空閨残夢録 -2ページ目

空閨残夢録

上層より下層へ 
中心より辺境へ 
表面より深淵ヘ 
デカダンよりデラシネの戯言






 『決死圏SOS宇宙船』(原題: DOPPELGANGER、米題: JOURNEY TO THE FAR SIDE OF THE SUN)は、1969年にイギリスでジェリー・アンダーソンとシルビア・アンダーソンが作った特撮SF映画であるが、日本では劇場公開されずに、4年前くらいにやっとこさっとこDVD化された幻の名作である。



 日本での公開は劇場では上映されなかった作品なのだが、1972年にNET(現・テレビ朝日)「日曜洋画劇場」で放映されている。さらに、その4年後の76年にもゴールデンタイムで再放映されている。その後は深夜放送またはローカル放送で編集されて放映されていたが、近年、念願のDVD化と近年に相成る。



 制作と脚本のジェリー・アンダーソンは、かつて70年代の少年たちを魅了した『サンダーバード』『キャプテン・スカーレット』『ジョー90』などのスーパーマリオネーション(特撮操り人形)で有名だ。さらにTVシリーズ『謎の円盤UFO』『スペース1999』の実写作品にも根強いファンが今でも多い作品である。



 本作の最大の見どころは、何といってもセンスのよいメカデザインと、ミニュチュア特撮である。特に未来カーは秀逸な美しさで『謎の円盤UFO』にも流用されている。宇宙船や小型探索機のデザインやメカ描写も心奪われる。



 監督は『007/カジノ・ロワイヤル』のロバート・パリッシュ、主演は米国のテレビで主に活躍していた『インベーダー』(67~68年)で人気となった男優の、ロス大佐役のロイ・シネス。



 あらすじは、欧州を中心とした宇宙開発組織のユーロセク(The European Space Eeploration Centre = EUROSEC)により、太陽系に新たな惑星が発見されることで、ユーロセクとNASAから惑星探索の資金を調達する会議が始まるが、資金は連盟国も米国も支援しない旨を述べるが、敵国のスパイにより惑星探索の計画を知られてしまう。



 その惑星は太陽系内ではあるが、地球の周回軌道上に、太陽を挟んで点対象位置の位置に惑星が存在する事が判明した。調査のためロス大佐は宇宙ロケットで発進したが、目的の惑星に着陸する寸前に墜落して負傷、意識を失う。程なく意識を取り戻した時、自分は何故か地球にいて、上司や妻に何故地球に帰還したのかを厳しく問われる始末。しかしどこかが発進前と違う・・・・・・、ロス大佐は鏡に映る文字や時計を見た途端、ある異変に気が付く・・・・・・。



 それは、地球とは真逆の世界で、文字も時計も自分の内臓まで逆さまで、鏡に映さないとロス大佐には認識できないパラレルワールドだったのである。



 パラレルワールドとは、ある世界(時空)から分岐し、それに並行して存在する別の世界(時空)を指す。つまり「四次元世界」「異世界」「異界」「魔界」などとは違う「別世界」である。



 つまり、我々の宇宙と同一の次元を持つ並行世界、あるいは、鏡の中の世界みたいな反映であり鏡像の世界であり、並行宇宙や並行時空といった観念で捉えることもできようが、精神の分裂した世界もある意味その範疇といえるかも知れない。



 いずれにしてもSF映画の設定としては今ではポピュラーな次元なり世界観を構築した物語なのだが、ボクはこの映画が好きで、スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』は個人的には何度観てもあまりにも退屈するけれども、タルコフスキーの『惑星ソラリス』の次ぐらいにはSF映画の傑作と感じている作品なのである。











 



 スティーヴン・キングの日本では新潮社から刊行された『恐怖の四季』と翻訳されている小説の原題は『Different Seasons』であり、この中篇4作品のうち3作が映画化されている。



 キングの小説には、メイン州のキャッスルロックという架空の街が度々作品に登場する。これは、キングが生まれ育ったメイン州ダラムやスボンが原型となる架空の街であり、それがキャッスルロックと思わしい。


 キングはH・P・ラグクラフトの影響を強く受けていて、ラグクラフトが描いた作品群の舞台として、アーカム、ダニッチ、インスマスといった架空の街の創造が作中に影響されているようだ。ついでだが、高見広治の小説『バトル・ロワイヤル』に登場する「城岩町」の名前の由来が、スーティヴン・キングのキャッスルロックなのであるらしい。



 さて、このキャッスルロックという街を舞台に描かれた作品のひとつに『スタンド・バイ・ミー』がある。1986年に映画化もされているが、映画ではメイン州のキャッスルロックは、オレゴン州の人口1281人の小さな町とされていたが、小説の原作と映画はほぼ同じような内容で作品化されている。



 この『スタンド・バイ・ミー』の原題は「The Body」であるが、直訳すれば「死体」を意味する。原作の『恐怖の四季』と翻訳されている原題は『Different Seasons』で、この中篇4作を収めた小説集のタイトルなのだが、この4作は、春篇が「ショーシャンクの空に」という映画の原作である『刑務所のリタヘイワース』である。



 夏篇が、映画『ゴールデンボーイ』の原作になった「Apt Pupil」であり、これを直訳すれば「適切な生徒」となるが、主人公の少年トッドは成績がよく、周辺からの評判がよいわけだが、ハイスクールの授業でナチスのホロコーストを調べているうちに、近所に住む老人が潜伏中のナチ戦犯であることを知った彼は老人を執拗につけ回し、事実を明るみにしない代わりに戦時中に行った残虐行為を話すよう強要する。



 このトッド少年は老人の話を聞くうちに邪悪さを目覚めさせてゆき、始めは渋っていた老人もまたトッドの熱意に影響されるかのように生気を取り戻してゆく。原作では13歳の少年であるが、映画では16歳の少年で、結末部分が原作と映画では大きく違う脚色になっている。



 「ゴールデンボーイ」は1998年の映画でブライアン・シンガー監督の作品で、「スタンド・バイ・ミー」は1986年公開のロブ・ライナー監督による作品。同じく「Different Seasons」(邦題『恐怖の四季』)に収録されている春篇が「刑務所のリタ・ヘイワース」が原作である『ショーシャンクの空に』はフランク・ダラボンが、初監督と脚本を担当し、映画化された。冤罪によって投獄された銀行員が、腐敗した刑務所で、希望を持ち続けて生き抜く姿を描いた作品である。



 これら3つの作品は、「刑務所のリタ・ヘイワーズ」に登場するアンディ・デュフレーンは冤罪で投獄される前の銀行員時代に、「ゴールデンボーイ」の元ナチスのクルト・ドゥサンダーに投資コンサルティングを務めていたり、「スタンド・バイ・ミー」のクリスを刺殺した男がショーシャンク州刑務所を出所した男だったりと微妙に登場人物たちは物語で関連している。



 映画の『スタンド・バイ・ミー』では、主人公のゴディーがクリスの死を新聞で知るところから始まるが、小説ではバーンが1966年にルイストンのアパートで焼死して、1971年にはテディが交通事故で死に、同年にクリスが喧嘩の仲裁に入り刺殺されたことが最後に描かれている。



 映画では、キングの自伝的とも思われる作家ゴードン・ラチャンス(ゴディー)が、ある日、「弁護士クリストファー・チェンパーズ刺殺される」という新聞記事に目をとめ、遠い過去の日を思い起こす。クリスは、ゴードンの子供の頃の親友だった。



 時代は、彼が12歳だったころにさかのぼる。ゴディ(ゴードンの愛称)は、キャッスルロックの田舎町で育つが、ゴディ、クリス、テディ、バーンの4人は、性格も個性も異なっていたがウマが合い、いつも一緒に遊んでいた。木の上に組み立てた秘密の小屋の中に集まっては、タバコを喫ったり、カードをしたり、少年期特有の連帯感で堅く結ばれていた。



 そんな夏のある日、ここ数日、ブルーベリー摘みに出かけた少年が、行方不明となり、30キロ先の森の奥で列車にはねられ、その死体が野ざらしになっている場所が分かったという事を、兄から盗み聞きしたバーンは、仲の良いゴディ、クリス、テディたちに話す。死体を見つければ英雄になれると考えた4人は、線路づたいを歩いて死体探しの旅に出かける・・・・・・。



 メイン州キャッスルロックという小さな町をゴディとクリスは大人になって出て行くが、生まれ故郷の酸いも甘いも通り越した苦い思い出だけがいっぱいの町は、逃げ出したくも逃れられない宿命的な郷愁となって存在しつづける。



 生まれ育った場所とは、人生に大きく反映するものであり、逃れられない宿命的な場所でもある。せめてそこを架空の在って無かった場所に、斯くあって欲しかった場所にと・・・・・・、人は時折、想うこともあり、理想的な場所を想像したりもすることもあるのかも知れない。



 『ショーシャンクの空に』という米国映画は、この作品の公開時は1994年で・・・・・・、『フォレスト・ガンプ』とか、『パルプ・フィクション』などの米国映画が公開された年でもある。『ショーシャンクの空に』は監督がフランク・ダラボン、主演がティム・ロビンスにモーガン・フリーマンである。



 この映画は第67回アカデミー賞では主要7部門にノミネートされたものの無冠で終わり、興行的にも当時はヒットしたような映画ではなくて、その後、DVD化されてから、徐々に広く世界に感銘を与え続けている作品である。



 原作はスティーブン・キングであるが、『ショーシャンクの空に』はそれまで多く映画化されたスティーブン・キングのサイコ・ホラーものとは異質なもので、とりあえずこの映画のあらすじから紹介しておこう。



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 1947年、銀行員として成功していたアンディ・デュフレーンは、妻とその愛人を射殺したという身に覚えのない罪により、終身刑2回という判決を受け、ショーシャンク刑務所に投獄される。刑務所が持つ異質な雰囲気に初めは戸惑い孤立するアンディであったが、決して希望は捨てず、明日の自由を信じ続ける。



 刑務所には、「調達屋」と、呼ばれ服役囚たちから慕われていた囚人の“レッド”こと、エリス・ボイド・レディングと出会い、鉱石を砕くロックハンマーや、リタ・ヘイワースやラクエル・ウェルチといったスター達のポスターなど様々な物を調達してもらううちに、少しずつ2人の交流が深まっていく。



 アンディは元銀行員の経歴を如何なく発揮し、刑務所内の環境改善に取り組む事でレッドや他囚人からの信頼を高めていく。さらには刑務官たちからも一目置かれるようになり、彼らの税務処理や所長の所得隠しまでも請け負うことになるが、アンディにはある考えがあった。



 その後、年老いたレッドは数十年の服役ののち仮釈放されたものの、社会に順応できずにいた。不安と孤独から希望も見出せず、仮釈放後間もなく自殺してしまった老人・ブルックスとまったく同じような状況に追い詰められるが、ふとアンディとの約束を思い出す。





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 さて、この映画のスティーブン・キングの原作は『Rita Hayworth and Shawshank Redemption』で、直訳すると「リタ・ヘイワーズとショーシャンク刑務所での償却」で、日本では新潮文庫で『恐怖の四季 春夏編』で「ゴールデン・ボーイ」のタイトルで刊行されている。



 因みに『恐怖の四季 秋冬編』は「スタンド・バイ・ミー」というタイトルで刊行され、この『恐怖の四季』の春編が「刑務所のリタ・ヘイワーズ」で、夏編が「ゴールデン・ボーイ」、秋編が「スタンド・バイ・ミー」、冬編が「マンハッタンの奇譚クラブ」なのである。この『恐怖の四季 春夏秋冬編』の四篇は冬編の「マンハッタンの奇譚クラブ」以外は映画化されている。



 90年代からあまり熱心に映画館には通わず、映画のDVDも新作よりは旧作ばかり借りて観ることが多くなった。それに小説を読んで・・・、その原作が映画化された場合に意識的にその映画は観ないようにもしてきた。



 それは、原作より面白く映画化された作品が近年ではボクの体験には皆無であったからだ、しかし、今回の「ショーシャンクの空に」という映画は映画を観てから、原作も読みたくなったのだが、原作を読んでも楽しめるし、映画も面白いことは太鼓版を押させてもらう。



 小説の「刑務所のリタ・ヘイワース」はアンディー・デュフレーンという人物を、通称レッドことエリス・ボイド・レディングの回想を筆にしたためる一人称で描かれている。この小説手法は映画の「ショーシャンクの空に」ではナレーションにより演出されているのが、この効果は原作と映画の作品の壁を感じさせない脚本の手法であろう。



 ある意味でこの映画は〔脱獄もの〕のジャンルに数えられるものかも知れないが、『パピヨン』や『アラカトラズからの脱出』とも違い、スティーブン・キングが原作の作品に『恐怖の四季』の春編にこれを選んだように、〔希望〕がテーマであり、希望の春をイメージさせる内容が充溢した作品ともいえよう。



 さてさて、本邦では『恐怖の四季』と翻訳されている原題は『Different Seasons』であり、直訳すれば「それぞれの四季」となろう。これは1982年に発表された作品集でホラー小説とは無縁の中長編作品四篇なのだが、日本では映画の『キャリー』にはじまり『シャイニイング』などの映画で有名なスティーブン・キングなので、出版社側の方針上として、斯様なる『恐怖の四季』なんて内容にそぐわないタイトルとなったようだ。



 『ショーシャンクの空に』・・・という映画タイトルも、日本では何のイメージにも喚起してこないネガティブな印象だったと感じるのだが、しかし原作も映画もこの作品は秀逸な内容と感動を与えてくれることには間違いないであろう。




 






 新約聖書のマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる四福音書に、聖霊により処女マリアの胎にイエス・キリストが身ごもったと描かれているのは、ルカ伝と後期のマタイ伝に著されているのだが、つまり、四福音書にイエスが処女降誕したことが示されているのは「ルカによる福音書」と後期に編纂された「マタイによる福音書」の二つの福音書だけなのである。



 歴史的に最古の文献(福音書)が「マルコ福音書」で紀元60年代後半に成立されたらしい。マタイ、マルコ、ルカの福音書の三つは共通部分が多いことから共観福音書と学術的によばれる資料。



 ある聖書学者の研究によれば「ルカ福音書」の1151節のうち、389節が「マタイ福音書」・「マルコ福音書」と共通であり、176節は「マタイ福音書」とのみ共通、41節が「マルコ福音書」のみと共通、544節が「ルカ福音書」のみにみられるオリジナルということだが、これらの三つの福音書が同じ言語で書かれていたであろうことを思わせる多くの証左が多々ある。



 しかし、「ルカ福音書」は文体においてもマルコやマタイよりも洗練されており、ヘブライ語に由来する表現などがほとんど含まれていない。ラテン語がわずかに含まれているだけであるようだ。


 「マタイによる福音書」の冒頭にはイスラエル民族の父アブラハムからイエスの父であるヨセフに至る系図というか血統書がまずある。それを関連づけて焦点を処女降誕よりも、イエスの命名、その名前に託されたイエスの出現の意味にしている訳なのだが・・・・・・、「『見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう』。これは、《神われらと共にいます》という意味である」(第1章23節)。



 その点で、イエスの処女降誕を積極的に記述するのは「ルカによる福音書」のみである。即ち、ダビデ王の直系によるメシアの誕生を伝える伝承に更に付加して、ルカは処女降誕の色彩を強調する意識が強く働いている構文となっている。



 このキリスト生誕の記事の背景には、紀元前八世紀の預言者イザヤによるメシア生誕の預言が前提となっていて、「イザヤ書」の言葉にある《おとめ(アルマー)》という言葉が、ギリシア語に訳されたときの誤訳が大きいともいえる。それは「若い女」というほどの意味が、ギリシア語の処女を指すパルテノスがあてられた。




 「『見よ、おとめ(アルマー)がみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる』」(「イザヤ書」第7章14節)。



 誤訳も処女降誕に影響しているようなのだが、ルカは神の霊と処女から生まれたキリストの生誕に強く奇想を感じたとも思わしい。英雄など超人的な存在を、神と人の交渉により生じた存在に魅了されたともいえる。ルカはヘレニズムの世界の住人で、ヘレニストの作家でもあったから、神聖受胎という物語に強く好奇に関心をよせたと思える節が多々ある。イエスが神の子であると信じいている者には、妄想としての処女懐胎と、その神聖なる出産は、あまりにも神話的発想であったのであろうと思わしい。








 イエスの「処女降誕」を主張しているのは、マタイとルカの福音書だけと前述したが、マルコ伝とヨハネ伝では「処女降誕」の伝説は画かれてはいない。「処女懐胎」や「処女降誕」の伝説について詳細をを掘り下げるつもりはないけれども、イエスの系図をとりあえず辿り、父ヨセフや母マリアを確認して、イエスの四人の弟と二人の妹に関しても探っていきたいと思う。





 マタイによる福音書の系図では、40人の男性の名前の記述と、4人の女性の名が挙げられているが、その4人の女性の名前と、その系図は以下のとおり。




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  ユダはタマルによってペレツとゼラを (3節)

  サルモンはラハブによってボアズを (5節)

  ボアズはルツによってオベドを (5節)

  ダビデはウリアの妻によってソロモンをもうけ (7節)



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タマル、ラハブ、ルツ、ウリアの妻であるバト・シェバの4人である。





 タマルは夫に先立たれ、子を望むあまり、娼婦を装い義理の父であるユダと交わって身ごもる。ラハブは売春婦でボアズを酔いつぶして床に忍び結婚にこぎつけ、ルツは貞操観念がないとされていたモアブ人、ウリアの妻は名前が書かれていないが、人妻であり不義で身ごもった罪深きバト・シェバである。


 マタイ伝には正統な血筋のダビデ王のみならず、その罪深き妻を記述し、不貞の異邦人ルツを記せ、娼婦のラハブを著し、スキャンダラスなタマルの名前を載せている。・・・・・・なんとも見過ごせないことではないだろうか。


 さて、タマルのことである。ヤコブの4番目の男子がユダである。ユダには3人の男子がおり、長男のエルはタマルと結婚したが子をもうけることなく死んでしまう。



 当時のイスラエル人は一夫多妻制であり、ヤコブは4人の妻がいた。その4人から12人部族が生まれる。この婚姻形態のほかに再婚の様式としてレヴィレート婚があり、子供がない寡婦となったタマルにはレヴィレート婚により、子供を生まなければならない。



 レヴィレート婚の慣習にしたがえば、ユダの次男オナンにより子種を受けて、タマルはその生まれてくる子に家督を継がせなければならぬのだ。



 しかし、このタマルに子種を授けるオナンは、たとえ子供が出来たとしても自分の子供とならないレヴィレート婚に不満を抱いて、タマルと性交には及んだものの、タマルの中で射精することなく、創世記では地にこぼしたと記述されている。



 このことにより、オナニーという言葉が生まれるのだが、よく考えてみるにオナニーとは今日では自慰行為を言うのだけれど、されど、オナンはタマルと性交しているので「オナニー」とは本来は膣外射精と言えはしないだろうか。・・・・・・それはさておき、このオナンの行為は神を怒らせてしまい神様にオナンは殺される(創世記38章9節~11節)。



 そこでタマルは2度も寡婦となってしまい、三男のシラが成人したのちにレヴィレート婚を約束されて、その時を待っていたのだが、生憎にも義父のユダはすっかりそれを忘れてしまったので、タマルは子種を得るために娼婦に態々化けてユダと交わることになる。





 そして、タマルと、ユダの系図からダビデやソロモン、そしてイエス・キリストへとつながる系図となる。




 ルカ伝の福音書にはマタイと違う系図を示していて、マタイ伝の系図ではダビデ王とその子ソロモン王の系譜を示してイエス・キリストの系図としているのだが、イエスの父は大工のヨセフである。



 ルカ伝の系図では、イエスの父は一応はヨセフなのだが、曖昧とした表現となっていて、イエスは「人々の考えによれば、ヨセフの子であった」(3章23節)とあり、イエスの祖父エリを辿ればダビデ王の子ナタンへと至り、ナタンはソロモン王の弟である。このナタンの系図がルカ伝のつたえるところのイエス・キリストの系譜なのだ。



 ここでレヴィレート婚のことを思い出して欲しい・・・・・・。



 新約聖書ではイエスの父ヨセフはあまりにも影がうすい存在である。新約聖書ではイエス・キリストが生まれる前後に登場するだけである。そこでイエスの父ヨセフとは誰であろうかと仮説をたててみるとしよう。



 それは、ヨセフとはユダの長男エルの立場と仮定して・・・・・・つまり、マリアはヨセフと結婚するが、ヨセフは子供をマリアにもうけることなく亡くって、それでヨセフの弟と再婚し、イエスをはじめ、その弟のヤコブ、ヨセ、シモン、ユダ、二人の姉妹をマリアはレヴィレート婚により生んだという仮説もたてられる。



 しかし、マタイ伝ではヨセフの父はヤコブであり、ルカ伝ではヨセフの父はエリとあり、祖父が違うので矛盾してくる問題もある。これについての仮説としては、ルカ伝の系図はイエスの母方であるマリアの系譜とすると矛盾がなくなる。


 ルカ伝によるとイエスは「人々の考えによれば、ヨセフの子であった」と書き出しで始まる系図は、母方の系図と考えても不思議ではないのである。



 いずれにせよ、マタイ伝とルカ伝の系図はイエスがダビデの末裔であることを伝えるもので、マリアの暮らしたナザレという村の名は、「枝」や「新芽」を意味するヘブライ語に由来する。


 

 イエスが生きていた遥か昔に書かれた『死海写本』には、未来のメシア、つまり、イスラエルの王は「ダビデの枝」であるという表現が頻繁にある。『イザヤ書』(11章)にはダビデの血筋であるメシアを「若枝」と表現されている。



 ナザレのイエスとはダビデ王の正統な若枝であるのは間違いないであろう。しかし、預言者エレミアはダビデの血を引く最後の王エホヤキンについて呪われた託宣を下している。






 「この人を(中略)栄えることのない男として記録せよ。彼の子孫からは、だれひとり栄えてダビデの王座にすわり、ユダを治める者が出ないからである」






 イエスの父、ヨセフは、この不幸な託宣を受けたエホヤキンの直系の子孫であるのだ・・・・・・。(了)












 ジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』が本邦で公開されたのは1978年だったと思うが、当時、ボクは高校2年生の時に封切りで札幌の日劇で、学校の授業をサボって初日に三回繰り返し観たのを今でも覚えている。そしてエピソード1~6まで全てを封切りで映画館で見た。




 この映画を見ていない人はあまりいないであろうが、物語のおさらいは一様しておこう。映画の製作と公開による順ではなくて、ルーカスの原作によるエピソード1から時系列的なあらすじをたどろう。




 エピソード1(ファントム・メナス)・そしてエピソード2(クローンの攻撃)・つづくエピソード3(シスの復讐)は、いわゆるワイマール共和国がヒトラーによって崩壊されていくような物語ともいえる。民主的な共和国が停滞して、やがて腐敗をみせることにより、決断の遅れに乗じて悪者につけこまれていく背景がある。つまり悪者はパルパティーンで共和国側の味方を装いながらも、確実に民主的な最高議長の席を獲得するのであった。




 悪者パルパティーンは、この間に、更なら悪者たちを裏で操って銀河の辺境で次々に反乱と紛争と暴動を起こし、これらの操られた悪者どもをも鎮圧する名目で強引に軍備拡大をしていくのであった。やがて非常時大権を掌握して戦いに勝ち皇帝として宇宙に君臨していく。




 最初に映画公開された三部作である第四話(のちに「新たなる希望」)・第五話(「帝国の逆襲」)・第六話(「ジュダイの復讐」のちに「ジュダイの帰還」)は、辺境に育ったルーク・スカイ・ウォーカーが帝国の支配に反抗して、反乱軍に身を投じ、最初の大打撃を帝国に与え、やがて帝国側の大反撃に見舞い、反乱軍は劣勢となりつつも、次第に反撃を繰り返し攻勢に転じて、皇帝を滅ぼし、帝国を倒して、めでたしめでたしとなるのであった。



 自由と民主主義を掲げる「共和国派」と、独裁と圧政を志向する「帝国派」」の覇権争いを繰り広げる物語でもあるのだが、共和国派の中核をなすのは、「ジュダイの騎士」と呼ばれる貴族的で清貧な戦士たちであり、対する帝国派は「シスの暗黒卿」なる人々で構成されている。



 この図式はジュダイが伝統的な価値観を守る良きアメリカ人に例えることもできよう、そして、シスが国家の変質を企む悪の勢力にあたるともいえる。但し、後者のシスとも米国社会の産物であるのだから、両者の区別は必ずしも絶対的なものではない。これを反映してだろうか、ジュダイもシスもともに「フォース(理力)」を力の源泉としているのであった。



 フォースは宇宙に遍満する「気」の如きエネルギーで、これに通じ、これを超能力として身にした者は超人的なエネルギーを自在とする。しかし、恐怖、怒り、憎悪、権力欲などが強いと、「暗黒面(ダーク・サイト)」という負の領域に引き込まれ、破壊的な形でしかフォースを活用できない。



 つまり、さてさて、ジュダイとシスの相違とは、「フォース」の善用に努めるか、暗黒面に陥るのを承知で悪用するかの違いであり、両者はフォースの素質に優れていながら、常に善と悪の堺で暗黒面の誘惑に苦悩し修業し諸刃の剣を振るう実存者でもあるのだ。




 架空の銀河系を舞台にした壮大なファンタジーではあるのだが、ルーカスは「普遍的な物語」を求めて、新訳聖書、アーサー王伝説、ロビン・フッド伝承、アリオストの英雄詩などの古典、エドガー・ライス・バローズ、E・E・スミス、フランク・ハーバートなどのSF作品、グリム童話やC・S・ルイス、J・R・R・トールキンなどのメルヘンやファンタジー、『金枝篇』や各地の神話などを研究したようである。




 なかでも大きな影響を与えたのが、神話学者ジョセフ・キャンベルが神話の構造を分析した書である『千の顔をもつ英雄』だったといわれている。




 この書は、人間の根源に宿る物語として、「光と闇」または「眠りと覚醒」の絶えざる循環が母体となり、「現世という此岸と異界という彼岸なり浄土」の境界が、「個体(失われた部分、欠如したミクロコスモス)」と「宇宙(回復した全体、満たされたマクロコスモス)」との対立と融和と補完をめぐる母型などが、きわめて多様に偏在することが、物語として神話とSF映画の通底器となり映画化となった次第である。




 いずれにしてもルーカスはジョセフ・キャンベルの大学の講義で、神話の原理と英雄伝説の基本構造をスターウォーズに適用し結実させ完結させたわけであり、このことは全くの事実なのである。

 




 イソップ説話集あるいは寓話集に、古代ギリシャ哲学者のディオゲネスの話しがあるのだが、この説話は旅をするディオゲネスが河を渡るお話しで、あまり面白いエピソードでもないのである。




 それよりもディオゲネスという哲学者は、イソップの生きた時代よりも、のちの200年後に登場する人物なのである。イソップは『アリとキリギリス』、『ウサギとカメ』、『北風と太陽』、『金の斧』、『狼少年?』などなど・・・・・・「狼が出たぞ~」の嘘つき少年の話なんかで有名で、誰でも知っているハズである。




 イソップは紀元前600年前後に実在したと伝わるが、古代ギリシヤの物語の語り部でアイソーポスと呼ばれる、英語で“Aesop”と表記して、イソップとは本邦では発音されるのだが、彼の残した寓話集は、彼が存在する以前から伝えられていた寓話であり、また彼の死後にも彼の名前で伝えられた説話集みたいだ。であるからして、アイソーポスの死後、200年後に生れるディオゲネスのエピソードも存在したりもするのである。




 さて、アイソーポスの履歴は、その当時は奴隷だったようだ。そして、ディオゲネスも実際に奴隷だったとも伝わる人物。奇妙な二人なのだが、話題はディオゲネスに絞らせていただこう。何故なら、ディオゲネスはアイソーポスの寓話集に載せられるほど魅力にみちた男だからである。




 ディオゲネスは紀元前412年?~323年?頃のギリシアのヘレニズム期の哲学者である。ソクラテス、その弟子プラトン、さらにその弟子のアリストテレスと同時代人でもある。


 ソクラテスの弟子にアンティステネスという人物がいて、犬儒学派と呼ばれる所謂キュニコス学派を興すのだが、ディオゲネスはこのアンティステネスの弟子となり、「犬のような生活」を実践した実存哲学者でもあるのだ。




 行動の哲学者ディオゲネスは、その奇行のために、「狂ったソクラテス」とか、「犬のディオゲネス」と世間では知られるようになる。ディオゲネスは布着一枚を身につけて、棲みかは樽で寝起きして、これを転がしてポリスの市街を徘徊していたと伝わる。




 或る日、街中で少女が水を両手を用いて飲んでいる姿を目撃して、「自分にはまだ余計なものがあった」・・・と、自分の食器やコップなども捨てたエピソードもあるのだが、つまり犬の如く所有しない生活を実践していたようですネ。




 ディオゲネスは禁欲主義者という訳でもありませんで、生活は犬のようでも、当時の有名な高級娼婦のライスが、度々、ディオゲネスの樽に訪れていたようですヨ。



 ソクラテスの高弟の一人にアリスティボスがおりましたが、彼はライスのお得意さんの客であり、世間ではアリスティボスがライスに貢いだ金を、ライスがディオゲネスに貢いでいると揶揄されていたと伝わるのでした。



 ディオゲネスのエピソードは沢山ありますが、有名なアレキサンダー大王とのお話を載せておきましょうネ。しかし、このお話は後年に創作されたようでして、しかしながら面白いエピソードなので以下に・・・・・・。





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 アレキサンダー大王はペルシャ遠征の帰途に、アテネのポリスに立ち寄り、家庭教師のアリストテレスを呼んで、アテネの哲学者や賢人を招集し、大王に拝謁するように命じる。


 しかし、この参集に呼ばれていたディオゲネスだけが、この集会に訪れていなかったのだ。そこで大王は業を煮やして、自らディオゲネスの棲みかである樽を探しだして、そこへ訪れたのである。

 大王と衛兵一行は馬上から、樽の前で日向ぼっこをしながら昼寝をしているディオゲネスを発見する。辺りは物々しい気配で人々は騒然とするが、ディオゲネスは無造作にただ眠っていた。


 大王は無視されていると感じて、馬から降りてディオゲネスに歩み寄って声をかけた。


 「余は大王のアレキサンダーである」


 デイオゲネスは片目を開けて声の主を見て、そのまま寝そべったままで応えた。

 「余は犬のディオゲネスだよ」


 大王は怒るどころか少々呆れ気味で尋ねた。


 「お前は大王である吾を畏れないのか?」


 ディオゲネスは片目だけ開いて不快に応えた。


 「お主は善人か?、それとも悪人だろうか?。」


 王は答える。



 「もちろん善人に決まっている」


 それに答えて・・・


 「それなら畏れることなんか無いだろうヨ。・・・・・・善人が犬に危害など加えないからな」


 大王は一本とられたと、舌打ちをしてから、気を取り直して言葉を続けた。


 「さすがに噂にたがわぬ男であるな、お主に望むものならなんでも褒美として与えようぞ!」


 そこでディオゲネスは寝返りをうって、放屁をしてから、少し間をおいて、大王に尻を向けながら、斯様に告げた。


 「それでは、・・・・・・トットと、其処を退いてくれないか、お前が立っているせいで、陽が当たらないんだヨ!」




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 このエピソードは、アイソーポスの残した寓話より、かなり面白い伝説である。




 さてさて、ディオゲネスはねぐらの樽を転がしながら市中を移動していた伝わるが、学説ではディオゲネスが生きていた時代には樫樽を製造する技術が無かったとされる見解が多く、また絵画作品にも陶器を宿かりにしている姿が描かれていて、木製の樽を住まいにするディオゲネスは描写されていない。




 樽の作られた背景には森の文化に結びつき、ヨーロッパにキリスト教文明が浸透する時代のことと思われる。されどギリシャ・ローマ時代に樽が無かったとも言えない現実もあり、ディオゲネスが存在した以前から樽の製法が存在したとされる記録もあるのだが、この民俗学的な文献はあまりにも少なくて何とも言えないが、樽を転がしてねぐらにする哲学者に想像を膨らませてしまう気持ちは多々あり、物語としては面白いエピソードであろう。




 人間は定住型の農業を主体とした文化と、また遊牧民的な移動的な文化を有した人種があり、この両者から生まれる思想は異なりながらもお互いに交流して、そこから物語はロマンとして紡ぎだされる。ディオゲネスの伝説もその派生から語り告げられてきたと思わしい。




 現代の日本では定住しない者はホームレスの浮浪者でしかなく、また、かつてはジプシーと呼ばれロマのような移動型民族も存在しない。また夢想として、ロマンとして、定住しない生活を求めて送る人々もいない時代である。




  古代ギリシャのプラトンがアカデミーを興していたのに対して、ディオゲネスは浮浪者として生きていた。そんな哲学者に知的な学問よりは、実存的な魅力を人々に感じさせた存在感がディオゲネスの魅力なのであろうと思われる。(了)