白梅、紅梅 | 脚本家/小説家・太田愛のブログ

脚本家・太田愛のブログ-白梅

しばらく前にご近所に開花した白梅。


脚本家・太田愛のブログ-紅梅

しばらく前にご近所に開花した紅梅。


戸外を歩くと、梅の香がすがすがしい。ざわめく春の空気に澄んだ香が白々ときわだつ季節だ。

さて、梅の香を詠んだ歌、といっても写真とはちがって夜の梅の歌を一首。


大空はうめのにほひに霞みつつくもりもはてぬ春の夜の月 (藤原定家)


早春の夜、冷たい大気に梅の香が立ち込め、夜空を霞ませる。春の夜の月は遠くおぼろ、さながら夢のごとし……といった大意だろうか。直截に心を語らず、暗示と余情にあふれる新古今の定家らしい歌だと思う。

そういえば、しばらく前に歌人の佐々木幸綱さんが和歌について書かれた面白い文章を読んだ。佐々木さんは次のような万葉集の歌を例に引き、古代の人々は風や雲を通して「心」を発見したのだという魅力的な仮説を書かれていた。


秋の田の穂の上に霧らふ朝霞いづへの方にわが恋ひやまむ
[あきのたのほのへにきらふあさかすみいづへのかたにわがこひやまむ](磐姫皇后)


秋の田の稲穂の上にかすむ朝霞が消えていくように、わたしの恋する苦しい思いはいつ消えていくのか……という歌だ。恋心を霞に重ね合わせた比喩が表現の核心で、現代人が考えれば、作者はまず内なる恋心を認識し、その後、それを表現する方法として霞にたとえることを選んだように思える。

けれども、佐々木さんは実際の順序は逆だったのではないか、と述べられていた。古代の人々は、彼らが恋をした時、まだ自らの内側で動いている不定形なもの(つまり感情)をどうとらえてよいのかわからなかった。そんな時、雲や風や霞を見つめ、「あんな感じの、つかみどころがなく、流れていく、切なく頼りないコトが、自分の中で起こっているのだ」と気づき、それを歌に詠む。そして、歌として言葉にすることをきっかけに少しずつ内なる不定形なものを「心」として対象化してとらえられるようになったのではないか。だから、万葉集のスターは風であり、雲であり、水と光だったのだ、と。


君待つとわが恋ひをればわが屋戸の簾動かし秋の風吹く

[きみまつとわがこひをればわがやどのすだれうごかしあきのかぜふく](額田王)


この額田王の歌では、直裁な情感がたしかに風となって流れていると思う。それは数百年後の定家の複雑な陰影には遥かに遠く、ほんとうに瑞々しく清冽だ。