イメージ 1 
 
あらすじ
存分に旅をして、存分に歌を詠み、存分に恋して、そして死んだ西行。どうしたら、西行のように生きられるのか――自由に生きることが難しい時代だからこそ自由に生きたい、そう思う現代人の多くが共鳴する生き方をした日本人が、遠く昔にいた。没後千年近くもの間も、日本人の心を魅了し続け、古くは松尾芭蕉、近現代では、若山牧水、種田山頭火、さらには小林秀雄、白洲正子……といった知識人・教養人までもが魅せられたのはなぜか。俗世間を捨てて生きた西行は、どう考えどう行動したのか。それをもっとも克明に記した伝記物語こそがこの著者不明の名作『西行物語』である。西行の生き方に憧れる一人である新進気鋭の若手訳者が現代人の心に問いかけるように、訳・解説を施した。

 

ひと言
西行という人を知ったのは、中学だか高校だったかに習った「三夕の歌」
(末尾が「秋の夕暮れ」の体言で終わる歌)

 

 

心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ(西行法師)

 

 

が最初ではなかったかと思う。それから40年近く、西行に触れることが多くなるにつれ、こういう風に生きていければいいなぁと思うようになった。図書館でこの本を見つけたとき、一期一会の素敵な出会いのように感じました。読み終えた後、勝持寺の西行桜が見たくなって探していると「Petit-macaron's diary」さんのブログの「お茶室の庭の杉戸」の記事に出会いました。すごく嬉しくなって「Petit-macaron's diary」さんの了解も得ていませんが、リンクを貼りましたので是非訪れてみてください。こちらにも一期一会の素敵な出会いがあります。

 

 

 

 

 

この点において、小林秀雄は、『西行』という著作の中でこう喝破しています。「西行はなぜ出家したか、幸ひその原因については大いに研究の余地があるらしく、西行研究家たちは多忙なのではあるが、僕には興味のないことだ。凡そ詩人を解するには、その努めて現さうとしたところを極めるがよろしく、努めて忘れようとし隠そうとしたところを詮索したとて、何が得られるものでもない。…彼が忘れようとしたところを彼と共に素直に忘れよう」
この主張は、慧眼です。考えてみれば、人生の決定的な選択を、明確な理由があって、筋道立てて検討して決定したと言う人は、なかなか居ないのではないでしょうか。

 

 

 

 

花見にと 群れつつ人の 来るのみぞ あたら桜の 咎にはありける

 

 

 

この和歌が、多くの人に愛唱された結果、室町時代に世阿弥による能の名作『西行桜』が生まれます。毎年訪れる多くの花見客に悩まされた西行が、この歌を詠んで、桜の木陰に憩っているうちに、眠り込んでしまいます。その夢に、老桜の精が現れます。桜の精は、「桜の咎」という西行の言葉を軽くとがめ、「桜はただ、精一杯美しく咲くだけで、そこに何の罪もあろうはずがない。それを煩わしく感じるのは、人間の心だ」と西行を諭し、最後に鮮やかに舞います。そこで夢から覚めるというお話です。

 

 

願はくは 花のもとにて 春死なむ その如月の 望月の頃

 

 

(できることなら、春、満開の桜の花の下で、死にたいものだ。それも、お釈迦様が入滅された二月十五日に)

 

 

そして、まさにこの歌の通り、建久九年(1198年)二月十五日、信仰への確信に満ちた態度で、浄土のあるという西方に向かい、往生について記した法華経の一節を唱え、

 

 

仏には 桜の花を 奉れ わが後の世を 人とぶらはば

 

 

(私の死後、後世を弔ってくれる人がいるのなら、仏前にはどうか、私がもっとも好きだった、桜の花を供えてほしい)

 

 

と詠んで、ずっと念仏を唱えておりました。すると空の彼方から、音楽が聞こえてきます。薫(た)きしめた香の匂いがただよい、紫の雲がはるかにたなびいて、阿弥陀三尊と諸菩薩が、西行法師を迎えに来たのです。周りの人たちが驚嘆する中で、法師は見事、念願の極楽往生を遂げたのでした。

 

 

西行は、今風に言えば「がんばらない」生き方を、選んだ人でした。武門の家に生まれ、功名手柄を立てて、立身出世を目指すのが、がんばる生き方です。出家しても、僧侶の世界で少しでも高いくらいに使うたしたり宮廷に入り込んで政治の世界に介入したりしようとするのもがんばる生き方です西行はそういう競争にせよ向け自由な生き方を選びます旅をし歌をよみ小芋しましたしんどいときにはしんどいと平気で言ってしまいますただその軸になったのが仏法と若手そのために自由が自堕落にならずに済んだのです。いやむしろ、そこには、真に悟った人間のみが持つ、ゆとりと闊達さがあります。自分をしっかりと持っているからこそ、虚勢を張ったり無理をしたりせずに、おおらかで自分に正直でいられるのです。

 

 

なお西行の没年は、ここでは建久九年(1198年)となっていますが、文治六年(1190年)2月15日が定説です。西行の臨終の地についても、本章では、京都の雙林寺になっていますが、一般には『俊成家集』の記述から、河内(現在の大阪府)の弘川寺とされています。ただ弘川寺で病に倒れた後、少し持ち直し、年末に上京してから翌年二月十五日に亡くなったのか、年末に上京しようとしているうちに亡くなったのか、その記述にはちょっと曖昧な表現もあるのです。前者であればその雙林寺説も全くあり得ないわけではありません。