今日の午前中は、天気も良くなったことでもあり、意を決して山科区にある「元慶寺」まで出掛けていた。「元慶寺」は「西国三十三所観音霊場巡り」の「番外札所」とされている。
そもそも「西国三十三所観音霊場巡り」は、養老2(718)年に大和長谷寺の開山・徳道上人が礎を築いたとされているが、その当時はあまり人々に受け入れられなかったらしい。
「元慶寺」の前に建てられていた駒札によれば、968年に花山天皇が「右大臣藤原兼家と道兼父子の策謀により」、在位2年、19歳の若さで退位して出家することになった。
その出家した場所がこの「元慶寺」で、この花山法皇が「観音霊場巡り」を再興したという経緯から、ここのお寺は33カ所の観音霊場ではないけれど、番外扱いになっている。
それに、この「元慶寺」は六歌仙の一人の遍昭が建立した、とも駒札に書かれていた。だから境内には、百人一首に採られている遍昭の有名な和歌の歌碑もあった。
「天津かぜ くものかよひじ ふきとじよ 乙女のすがた しばしとどめん」
このように〝いわれ〟がたくさんあるお寺で、昔はきっと立派なお寺だったと思われるけれど、今では境内も小さくなり、江戸時代に再建された薬師堂や楼門などがあるばかり。
楼門は、上層に鐘が納められた鐘楼門の形式になっていて、その下層の天井板などには、所狭しと千社札が貼られていた。
ちなみに「西国三十三所観音霊場巡り」は、2019年5月に日本遺産に登録されたので、今では観光ポイントとして改めて注目を浴びているそうだ。
それに観音様をお祀りしている33カ所の札所は、近畿2府4県と岐阜県にも1カ所あるが、それ以外にも、番外として「元慶寺」の他に2カ所が挙げられている。
なんで33カ所なのかというと、「『法華経』普門品第二十五(観音経)には、観音菩薩は三十三の姿に変身し、人々を救うと書かれている」からだと、ウィキペディアが教えてくれた。
ところで、この「元慶寺」に行くには、市営地下鉄東西線「御陵(みささぎ)」駅を出て、駅の脇にあるローソンの横の道を少し行ってから、ひたすら南に向かって歩いて行く。
途中にはお地蔵さんが6体祀られた六地蔵があったり、JRの線路の下を潜ったりして、そこそこ起伏のある道を、「元慶寺」までは20分少々かかってたどり着いた。
なにせ私は、もはや早く歩けば息切れするし、ヨタヨタというほどではないにしても、かなり覚束ない足取りで歩いているので、どうにも時間が掛かってしまう。
帰り道は、「元慶寺」の駐車場の横にある、畑のあぜ道を通ってきた人がいたので、そのあぜ道を逆にたどって行ったら、ほんの少しだけだったけれど、道をショートカットできた。
「元慶寺」へ行くための目印は、花山中学校の校庭と校舎。地下鉄「御陵」駅から南に行き、中学校に出会ってしばらく行けば渋谷街道の交差点で、それを右へ折れるとすぐにある。
(花山中学校/右側の道を真っ直ぐに行く)
しかし今日はけっこう気温が高かったので、厚着をしていた私は、帰りの地下鉄の中で、シャツが思わず汗びっしょりになっているのに気付いた。
やはり、なんだかんだ言っても春はそこまで来ている、ということにしておこう。