振袖が 急ぎ足で行く 冬晴れに  | がいちのぶろぐ

がいちのぶろぐ

環境問題と経営の接点、中小企業の戦略やマーケティング活動,
観光・伝統産業関連などについて、「がいち」が考えたこと、思ったことを書きとめてゆきます。

今日は「成人の日」。20歳の人口は、年々減少している。私たち団塊の世代や、その子どもたち、いわゆる団塊ジュニアの世代から見れば、もう半減しているくらいだ。

 

これからは、まさに母となる人工の母数が減り、さらに非婚率も上昇しているのだから、人口減少に歯止めがかかることはないだろう。

 

 

 

だからどうだというのか。このままでは、年金のシステムが崩壊することは、今この事態を迎えて分かったということではない。このままでは崩壊することくらい、優秀な霞が関の官僚には、早くからわかっていたことだろう。

 

では、年々人口が減少して行ったとして、何か年金問題の他に困ることがあるのか。私が子どもの頃は、右肩上がりに人口が増えて行く時代だった。それでも人口そのものは8千万人を超えたくらいだった。

 

この半世紀で、地球上の全人口は倍増している。一方で日本は1.5倍になり、それが減少を始めた。片やインドネシアでは、人口は3倍増になっている。

 

この先中国は、30年以上続いた一人っ子政策で、高齢化が急激に進行し、併せて人口の減少も急激に進行するだろう。その一方でアメリカは、移民政策が大きく揺れ動いてきたものの、この半世紀で人口は倍増した。

 

要するに、地球規模で人口の再配分が進んでいるだけのことだとも言える。ヨーロッパ諸国は、人口の増減が少ない〝定常型″になった。とはいえ、政策の変化で出生率が上昇に転じたフランスなどの例もある。

 

この間、日本国内では国籍が異なる両親から生まれた、いわゆるハーフの人口も増えてきた。逆に日本から脱出して、海外に住んでいる日本人も増えている。

 

この結果、「国民」という概念が変化し始めていると思う。そもそも国民とは、近代国家が国境線を画定し、その線の内側にいる人間を、自国民と規定したことに由っている。これが、国民国家と言われる制度である。

 

その昔、遊牧民にとっては「国」という概念などはなく、草原を求めて移動を繰り返していた。その移動の単位が氏族であり、その氏族同士で言語が通じ合えば、それが部族として一つの集団の単位だったのだろう。

 

一方で、農耕民族にとっては、耕作地から収穫したものから一定の割合で徴収するのが「国」だった。「国」はその代償として、耕作地や人々を襲ってくる外敵から守ってくれる存在だった。

 

近代の国民国家は、こうした生活の基盤の上に成り立ったものではなく、あくまで勢力圏を区分する方策としての線引きを、人為的に行ってきたのである。

 

世界史の授業で習った「アルザス―ローレン」地方は、ドイツとフランスの境目に存在する地域であり、長年にわたり紛争の種となってきた。フランスとドイツにとっては、勢力圏争いの場所だったのである。

 

ドイツから見れば「アルザス^ローレン」地方だけれど、フランスから見れば「アルサスーロレーヌ」地方である。だが、そこに暮らす人々にとっては、どちらが自分たちにとって良い守護者であるか、ということが重要だったのではないかと思う。

 

現在、世界で最も人口が多い「国を持たない民族」が、クルド人である。トルコとイラク、イランの国境地帯に分布して暮らしている。国民としては、多くがトルコ国民とイラク国民として存在している。

 

だが、彼らは自分たちの「国家」として「クルディスタン共和国」の建国を求めている。民族の自立を求めている。それでも、トルコとイラクはそれを認めない。とりわけイラクは、クルド人が多く暮らす地域が産油地域であるため、容易に手放すはずはない。

 

 

(クルドの「国旗」を掲げるクルドの人々)

 

現在もなお、人は生まれながらにして○○国民である、という状況にはない場合もある。アメリカは「出生地主義」を採っているので、アメリカ国内で生まれた子どもにはアメリカ国籍を与える。

 

一方で日本は、父親が日本国民であれば日本国籍を与える方式を採用している。だから、私の周りでもアメリカ滞在中に子どもが生まれたために、その子供は二重国籍になっている人もいた。

 

子どもが一定年齢に達した時に、どちらの国籍を選ぶかを決めればよいことになっている。つまり、「国」というもの自体がその程度には曖昧な存在なのだ。

 

その上に、国際化というかグローバリズムが進行しているから、今や国籍と民族的自覚がかけ離れたような個人が存在していても、それほど不思議なことではない。

 

こうした存在に対して、デラシネ(根無し草)として、アイデンティティーの喪失ということが言われた時期もあった。だが、国境を越えた往来が増加し、世界の時間的距離が縮まって来れば、こうした「両義性」を持つ存在の方が有利になるかも知れない。

 

さて、「成人の日」というけれど、選挙権は数年前から18歳に引き下げられた。飲酒と喫煙の制限は20歳に据え置かれたが。

 

確かに、飲酒・喫煙を18歳に引き下げれば、高校や専門学校など18歳に達した生徒を抱える組織は、収拾がつかなくなる恐れがある。その点で19歳というのも中途半端だから20歳のままに据え置いた、ということも理解できないことはない。

 

そして今日、「成人の日」である。一時期は新成人が酒を飲み、酔っぱらって成人式の式典を妨害したり、町中で暴れたりして問題にもなれば、それを面白おかしく報道する場面もあった。

 

だが、所詮はその日限りの「から騒ぎ」である。虚勢を張ってみたいのである。そんなものは放っておいて、式典を妨害すれば排除すればいいだけである。マア、マアとなだめすかそうとするから、余計にやりたくなる。

 

こんなから騒ぎは、大人が〝物わかり″が悪くなればそれで済む話である。逮捕され起訴されれば、〝20歳なのだから″刑法犯として処罰の対象になる。「成人の日」だからと甘くなる必要などない。本来、社会とはそういうものである。

 

今の世の中は、息苦しい世の中には違いない。だけど私は、若い人の言う「自分がやりたいことが見つからない」というセリフは、聞きたいと思わない。そんなものは、誰にも永遠に見つかりっこないのだから。

 

それがわかれば、お釈迦さまのように「悟りを開いた」ことになってしまう。わからない、見つからないからこそ、人は人生の中でもがき苦しむのだと思う。

 

 

 

昨日は、京都・三十三間堂の「通し矢」を見かけることになった。かつては「成人」を祝う儀式的な催しだった。

 

「成人」とは、飲酒・喫煙が認められる時ではなく、社会人としての責任が求められる時だということが、忘れかけられているような気がする。