私が関わっている「やさしい日本語」を広めるNPO団体で、昨日午後の定例ミーティングでは詰め切れなかった話があったので、今日の午後、臨時ミーティングを行っていた。
この間は、ずっとオンラインミーティングになっているので、こうした突然のスケジュール変更があっても、割合に融通が利くのでとても助かる。
さて、今日に持ち越しになったテーマは、これから行うワークショップで、「AI翻訳の使い方」についてどのような解説をすればよいか、ということだった。
それもワークショップ全体の時間配分を考えると、この話にあまり時間を割けないが、やはり一応の説明はしておきたい、ということで解説スライドの作成をしていた。
現在、スマホやパソコンのアプリに話しかける『音声入力』や、翻訳したい文章にスマホのカメラを向けて読み取らせ、その部分を翻訳するAI翻訳が、急速に発達している。
いわゆる〝ビッグ・データ〟を繰り返し解析することによって、ある言語から別の言語への変換の精度が、日進月歩どころか時進分歩の勢いで上昇している。
しかも、例えば『日本語→英語』で翻訳させると、いったん英語に翻訳した結果を、自らがもう一度日本語に翻訳し直して、それも合わせて表示してくれる。
このことの何が優れているか、すぐにわかってもらえると思う。最初の日本語入力と、再度翻訳された日本語を比較して、正しく翻訳されているか日本語によって確認できるのだ。
こうして現在では、例えば日本語から数十か国語に、瞬時に翻訳が可能になっている。スマホを間に挟みながらでも良ければ、ほぼすべての外国人と意思疎通を図ることができる。
だったら「やさしい日本語」など必要はなくて、スマホを持ってお互いが普通に会話をすればよいではないか、と思ってしまう。だが、そこはなかなか上手く進まない。
やはり普通の会話となると、とたんに誤訳が多くなる可能性が高まる。微妙に違ったニュアンスで翻訳されることが多くなる。これでは、むしろ余計にいらいらするかもしれない。
その原因の一つが、例えば『音声入力』であれば、私のように関西弁を話す人間の言葉を、AI翻訳が「それは、ワカリマヘンねん」とゴネ出すのだ。
東京周辺で使われている、いわゆる『標準語』で話し掛けなければ、まだまだ十分に理解しきれない。いわゆる『方言』というものには、とてもではないが対応しきれない。
その次に、私たちの会話は「主語」が省略されたり、〝尻切れトンボ〟の話し方になったり、ひどい時には省略した単語を使ったりする。これも難しくて、まだ対応はできない。
一例を挙げよう。「明日どうする?」「うんどっちでもいい」こんな会話でも、私たちは顔を見ていれば、「そっか、そうだよね」で分かれてしまったりもする。
これを横で聞いていた人がいたら、「?????」となるだろう。もちろん、スマホの中の翻訳アプリさんも「?????」に違いない。
でもきっと、律儀に英語なら英語には翻訳してくれる。それを相手に見せても、わかるのかどうか。日本人同士であっても、関係性によってはわからない場合だって当然ある。
このように、スマホなどの翻訳機能を間に挟んだ会話の場合には、主語が明確で文章として成立しているような、いわば〝書いた文章〟に近いものが求められる。
決して、若い人たちの「LINE」でのやり取りのようなわけにはいかないのだ。スタンプだけ送信するようなわけにはいかない。それでは、正確には翻訳してくれない。
そうなってくると、音声入力で誤訳を避けるには、「やさしい日本語」で語りかけるのが、もっとも良い入力方法だという結論になる。
逆に「わかりにくい」日本語の例を挙げてみよう。「できないことは、ないのでしょうか?」これはどうだろう。「~ないことはないのか」という、二重否定の疑問形。
この発言が使われる場面は、相手に何かを依頼したものの、相手からは、あまりはっきりとした返事がもらえない、といったケースだろう。
相手側から、「ウーン、これはさて、どうなんだろうね」などと言われたと思ってほしい。その時こちらが、心配そうに「できないことは、ないのでしょうか?」などと言ってしまう。
これはまさに〝AI翻訳泣かせ〟と言ってもいい。その場のニュアンスによっても中味が違うだろうし、こんな複雑な文章はまだきちんとは伝えきれない。
ならば「できますか、できませんか」と聞けば済むことだ。もちろん、「そんな〝きつい〟言い方をしなくても」という感想を持つかもしれない。
その通りなのだが、AI翻訳は今のところこの辺が限界でもあり、だからこそ、「やさしい日本語」をマスターした方が便利だということになる。
こんなことを、今日は3時間余り話し合っていた。