スバス・チャンドラ・ボースと共に見る第2次世界大戦中⑫~インパール作戦中止
日本軍「烈」の撤退でコヒマ~インパール街道が英印軍に奪回された直後の6月26日、ビルマ方面軍に対し作戦中止を要請する電報を打ちました。河辺方面軍司令官は、南方総軍に中止を要請して、7月8日、認可されました。正式に中止されたのは7月12日でした。方面軍は12日、チンドウィン河の線まで撤退を命じました。4ヶ月にわたる苦難の戦いは終わりましたが、日本軍・インド国民軍の将兵にとっては、悲惨を極めた敗走が待ち受けていました。ボースは退却命令を聞いて、方面軍司令部に行き、血相を変えて叫びました。「日本軍が作戦を中止してもインド国民軍は国境の戦場にとどまります。死傷者の続出、補給の途絶による餓死も進撃を放棄する理由にはなりません。たとえ全滅しても祖国への進軍を続けます。これが革命軍の精神であります」河辺方面軍司令官はボースの信念と意気に打たれながらも、「独立への道はまだまだ長いのではありませんか。ここで一旦撤退しても、必ずもう一度機会が来ます。ここは自重していただきたい」ボースはやっと説得されましたが、せめてマンダレーの線に国民軍をとどめたいと主張しました。国民軍ガンディー連隊と共に前線で指揮をとっていた第一師団長のキアニー大佐も退却を承諾しませんでした。彼は同行の藤原少佐に「日本軍が撤退しても、自分はネタージと共にインドへ進軍したいのです」と涙をたたえて抗議しました。藤原少佐は返す言葉もありませんでした。しかし、7月23日、ボースから「死力を尽くして撤退せよ」との命令が届いて、インド国民軍第一師団も退却を開始しました。ボースから全インド国民軍に撤退命令がだされたのは、7月21日でした。パレル正面で日本軍の山本支隊を両翼から支えていたインド国民軍第一師団主力の撤退は困難を極めました。藤原少佐はせめてもの償いにと、国民軍を山本支隊より2日早く撤退させ、日本軍をしんがりとしてその援護がうけられるように処置しました。しかし、日本軍自体に国民軍をカバーできる戦闘力はもはやなく、追いすがる英印軍の砲撃の下、日本兵、インド兵いりまじっての敗走が始まりました。大半の者は靴もなく、ズボンさえはいておらず、長雨に腐り果てて海草のようになった上着がかろうじて肩に引っ掛かっていました。飢餓で弱り切った体力にマラリアやアメーバ赤痢などの風土病が追い討ちをかけました。泥の海を裸足でよろめき進む兵士たちは次々と倒れたが、助け起こす者とてなく、遺骸は埋葬もされずうち棄てられた。ただ渡河点で意気を引き取った者だけが、ヒンドゥーの儀式に則って河に流されました。ボースはチンドウィン河東岸に設けられた野戦病院をまわって、やっと後退してきた傷病兵を慰問し激励しました。インパール作戦でインド国民軍の参加将兵6,000人のうち、400人が戦死し、1500人が飢えと風土病で死に、800人が身体衰弱で動けないところを英印軍に捕らえられて、残りは行方不明になりました。チンドウィン河にたどりつけた者は2,600人に過ぎず、その大半の2,000人は直ぐ入院が必要な傷病兵でした。ボースはマンダレーとメイミョーに大規模な仮設病院を設置し、食糧と医薬品をかき集めて救護に懸命になりました。女性部隊のジャンシー連隊長のラクシュミー少佐はメイミョーの病院で献身的に看護に当たりました。インパール作戦中、ボースは毎日3,4時間しか睡眠を取らず、食事も朝はコーヒーと卵1つ、昼と夜は野菜か肉入りのカレーだけという、およそ総司令官らしからぬ簡素なものでした。なるべく前線の国民軍将兵と労苦を共にしたいとの気持ちからでしたが、ボースにとって心残りは、かけがえのない人物を危険にさらすことを恐れた日本軍首脳の反対で、最前線で陣頭指揮を執れなかったことでした。死を恐れぬボースを危険な前線に出してしまう事は、インド国民軍と日本軍にとって大きなリスクがあることは日本軍首脳は強く認識していました。いまここで、ボースを失ってしまう事はインドはもちろん日本にとっても大きな痛手であり、アジア解放という大義を達成するためには絶対に避けなければならない事でした。※参考文献革命家 チャンドラ・ボース (産経NF文庫 S 61い)Amazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}