないと思えるときもありました。けれども、利夫さんが言い残してくれたような、明るく朗らかな人間になれているだろうかと考えることで、絶えず自分を鼓舞してきました。彼の未練は、私に精神的な意味でも力を送ってくれたのです。(第四章 特攻)

 

 

 

翌日は、学徒兵の方たちに開聞岳の麓まで連れていってもらいました。開聞岳は利夫さんが最後の旋回をしていったところだと、笙子さんからは聞いていました。おみやげ物屋さんに入ると、夕方の開聞岳を撮った写真のパネルが一枚だけ置かれています。これが、利夫さんが最後に見た景色かと思うと、私は買わずにはいられませんでした。今でも、その開聞岳の写真を見るたびに、利夫さんがこの美しい山を眺めながら、どんな気持ちでいたのだろうかと思います。
その後も度々知覧を訪れる機会がありましたが、知覧の人たちの情の深さには、頭の下がる思いです。街中から離れた飛行場の跡や三角兵舎の跡を、私は利夫さんの面影を見ようとその時々に訪ね歩きました。バスの時間に合わず、バス停にひとりたたずんでいると、若い女性でも、農作業中の男性でも、通りがかった人はみな、「バスを待っているんですか。どこまででしょう? 送っていきますよ」と、声を掛けてくれました。その温かさに触れ、利夫さんも最期まで情の篤い人たちに囲まれていたのだと思い、安心したものです。(第四章 特攻)