標記映画を観る会場は、3時間越えの長い映画だというのに、会場内のみんな一切音もたてず集中していた。

実際、そのくらい、引き込まれる映画だった。


この映画は、全人類見るべき映画だと思う。


老いとは?死とは?

社会とは?自然とは?

尊厳とは?


そして、…人間とは?

人間誰一人避けては通れない

普遍的で重層的なテーマを、

おそれず真っ直ぐ真正面から扱っている。


『健康な人間とは本当に生きていると言えるのだろうか?』

これは劇中劇で投げかけられたセリフ…


このセリフの意味について、作中、仄めかされることはあるものの、ハッキリとは答えが示されない。

つまり、

観劇する人ひとりひとりが、

自分で考えるように仕掛けられている。


私なりに考えてみた。

あのセリフの意味。

おそらくだが、


健康な人間とは、実のところ、

自分は健康だと思い込んでいる人間のことではないか?

その思い込みをしている時点で、

その思い込みをさせられている時点で、

その思い込みを思い込みと気づかない時点で、

本当の意味で生きることを放棄している

と言えるのではないか?


病気と健康の線引きや

狂気と健康の線引きや

老いと健康の線引きや


それらの線引きは、

資本主義というシステムを回すための

恣意的な補助線に過ぎないのだ


本当の意味で生きている人間とは、

その「健康」とかいう恣意的な線引きをする発想が無いので


「健康な人間」

だなどと、自分のことも、他人のことも、認識することがないのだから。








うー…

そのセリフの意味がわかったとしても、

それを実践するのがどれだけ大変なことなのか。


でも、

二人のマリは限りなくその光を掴みかけた。

間違いなく。


「限界を認めることにした」

「少しずつ」

「足掻いてみようよ」

それらのセリフ一つ一つ、

何もかも私にとっても自分ごととして心に刺さった。



こんな作品が生まれる時代になったんだ…

と思うだけでありがたいと思う。


だから、

作中、真理さんは「この資本主義のナウヒアがアウトサイドを食い潰した後の世界を見ずに死ねるのは幸せかもね」

との病人自虐ネタ言ってたけど、

私は

「この映画が公開されてること自体が、その食い潰しへの最高のアンチテーゼになれてますよ」

とメタいことを感じた。


吾朗さんの

「何かを残そうとしなくていいじゃないですか、あなたと一緒に過ごした楽しい一瞬一瞬の他に、何がありますか?」

あのセリフが、この映画の底流に流れる希望の本丸だと思った。


永遠はいつも一瞬一瞬の中にあり、

その本当の意味でのナウヒアこそが

目には見えなくても、

当の本人たち以外には認知されなかったとしても、

本当に人間にとって唯一の「残せるもの」である


それが、

偽りのナウヒアを食い潰し続けることでしか存在できない現社会から

人間たちが脱却するための方向性を示唆しているように思えた。