新約聖書のマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる四福音書に、聖霊により処女マリアの胎にイエス・キリストが身ごもったと描かれているのは、ルカ伝と後期のマタイ伝に著されているのだが、つまり、四福音書にイエスが処女降誕したことが示されているのは「ルカによる福音書」と後期に編纂された「マタイによる福音書」の二つの福音書だけなのである。
歴史的に最古の文献(福音書)が「マルコ福音書」で紀元60年代後半に成立されたらしい。マタイ、マルコ、ルカの福音書の三つは共通部分が多いことから共観福音書と学術的によばれる資料。
ある聖書学者の研究によれば「ルカ福音書」の1151節のうち、389節が「マタイ福音書」・「マルコ福音書」と共通であり、176節は「マタイ福音書」とのみ共通、41節が「マルコ福音書」のみと共通、544節が「ルカ福音書」のみにみられるオリジナルということだが、これらの三つの福音書が同じ言語で書かれていたであろうことを思わせる多くの証左が多々ある。
しかし、「ルカ福音書」は文体においてもマルコやマタイよりも洗練されており、ヘブライ語に由来する表現などがほとんど含まれていない。ラテン語がわずかに含まれているだけであるようだ。
「マタイによる福音書」の冒頭にはイスラエル民族の父アブラハムからイエスの父であるヨセフに至る系図というか血統書がまずある。それを関連づけて焦点を処女降誕よりも、イエスの命名、その名前に託されたイエスの出現の意味にしている訳なのだが・・・・・・、「『見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう』。これは、《神われらと共にいます》という意味である」(第1章23節)。
その点で、イエスの処女降誕を積極的に記述するのは「ルカによる福音書」のみである。即ち、ダビデ王の直系によるメシアの誕生を伝える伝承に更に付加して、ルカは処女降誕の色彩を強調する意識が強く働いている構文となっている。
このキリスト生誕の記事の背景には、紀元前八世紀の預言者イザヤによるメシア生誕の預言が前提となっていて、「イザヤ書」の言葉にある《おとめ(アルマー)》という言葉が、ギリシア語に訳されたときの誤訳が大きいともいえる。それは「若い女」というほどの意味が、ギリシア語の処女を指すパルテノスがあてられた。
「『見よ、おとめ(アルマー)がみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる』」(「イザヤ書」第7章14節)。
誤訳も処女降誕に影響しているようなのだが、ルカは神の霊と処女から生まれたキリストの生誕に強く奇想を感じたとも思わしい。英雄など超人的な存在を、神と人の交渉により生じた存在に魅了されたともいえる。ルカはヘレニズムの世界の住人で、ヘレニストの作家でもあったから、神聖受胎という物語に強く好奇に関心をよせたと思える節が多々ある。イエスが神の子であると信じいている者には、妄想としての処女懐胎と、その神聖なる出産は、あまりにも神話的発想であったのであろうと思わしい。
イエスの「処女降誕」を主張しているのは、マタイとルカの福音書だけと前述したが、マルコ伝とヨハネ伝では「処女降誕」の伝説は画かれてはいない。「処女懐胎」や「処女降誕」の伝説について詳細をを掘り下げるつもりはないけれども、イエスの系図をとりあえず辿り、父ヨセフや母マリアを確認して、イエスの四人の弟と二人の妹に関しても探っていきたいと思う。
マタイによる福音書の系図では、40人の男性の名前の記述と、4人の女性の名が挙げられているが、その4人の女性の名前と、その系図は以下のとおり。
-------------------------------------------
ユダはタマルによってペレツとゼラを (3節)
サルモンはラハブによってボアズを (5節)
ボアズはルツによってオベドを (5節)
ダビデはウリアの妻によってソロモンをもうけ (7節)
-------------------------------------------
タマル、ラハブ、ルツ、ウリアの妻であるバト・シェバの4人である。
タマルは夫に先立たれ、子を望むあまり、娼婦を装い義理の父であるユダと交わって身ごもる。ラハブは売春婦でボアズを酔いつぶして床に忍び結婚にこぎつけ、ルツは貞操観念がないとされていたモアブ人、ウリアの妻は名前が書かれていないが、人妻であり不義で身ごもった罪深きバト・シェバである。
マタイ伝には正統な血筋のダビデ王のみならず、その罪深き妻を記述し、不貞の異邦人ルツを記せ、娼婦のラハブを著し、スキャンダラスなタマルの名前を載せている。・・・・・・なんとも見過ごせないことではないだろうか。
さて、タマルのことである。ヤコブの4番目の男子がユダである。ユダには3人の男子がおり、長男のエルはタマルと結婚したが子をもうけることなく死んでしまう。
当時のイスラエル人は一夫多妻制であり、ヤコブは4人の妻がいた。その4人から12人部族が生まれる。この婚姻形態のほかに再婚の様式としてレヴィレート婚があり、子供がない寡婦となったタマルにはレヴィレート婚により、子供を生まなければならない。
レヴィレート婚の慣習にしたがえば、ユダの次男オナンにより子種を受けて、タマルはその生まれてくる子に家督を継がせなければならぬのだ。
しかし、このタマルに子種を授けるオナンは、たとえ子供が出来たとしても自分の子供とならないレヴィレート婚に不満を抱いて、タマルと性交には及んだものの、タマルの中で射精することなく、創世記では地にこぼしたと記述されている。
このことにより、オナニーという言葉が生まれるのだが、よく考えてみるにオナニーとは今日では自慰行為を言うのだけれど、されど、オナンはタマルと性交しているので「オナニー」とは本来は膣外射精と言えはしないだろうか。・・・・・・それはさておき、このオナンの行為は神を怒らせてしまい神様にオナンは殺される(創世記38章9節~11節)。
そこでタマルは2度も寡婦となってしまい、三男のシラが成人したのちにレヴィレート婚を約束されて、その時を待っていたのだが、生憎にも義父のユダはすっかりそれを忘れてしまったので、タマルは子種を得るために娼婦に態々化けてユダと交わることになる。
そして、タマルと、ユダの系図からダビデやソロモン、そしてイエス・キリストへとつながる系図となる。
ルカ伝の福音書にはマタイと違う系図を示していて、マタイ伝の系図ではダビデ王とその子ソロモン王の系譜を示してイエス・キリストの系図としているのだが、イエスの父は大工のヨセフである。
ルカ伝の系図では、イエスの父は一応はヨセフなのだが、曖昧とした表現となっていて、イエスは「人々の考えによれば、ヨセフの子であった」(3章23節)とあり、イエスの祖父エリを辿ればダビデ王の子ナタンへと至り、ナタンはソロモン王の弟である。このナタンの系図がルカ伝のつたえるところのイエス・キリストの系譜なのだ。
ここでレヴィレート婚のことを思い出して欲しい・・・・・・。
新約聖書ではイエスの父ヨセフはあまりにも影がうすい存在である。新約聖書ではイエス・キリストが生まれる前後に登場するだけである。そこでイエスの父ヨセフとは誰であろうかと仮説をたててみるとしよう。
それは、ヨセフとはユダの長男エルの立場と仮定して・・・・・・つまり、マリアはヨセフと結婚するが、ヨセフは子供をマリアにもうけることなく亡くって、それでヨセフの弟と再婚し、イエスをはじめ、その弟のヤコブ、ヨセ、シモン、ユダ、二人の姉妹をマリアはレヴィレート婚により生んだという仮説もたてられる。
しかし、マタイ伝ではヨセフの父はヤコブであり、ルカ伝ではヨセフの父はエリとあり、祖父が違うので矛盾してくる問題もある。これについての仮説としては、ルカ伝の系図はイエスの母方であるマリアの系譜とすると矛盾がなくなる。
ルカ伝によるとイエスは「人々の考えによれば、ヨセフの子であった」と書き出しで始まる系図は、母方の系図と考えても不思議ではないのである。
いずれにせよ、マタイ伝とルカ伝の系図はイエスがダビデの末裔であることを伝えるもので、マリアの暮らしたナザレという村の名は、「枝」や「新芽」を意味するヘブライ語に由来する。
イエスが生きていた遥か昔に書かれた『死海写本』には、未来のメシア、つまり、イスラエルの王は「ダビデの枝」であるという表現が頻繁にある。『イザヤ書』(11章)にはダビデの血筋であるメシアを「若枝」と表現されている。
ナザレのイエスとはダビデ王の正統な若枝であるのは間違いないであろう。しかし、預言者エレミアはダビデの血を引く最後の王エホヤキンについて呪われた託宣を下している。
「この人を(中略)栄えることのない男として記録せよ。彼の子孫からは、だれひとり栄えてダビデの王座にすわり、ユダを治める者が出ないからである」
イエスの父、ヨセフは、この不幸な託宣を受けたエホヤキンの直系の子孫であるのだ・・・・・・。(了)