腐女子と夢女子。
なぜ両者はしばしばお互いを蔑み合うのだろうか?
その様子は、さながら戦争の様相を呈している…
夢女子「これは「乙女ゲーム」なのに、なんで腐女子はいつもいつもいつもいつも攻略対象同士を2次創作でくっつけたがるねん?キモい◯ね!原作汚すな原作に謝れ!お前らは鉛筆と消しゴムでも攻めだの受けだの妄想できるんだから、よりによって可愛い推しを巻き込んでんじゃねーよ!頭に虫でも沸いてるやつは去ね!」
腐女子「公式も明らかに狙ってるから騒いでるだけじゃねーか!火のない所に煙は立たねぇ。(※超解釈)女にデレついとる男なんか現実だけでもキモいのに、なんで二次元でまで女口説く男見なアカンねん!そんな普通の奴わざわざ推さんわ!適切な調理方法編み出して一粒で二度美味しくして何が悪いんじゃボケ!」
などと、言い合う両者の間には、海峡よりも修復不能な溝が横たわっている。
なぜ、そんなにも、仲が悪いのか…?
推しに熱狂できるという特技は共通しているのに、一体、何故…?
このテーマは、社会学的、哲学的、精神学的な問いを網羅するとても深淵な問いである…
あ、今笑ったそこの席の君、けしからん!廊下に立っていなさい。
…ゴホン、気を取り直して、
この問いを問うための前提として、まず両者が生まれる社会的背景について、整理していこうと思う。
まず、夢女子について
原典主義であり、原理主義者の彼女たちは、原作の世界観を作者の意図通りに受け取ることを望んでいる傾向がある。
そのため、そもそも2次創作というものをあまり好ましく思っていない。
拡大解釈により、原作世界観が汚されると感じている、という理由が大きいだろう。
(同性同士の恋愛描写にそもそも抵抗がある層も一定数いるものと推察される。)
では、夢女子は、なぜ、そこまで原作そのままの純粋性にこだわるのか?
ここについては、逆ハーレムもの(ヒロインが多くの男に言い寄られる)を夢とみなすための現実を考える必要がある。
現実世界には、女性はたくさんおり、当然、男性が皆自分だけに注目することはない。
そのため、女性はいつも、「自分は異性にないがしろにされているのではないか?」という不安に押しつぶされそうになりながらも、そのストレスに耐えて生きていると言える。
しかし、その日々のストレスは、半端なものではないのだろう。
異性からないがしろにされるということは、当然、同性からの扱いも悪くなる。
これがおそらく、一番避けたいことなのだろう。
(夢女子になる子に、もともと社交的な性格な子が多いことからも、「ないがしろにされる自分」への恐怖や不安が大きい女社会の荒波のキツさを示唆しているだろう。)
イケメンスパダリに愛されて、他の同性からの迫害の不安を無くした主人公。
それはおそらく、究極の「夢」に違いない。
逆ハーレムものの創作内では、当たり前に主人公(=自己投影先)が、当たり前に男性陣から一番注目される女性として描かれている。
そのため、物語を読んでいるうちは、「ないがしろにされる」不安のない世界を味わうことができる。
その夢世界線を夢として純粋に留めておきたいのに、腐女子が2次創作で下界の雑音(?)を無理矢理作品世界に持ち込んでいると思い、排除したい心が働くのでは?と推察している。
「ヒロインを口説くはずの攻略対象(♂)が、ヒロインを軽視(というか無視)して、別の攻略対象(♂)を口説いている…だと…???」
となり、(自分の投影先である)ヒロインが、また「ないがしろにされている」こととなり、作品を楽しむための一番大事な要素が不用に侵されてしまう。
という防衛本能から、腐女子の所業(笑)を叩くのではないだろうか?と推測している。
(もし違ったら誠にすみません😅)
次に、腐女子について
現代女性は、気持ちの上ではほぼ「男性」と同じだ。
よって、逆ハーレムものの主人公のように、「女性である」ことを男性から注目され、女性であるがゆえに、女性であるというだけで愛される、という構図自体が耐え難い。
社会的立場が完全に同等で、だからこそライバルのように思いながらも、心を通わせることができる
という関係性にしか萌を感知できないため、男女の恋愛創作モノでは役不足となる。
気持ちの上で「男」と同等な意識をもつ女子は、もはや女主人公に自己投影できないのである。
逆ハーレムものの主人公は、ステレオタイプな「守られる存在」としての女性像を描いているように見え、そんな型に嵌め込まれること自体を不快に感じてしまう。
日本社会は根底に根強い男尊女卑があるため、
女性主人公というモチーフそのものに、「男性によって性的に商品化された存在」というイメージが付きまとうことが、どうしても拭えないんじゃなかろうか?
ゆえに、
男にチヤホヤされて幸せを感じる女主人公
なんてものを見ると、まるで自身の性を売り物にしてるビッチみたいに見えて嫌悪感しか感じない、
みたいな心理に近いんじゃないか?と推測する。
形だけは男女平等と謳われ、生理痛も隠して男性と同じように仕事をこなしてるにも関わらず、
昭和世代の男尊女卑おじさんがお洒落してるだけで「デートか?」とか言ってくるキモい会社で働く日々、
そこから帰ってきた家でまで、男に媚びざるを得ない女なんか見たくねぇわボケ!
的なことなんじゃと思われる。😂
女の人の心にとってストレスとならない主人公を描こうと思った時、もはや男主人公しか描けないと女性に思わせるような社会とは、
どれだけ歪な状態なんじゃろうな…?
まあ、ジェンダー論を抜きにして語ったとしても、
男女の恋愛ストーリーは、どうしてもある一定の型があり、形式美に傾きやすく、オリジナリティに乏しくなる。
例えば、物語上で好き合う二人がいたとして、
それが男女の場合、
「な〜んだ、コイツら所詮「世間的な当たり前」に自分たちを帰属させるために「当たり前の恋愛」したがってるだけなんじゃね?
如何にも恋愛みたいな恋愛さえできれば、相手が誰でも良かったんじゃね?」
的な疑念が物語への没頭を阻害する場合があるが、
それが同性間の場合、
生物的要因における障壁を乗り越えてでも内面を理解し合おうとする様子が描かれているため、
世間一般の恋愛マニュアルにただ沿いたいだけ?みたいな恋愛ではない、
バラエティに富んだ人間関係を描かれている場合が多い。
(もちろん、定型化した慣用句的な表現は薔薇や百合にもあろうけども)
社会的承認と心とを切り離して考えられる自由
恋愛においてその地平を求めている腐女子は、
腐ってるというか発酵しているのかもしれんw
両者の成り立ちについての考察は以上。
ここまで読めば、勘の良い生徒諸君ならば、なぜ両者が犬猿の仲になってしまうのか?分かるだろう。
そう、両者は
女性としての「自分」の自認が両極端なほどに違い、
しかも、相手の自認が自分の自認に抵触しているからである。
圧倒的な男性の庇護下に入ることにより、終わりのない横並びの同性同士の牽制試合を終わらせたいと夢みる夢女子
哺乳類としての生物特性を考えれば、ある意味合理的な解決方法だと言える。
逆に、そのような男と女のパワーバランスの不均衡を理不尽に感じ、男だの女だのといったボーダーを取り払いたい腐女子
男に頼らず自立した女性ならではの、現代的なボーダーレスな考え方じゃな。
しかし、この腐女子の現代性は、生物学上、哺乳類の雌としての群の論理からは離れた地平に立ってしまっておる。
そのある種の不自然(超自然)に、夢女子は抵抗を感じているのやもしれん。
それは自然な反応じゃろうが、腐女子としては発想の自由を制限されたように感じるのじゃろうな。
もっとも、腐女子は「頭の中まで禁書」と言われたところでむしろ喜びそうではあるが(笑)
という、現代社会の矛盾までをも内包した答えが導けると思うんじゃ…
ん?
また質問かね?何だねキミ、
「なんで同じ日本の同じ若い女性で、しかも同じオタク属性という点まで同じなのに、そんな根本が違うようなことになるんですか?」
だって?
いや、キミ、現代は石を投げればオタクに当たる世の中だから、一昔前のように、オタクが一つの括られたジャンルですらなくなっている。
みな、好きなジャンルが違っていて、オタク同士で話してもお互い知らない作品だらけで話題皆無、ということすらもよくあることだろう。
「パッと見が同じに見える人同士こそ、一番対極にある」みたいなことが、ザラにあるのだよ。
恐ろしい世の中じゃ…😂
しかし、物事の本質は、パッと見ではわからないところに潜んでおる。
女性の自己認識が、ここまでの多様性を見せる現代…
エンタメも一筋縄ではいかないんだなあ。
これほどの多様性を生み出した社会は、これからどこに向かうんじゃろうな…
(アホ博士のサブカル論 第1講 終わり)