ジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』が本邦で公開されたのは1978年だったと思うが、当時、ボクは高校2年生の時に封切りで札幌の日劇で、学校の授業をサボって初日に三回繰り返し観たのを今でも覚えている。そしてエピソード1~6まで全てを封切りで映画館で見た。
この映画を見ていない人はあまりいないであろうが、物語のおさらいは一様しておこう。映画の製作と公開による順ではなくて、ルーカスの原作によるエピソード1から時系列的なあらすじをたどろう。
エピソード1(ファントム・メナス)・そしてエピソード2(クローンの攻撃)・つづくエピソード3(シスの復讐)は、いわゆるワイマール共和国がヒトラーによって崩壊されていくような物語ともいえる。民主的な共和国が停滞して、やがて腐敗をみせることにより、決断の遅れに乗じて悪者につけこまれていく背景がある。つまり悪者はパルパティーンで共和国側の味方を装いながらも、確実に民主的な最高議長の席を獲得するのであった。
悪者パルパティーンは、この間に、更なら悪者たちを裏で操って銀河の辺境で次々に反乱と紛争と暴動を起こし、これらの操られた悪者どもをも鎮圧する名目で強引に軍備拡大をしていくのであった。やがて非常時大権を掌握して戦いに勝ち皇帝として宇宙に君臨していく。
最初に映画公開された三部作である第四話(のちに「新たなる希望」)・第五話(「帝国の逆襲」)・第六話(「ジュダイの復讐」のちに「ジュダイの帰還」)は、辺境に育ったルーク・スカイ・ウォーカーが帝国の支配に反抗して、反乱軍に身を投じ、最初の大打撃を帝国に与え、やがて帝国側の大反撃に見舞い、反乱軍は劣勢となりつつも、次第に反撃を繰り返し攻勢に転じて、皇帝を滅ぼし、帝国を倒して、めでたしめでたしとなるのであった。
自由と民主主義を掲げる「共和国派」と、独裁と圧政を志向する「帝国派」」の覇権争いを繰り広げる物語でもあるのだが、共和国派の中核をなすのは、「ジュダイの騎士」と呼ばれる貴族的で清貧な戦士たちであり、対する帝国派は「シスの暗黒卿」なる人々で構成されている。
この図式はジュダイが伝統的な価値観を守る良きアメリカ人に例えることもできよう、そして、シスが国家の変質を企む悪の勢力にあたるともいえる。但し、後者のシスとも米国社会の産物であるのだから、両者の区別は必ずしも絶対的なものではない。これを反映してだろうか、ジュダイもシスもともに「フォース(理力)」を力の源泉としているのであった。
フォースは宇宙に遍満する「気」の如きエネルギーで、これに通じ、これを超能力として身にした者は超人的なエネルギーを自在とする。しかし、恐怖、怒り、憎悪、権力欲などが強いと、「暗黒面(ダーク・サイト)」という負の領域に引き込まれ、破壊的な形でしかフォースを活用できない。
つまり、さてさて、ジュダイとシスの相違とは、「フォース」の善用に努めるか、暗黒面に陥るのを承知で悪用するかの違いであり、両者はフォースの素質に優れていながら、常に善と悪の堺で暗黒面の誘惑に苦悩し修業し諸刃の剣を振るう実存者でもあるのだ。
架空の銀河系を舞台にした壮大なファンタジーではあるのだが、ルーカスは「普遍的な物語」を求めて、新訳聖書、アーサー王伝説、ロビン・フッド伝承、アリオストの英雄詩などの古典、エドガー・ライス・バローズ、E・E・スミス、フランク・ハーバートなどのSF作品、グリム童話やC・S・ルイス、J・R・R・トールキンなどのメルヘンやファンタジー、『金枝篇』や各地の神話などを研究したようである。
なかでも大きな影響を与えたのが、神話学者ジョセフ・キャンベルが神話の構造を分析した書である『千の顔をもつ英雄』だったといわれている。
この書は、人間の根源に宿る物語として、「光と闇」または「眠りと覚醒」の絶えざる循環が母体となり、「現世という此岸と異界という彼岸なり浄土」の境界が、「個体(失われた部分、欠如したミクロコスモス)」と「宇宙(回復した全体、満たされたマクロコスモス)」との対立と融和と補完をめぐる母型などが、きわめて多様に偏在することが、物語として神話とSF映画の通底器となり映画化となった次第である。
いずれにしてもルーカスはジョセフ・キャンベルの大学の講義で、神話の原理と英雄伝説の基本構造をスターウォーズに適用し結実させ完結させたわけであり、このことは全くの事実なのである。