空閨残夢録 -3ページ目

空閨残夢録

上層より下層へ 
中心より辺境へ 
表面より深淵ヘ 
デカダンよりデラシネの戯言

 





 アンデルセン童話にある『人魚姫』はみなさんもご存知のお話しですネ。難破船から王子を救った人魚姫は、王子に恋をしてしまい、恋のために人間になる決意をします。そして魔女の魔法の魔力をかりて、半身を人のように足をえて、やがて王子と結ばれるのですが、この物語は悲恋で終るお話しでしたネ。



 そして西欧ではこの物語と双璧をなす“人魚譚”として、オスカー・ワイルドの童話集にある『石榴の家』に収録された「漁師とその魂」が有名です。




 ワイルドといえば、童話では『幸福の王子』、戯曲では『サロメ』、小説では『ドリアン・グレイの肖像』があまりにも日本ではヨク知られている文学作品ですネ。



 この「漁師とその魂」では、漁師の青年が網にかかった人魚に恋をします。そして漁師は人魚との恋の成就を願い、人魚にその思いをうちあけますが、人魚のはなしによると、人魚と人間の恋が叶えるためには、人の魂を捨てるしかないと、人魚が言うのでした。



 そこで漁師の青年は魂を捨てる覚悟をして、或る日、教会へ行って司祭に魂を捨てる方法を相談しに行きます。しかし、司祭はこのフトドキ者の信者を容赦なく罵倒し、改心を求める説教をしたのでした(あたりまえだのクラッカー)。




 だがこの漁師は諦めませんでしたので、魂を捨てて必ずや人魚姫との恋を成就するために、今度は森の奥深い処の魔女を訪ねます。




 この魔女は欲深い人間ならば餌食にするのを、純粋で情熱的で一途な漁師の想いと願いに、魔女は心うたれて青年を我がものにしようとしますが、漁師の青年の想いは人魚への恋情があまりにも深く強く熱いので、魔女も諦めて魂を肉体から切り離す魔法を授けました。



 やがて魂を捨てて、海深く人魚と暮らしましたが、彷徨える自らの魂は肉体を求めて海の底へ、或る日、戻って来てしまう。魂がもどった漁師は人魚を失うことになるのだが、人魚の死による失意のために、自らの肉体の命を絶ち結末をむかえる。




 このアンデルセンとワイルドの人魚物語は恋愛の関係性は対極ですが、悲劇的な結末をむかえるのは同じでありまする。




 童話にしてはワイルドの人魚譚は、暗く重い暗示を与えてくれるので、子供向けには日本では浸透しませんでしたが、『幸福の王子』はこの国では童話として一般的に広がりましたネ。



 ワイルドの童話集は2集あり、九つの作品が発表されております。ボクが小学生の頃に、この『幸福な王子』は教科書にありまして、そのころの記憶によると、ルビーの眼や、帯剣したその柄のサファイヤや、服飾の夥しい宝石の類を、貧しい人々に運ぶために、ツバメが王子を手助けして活躍し、やがて冬が来てしまいツバメが死んでいまうお話でしたが・・・・・・

 ・・・・・・1988年に「オスカー・ワイルド全集」全6巻個人完訳決定本が、青土社から西村孝次氏の手により刊行に至りまして、大人になって『幸福の王子』や『ざくろの家』などの童話を再読してみる。



 この『幸福の王子』の結末なんですが、冬に王子の手となり足となって働いてくれた燕が死んで、その後、すっかりみすぼらしくなった王子像は、この街の市長により廃棄処分とされて溶鉱炉へ投げこまれるのであった。




 しかし、この王子の像の鉛の心臓だけは溶けずに、赤々と残り、これを気持ち悪く思った男が、街外れの空き地に心臓を投げ捨てます。



 王子の銅像があったこの街で、或る日のこと、天使たちが舞い降りますが、それは神様が天使に、この街で最も美しいモノを求めて探しておいでと、命令をだしたからでありました。




 そして、天使たちは王子の像にあった燃え残った鉛の心臓と、「幸福な王子」の立像の足元で死んだツバメの屍骸を懐に抱き、神様のもとへ運んでいきましたとさ、・・・・・・そして神様はおおいにこれを喜び祝福なさったそうです。・・・・・・とっぺんぱらりのぷぅ~!(了)







 グリム童話の『星の銀貨』は、貧しい少女にパンと着物を或る人が施してくれたのに、餓えた男と少女が出逢い、貰った全てのパンを男に与えてしまう。それから寒さに震える少年と逢った少女は、貰ったフード付きの着物を与え、その後も貧しい男の子と出逢い、自分の着物の全てを施す少女に、聖者と天使たちは星を銀貨にして天から降らせて少女に与えるお話である。




 同じくグリム兄弟のお話で、大昔の夜には月も星も無い時代のことで、四人の職人が修行の旅に出ていて、ある国でカシワの大木に光を出す珠を見つける。これは村の街灯として使われている「お月さま」であったとさ・・・・・・。



 この「お月さま」を四人の男たちは自分の国へ持ち帰った。やがて男たちはお爺さんになり、一人が死んでは四分の一づつ、「お月さま」を墓へ埋葬してもらうことになる。やがて四人とも死んで村は暗い夜に戻ってしまう。



 ところが地中の死の国は明るくなったので、死人たちは皆目覚めて、広場や酒場に集まって騒ぎ出し、酒を飲んでは喧嘩をする始末となり、まるで村はゾンビの世界と化すのであった。




 天国の番人である聖ペトルスはこの死の世界での騒ぎを聞きつけて、馬上馳せ駆けて黄泉へと赴き、死人たちを懲らしめて、墓のベットに寝かしつける。そして、「お月さま」を天上へ持ち帰り、天にぶら下げておくことにしましたとさ。



 さて、西欧では大昔から口承により民話が伝わり、これらをグリム兄弟は集めてまとめて文にして、「グリム童話集」としました。グリム兄弟は民話を編纂しただけですが、お月さまとお星さまには詩人の想像力を大きく刺激する冷めた輝きを発光する力が隠され秘められております。



 詩人だけではなく音楽家や画家などあらゆる芸術家にも、その力は魅惑的な輝きかたで光る夜の隠者の如く思索を超える神秘なざわめきを付与したりもします。それ以上に太古から夜を支配する神々しいエネルギーを静かに闇のなかに湛えていたりもします。




 さてさて、古今東西、月の物語をあみだした詩人なり作家の文で印象に残る作品でドンナ物語を皆さんは思い出しますか?・・・・・・ボクはまず明恵上人の『月輪歌抄』にある最後の歌を思い浮かべる。







  「あかあかやあかあかあかやあかあかや あかあかあかやあかあかや月」






 「あか」は漢字の赤ではありませんヨ・・・・・・、月の輝きを表す明かりを「あか」と言葉をアブストラクトの如くに偏執的に並べた月の歌なのである。これだけ夜の明るさを執拗に語呂とされると、お月さまに余計な語彙や美辞麗句の修辞をもっての構文をくみたてる気力は、とりあえず言葉にする勢いを失せるであろうネ。




 ほかにお月さまの物語で、宮沢賢治の『二十六夜』も好きなお話しだし、オスカル・パニッツァの『月物語』もボクはお好みである。村上春樹の『1Q84』も二つのお月さまもある世界のお話しであったネ。月の物語をここに羅列すれば古今東西の戯作者を星の数ほどあげなければならないであろう。




 そこで、1900年生まれで73年に没した本邦の大文学者タルホ入道こと稲垣足穂は、『一千一秒物語』に夥しいお月さまとお星さまのお話を展開しておりまして、そこで二編だけ本日はご紹介しておきましょう。

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<ポケットの中の月>

ある夕方 お月様がポケットの中へ自分を入れて歩いていた 坂道で靴のひもがとけた 結ぼうとしてうつ向くとポケットからお月様がころがり出て 俄雨にぬれたアスファルトの上をころころころころとどこまでもころがって行った お月様は加速度でころんでゆくので お月様とお月様との間隔が次第に遠くなった こうしてお月様はズーと下方の青い靄の中へ自分を見失ってしまった





<星を食べた話>

ある晩露台に白ッぽいものが落ちていた 口へ入れると 冷たくてカルシュームみたいな味がした 何だろうと考えていると だしぬけに街上へ突き落とされた とたん 口の中から星のようなものがとび出して 尾をひいて屋根のむこうへ見えなくなってしまった 
自分が敷石の上に起きた時 黄いろい窓が月下にカラカラとあざ笑っていた





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 ボクが大のお好きに入りのお月さま作家はタルホ入道でありますが、西欧のお星さま作家のアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリのお話よりもお気に入りである。或る市井の小母さんがタルホ入道の姿を見て・・・・・・「なんてキタナイお星さまでしょう」と、述べたと伝わるもお話も聞き及ぶが、それは稲垣足穂の風体のことであり、作品の物語とは全く関連性の無い感覚的な風聞であり伝聞として伝わる。




 月と星への偏執を強く感じる作風のタルホ入道の詩(メルヘン)のような物語の『一千一秒物語』は、「人間」という概念を否定したことから始まるメルヘンなのである。タルホ入道は人間嫌いで、天体、宇宙論、オブジェ、飛行機、少年愛などの概念から、思想やフェティシズムを屈指して、ユークリッド幾何学からダンセイニの妖精譚まで含めた文学を収斂して展開している日本では奇妙な作家である独自な存在なのである。(了)














 日本では、昔話や民話または「童話」と表現さる文学的ジャンルは、英国においては、一般的な通念として、「フェアリー・テイルズ」という言葉が用いられる。これはドイツ語の「メルヘン」という意味や概念とも微妙にニュアンスが違っている。またフェアリーとは妖精のことであるが、「フェアリー・テイルズ」は必ずしも妖精ばかりが登場する物語だともいえないのである。




 ジョセフ・ジェイコブスの『イングランド昔話集』(English Fairy Tales:1890年)に所収されている「ジャックと豆の木」(Jack and the Beanstalk)は日本ではお馴染みの物語なのだが、このお話には妖精は出てこない。登場するのは“ Giant Killer” という巨人で、鬼と翻訳される食人鬼のことであり、人型の怪物なのである。




 この凶暴な巨人は天上の城に住み財宝を持っている。この怪人はシャルル・ペローが『長靴をはいた猫』で登場させた“ Ogre” と同じ類型なのであろう。いずれにしても「フェアリー・テイルズ」(妖精物語)には、妖精だけではなく、巨人、幽霊、悪魔、聖者、騎士、ドラゴン、一角獣、魔女から小人まで、あらゆる超次元的な存在が現れる説話や伝説が「フェアリー・テイルズ」なのである。




 さて、『ジャックと豆の木』であるが、これは豆の木というより、豆の蔓、豆の茎、豆の幹または軸という言葉が適切なのであろう。それはマメ科の樹木というよりは、草本のマメ科植物だと思わしいからだ。



 

 さてさて、まずはこの物語のあらすじから・・・・・・、ジャックはママと二人暮らしであった。パパは昔に亡くなっていて、その昔々は、ジャックのパパは騎士(ナイト)か城主(ルーク)のようであったらしいのだが、食人鬼との戦いで命を失ったらしいのだ。




 ジャック少年とママは、パパが死んで貧しい生活を余儀なくされる。唯一の財産である家畜の牝牛も、或る日、乳がでなくなり、ママはジャックに牝牛を市場に売りに出すように命じる。




 ところが、この牛を魔法の豆と交換しようという男が現れて、ジャックは大事な牝牛と魔法の豆と物々交換してしまうのであった。さすがに、この行いに子を愛するママは激しく怒ってしまうのだが、ママは怒り心頭、その豆を窓の外へ投げ捨ててしまった。




 ところが、ところが投げ捨てられた豆は、天にまで届くほど、あくる日の朝に成長しているのでした。それを男の子は登らずになどいられないから、冒険のはじまり始まりなんだネ。空の、天上の、上層の世界は、食人鬼の城でありまして、この鬼は巨人なのだが、怪人の奥さんがジャックを助けてくれて、カマドに隠くしてくれて難を逃れ、ついでに鬼の金貨を盗み出すワケである。




 鬼の金貨を盗んだジャックは、これに味をしめて、少年は二度、三度と豆の蔓を登り、食人鬼のお宝を盗みに行くのだが、二度目は黄金の卵を産む雌鳥を盗みだし、三度目は竪琴を盗難する。




 しかし、三度目の竪琴は自動楽器みたいで、自ずから奏で、はてまてお喋りもする楽器なんですネ。このお喋り楽器は人喰い巨人に、自分が盗難されることを、お知らせして、「私は少年に今から略奪されましゅ助けて・・・・・・」と、告げるわけネ。




 それで、鬼と少年の追いかっけこが物語は活劇的に始まるのだ。豆の蔓を地上へ降って逃げるジャック少年、それを追いかける巨人の食人鬼、ハラハラドキドキの展開だが、ジャックはママとうまく連携して、この難を逃れて、斧で豆の蔓を伐るママの手助けにより、鬼は地上にまっ逆さまで墜落してお陀仏ナンマンダムとなる次第・・・・・・。




 さてさてさて、このお話はハッピーエンドなんですが、ボクが一番気になる疑問は、牝牛と豆と何故?・・・・・・ジャック少年は交換したのであろうかなんですネ。




 この豆は空まで届くほど伸びたから空豆という人もおりますが、ボクは鉈豆だと思うのですヨ。まぁ~何の豆でもよいのだが、金の豆でもなく、宝石の豆でもなく、普通の豆を魔法の豆といわれて、詐欺師から、大切な牝牛を売るジャック少年とは、普通に馬鹿なのかも知れないが、それは、この豆に少年の心に魅力を感じるとしたら、どんな、どんな?・・・・・・豆なのだろうかと、そこのところにボクは想像を逞しくするのですネ。




 この説話は、2013年に米国でブライアン・シンガー監督により映画化されて、『ジャックと天空の巨人』(Jack The Giant Slayey)という映像になっているが、ジャックの求めた豆がとても気になるのだが未だ観ていないのが残念無念。(了)





 





 2人兄妹のチルチルとミチルが、夢の中で過去や未来の国に幸福の象徴である青い鳥を探しに行くが、結局のところそれは自分達に最も手近なところにある、鳥籠の中にあったという物語は皆さんご承知の『青い鳥』(フランス語:L'Oiseau bleu)である。



 このモーリス・メーテルリンク作の童話劇は1908年に発表された。メーテルリンクは生涯にわたり、蜜蜂を飼育して観察していた。自ずと蜜蜂の通う花々も詳細に観察している。蜜蜂のほかにも、蟻や白蟻なども観察して、これらの著作が、西欧では『青い鳥』という童話劇よりも有名なのである。



 植物や昆虫の観察眼は、科学者というよりは、まるで神秘家の如く視線でメーテルリンクは自然を俯瞰している。シュルレアリストのアントナン・アルトーによれば、蜜蜂の生活はメーテルリンクにとっては一つのドラマであったと述べていて、純粋な観念のさまざまな形態や状態に命を吹き込みたくて、自然に潜むドラマを観察した著述が『蜜蜂の生活』という著作だと述べている。



 一般的な認識として、蜂と蟻は区別されているが、それは日本の蟻の多くが毒針を持たないこと、生殖目的以外では翅を持たずに地面で生活することから区別されたと考えられる。しかし蟻は、実際にはスズメバチやベッコウバチに近縁なグループで、アリ科の動物は全てハチそのものである系統にある。

 


 スズメバチは、同じハチとして認識されているミツバチよりもアリ類の方が動物学的にも近縁である。なお、シロアリは大きさや集団生活をすることなどがアリに似るが、アリとは全く別の仲間の昆虫である。



 イソップの寓話で、『アリとキリギリス』は本邦では誰もが知っているお話しであろうが、夏の間にバイオリオンを奏で楽しむキリギリスと、冬の食料を確保するために、セッセッと貯蓄する働き者のアリたちのお話はディズニー映画にもなっている。



 誤解している人もいるであろうから、少々、博物学的な事実を述べると、蟻は現実には越冬の為に食料を運んでいるわけではない。運んでいる食料は全て幼虫のための餌である。成虫である蟻自体には咀嚼する器官は無いし、蝶やカブトムシみたいに水分しか取れない生態なのである。



 スズメバチは蜜蜂などを捕獲して、それを肉団子にしているが、これらの獲物は成虫は捕食できない。蟻と同じで幼虫に獲物を与えるだけで、成虫は水分しか補給できない器官しかないのである。









 さて、イソップのお話は紀元前600年前後に実在したというが、古代ギリシャの作家で「アイソポス」の寓話なのである。これは英語で “Aesop” と表記して、これを発音すると日本では「イソップ」と呼ばれている。



 アイソポスの一連の動物寓話は他に、『ウサギとカメ』、『北風と太陽』、『金の斧』、『狼少年?』などの嘘つきな子供の話で、「狼が出たぞ~」の狼にまつわる話なんかが有名ですネ。



 『アリとキリギリス』のお話は、アイソポスは「蟻と蝉」と著わしていて、ヨーロッパにコノ物語が広がるにつれて、セミがバッタに変わったようだ。つまり、セミは熱帯と亜熱帯の昆虫なので、英国にこの話が伝わるとセミよりも、身近なバッタに改編されて、やがて、本邦には英国からコノ話が伝わりキリギリスとなったそうな・・・・・・。


 そこでキリギリスは日本では弦楽器を弾いているように語られるが、西欧ではセミくんは笛を吹いていたそうですヨ。それよりも、アイソポスがこの寓話を創作したというより、それ以前から伝わるお話をまとめて、更にアイソポスの死後にも寓話は追加され、これら「イソップ物語」が編纂されたのですネ。



 そこで、この『アリとキリギリス』のお話は、西欧ではエンディングはほぼ同じで、やがて冬が到来するとキリギリスは飢えて、アリたちの処へ食べ物を乞いに行きますが、「夏は歌っていたんだからさぁ~、冬は踊っていればイインじゃん!」と断られるのでした。



 1593年にコノお話が本邦に伝わると、『エソボのハブラス』として著される。この翻訳された物語では、アリたちはキリギリスを皮肉るけれども、食料は与えてあげるのですネ。



 1600年に本邦で出版された、『伊曽保物語』ではアリたちはキリギリスを助けません。そして一般化された昭和初期までに伝わるのは、後者の、『伊曽保物語』系の伝聞が及び流布する。



 1934年(昭和9年)に、米国でウォルト・ディズニーが、コノ物語をアニメ映画にいたしますが、タイトルは『The Grasshopper and the Ant = THE SILLY SYMPHONIES』でございます。



 このディズニー映画の影響により、日本では、戦後からは、『アリとキリギリス』は結末で、アリたちはキリギリスに食べ物を与えてくれるのでした。それはキリスト教的な思想が説話に反映しているように感じる。



 ディズニー映画のエンディングは、食べ物を乞いにアリの王国に行った飢えたキリギリスは食料をアリたちに与えられて、その感謝の気持ちを込めて、感謝の返礼に、アリの女王さまや働きアリの前でバイオリンを弾いてお返しとしました。



 そして、キリギリスの奏でる音楽の響きにより、アリたちの心は芯から暖かくなり、その厳しい冬を幸せに暮らすことができたそうな・・・・・・、とっぺんぱらりのぷ~。








 ナポリの詩人はジャンバチスタ・バジーレ(1575-1632)の著書、『ペンタメローネ』は、西欧に伝わる童話集のさきがけである。この中に所収されている「太陽と月のターリア」は、西欧に旧くから伝承される「眠り姫」を題材にしている。・・・・・・以下がそのお話の大筋。




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 昔むかし、一人の王がおりました。娘のターリアが生まれた時、王は国中の賢者や魔術師を呼び集めて娘の未来を占いました。占い師たちは何度も相談を重ねてから、「亜麻の繊維に混じった棘がこの子に大きな災いをもたらすでしょう」と告げました。そこで王は何とか災難を免れようと思い、「亜麻も大麻も麻の類は一切 我が館に持ち込んではならぬ」と厳しい命令を下したのです。



 ところが、ターリアが大きくなったある日、窓辺に立っていると、外を糸紡ぎのお婆さんが通っていきました。ターリアはそれまで糸巻き竿や紡錘(つむ)を見たことがありませんでしたし、くるくる踊っているところがとても面白そうでしたので、好奇心に駆られてお婆さんを呼び入れ、糸巻き竿を手にとって糸を縒り始めました。その途端、麻に混じっていた棘が爪の間に突き刺さり、たちまちターリアは床に倒れて、意識を失った。いや、ターリアは死んだのです。これを見ると、お婆さんは階段を駆け下りて逃げていきました。



 姫を失った王は悲しみに暮れて、森の奥にある狩りの館にターリアを運んで、その館の寝室に葬り、森の館へ二度と訪ねることはありませんでした。さてさて、それからしばらく経ったある日のこと。この辺りに別の王が鷹狩りにやって来ましたが、王の鷹が例の館の窓から中へ飛び込んでしまいました。いくら笛を吹いても呼んでも出てこないので、王は館の門を叩かせました。しかし、誰も出てきません。王はぶどう蔓の梯子を持ってこさせて門を乗り越え、中の様子を自分で調べ始めました。全く人気がないのに驚きましたが、とうとうターリアの眠っている部屋にたどり着いたのです。





 王はターリアが眠っているのだと思い、声をかけました。ところが、いくら呼んでも揺すっても目を覚ましません。





 「それにしても、なんて美しい娘なのだろう」





 眠っているターリアを見るうち、王の胸に恋の炎が燃え上がりました。王はターリアを腕に抱いてベッドに運ぶと、存分に愛の果実を味わいました。それから、ターリアをベッドに寝かせたまま自分の国に帰り、それっきりこの出来事を忘れてしまったのです。




 そして、その後、ターリアは双子を産み落としました。とはいっても、相変わらず眠ったままです。双子は男の子と女の子で、光り輝く二個の宝石のようでした。屋敷に何処からとも無く現れた二人の妖女の手で、子ども達は甲斐甲斐しく世話を受けました。




 そんな、ある日のこと、子供たちはまた乳が飲みたくなって母の乳房にあてがわれましたが、その一方がなかなか乳首を見つけられず、代わりに母の指をつかんでチュウチュウ吸っているうち、とうとうあの麻の棘を吸いだしてしまいました。その途端にターリアは深い眠りから覚めました。



 そして自分の側にいる二人の可愛い赤ん坊に気づくと、しっかり抱きしめて、乳を飲ませて自分の命と同じくらい大切にしましたけど、どうしてそんなことになったのかさっぱり解りませんでした。というのも、屋敷の中には自分と赤ん坊しかいませんし、食べ物などを運んできてくれる妖女の姿はまるで目に見えなかったからです。



 時が過ぎて、王はふと、森の館で眠っていた美しい娘との情事を思い出しました。そうして久しぶりに訪ねてみますと、ターリアが目覚めていて、男の子の太陽(ソーレ)と女の子の月(ルーナ)の可愛らしい双子まで生まれているのに驚き、ターリアに事の次第を説明しました。ターリアもすっかり王が気に入って、二人は数日の間、館で一緒に過ごしました。そして王が立ち去るときには、今度来るときは国に連れて帰る、と約束したのです。




 それ以来、王は美しい愛人と可愛い双子をこよなく愛しました。国に帰っても、起きて寝るまでターリア、ソーレ、ルーナばかりが気がかりでひと時も頭から離れません。こんな次第に、はらわたを煮えくり返らせたのは王妃でした。前々から、王が狩りと言っては数日間留守をするのを怪しいと思って気がかりにしておりました。




 王妃は或る日、大臣を呼んで言いました。




「お前は門柱と扉のように”対になるもの”なのだから、私か王か、どちらに仕えるのか選ばなくてはなりません。王の愛人がどこの誰なのか、教えてくれたなら金持ちにしてあげましょう。けれど隠しだてするなら、この先 日の目は見られなくなるものと心得なさい」




 大臣はすっかり王妃に秘密を打ち明けました。そこで王妃は大臣を王の名においてターリアの館に遣わし、「王が子供たちに会いたがっておられます」と伝えさせました。嘘とも知らないターリアは大喜びし、早速子供たちを送り出しました。




 王妃は子供たちを手に入れるやいなや魔女の如く嫉妬に狂い。





「子供たちの喉を掻き切って、細切りにして、ソースで煮て、王の食卓に載せておくれ!」




 けれども、料理人は心の優しい男でした。彼は金のリンゴのように愛らしい双子を見ると可哀想でたまらなくなり、双子を自分の妻に匿わせてから、山羊を二頭殺して、それで百種もの料理を作りました。



 王はこの料理を食べると、「美味い、我が母の命にかけて、我が祖母の魂にかけて、実に美味い!」と絶賛しました。王妃は「どんどんおあがりなさいませ、あなた自身のものを食べておいでなのですから」と言いました。あんまり何度もそう言うので、しまいに王は不機嫌になり、そうそうに寝室へ引きこもりました。



 王妃は自分がしたと思っていることに まだ満足せず、もう一度大臣を呼びつけると、今度はターリアを呼び寄せました。ターリアは目に入れても痛くない子供たちに会いたい一心で、恐ろしい目論見のことも知らずに城にやって来ました。ターリアが目の前に連れ出されると、王妃は憤怒の表情で言いました。



「ようこそ、でしゃばりの奥様。なるほど、そなたが私の夫の気に入りの花というわけですね。・・・このメス犬! 地獄に堕ちて、私の苦しみを味わうがいい!」



 ターリアは弁解しました。「私が誘惑したのではありません、眠っている間に王様の方から押し入ってこられて・・・」と、けれども王妃は聞く耳を持たず、「城の中庭に大きな焚き火をして、この女を放り込め!」と、命じたのです。



 哀れなターリアは、王妃の前にひざまずいて懇願しました。せめて、着ているものを脱ぐだけの時間をください・・・と、王妃は承知しました。



 ・・・・・・というのも、ターリアは燃やしてしまうには惜しいような、金と真珠で刺繍した素晴らしいドレスを着ていたからです。ターリアは脱ぎ始めましたが、一枚脱ぐたびに叫び声をあげました。服を脱ぎ、スカートを脱ぎ、胴着を脱ぎ、ペチコートを脱ぎかけたとき、とうとう地獄の灰汁の大鍋に投げ込むべく、家来たちに引きずられはじめました。



 その時、騒ぎを聞きつけて、王がやってきたのです。王はこの有様を見、子供たちはどうなったのか、と王妃に尋ねました。王妃は王の裏切りをなじって言い放ちました。




「あなたに、あの子達の肉を食べさせて差し上げたのよ!」



 「なんだと! 我が子羊を食った狼がこの私だと!・・・おぉ~、なぜ我が血は我こそ子供たちの血の源だと自覚しなかったのか!。・・・おぉ~、残酷な裏切り者め、お前がこのような野蛮な行いをしたというのか。さあ、行け、罪の報いを受けるのだ。お前のような醜い魔女は闘技場でライオンに食わせるまでもないわ!」



 王の命により、王妃と大臣は、ターリアを投げ込むための焚き火に投げ込まれました。それから、王は子供たちを料理した料理人をも同じ目に遭わせようとしましたが、料理人は王の足元に身を投げ出して言いました。



「確かに、そのような仕業の報いには相応しい処罰です。私のような身分の者には王妃様の灰と混ざることも光栄かと思われます。・・・けれども、忌まわしい企みからお子様方をお救い申し上げたのも私なのですから、そんな褒美はまっぴら御免こうむりません」。



 これを聞いた王は狂喜し、それが本当なら、もう台所仕事などさせず、存分に褒美をやろうと言いました。その時には、夫の苦境を見て取った料理人の妻が、もう子供たちを連れてきていました。王は子供たちとターリアに一人ずつ口づけをして、料理人にたっぷりの褒美を与え、御寝所番の頭に取り立ててやりました。



 そして、ターリアは王妃となり、子供たちと共に末永く幸せに暮らしましたとサ・・・・・・、とっぺんぱらりのふぅ~。