脚本家/小説家・太田愛のブログ -28ページ目

脚本家・太田愛のブログ-青空

このところ雨が上がるたびに、空はいよいよ青く、空気はいよいよ暖かくなっている。

まさに春到来。そのことを、さらに実感させられるのが御近所の大きな白梅の木だ。


脚本家・太田愛のブログ-大樹


木の枝に集まった雀たちが、よく響く声で歌うようにさえずりを交わしている。


囀りをこぼさじと抱く大樹かな  星野立子


まさしくこの句のとおりで、「こぼさじ」は大げさな比喩ではないことをリアルに体感する。


ところで、先日、小林雄次さんのエッセイ集『脚本家という生き方』が信濃毎日新聞社から出版されました。脚本を書く仕事の悲喜こもごも+小林さんのシナリオ・プロットが読めるお得な一冊。インターネットでもアマゾンコムですでに購入できます。(→こちら です。)八木毅監督、梶研吾監督、俳優の唐橋充さん、太田も対談で参加しました。


脚本家・太田愛のブログ-小林さんの本


脚本家・太田愛のブログ-ぼんぼり

去る三月三日の桃の節句、東京は雪の降る夜になった。

幼い女の子のいる家には雛人形が飾られていた特別の一日だ。

きっと家人の寝静まった後も、灯りの消えた部屋には祈りをこめられた雛たちが並んでいたことだろう。その家々の上に夜空から淡い雪が降りしきっていたのだと思うとすこし不思議な、どことなく厳かな気がしてくる。


雪を詠んだ詩歌には印象的なものが多いが、まっさきに思い出す俳句が二つある。


山鳩よみればまはりに雪がふる  高屋窓秋


箸とるときはたとひとりや雪ふり来る  橋本多佳子


お二人とも明治生まれの俳人だが、たった今、目の前で詠まれたばかりのように胸を衝く。

白い雪が不意をついて孤独をきわだたせる。



昨日は原田昌樹監督の一周忌だった。

生前、原田監督が行きつけだったお店に親しい友人がおおぜい集まり、原田監督のボトルを囲んだ。

脚本家・太田愛のブログ-原田会
岡秀樹監督が一周忌にご両親の家を訪ねられた折に、ご両親から皆さんへと託されたという美味しい日本酒もテーブルに並び、原田監督の思い出話に花が咲いた。

(ありがとうございました。美味しかったです)

原田監督らしい楽しく賑やかな会で、きっと監督も喜んでくれているねと皆で言い合う。

別れがたく全員、閉店の午前二時まで語り合う。

その後も一部は移動して朝までモードへ。


皆の心の中に原田監督はしっかりと生きている。




日付変わって昨日は、昨年11月30日に亡くなられた高野宏一監督のお別れ会があった。

本当にたくさんの方がお見えになっていた。

佐川和夫監督が、「高野さんはウルトラマンのような方だった。誰にも言わずにウルトラの星に帰ったんだ」と仰っていた。生前の高野監督の色んな顔を思い出して、胸にしみた。


脚本家・太田愛のブログ-高野監督

写真はお別れ会で頂いたお花。

小さく分けて仕事場の机にも飾る。



2月26日より約1ヶ月にわたって、東京・池袋をメインに世界中から舞台芸術を集めた『フェスティバル・トーキョー09』というイベントが行なわれる。豊島区や東京都などが主催して今年から始まる新しいイベントらしく、ドイツ、イタリア、韓国などから来日する劇団や、蜷川幸雄さんが55歳以上のメンバーを集めて作っている『さいたまゴールドシアター』の公演、平田オリザさんの戯曲を飴屋法水さんが演出し、21人の女子高生が演じる『転校生』など面白そうな舞台がたくさんラインアップされている。

太田は非常に悩んだ末、カステルッチ演出『Hey Girl!』と山海塾の舞踏『金柑少年』を観に行くことに。『Hey Girl!』の動画はこちら。→ 『Hey Girl!』動画

山海塾『金柑少年』は5年ぶりの再演で、1000尾以上のマグロの尻尾が壁一面に打ち付けられた舞台で舞踏が演じられる! とのこと。 以前の公演でもとにかくまずそのマグロを集めるのにとても苦労されたとどこかで読んだ。そのマグロの尻尾は想像するだけでも悪夢のようで、今からまだ見ぬ迫力に圧倒されている。

フェスティバルトーキョーの公式サイトは(↓)。ご興味のある方は是非。


脚本家・太田愛のブログ-F/T09




脚本家・太田愛のブログ-白梅

しばらく前にご近所に開花した白梅。


脚本家・太田愛のブログ-紅梅

しばらく前にご近所に開花した紅梅。


戸外を歩くと、梅の香がすがすがしい。ざわめく春の空気に澄んだ香が白々ときわだつ季節だ。

さて、梅の香を詠んだ歌、といっても写真とはちがって夜の梅の歌を一首。


大空はうめのにほひに霞みつつくもりもはてぬ春の夜の月 (藤原定家)


早春の夜、冷たい大気に梅の香が立ち込め、夜空を霞ませる。春の夜の月は遠くおぼろ、さながら夢のごとし……といった大意だろうか。直截に心を語らず、暗示と余情にあふれる新古今の定家らしい歌だと思う。

そういえば、しばらく前に歌人の佐々木幸綱さんが和歌について書かれた面白い文章を読んだ。佐々木さんは次のような万葉集の歌を例に引き、古代の人々は風や雲を通して「心」を発見したのだという魅力的な仮説を書かれていた。


秋の田の穂の上に霧らふ朝霞いづへの方にわが恋ひやまむ
[あきのたのほのへにきらふあさかすみいづへのかたにわがこひやまむ](磐姫皇后)


秋の田の稲穂の上にかすむ朝霞が消えていくように、わたしの恋する苦しい思いはいつ消えていくのか……という歌だ。恋心を霞に重ね合わせた比喩が表現の核心で、現代人が考えれば、作者はまず内なる恋心を認識し、その後、それを表現する方法として霞にたとえることを選んだように思える。

けれども、佐々木さんは実際の順序は逆だったのではないか、と述べられていた。古代の人々は、彼らが恋をした時、まだ自らの内側で動いている不定形なもの(つまり感情)をどうとらえてよいのかわからなかった。そんな時、雲や風や霞を見つめ、「あんな感じの、つかみどころがなく、流れていく、切なく頼りないコトが、自分の中で起こっているのだ」と気づき、それを歌に詠む。そして、歌として言葉にすることをきっかけに少しずつ内なる不定形なものを「心」として対象化してとらえられるようになったのではないか。だから、万葉集のスターは風であり、雲であり、水と光だったのだ、と。


君待つとわが恋ひをればわが屋戸の簾動かし秋の風吹く

[きみまつとわがこひをればわがやどのすだれうごかしあきのかぜふく](額田王)


この額田王の歌では、直裁な情感がたしかに風となって流れていると思う。それは数百年後の定家の複雑な陰影には遥かに遠く、ほんとうに瑞々しく清冽だ。



昨日は『ヴァイパーズ・クリード』の最終話のアフレコがついに終了!

打ち上げとなりました。

太田はちょっと行けなかったのですが……しょぼん

監督の皆さん、声優のみなさん、ライターズの皆さん、プロデューサーの皆さん、制作のみなさん、本当にお疲れ様でした。そして、ありがとうございました。感謝です。


さて、放映の方はここからが佳境!

今週#7『騒乱』から最終話まで、怒涛の連続物展開となります。

新しい登場人物も加わって、ストーリーはスリリングに二転、三転いたします。

美少女アゲハは天使か悪魔か……。

どうぞご期待くださいませなチョキ



春になると、目に見えないものに身体が反応する。

もはやスピリチュアルな気分だ。

……花粉。

脚本家・太田愛のブログ-春はあけぼの

つらすぎる。




子供の頃から夢をよく見る。


そして夢にも一年を通して満ち引きのサイクルがある。

類似体質の方も多いのではないかと思う。


脚本家・太田愛のブログ-鼓と笛

私の場合、毎年、春、とくに桃の節句から桜の季節あたりまでの一ヶ月が、夢の『high tide』の時期だ。

この時期になると、いつもの淡い断片的な夢から、輪郭の濃い強い質感のある夢に変わる。水彩画から油絵に変わるような感じだ。

夢を見ている状態も、いつもの浅瀬の水の中で眠っているような感覚から、水深の深い場所で眠っているような感覚になる。

だからこの時期は一度眠ると朝まであまり目を覚まさない。

深い眠りの底に、たくさんの鮮やかな夢が寄せてくる感じだ。


眠りと夢の質が変わると、毎年、ああ、もうそんな季節が来たんだな、と思う。

ところが、今年は立春を過ぎたあたりからゆっくりとこの夢の『high tide』が始まっている。

ちょっと早いんじゃないか? なぜだ?

と、考えているうち、そういえばニュースで、各地の早咲きの桜も暖冬のせいか開花が早いと言っていたのを思い出す。

夢のサイクルにも温暖化の影響が現れているのだろうか、と思ったりする。