銀色の恋人/タニス・リー/井辻朱美
以前、末次由紀のシルバーを読んで感銘を受けたわけだが、その際、この漫画をタニス・リーの銀色の恋人の焼き直しじゃ無いかという評価を散見した。当時、例のトレース疑惑などの渦中にあり、そうした評価も、いわゆるパクリというニュアンスを帯びた否定的な物が多かった。
が、落ち着いて考えてみれば、タイトルはもとより、わざわざ主人公の名前を「銀」と設定していることからも、明らかにオマージュと判断するべきものではないだろうか。
いずれにせよ、読んでみなければ判断しようが無いし、いつか読みたいな、と思っていたところ、今回機会を得た訳である。
古典として著名かつ根強い人気をもつ作品である。特に昔読んだという中高年女性の支持が厚いようだ。
この作品は主人公ジェーンの手記、という体裁を取っているので、読み出してまず、その若き女性の一人称の独白文が、非常に読みづらくてクラクラした。しかし、慣れてくると非常に味がある。終盤ではすっかり馴染んで、その表現された想いを汲む事ができた。
あらすじとしては、医療や生殖の技術が高度に発展した遠未来に生きる少女ジェーンが、愛を得て、そして失うまでの話である。ただ一つ特異なのは、彼女が愛した相手。それはシルヴァーと呼ばれる、銀色の肌を持つ高級アンドロイド(ロボット)だった事である。母との確執など、思春期の悩みの中、性愛に目覚めるジェーンの視界を奪ったのは、街中で一目惚れした、ギターを弾き語るシルヴァーという名のアンドロイドであった。彼に会いたい。熱病に浮かされるように奔走し、母親を振り切り、大金持ちの何不自由の無い暮らしも捨て、スラムの片隅で得た、シルヴァーとのつましい同棲生活。それは彼女にとって生涯で最も幸福な日々であった。シルヴァーだけが、ジェーンをジェーンにしてくれる。そしてジェーンだけが、シルヴァーをシルヴァーに繋ぎ止める事ができるのだ。分かち難き魂の結びつき。しかし、そんな安息の日々は思いもよらぬ終焉を迎える運命にあった…。という感じ。
シルヴァーは超高級アンドロイドであるので、肌の色が銀色という以外は、全く人間にしか見えなかった(そしてこの時代、肌が銀色という外見を街中で装うのは特に奇異な事では無かった)。知能も人並み、会話も達者、容姿端麗、楽器や歌はプロ級。また、上流階級の女性向けの接待用として開発されたシルヴァーは人間の男性としての完全な性愛機能を具備していた。
ロボットには、魂は、無い。
理解はできるが、理解している事を理解はしていない。感覚はあっても、感じている事を感じてはいない。予め計算の通りに動く物体、それがロボットのハズである。
しかし、シルヴァーには、製造時に検査に引っかかるような異常な反応が見つかっている。
それが魂の萌芽であったのかも知れない。やがてジェーンの愛という水を得て、シルヴァーの自我は花開き、彼は、自身がアンドロイドでありながら、魂が宿っている事を確信し、生を実感する。
この物語の主題の一つは、もちろん、無機物(歯車でできたロボット)へと向けられた少女の愛である。しかし、これはそれほど異端というわけでは無い。人の愛の投影が人に向かうとは限らない。古来より人と人ならざるものの恋路はしばしば謳われてきた主題であるし、特に日本、ことに現代の旺盛な価値観の拡大の前には、何を今更な印象を受けるほどであるし、ジェーンが直面する、ロボットを愛さずにはいられない自分への戸惑いが、むしろ初々しく映るほどである。
そしてもう一つの主題は、無機物に宿る自我と生の実感、である。それはとりもなおさず、なぜ我々自身に自我があるのか、という問いを炙り出す。この物語ではその解を、古めかしい「魂」という概念に置換する事で、物語としての装丁を完了している。
SFと言うより、むしろファンタジーに近い印象である。シルヴァー自身による、自分の認知についての分析的な記述が見られるだけに、もうすこしその点を突っ込んで欲しかったと個人的には思うが、作品としてのバランスを考えればこれで良いと思う。
人と人との愛の物語を、人と人あらざるものとの愛に転換する事で、夾雑物を省いて、そこに横たわる純粋な愛それ自体の提示を行うという手法の古典だろう。しかし、愛の対象が魂でしかない、と言う点は現代から見れば、ややキリスト教条的過ぎるとは思う。ただし、それが無機物に宿る、という点がミソであるとは思うが。
いずれにしても、古典として、名作の名にふさわしい作品であると思う。その奔放な表記とは裏腹に、安定した主題のジュブナイルとして若年層に強く響く事だろう。
さて、こうして読み終わって、件の漫画をどうとらえるか。
やはり、その起源を隠さない姿勢を見れば、パクリでは無く、オマージュという印象だ。内容にしても、2巻までしか読めないのでその後の展開は不明であるが、単純な流用とは思えない。ジェーンとシルヴァー、青葉と銀では、それぞれの間に紡がれるニュアンスが全く違うのは、一読すれば明らかである。上記のような主題は共通するところであるが、それをパクリというなら、むしろパクリで無い作品を探す方が難しいだろう。一般的には、荒野の七人は七人の侍のパクリでは無くオマージュ、という判断が多数派では無いだろうか。それに習えば、この作品の関係も同様の印象なのである。
あ-、それにしても漫画のシルバー、復活しないかな-。続きが読みたいよ。
そうそう、銀色の恋人にも、じつは続刊があるのである。ジェーンとシルヴァーのその後の物語であるらしく、非常に興味をそそる。実は今読んでいる最中なので、読み終わったらまた感想を書きたい。
タニス・リー/井辻朱美
銀色の恋
が、落ち着いて考えてみれば、タイトルはもとより、わざわざ主人公の名前を「銀」と設定していることからも、明らかにオマージュと判断するべきものではないだろうか。
いずれにせよ、読んでみなければ判断しようが無いし、いつか読みたいな、と思っていたところ、今回機会を得た訳である。
古典として著名かつ根強い人気をもつ作品である。特に昔読んだという中高年女性の支持が厚いようだ。
この作品は主人公ジェーンの手記、という体裁を取っているので、読み出してまず、その若き女性の一人称の独白文が、非常に読みづらくてクラクラした。しかし、慣れてくると非常に味がある。終盤ではすっかり馴染んで、その表現された想いを汲む事ができた。
あらすじとしては、医療や生殖の技術が高度に発展した遠未来に生きる少女ジェーンが、愛を得て、そして失うまでの話である。ただ一つ特異なのは、彼女が愛した相手。それはシルヴァーと呼ばれる、銀色の肌を持つ高級アンドロイド(ロボット)だった事である。母との確執など、思春期の悩みの中、性愛に目覚めるジェーンの視界を奪ったのは、街中で一目惚れした、ギターを弾き語るシルヴァーという名のアンドロイドであった。彼に会いたい。熱病に浮かされるように奔走し、母親を振り切り、大金持ちの何不自由の無い暮らしも捨て、スラムの片隅で得た、シルヴァーとのつましい同棲生活。それは彼女にとって生涯で最も幸福な日々であった。シルヴァーだけが、ジェーンをジェーンにしてくれる。そしてジェーンだけが、シルヴァーをシルヴァーに繋ぎ止める事ができるのだ。分かち難き魂の結びつき。しかし、そんな安息の日々は思いもよらぬ終焉を迎える運命にあった…。という感じ。
シルヴァーは超高級アンドロイドであるので、肌の色が銀色という以外は、全く人間にしか見えなかった(そしてこの時代、肌が銀色という外見を街中で装うのは特に奇異な事では無かった)。知能も人並み、会話も達者、容姿端麗、楽器や歌はプロ級。また、上流階級の女性向けの接待用として開発されたシルヴァーは人間の男性としての完全な性愛機能を具備していた。
ロボットには、魂は、無い。
理解はできるが、理解している事を理解はしていない。感覚はあっても、感じている事を感じてはいない。予め計算の通りに動く物体、それがロボットのハズである。
しかし、シルヴァーには、製造時に検査に引っかかるような異常な反応が見つかっている。
それが魂の萌芽であったのかも知れない。やがてジェーンの愛という水を得て、シルヴァーの自我は花開き、彼は、自身がアンドロイドでありながら、魂が宿っている事を確信し、生を実感する。
この物語の主題の一つは、もちろん、無機物(歯車でできたロボット)へと向けられた少女の愛である。しかし、これはそれほど異端というわけでは無い。人の愛の投影が人に向かうとは限らない。古来より人と人ならざるものの恋路はしばしば謳われてきた主題であるし、特に日本、ことに現代の旺盛な価値観の拡大の前には、何を今更な印象を受けるほどであるし、ジェーンが直面する、ロボットを愛さずにはいられない自分への戸惑いが、むしろ初々しく映るほどである。
そしてもう一つの主題は、無機物に宿る自我と生の実感、である。それはとりもなおさず、なぜ我々自身に自我があるのか、という問いを炙り出す。この物語ではその解を、古めかしい「魂」という概念に置換する事で、物語としての装丁を完了している。
SFと言うより、むしろファンタジーに近い印象である。シルヴァー自身による、自分の認知についての分析的な記述が見られるだけに、もうすこしその点を突っ込んで欲しかったと個人的には思うが、作品としてのバランスを考えればこれで良いと思う。
人と人との愛の物語を、人と人あらざるものとの愛に転換する事で、夾雑物を省いて、そこに横たわる純粋な愛それ自体の提示を行うという手法の古典だろう。しかし、愛の対象が魂でしかない、と言う点は現代から見れば、ややキリスト教条的過ぎるとは思う。ただし、それが無機物に宿る、という点がミソであるとは思うが。
いずれにしても、古典として、名作の名にふさわしい作品であると思う。その奔放な表記とは裏腹に、安定した主題のジュブナイルとして若年層に強く響く事だろう。
さて、こうして読み終わって、件の漫画をどうとらえるか。
やはり、その起源を隠さない姿勢を見れば、パクリでは無く、オマージュという印象だ。内容にしても、2巻までしか読めないのでその後の展開は不明であるが、単純な流用とは思えない。ジェーンとシルヴァー、青葉と銀では、それぞれの間に紡がれるニュアンスが全く違うのは、一読すれば明らかである。上記のような主題は共通するところであるが、それをパクリというなら、むしろパクリで無い作品を探す方が難しいだろう。一般的には、荒野の七人は七人の侍のパクリでは無くオマージュ、という判断が多数派では無いだろうか。それに習えば、この作品の関係も同様の印象なのである。
あ-、それにしても漫画のシルバー、復活しないかな-。続きが読みたいよ。
そうそう、銀色の恋人にも、じつは続刊があるのである。ジェーンとシルヴァーのその後の物語であるらしく、非常に興味をそそる。実は今読んでいる最中なので、読み終わったらまた感想を書きたい。
WiiU/ファミコンリミックス/任天堂
やりました!!
ついに、完クリ。全虹。全ステージレインボークリア達成!!
まさか完クリできるとは思ってなかった。
やはり最後まで残ったのは、ボーナス25面の44ミッションである。その難ステージを、ここ数日、こつこつと練習を重ね、昨日の日曜日の夜、とうとう虹クリアできたのだ。クリアタイムが2分55秒。多分3分切りで虹であろう。言ってみればたった数分のチャレンジである。しかし、残機6で44ミッションに挑戦するこのステージでは、この数分間が非常に長く感じるものだ。ひたすらスーパーキノコを取り続ける数秒のミッションを繰り返すうち、ふと集中力が切れて、何でも無いミッションでポカをやってしまう。今まですいすいクリアしていたステージが、一回躓くと、もはやクリアできなくなり、逆に、今までどうやって操作してどうやってクリアしていたのか分からなくなる、等という状況に陥る事もあった。
最初に全☆3クリアを達成したときのタイムは4分後半。同じクリアであっても少しでもタイムを縮めようと各ミッション工夫をしながら練習して、数日前にとうとう2回目のクリアを達成したときのタイムが、3分19秒。結構縮めていたと思っていただけに、これでも虹はダメか、じゃあ3分切りか、というショックは大きかった。もちろん、ミスしてかなりタイムロスしたミッションもあったので、それを回避できれば十秒程度は削れるだろうという希望はあった。しかし楽観はできないので、さらに各ミッションを見直し、少しでも早くクリアできる操作を工夫していった。そして虹クリアである。つまりこの面はまだ3回しかクリアした事が無い、と言う事である。この面が纏う威容のプレッシャーがお分かりいただけるだろう。
その他の面は、予想通りというか、割合さっくり虹が取れた、という印象が正直なところである。上記のラスボス面以外では特に苦労した、という面は、ボーナス終盤のアイスクライマー面などの数面ぐらいのもので、それ以外は、数回からせいぜい小一時間程度の挑戦でさっくりと虹が取れている。妻の協力が大きかったと思う。虹もいくつも取ってもらったし、なにより、二人で交代交代でプレイすると励みになるばかりか、人のプレイをじっくり見る事で攻略が練りやすいのだ。良いチームであると思う。
と言う事で、実に楽しめたゲームであった。
早速、ダウンロード済みだったファミコンリミックス2の攻略も開始したので、近日中にそちらのエントリでインプレでも書こうと思う。
ファミコンリミックスの過去エントリ
任天堂
ファミコンリミックス1+2
ついに、完クリ。全虹。全ステージレインボークリア達成!!
まさか完クリできるとは思ってなかった。
やはり最後まで残ったのは、ボーナス25面の44ミッションである。その難ステージを、ここ数日、こつこつと練習を重ね、昨日の日曜日の夜、とうとう虹クリアできたのだ。クリアタイムが2分55秒。多分3分切りで虹であろう。言ってみればたった数分のチャレンジである。しかし、残機6で44ミッションに挑戦するこのステージでは、この数分間が非常に長く感じるものだ。ひたすらスーパーキノコを取り続ける数秒のミッションを繰り返すうち、ふと集中力が切れて、何でも無いミッションでポカをやってしまう。今まですいすいクリアしていたステージが、一回躓くと、もはやクリアできなくなり、逆に、今までどうやって操作してどうやってクリアしていたのか分からなくなる、等という状況に陥る事もあった。
最初に全☆3クリアを達成したときのタイムは4分後半。同じクリアであっても少しでもタイムを縮めようと各ミッション工夫をしながら練習して、数日前にとうとう2回目のクリアを達成したときのタイムが、3分19秒。結構縮めていたと思っていただけに、これでも虹はダメか、じゃあ3分切りか、というショックは大きかった。もちろん、ミスしてかなりタイムロスしたミッションもあったので、それを回避できれば十秒程度は削れるだろうという希望はあった。しかし楽観はできないので、さらに各ミッションを見直し、少しでも早くクリアできる操作を工夫していった。そして虹クリアである。つまりこの面はまだ3回しかクリアした事が無い、と言う事である。この面が纏う威容のプレッシャーがお分かりいただけるだろう。
その他の面は、予想通りというか、割合さっくり虹が取れた、という印象が正直なところである。上記のラスボス面以外では特に苦労した、という面は、ボーナス終盤のアイスクライマー面などの数面ぐらいのもので、それ以外は、数回からせいぜい小一時間程度の挑戦でさっくりと虹が取れている。妻の協力が大きかったと思う。虹もいくつも取ってもらったし、なにより、二人で交代交代でプレイすると励みになるばかりか、人のプレイをじっくり見る事で攻略が練りやすいのだ。良いチームであると思う。
と言う事で、実に楽しめたゲームであった。
早速、ダウンロード済みだったファミコンリミックス2の攻略も開始したので、近日中にそちらのエントリでインプレでも書こうと思う。
ファミコンリミックスの過去エントリ
ファミコンの思い出/深田洋介編
思い出のファミコンという名の投稿サイトにあつまったコラム記事を編集した書籍。
発売からの年代を追うように、特定のタイトル毎に、2~4本の思い出を見開きにまとめた構成。
その名の通り、老若男女様々な人たちがファミコン仁まつわる思い出を語っている。
とはいえ、やはり、私と同年代が圧倒的多数であるようだ。
始め、非常に期待して読み始めたものの、すぐにガッカリとした。
個人的には、「ファミコン(ゲームの内容自体に関するゲーマー的なあれこれ)の思い出」を無意識に期待してのだが、実際の内容はというと、「ファミコン(が存在したあの頃の私の家族や暮らし)の思い出」といった内容の方が多かったからである。
例えば、あるタイトルの思い出として、友達と狂ったように遊びまくっただの、そのゲームを巡って兄弟でけんかしただの、クリア寸前でご飯に呼ばれて電源切られただの、コードを足に引っかけて茫然自失しただの、ゲームをしなかった母が唯一遊び込んだゲームだっただの、亡くなった祖母がドラクエと間違えて買ってきて酷く罵倒した事を今でも後悔しているだの、ゲームの内容自体とは全く関係の無い投稿の方が多いのである。
だから読み始めてすぐに落胆した。また、自分の現在の状況と照らし、このゲームは亡くなったあいつと楽しく遊んだなあ、というような文章を読むのは少々辛かったと言う事もある。そんなウェットで個人的な思い出はどうでもいいんだよ。もっとゲームを語ってくれよ、と思った。
でも、しばらく読んでいる内に、気が変わった。
これはこれで良いのだ、と思い直した。
入手までの紆余曲折をたっぷり披露した後、ゲームを深くプレイもせずクソゲーと判じ、そのまま遊ばなくなって、今あのカセットはどこ?といった結び、みたいな投稿。
こんな内容、書く意味も読む意味もあるのか?と最初は思った。
たまたま投稿者の身に起こった個人的な事象であって、「ゲームそのもの」には全く何も関係ないじゃないか、と思ったのだ。
しかし、先日読んだピダハンの経験主義を持ち出すまでもなく、個人にとっては個人的な経験だけが真実なのだ。
そして、ゲームそのものと、ゲームプレイというものは、生物における遺伝子型と表現型の対応に似ているような気がした。おしなべて芸術や表現物はすべてそうした側面を持つだろう。
ゲームそのものに、ゲームの全ては書かれていても、それでも、そのゲームがどのようにプレイされるかは、ゲームだけでは決まらない。ゲームをプレイする人間がいてはじめて、ゲームプレイ、という表現が実現する。いわば、ゲームはそこで初めて完成する。
ゲームに関したゲームプレイヤーの行動全てをゲームプレイと定義するなら、購入までのドタバタやゲームを巡るケンカなど含め、ゲームが関わるあらゆる行動をゲームプレイと考える事ができるし、そうした意味では、ゲームプレイ=ゲームの思い出の全て、である。
最近、ファミコンリミックスをごりごりプレイしているので、余計にそう思うのかもしれないが、ファミコンゲームは、面白い。
実は最近まではそうは思っていなかった。確かに昔遊んだファミコンは面白かった。しかし、それは美化される思い出、というものだろうし、他に何も無かった往時と違って、目が肥えた現在のプレイヤーを満足させるに足る品質であるはずがない、と迂闊にも思い込んでいた。
しかし、膨大な資金とリソースをつぎ込んで制作される現代の最先端ゲームが、ファミコンゲームと比べて、膨大に面白いか、というと、実際そうでもないのだ。確かに、昨今の対策ゲームは、美麗な映像や、音楽、音声などで興味を惹き、膨大なゲーム要素でプレイ可能時間を提供し、ユーザビリティを研究したUIで手間暇を省いてある。確かに面白い。が、チープなリソースで短時間で制作されたファミコンゲームも、それに匹敵する面白さを持っている事を知った。実際、今遊んでも面白いのである。
この本のコラムでも、あの頃遊んだゲームは面白かったなあ、という郷愁にも似た、ファミコンを懐かしむ感想が多い。確かに、あの当時、あの家で、あの人達に囲まれて、心の底から楽しんだ思い出に匹敵する楽しさは、もう、再現できないだろう。それでも、同時に、今また遊んでみると、今でも実際に面白い事を発見できると思うのだ。
ゲームの場合、青春の書を読み返す、などと言った事に比べ、この追経験のためのハードルが非常に高いと思われる。
ファミコンの場合、実機を保管していたとしても、故障している可能性が高い。ACやRFの接触も劣化しやすい。コントローラのコードは断線しやすい。カセットのバックアップ電池は切れているだろう。またハードが完全状態だったとしても、今時の液晶テレビはアナログチューナなど搭載していない。AVファミコンを手に入れるか、古いビデオデッキなどを活用してテレビに接続するしか無い。もちろん、例え映ったとしても、光線銃系のゲームは遊ぶ事はできない点に注意が必要だ。
それが可能なら、任天堂の現行機種を手に入れて、VCでプレイするのが簡単だろう。セーブなどの機能も充実だ。しかし、この方法では、VCとして提供されているソフトで無ければ遊ぶ事はできない。諸権利の関係などで、今後のVC登場が絶望的なタイトルも多いだろう。
この本のコラムの投稿者達は、今はもうそのソフトを遊んでないし、遊ぶ予定も無い、というニュアンスだ。また遊びたいなあ、と書かれている稿も多々あるが、多分上記のようなハードルを考えれば遊ばないだろう。
それは、ダメだと思う。
また遊ばないとダメだ。遊んで、やっぱり面白い、ということを発見して欲しいと、本書を読みつつ他人事ながら思ってしまった。
そのために、できる限りVCやアーカイブ系の環境を充実させたり、実機やソフトを整備して市場流通を継続させていく事はとても重要であると再認識した次第だった。
思い出も大切だが、思い出より、今楽しむ事の方が、やっぱりいい。
深田洋介編
ファミコンの思い出
発売からの年代を追うように、特定のタイトル毎に、2~4本の思い出を見開きにまとめた構成。
その名の通り、老若男女様々な人たちがファミコン仁まつわる思い出を語っている。
とはいえ、やはり、私と同年代が圧倒的多数であるようだ。
始め、非常に期待して読み始めたものの、すぐにガッカリとした。
個人的には、「ファミコン(ゲームの内容自体に関するゲーマー的なあれこれ)の思い出」を無意識に期待してのだが、実際の内容はというと、「ファミコン(が存在したあの頃の私の家族や暮らし)の思い出」といった内容の方が多かったからである。
例えば、あるタイトルの思い出として、友達と狂ったように遊びまくっただの、そのゲームを巡って兄弟でけんかしただの、クリア寸前でご飯に呼ばれて電源切られただの、コードを足に引っかけて茫然自失しただの、ゲームをしなかった母が唯一遊び込んだゲームだっただの、亡くなった祖母がドラクエと間違えて買ってきて酷く罵倒した事を今でも後悔しているだの、ゲームの内容自体とは全く関係の無い投稿の方が多いのである。
だから読み始めてすぐに落胆した。また、自分の現在の状況と照らし、このゲームは亡くなったあいつと楽しく遊んだなあ、というような文章を読むのは少々辛かったと言う事もある。そんなウェットで個人的な思い出はどうでもいいんだよ。もっとゲームを語ってくれよ、と思った。
でも、しばらく読んでいる内に、気が変わった。
これはこれで良いのだ、と思い直した。
入手までの紆余曲折をたっぷり披露した後、ゲームを深くプレイもせずクソゲーと判じ、そのまま遊ばなくなって、今あのカセットはどこ?といった結び、みたいな投稿。
こんな内容、書く意味も読む意味もあるのか?と最初は思った。
たまたま投稿者の身に起こった個人的な事象であって、「ゲームそのもの」には全く何も関係ないじゃないか、と思ったのだ。
しかし、先日読んだピダハンの経験主義を持ち出すまでもなく、個人にとっては個人的な経験だけが真実なのだ。
そして、ゲームそのものと、ゲームプレイというものは、生物における遺伝子型と表現型の対応に似ているような気がした。おしなべて芸術や表現物はすべてそうした側面を持つだろう。
ゲームそのものに、ゲームの全ては書かれていても、それでも、そのゲームがどのようにプレイされるかは、ゲームだけでは決まらない。ゲームをプレイする人間がいてはじめて、ゲームプレイ、という表現が実現する。いわば、ゲームはそこで初めて完成する。
ゲームに関したゲームプレイヤーの行動全てをゲームプレイと定義するなら、購入までのドタバタやゲームを巡るケンカなど含め、ゲームが関わるあらゆる行動をゲームプレイと考える事ができるし、そうした意味では、ゲームプレイ=ゲームの思い出の全て、である。
最近、ファミコンリミックスをごりごりプレイしているので、余計にそう思うのかもしれないが、ファミコンゲームは、面白い。
実は最近まではそうは思っていなかった。確かに昔遊んだファミコンは面白かった。しかし、それは美化される思い出、というものだろうし、他に何も無かった往時と違って、目が肥えた現在のプレイヤーを満足させるに足る品質であるはずがない、と迂闊にも思い込んでいた。
しかし、膨大な資金とリソースをつぎ込んで制作される現代の最先端ゲームが、ファミコンゲームと比べて、膨大に面白いか、というと、実際そうでもないのだ。確かに、昨今の対策ゲームは、美麗な映像や、音楽、音声などで興味を惹き、膨大なゲーム要素でプレイ可能時間を提供し、ユーザビリティを研究したUIで手間暇を省いてある。確かに面白い。が、チープなリソースで短時間で制作されたファミコンゲームも、それに匹敵する面白さを持っている事を知った。実際、今遊んでも面白いのである。
この本のコラムでも、あの頃遊んだゲームは面白かったなあ、という郷愁にも似た、ファミコンを懐かしむ感想が多い。確かに、あの当時、あの家で、あの人達に囲まれて、心の底から楽しんだ思い出に匹敵する楽しさは、もう、再現できないだろう。それでも、同時に、今また遊んでみると、今でも実際に面白い事を発見できると思うのだ。
ゲームの場合、青春の書を読み返す、などと言った事に比べ、この追経験のためのハードルが非常に高いと思われる。
ファミコンの場合、実機を保管していたとしても、故障している可能性が高い。ACやRFの接触も劣化しやすい。コントローラのコードは断線しやすい。カセットのバックアップ電池は切れているだろう。またハードが完全状態だったとしても、今時の液晶テレビはアナログチューナなど搭載していない。AVファミコンを手に入れるか、古いビデオデッキなどを活用してテレビに接続するしか無い。もちろん、例え映ったとしても、光線銃系のゲームは遊ぶ事はできない点に注意が必要だ。
それが可能なら、任天堂の現行機種を手に入れて、VCでプレイするのが簡単だろう。セーブなどの機能も充実だ。しかし、この方法では、VCとして提供されているソフトで無ければ遊ぶ事はできない。諸権利の関係などで、今後のVC登場が絶望的なタイトルも多いだろう。
この本のコラムの投稿者達は、今はもうそのソフトを遊んでないし、遊ぶ予定も無い、というニュアンスだ。また遊びたいなあ、と書かれている稿も多々あるが、多分上記のようなハードルを考えれば遊ばないだろう。
それは、ダメだと思う。
また遊ばないとダメだ。遊んで、やっぱり面白い、ということを発見して欲しいと、本書を読みつつ他人事ながら思ってしまった。
そのために、できる限りVCやアーカイブ系の環境を充実させたり、実機やソフトを整備して市場流通を継続させていく事はとても重要であると再認識した次第だった。
思い出も大切だが、思い出より、今楽しむ事の方が、やっぱりいい。
TV視聴時間の増加
もともとTVや映画はそれほど好きではなく、あまり観る方ではない。
起きたらTVを点けるとか、帰ったら点けると言うような習慣はない。テレビ番組は、必ず目的の視聴番組を決めてから電源を点け、番組が終わったら切る。と言うより、そもそも近年では、テレビ番組は、まず録画しておいてからゆっくり都合に合わせて視聴するものに変わっているだろう。昔はVHSデッキにテープを1本入れっぱなしにして、観たら消す観たら消すとやっていたわけだが、現在ではTV自体に録画機能があるので非常にお手軽だ。42ZP3のエントリでも書いたが、我が家ではUSBメモリが大活躍だ。本来HDDの接続を想定して設計されたTVの録画機能であるが、上記のように、観たらすぐ消す、という我が家では、数百Gも不要で、しかも高圧縮して長時間録画可能な42ZP3であれば、数十GのUSBメモリで十分なのである。ただし、本来想定された接続ではないと思うので、USBメモリとの相性は結構厳しい。実際手持ちのメモリでも録画可能・不可能がある。これまではバッファローの16Gを挿して使用していた。
しかし、最近のエントリでお分かりのように、最近、視聴番組が異様に増えた。
観たい番組がなければ一週間のテレビ視聴時間ゼロ、というのも珍しくない我が家である。毎週3時間ものTV視聴はかなり異常な量だ。たまたま見たいドラマが重なった、と言う事もあるが、実は少しだけ意識してテレビを観ようと心がけたという点もあるのだ。それは、やはり、流行の役者やタレントを全く知らないというのでは、仕事上にデメリットもあるから、という理由である。かといってバラエティ番組などをだらだら観るのは(我が家にとっては)人生をどぶに捨てるのと同じだ。となると、そこそこ面白いドラマなどがあれば頑張って観て役者を覚える、などが落としどころとなる訳である。
ところで、上記の16GのUSBメモリでは、最大6時間弱しか録画できない。これで1時間番組3本を録り回すのは少々心許ない。単発の映画の録画などに対応できないし、観て消すという処理を1週でも逃せば次が取れなくなってしまう。
と言う事で、USBメモリを32Gに新調した。相性は挿してみないと分からないので、似たところで、同じバッファローのRUF3-K32Gを購入してみた。結果としては11時間超の録画時間を有して快調に動作しており、望み通りとなった。
ちなみに、このような経緯であるので、わざわざ時間を取って番組を視聴する、というような事はできない。それではゲーム時間が減ってしまう。なので、こうした番組の消化は食事の時間に平行して行う事となる。幼少の頃、食事中のTV視聴は厳禁、それどころか、例えどんな番組を観ていようと、食事に呼ばれたら直ちにTVを消して食卓に付かねば食事抜き、という家庭で育った身の上には隔世の感ありである。ただ、こうした躾には感謝している。幼いうちにこうした躾をたたき込まれなければ、だらだらとテレビを観る習慣が付いて人生をどぶに捨てていた事だろう。
なお、このような育ち方をしたので、三つ子の魂ではないが、食事中には食事に集中したい、という欲求が捨てきれない。会食ではない。食餌、もしくは摂食行為、つまり咀嚼や嚥下や賞味に集中したい、という意味である。ひたすらガツガツと摂食に集中する様を、妻にはしばしば咎められたものである。
ドラマ3本とeShopの更新映像を毎週視聴する事になると、ほとんどの食事時間は視聴しながら、という事になる。ドラマに合わせて食事をするのではなく、食事に合わせての視聴なので、食事が終われば、そこで一旦停止、また後で、と言う事になるが、CMスキップと続き再生機能がある42ZP3は、こうした用途には大変便利であるだろう。
起きたらTVを点けるとか、帰ったら点けると言うような習慣はない。テレビ番組は、必ず目的の視聴番組を決めてから電源を点け、番組が終わったら切る。と言うより、そもそも近年では、テレビ番組は、まず録画しておいてからゆっくり都合に合わせて視聴するものに変わっているだろう。昔はVHSデッキにテープを1本入れっぱなしにして、観たら消す観たら消すとやっていたわけだが、現在ではTV自体に録画機能があるので非常にお手軽だ。42ZP3のエントリでも書いたが、我が家ではUSBメモリが大活躍だ。本来HDDの接続を想定して設計されたTVの録画機能であるが、上記のように、観たらすぐ消す、という我が家では、数百Gも不要で、しかも高圧縮して長時間録画可能な42ZP3であれば、数十GのUSBメモリで十分なのである。ただし、本来想定された接続ではないと思うので、USBメモリとの相性は結構厳しい。実際手持ちのメモリでも録画可能・不可能がある。これまではバッファローの16Gを挿して使用していた。
しかし、最近のエントリでお分かりのように、最近、視聴番組が異様に増えた。
観たい番組がなければ一週間のテレビ視聴時間ゼロ、というのも珍しくない我が家である。毎週3時間ものTV視聴はかなり異常な量だ。たまたま見たいドラマが重なった、と言う事もあるが、実は少しだけ意識してテレビを観ようと心がけたという点もあるのだ。それは、やはり、流行の役者やタレントを全く知らないというのでは、仕事上にデメリットもあるから、という理由である。かといってバラエティ番組などをだらだら観るのは(我が家にとっては)人生をどぶに捨てるのと同じだ。となると、そこそこ面白いドラマなどがあれば頑張って観て役者を覚える、などが落としどころとなる訳である。
ところで、上記の16GのUSBメモリでは、最大6時間弱しか録画できない。これで1時間番組3本を録り回すのは少々心許ない。単発の映画の録画などに対応できないし、観て消すという処理を1週でも逃せば次が取れなくなってしまう。
と言う事で、USBメモリを32Gに新調した。相性は挿してみないと分からないので、似たところで、同じバッファローのRUF3-K32Gを購入してみた。結果としては11時間超の録画時間を有して快調に動作しており、望み通りとなった。
ちなみに、このような経緯であるので、わざわざ時間を取って番組を視聴する、というような事はできない。それではゲーム時間が減ってしまう。なので、こうした番組の消化は食事の時間に平行して行う事となる。幼少の頃、食事中のTV視聴は厳禁、それどころか、例えどんな番組を観ていようと、食事に呼ばれたら直ちにTVを消して食卓に付かねば食事抜き、という家庭で育った身の上には隔世の感ありである。ただ、こうした躾には感謝している。幼いうちにこうした躾をたたき込まれなければ、だらだらとテレビを観る習慣が付いて人生をどぶに捨てていた事だろう。
なお、このような育ち方をしたので、三つ子の魂ではないが、食事中には食事に集中したい、という欲求が捨てきれない。会食ではない。食餌、もしくは摂食行為、つまり咀嚼や嚥下や賞味に集中したい、という意味である。ひたすらガツガツと摂食に集中する様を、妻にはしばしば咎められたものである。
ドラマ3本とeShopの更新映像を毎週視聴する事になると、ほとんどの食事時間は視聴しながら、という事になる。ドラマに合わせて食事をするのではなく、食事に合わせての視聴なので、食事が終われば、そこで一旦停止、また後で、と言う事になるが、CMスキップと続き再生機能がある42ZP3は、こうした用途には大変便利であるだろう。
ホワイト・ラボ 警視庁特別科学捜査班/TBS
こちらも初回から観ている。
もちろん、タイトルにあるサイエンスの部分に惹かれたわけである。
面白くないわけではないが、ちょっと地味。主人公の役者の味だろうか。
で、一番肝心なポイントが、このドラマは、サイエンスを要に据えているように見せながら、実は、普通の刑事ドラマ以上に、バリバリの人情物である、と言う点だ。
一般的な視聴者を想定すれば、もちろんそれが悪いと言うわけではないが、個人的にはガッカリである。
警視庁の闇、といった背景もチラチラと予感させるのは興味を惹かないでもないが、もう少し観て面白くなければ止めるだろう。
と、こちらも書いて寝かせている間に第4回までをみて結構印象が良くなってきた。
地味ながら、演出が良い感じで、役者の演技も結構見せる印象に変わってきた。
もう少し続けて観てみようと思う。
もちろん、タイトルにあるサイエンスの部分に惹かれたわけである。
面白くないわけではないが、ちょっと地味。主人公の役者の味だろうか。
で、一番肝心なポイントが、このドラマは、サイエンスを要に据えているように見せながら、実は、普通の刑事ドラマ以上に、バリバリの人情物である、と言う点だ。
一般的な視聴者を想定すれば、もちろんそれが悪いと言うわけではないが、個人的にはガッカリである。
警視庁の闇、といった背景もチラチラと予感させるのは興味を惹かないでもないが、もう少し観て面白くなければ止めるだろう。
と、こちらも書いて寝かせている間に第4回までをみて結構印象が良くなってきた。
地味ながら、演出が良い感じで、役者の演技も結構見せる印象に変わってきた。
もう少し続けて観てみようと思う。
弱くても勝てます 青志先生とへっぽこ高校球児の野望/日テレ
面白そうなんで観てみた。
何か聞いた事のあるタイトルだな、と思ったら、以前見かけた本と同じタイトルだった。Amazonのほしい物リストに入れていたその本は、確か開成高校だったかどこかの野球部のドキュメンタリで、多分、それが原案なのだろう。
まだ2回目を見たところだが、まあ、普通の感じ。
展開やキャラ付けに、ややヒリヒリとした感じがない事もないが、まあ、これが今風なのだろう。
高校生達が素直すぎてビックリした。デパートで売ってそうな上品さ。青年のギトギトした生命力とか苦悩とか鬱屈とか、まるで感じられない。
弱小運動部が勝ちを目指す、という意味では、そうしたドラマのスタンダードは私にとっては、やはりスクールウォーズであるが、これでは、さすがに現代との乖離も甚だしそうだ。色あせない名作である事は間違いないが。なお、この作品での体罰による生徒指導の表現を非難する向きもあるだろうが、それを非難するなら、軍師官兵衛における合戦での殺人も同様に非難されなければいけないだろう。要は、現実と物語の区別をしよう、と言う事だ。
何がやりたいのか、今ひとつ伝わってこない。
なぜ、野球をやっているのか、なぜ勝ちたいのか。
そして、勝つためにどうするつもりなのかも、未だ暗中模索である。
追々描いてゆく、というつもりなのだろうが、早くしてくれないとそれまで興味が持たない。
東大を目指す秀才連中が頭脳を駆使して野球で勝利する、という骨子は皆分かっていると思うので、出し惜しみせず早くそのメソッドをじっくり描いて欲しい。
二宮は割合演技はうまいが、主人公の人物にそれほど魅力が無いので物語を引っ張れない。無理矢理音楽で感動シーンを展開してみても納得感が無い。個性的な脇役で煽っているが、逆に、返って鬱陶しいだけの印象だ。
とにもかくにも、薬師丸ひろ子は、年取ったなあ、というのが第一印象だった。
とりあえずもうしばらく様子を見ようと思う。
野球部のたまり場、喫茶軽食サザンウインドは、タッチの南風から取ったんだろうね。この場合、脚本家が選んだと言うより、作中人物がその店名を選んだ、という可能性もある。
と、ここまで書いたところで第3回を観たら、ようやく戦略登場。待ってました。
練習時間が取れない以上、普通ではダメだ。守備は捨てて攻撃に特化する、という。
もちろん、そんな事でうまくいくわけはないから、この作戦のリアリティをどう肉付けしていくかがキモとなるだろう。楽しみである。
何か聞いた事のあるタイトルだな、と思ったら、以前見かけた本と同じタイトルだった。Amazonのほしい物リストに入れていたその本は、確か開成高校だったかどこかの野球部のドキュメンタリで、多分、それが原案なのだろう。
まだ2回目を見たところだが、まあ、普通の感じ。
展開やキャラ付けに、ややヒリヒリとした感じがない事もないが、まあ、これが今風なのだろう。
高校生達が素直すぎてビックリした。デパートで売ってそうな上品さ。青年のギトギトした生命力とか苦悩とか鬱屈とか、まるで感じられない。
弱小運動部が勝ちを目指す、という意味では、そうしたドラマのスタンダードは私にとっては、やはりスクールウォーズであるが、これでは、さすがに現代との乖離も甚だしそうだ。色あせない名作である事は間違いないが。なお、この作品での体罰による生徒指導の表現を非難する向きもあるだろうが、それを非難するなら、軍師官兵衛における合戦での殺人も同様に非難されなければいけないだろう。要は、現実と物語の区別をしよう、と言う事だ。
何がやりたいのか、今ひとつ伝わってこない。
なぜ、野球をやっているのか、なぜ勝ちたいのか。
そして、勝つためにどうするつもりなのかも、未だ暗中模索である。
追々描いてゆく、というつもりなのだろうが、早くしてくれないとそれまで興味が持たない。
東大を目指す秀才連中が頭脳を駆使して野球で勝利する、という骨子は皆分かっていると思うので、出し惜しみせず早くそのメソッドをじっくり描いて欲しい。
二宮は割合演技はうまいが、主人公の人物にそれほど魅力が無いので物語を引っ張れない。無理矢理音楽で感動シーンを展開してみても納得感が無い。個性的な脇役で煽っているが、逆に、返って鬱陶しいだけの印象だ。
とにもかくにも、薬師丸ひろ子は、年取ったなあ、というのが第一印象だった。
とりあえずもうしばらく様子を見ようと思う。
野球部のたまり場、喫茶軽食サザンウインドは、タッチの南風から取ったんだろうね。この場合、脚本家が選んだと言うより、作中人物がその店名を選んだ、という可能性もある。
と、ここまで書いたところで第3回を観たら、ようやく戦略登場。待ってました。
練習時間が取れない以上、普通ではダメだ。守備は捨てて攻撃に特化する、という。
もちろん、そんな事でうまくいくわけはないから、この作戦のリアリティをどう肉付けしていくかがキモとなるだろう。楽しみである。
WiiU VC/ファイアーエムブレム 紋章の謎/任天堂
コツコツとプレイしてきて、昨日ようやく終了した。
プレイ開始の前エントリが去年の2月だから1年少々か。
記録を見てみるとプレイ時間累計は120時間であった。30円でこれだけ遊んでしまったとは、そりゃ任天堂も赤字になるかも知れないな。
とは言っても、残念ながら第2部の方は、真エンドは拝めず、バッドエンドであったのだが。
星のかけらを取り逃して星のオーブが作れなかったのだ。
無念である。であるが、まあ、仕方ないだろう。バッドエンドもエンドである。マルスとアリティアに幸あれ。
SRPGの傑作だろう。ユニットの性能差による役割分担や、難易度と成長バランスが素晴らしい。とはいってもセーブ機能のあるVCでお手軽プレイなので偉そうな事は言えないが。実機で遊んだ往時のプレイヤーはリセット繰り返しで大変だったろうと思う。
ただ、このゲーム、戦略を考えるまでは時間が掛かるが、いざ作戦が決定してしまった後は、決まり切った手順で、それほど多くないユニットの操作を行うのみだ。案外、時間はそれほど掛からないかもしれない。GCの蒼炎などのように、敵の攻撃範囲を一覧表示する機能などが無いので、微妙なシチュエーションでの個別確認に若干時間が掛かる事以外は、存外サクサクと繰り返せるようになるのでは無いだろうか。
アイテムと闘技場を使って、とにかくドーガを強化して使い込んだ。他に活躍したのは、オグマさんやパオラさんか。マルスは、特に2部では活躍しなかったな。
ムービーもボイスももちろん皆無。キャラフェイスの1枚絵と短い台詞テキストだけだが、実に魅力的に登場人物を描いていた。その主幹はプレイ中のユニットとしての行動にあるわけで、これぞゲームの醍醐味だろう。第2部のグラ兵の挙動なんかも、何の説明文もなくても、実に雄弁に雰囲気を物語っていたと思う。
いずれにせよ、大変堪能できた。SRPGは妻も結構好きなジャンルなので、エムブレムシリーズの他作品も遊びたいし、既にいろいろと見繕ってあるSRPGの他シリーズもプレイしようと思う。
覚醒が本命だが、3DSは一緒にプレイするのは難しいからね。
WiiUでのDSのVCが開始されたら、DSでのリメイク作「新・紋章の謎」の配信を待ってプレイしてみるのも面白いかもしれない。その時は真エンドでリベンジしたいものだ。
プレイ開始の前エントリが去年の2月だから1年少々か。
記録を見てみるとプレイ時間累計は120時間であった。30円でこれだけ遊んでしまったとは、そりゃ任天堂も赤字になるかも知れないな。
とは言っても、残念ながら第2部の方は、真エンドは拝めず、バッドエンドであったのだが。
星のかけらを取り逃して星のオーブが作れなかったのだ。
無念である。であるが、まあ、仕方ないだろう。バッドエンドもエンドである。マルスとアリティアに幸あれ。
SRPGの傑作だろう。ユニットの性能差による役割分担や、難易度と成長バランスが素晴らしい。とはいってもセーブ機能のあるVCでお手軽プレイなので偉そうな事は言えないが。実機で遊んだ往時のプレイヤーはリセット繰り返しで大変だったろうと思う。
ただ、このゲーム、戦略を考えるまでは時間が掛かるが、いざ作戦が決定してしまった後は、決まり切った手順で、それほど多くないユニットの操作を行うのみだ。案外、時間はそれほど掛からないかもしれない。GCの蒼炎などのように、敵の攻撃範囲を一覧表示する機能などが無いので、微妙なシチュエーションでの個別確認に若干時間が掛かる事以外は、存外サクサクと繰り返せるようになるのでは無いだろうか。
アイテムと闘技場を使って、とにかくドーガを強化して使い込んだ。他に活躍したのは、オグマさんやパオラさんか。マルスは、特に2部では活躍しなかったな。
ムービーもボイスももちろん皆無。キャラフェイスの1枚絵と短い台詞テキストだけだが、実に魅力的に登場人物を描いていた。その主幹はプレイ中のユニットとしての行動にあるわけで、これぞゲームの醍醐味だろう。第2部のグラ兵の挙動なんかも、何の説明文もなくても、実に雄弁に雰囲気を物語っていたと思う。
いずれにせよ、大変堪能できた。SRPGは妻も結構好きなジャンルなので、エムブレムシリーズの他作品も遊びたいし、既にいろいろと見繕ってあるSRPGの他シリーズもプレイしようと思う。
覚醒が本命だが、3DSは一緒にプレイするのは難しいからね。
WiiUでのDSのVCが開始されたら、DSでのリメイク作「新・紋章の謎」の配信を待ってプレイしてみるのも面白いかもしれない。その時は真エンドでリベンジしたいものだ。
先週読んだ漫画 14/04/27-05/03
●カードキャプターさくら 1-2巻/CLAMP

現在でもカルト的人気を誇る作品。その秘密の一端でも理解できればと、原作漫画を手にしてみた。実はCLAMP作品をまともに読むのは初めて。パラパラとなら見た事があるレイアースやその他作品に比べて、いくぶんタッチが柔らかい印象なので驚いた。正統的な魔法少女物だろう。小学4年生の木ノ本桜は、ある日、ふとした拍子に考古学者の父が所蔵していた古書を開いてしまう。それは強大な魔術師が生み出した魔法のカード、クロウ・カードが封印されていた魔法の本であった。さくらによって長年の眠りから目覚めさせられた本の守護獣ケルベロス(通称ケロちゃん)は、中のカードが全て無くなっている事に気づき、眠っている間の異変を悟る。強力なクロウカードが暴れ出せば世界に災いがもたらされる恐れがあるという。魔力がない人間はこの本を開ける事はできない。多少なりとも魔力を宿すさくらに、カードの回収を依頼し、ケロちゃんは魔法の杖と力を与えた。すなわちカードキャプターさくらの誕生である!…というような流れ。基本展開は、町中で異変発生→カード発見!→戦って回収、というもの。
作品のポイントとしては、2巻まで読む限りでは、行動範囲はせいぜい学校や町内レベルという馴染みやすさ。バトルも血みどろどころかかすり傷も負わない安心のソフト展開。さくらの親友である富豪令嬢の知世が毎回作ってくれる凝ったバトルコスチュームとサポートアイテム。回収したカードは次の戦いに味方として使えるという、RPGライクの成長要素。兄の親友への恋心とライバル(?)。小さいときに亡くなった母への想い。などであろうか。
やはり最大のポイントは、ショートヘアで運動系少女のさくらが、毎回凝ったドレススーツで戦う場面の、その華々しさと同居する可愛らしさだろう。細く長い眉で強調された意志の強さを感じさせる表情のキャラ絵がさらにそのミスマッチをもり立てる印象。どこかはかなくもの悲しさを感じさせるさくらの表情は結構独特な感じがする。
地の日常生活も丁寧に描いており、意外と読ませる。
登場人物も順々と増え、徐々に複雑さをましてゆく展開も面白くなってきた。今後に期待。
●パタリロ! 28巻/魔夜峰央

この間は初めて読む。奇術じみたトリックと得意とする犯罪請負人デュモン登場の巻き。ミステリ小説が好きなマライヒとの頭脳戦。その他短編において、パタリロの性格の善悪の振れ幅が大きすぎる。度を超すいたずらで家庭教師を何人も葬ってきたかと思えば、行き倒れ少年に無垢の善意を施したりする。お話的にはまずまずだろう。
現在でもカルト的人気を誇る作品。その秘密の一端でも理解できればと、原作漫画を手にしてみた。実はCLAMP作品をまともに読むのは初めて。パラパラとなら見た事があるレイアースやその他作品に比べて、いくぶんタッチが柔らかい印象なので驚いた。正統的な魔法少女物だろう。小学4年生の木ノ本桜は、ある日、ふとした拍子に考古学者の父が所蔵していた古書を開いてしまう。それは強大な魔術師が生み出した魔法のカード、クロウ・カードが封印されていた魔法の本であった。さくらによって長年の眠りから目覚めさせられた本の守護獣ケルベロス(通称ケロちゃん)は、中のカードが全て無くなっている事に気づき、眠っている間の異変を悟る。強力なクロウカードが暴れ出せば世界に災いがもたらされる恐れがあるという。魔力がない人間はこの本を開ける事はできない。多少なりとも魔力を宿すさくらに、カードの回収を依頼し、ケロちゃんは魔法の杖と力を与えた。すなわちカードキャプターさくらの誕生である!…というような流れ。基本展開は、町中で異変発生→カード発見!→戦って回収、というもの。
作品のポイントとしては、2巻まで読む限りでは、行動範囲はせいぜい学校や町内レベルという馴染みやすさ。バトルも血みどろどころかかすり傷も負わない安心のソフト展開。さくらの親友である富豪令嬢の知世が毎回作ってくれる凝ったバトルコスチュームとサポートアイテム。回収したカードは次の戦いに味方として使えるという、RPGライクの成長要素。兄の親友への恋心とライバル(?)。小さいときに亡くなった母への想い。などであろうか。
やはり最大のポイントは、ショートヘアで運動系少女のさくらが、毎回凝ったドレススーツで戦う場面の、その華々しさと同居する可愛らしさだろう。細く長い眉で強調された意志の強さを感じさせる表情のキャラ絵がさらにそのミスマッチをもり立てる印象。どこかはかなくもの悲しさを感じさせるさくらの表情は結構独特な感じがする。
地の日常生活も丁寧に描いており、意外と読ませる。
登場人物も順々と増え、徐々に複雑さをましてゆく展開も面白くなってきた。今後に期待。
●パタリロ! 28巻/魔夜峰央
この間は初めて読む。奇術じみたトリックと得意とする犯罪請負人デュモン登場の巻き。ミステリ小説が好きなマライヒとの頭脳戦。その他短編において、パタリロの性格の善悪の振れ幅が大きすぎる。度を超すいたずらで家庭教師を何人も葬ってきたかと思えば、行き倒れ少年に無垢の善意を施したりする。お話的にはまずまずだろう。
Panasonic/カラーテレビドアホン VL-SV36KL
以前から不調だった玄関のドアホンがついに壊れたので新調した。
これまでのはアイホンの30年選手で、ワンボタン&受話器のみの、まさにインターホンといったシンプルなタイプだった。
別に機能には不満が無かったが、ボタンの接点が劣化したらしく、押してもなかなか鳴らない、押さなくてもときどき鳴る、といった症状が頻繁に発生するようになっていたのだ。
Amazonなど通販ヘビーユーザーの我が家では、荷物が届く事が多く、押しても鳴らないのは、もちろん困るが、それゆえ、押さなくても鳴る、というフェイントにも引っかかりやすい。壊れかけた当初には、最近ヤケにピンポンダッシュが多いな、と憤慨したものだ。しかし、真夜中にもピンポンダッシュがあるとはおかしいし、ついには、無人で鳴っている現場を押さえるに及んで、ボタンスイッチの寿命を了解したのである。
それでも、だましだまし使っていたのだが、先日とうとう一切ボタン反応が無くなってしまった。
ネットで格安品を探して自分で交換工事しようとも思ったが、面倒になったので近所の電気屋に丸投げした。なお、本来、コンセントタイプで無い電気機器の交換工事には、電気工事士の資格が必要だ。
選定も電気屋のお勧めに従った(下調べはしておいたが)。実際には、カメラ機能は不要なのだが、カメラが無い機種でも3千円しか違わない上に取り寄せになるとの事だったので、こだわらずカメラありにしておいた。
さて、交換してみて、やはりキチンと鳴る事、鳴らない事、は大事だな、と実感した。
まあ、それは当然として、この機種のチャイムの、音パターン、音色、ボリュームを適切に調整すると、以前より格段に聞こえやすいのが嬉しかった。以前は、別の部屋などにいると、鳴っていても聞き逃して、宅急便が不在票を残して帰ってしまう事も多々あったのだ。
カメラ機能については期待も無かったし、使ってみても、やはりどういう感じも無かった。ただ、来訪者の記録が見られるのは便利だと思う。
難点を挙げるとすれば、2本の信号線で映像と音声を無理矢理送信している設計上、全二重の音声通信ができないところだろう。半二重になってしまうのだ。どちらがしゃべっているかを判断して、機械が自動で切り替えてくれるのだが、これがすごくイライラする。例えば、向こうとこっちで、同時にわっとしゃべると、どっちかの発話は伝わってないわけだ。こっちがしゃべったのにカットされているとムカッと来る事甚だしい。こんなことなら音声専用のカメラ無しでも良かったかな、と当初はかなり後悔した。
しかし、相手の様子を見ながらタイミングを見てゆっくりしゃべる事で、それほどダブらないようになってきた。最近では、まあ、これでいいかなという気がしてきている。
Panasonic
カラーテレビドアホン VL-SV36KL
これまでのはアイホンの30年選手で、ワンボタン&受話器のみの、まさにインターホンといったシンプルなタイプだった。
別に機能には不満が無かったが、ボタンの接点が劣化したらしく、押してもなかなか鳴らない、押さなくてもときどき鳴る、といった症状が頻繁に発生するようになっていたのだ。
Amazonなど通販ヘビーユーザーの我が家では、荷物が届く事が多く、押しても鳴らないのは、もちろん困るが、それゆえ、押さなくても鳴る、というフェイントにも引っかかりやすい。壊れかけた当初には、最近ヤケにピンポンダッシュが多いな、と憤慨したものだ。しかし、真夜中にもピンポンダッシュがあるとはおかしいし、ついには、無人で鳴っている現場を押さえるに及んで、ボタンスイッチの寿命を了解したのである。
それでも、だましだまし使っていたのだが、先日とうとう一切ボタン反応が無くなってしまった。
ネットで格安品を探して自分で交換工事しようとも思ったが、面倒になったので近所の電気屋に丸投げした。なお、本来、コンセントタイプで無い電気機器の交換工事には、電気工事士の資格が必要だ。
選定も電気屋のお勧めに従った(下調べはしておいたが)。実際には、カメラ機能は不要なのだが、カメラが無い機種でも3千円しか違わない上に取り寄せになるとの事だったので、こだわらずカメラありにしておいた。
さて、交換してみて、やはりキチンと鳴る事、鳴らない事、は大事だな、と実感した。
まあ、それは当然として、この機種のチャイムの、音パターン、音色、ボリュームを適切に調整すると、以前より格段に聞こえやすいのが嬉しかった。以前は、別の部屋などにいると、鳴っていても聞き逃して、宅急便が不在票を残して帰ってしまう事も多々あったのだ。
カメラ機能については期待も無かったし、使ってみても、やはりどういう感じも無かった。ただ、来訪者の記録が見られるのは便利だと思う。
難点を挙げるとすれば、2本の信号線で映像と音声を無理矢理送信している設計上、全二重の音声通信ができないところだろう。半二重になってしまうのだ。どちらがしゃべっているかを判断して、機械が自動で切り替えてくれるのだが、これがすごくイライラする。例えば、向こうとこっちで、同時にわっとしゃべると、どっちかの発話は伝わってないわけだ。こっちがしゃべったのにカットされているとムカッと来る事甚だしい。こんなことなら音声専用のカメラ無しでも良かったかな、と当初はかなり後悔した。
しかし、相手の様子を見ながらタイミングを見てゆっくりしゃべる事で、それほどダブらないようになってきた。最近では、まあ、これでいいかなという気がしてきている。
ゲーミフィケーション <ゲーム>がビジネスを変える/井上明人
読みやすくまとまっており、ゲーミフィケーションについて一般向けの初学に向くのでは。
ポイントとしては、著者の立ち位置として、ゲーミフィケーションをビジネスに採り入れる事、もっと言うとWebを中心スキームとしてITを活用した具体的なビジネスを実現する事をメインにゲーミフィケーションをとらえた本か。もちろんもっと大きなくくりとしてのゲーミフィケーションの解説はあるが、著者の力点はビジネス。なぜなら、実際に社会を変える力を発揮しやすいのはビジネスだから。
ゲーミフィケーションを掲げる人は、やっぱり、基本的にはゲーマーなのだろう。本書でも端々から香ばしくゲーマー臭が立ち上っており、なかなか好感が持てる。
ソーシャルの10年からゲームの10年へと言われて既に数年が経つ。今後の動向にも期待したい。
あと、やっぱり、チクセントミハイやカイヨワを一回ちゃんと読んでみるかな。
井上明人
ゲーミフィケーション <ゲーム>がビジネスを変える
ポイントとしては、著者の立ち位置として、ゲーミフィケーションをビジネスに採り入れる事、もっと言うとWebを中心スキームとしてITを活用した具体的なビジネスを実現する事をメインにゲーミフィケーションをとらえた本か。もちろんもっと大きなくくりとしてのゲーミフィケーションの解説はあるが、著者の力点はビジネス。なぜなら、実際に社会を変える力を発揮しやすいのはビジネスだから。
ゲーミフィケーションを掲げる人は、やっぱり、基本的にはゲーマーなのだろう。本書でも端々から香ばしくゲーマー臭が立ち上っており、なかなか好感が持てる。
ソーシャルの10年からゲームの10年へと言われて既に数年が経つ。今後の動向にも期待したい。
あと、やっぱり、チクセントミハイやカイヨワを一回ちゃんと読んでみるかな。