毎週愁配信されているインターネット情報誌「TRIP EDITOR」には、様々なテーマで観光地のランキングが紹介されている。これを見ているだけで、旅に出たくなるように編集されているのだから、それも当然かもしれないが。
ということで今日は、「宿場町」のランキングが紹介されていた。題して「江戸情緒あふれる、今もなお美しい『宿場町』」となっていた。
今からもう40年ほど前に、中山道の「馬籠宿・妻籠宿」が、当時「アンノン族」と言われた、雑誌「アンアン」や「ノンノ」を抱えた若い女性の旅行先として、爆発的な人気を集めたことがあった。
(妻籠宿)
若い女性の小グループが、まだまだ海外旅行には手が届かないけれど、国内で旅行をするようになり始めた頃のことだ。
嘘のように思われるかもしれないが、若い女性が女性だけで旅行するなど、それだけで新鮮な驚きだった時代だ。そのきっかけを作ったのが女性向けの情報誌「アンアン」と「ノンノ」だった。
長野県と山梨県の境目にある「清里高原」なども、こうした若い女性客で大賑わいになったことを思い出した。そんな場所の一つが「馬籠宿・妻籠宿」という、中山道の宿場町だった。
(清里高原)
この頃からのブームを受けて、これらの宿場町は町並み保存に動いた。以来、今日までこうした宿場町の「街道筋」に立ち並ぶ街並みの景観は、昔の面影を残したままで守られるようになった。
今日の「TRIP EDITOE」誌で取り上げられていたのは、中山道の「奈良井宿」「妻籠宿」(長野県)と「馬籠宿」(岐阜県)、東海道の「関宿」(三重県)、北国街道の「海野宿」(長野県)、会津西街道の「大内宿」、それに若狭鯖街道の「熊川宿」だった。
いずれの宿場町も、まさにタイトル通りに「江戸時代の情緒」を色濃く残した町並みになっている。これらは全て、地域を挙げて町並みを残そうと努力して、保存活動を行ってきた成果だろう。
「熊川宿」などは、若狭と京都を結ぶ「若狭街道」、俗に鯖街道と呼ばれる距離にして約80kmという、比較的短い街道にある宿場町である。
(熊川宿)
東海道や中山道は、江戸時代に江戸と西国を結ぶ最大の幹線道路だった。今も国道1,2号線は、東京―名古屋-京都―大阪―広島―福岡を貫く幹線道路である。中山道も国道8号線だ。一桁の番号の国道は、江戸時代から現代まで、この国の背骨となる道路なのだ。
だから、奈良井・妻籠・馬籠など中山道の宿場町は、今でこそ木曽路の山中にある町々だけど、昔は人の往来が絶えない場所だった。同じように三重県の「関宿」は、東海道沿いの宿場町であるとともに、お伊勢参りの人も利用する宿場町だった。
(関宿)
こうした大幹線道路にある宿場町とは異なり、若狭鯖街道沿いの熊川宿は、それらからみればやはり鄙びた宿場であることは間違いない。それでも、今もなおその当時の面影を色濃く残しているのは、逆に〝雛″に有ったことが幸いしたということも言える。
東海道沿いは、鉄道ができ、国道ができ、工業化が進むにつれて、町が近代都市へと変貌していった。その点では中山道の木曽路の宿場町や、東海道でも鉄道が通らなかった、三重県の鈴鹿越えに当たる場所は、ある意味で取り残されていった。
この「取り残された」ということが、結果的に、今日になってもなお「宿場町」としての雰囲気を伝えられることにつながった。
「熊川塾」などは取り残され方が、まさに「半端なかった」ということだろう。福島県の「大内宿」も、その町並みが人気を集め、最近は訪れる観光客が増えている。
(大内宿)
40年余り前に起こった「馬籠・妻籠宿」ブームは、その後、さほど遠くない「奈良井宿」の見直しにつながった。
こうして、各地で古い町並みを保存する活動が、急速に盛んになって行った。京都市内でも「伝統的町並み保存地区」に3カ所が指定されているが、その中の1カ所は「愛宕参り」に行く「愛宕街道」沿いの「嵯峨鳥居本」地区である。
(嵯峨鳥居本/京都市)
また、宿場町ではないけれど、古い街並みとして知られている、金沢市の旧花街の「東茶屋街」や、奈良県橿原市の商家が立ち並ぶ「今井町」なども、それぞれに観光地として知られるようになった。
(東茶屋街/金沢市)
先日、このブログで取り上げた「オーバーツーリズム(観光客過多)」という話題で、その舞台である花街「祇園南側」一帯も、金沢の「東茶屋街」とよく似た家々が立ち並ぶ町並みである。
(祇園南側/京都市)
また随分前にこのブログで話題にした、岐阜県飛騨市古川町も同じように昔の面影が濃く残った町である。全国には、まだまだこうした町並みが残っているところも少なくないだろう。
例えば、一時期観光客が増えた愛媛県内子町の、「ハゼ蝋」という和蝋燭(わろうそく)の原料作りで栄えた町もある。ここには「内子座」という江戸時代そのままの劇場も残っている。
(愛媛県内子町)
(「ハゼ蝋」で栄えた商家/内子町)
内子町の場合、残念ながらまたひっそりとした田舎町に戻りつつあるように思う。ただこれも、「売り込み方」というか、情報発信が上手くいっていないのだと思う。
観光資源はあるのだけれど、その場所の〝良さ″をどう伝えるかという部分で、もう一つ智慧を出しきれていないように思う。
(内子座/内子町)
むしろ、単に「宿場町の家並み」というよりも、かつて「ハゼ蝋」で栄えた大きな商家が残り、江戸時代そのままの、人が回す〝回り舞台″が残る劇場を持つという、奥深い観光資源を上手く使いきれていない町だと思う。
(内子座の舞台)
「奈良井宿」では、ライトアップならぬ「ライトオン」によって、街道筋の家々が室内の灯りを灯して、街道筋からその光景を見るという、幻想的な空間を創り出して有名になった。
(中山道・奈良井宿/長野県)
こうした取り組みがなされ、それが情報として発信されてこそ、観光資源が活かされるのだと思う。