日々を生きる。~大切なものを失って得たもの。 -326ページ目

人生訓

壁に貼り付けられた一枚の紙に、人生訓のようなものが、

上下に何行も書かれていた。


上の段が、幸福。

下の段が、不幸。


最初の一行を読んで、白けた気分になっていた。

朝早く起きる人。

暗い気持ちで生活する人。

こんな内容が、十行以上も続いているのだった。


ショッピングモールに、隣接するラーメン屋。


麺が茹で上がるまで、妻と、娘の話をしていた。

彼女の果てしなく広がる可能性。

俺たちは、信じて疑わなかった。

子育てに関する認識だけは、ほとんど同じ考えなのであった。

いつになく、話が弾んた。


隣のテーブルも、うちと同じような子供連れだ。

お互いに、挨拶を交わす。

子供を連れていると、良くあることだった。

食事を終えて妻が言った。


「それで、テーブル拭いといて」

おしぼりのことだった。


「先に、お金払っておくから」


子供がいると、どうしても汚れてしまう。

テーブルの下に落ちた、食べかすも拾い、テーブルを拭いているとき、


俺はこんな言葉を聴いた。


「仕切り屋だね」


隣のテーブルである。

妻のことを言っているのか。


テーブルをきれいにして席を立った。


また、声が聞こえた。


「ある意味、かわいそうだね」


間違いなく、俺のことだろう。

視線も感じていたのだった。

腹は立たなかった。

言いたい奴には、言わせておけばいい。


もう一度、壁に貼られた人生訓に視線を向けた。

人生の良し悪しなんて、だれにもわかりはしないさ。

心の中で呟いていた。

心から、笑う

腹を抱えて笑ったのは、いつの事だったか。



箸が転がっても、おかしい。

そんな時が、この俺にも確かにあった。




片方の、口元だけ上げて笑う。

どこか卑屈な笑顔。

大人になり、すべての事を斜めに見てしまうからなのか。

それとも、心がすさんでいるからなのか。

考えても、わかりはしなかった。




最近のTVを観ても、笑えない。

他人を、こき下ろして笑いをとる。

くだらないことをやり、観ている方は呆れてしまう。

そして、それを面白いという事にしてしまう。

そんなものばかりだった。





娘と二人、子供向けの番組を観ていた。

ピンクや緑、茶色などの着ぐるみが出て来て、何かやっている。

特に、緑色のいちばんちいさなその生き物が、微笑ましかった。

おっとりした、緑色の生き物の行動は、あまりにも純粋で、そして真っ直ぐだった。



気が付いたら、笑っていた。



斜に構えて見ることなど出来ない、単純明快な物語。

邪推や軽蔑の気持ちなど、入り込む余地は、ない。



俺は、心から笑ったのだろうか。



娘は笑いもせず、真っ直ぐにブラウン管を凝視していた。

もう一人の俺

すれ違い様に、口に手を当て、異様なほど目を大きく見開いていた。

 

驚き方が、異常だった。

 

俺は、階下を見下ろせる4人がけのテーブルのひとつに着いていた。


その女は、同じ窓際の、一番奥のテーブルに腰をおろした。

 

喫茶店である。

 

ちょっと不気味なものを、感じた。


白いワンピースに、長い髪。

 

顔見知りか。


冷めたコーヒーを啜りながら、頭の中で呟いていた。

 

思い当たらない。

 

女は、時々こちらを観ては視線をそらすことを繰り返している。

 

 

二杯目のコーヒーを、飲み終わると、俺は店を出た。

 

家に直行という気分にはなれず、気まぐれに立ち寄った喫茶店。


早く家に帰り、子守をしなければならない。


風呂に入れるのは、俺の仕事だった。

 

エレベーターに乗り込むと、さっきの女が追うように、エレベーターに乗り込んできた。

 

「ちょっと、いいですか」

 

何なのだ。


新手のセールスか。


厄介ごとは、ごめんだった。

 

目が暗かった。


長い前髪から覗いた大きな眼が、暗い光を帯び、こちらを見つめてきている。

 

「あなた、死んだ主人にそっくりなんです」


からかうのも、いい加減にしろ。


出かかった、言葉を飲み込んだ。


壷かなにかを、売りつけるつもりか。

 

女は、かまわずに死んだ夫の話を始めた。

 

生年月日と、名前。

 

俺は、背筋に冷たいものを感じた。

 

俺と同じ、性と名前。


生年月日も同じだった。


「何で俺の名前を、知っている」


「どこで調べたんだ」



住所から調べる。


名前と生年月日程度のことならば、簡単に調べ上げることが出来るはずだ。

 

 

女は、黙って一枚の写真を、小さなハンドバックの中から出した。

 

 

「なんなんだ」

 

その写真に写っているのは、俺だった。


正確に言うと、俺に似ている他人だ。


それでも、俺だと思ってしまうくらい、俺に似ていた。



「気味が悪くなるくらい、俺に似ているな」

 

世界中に、3人。


自分とそっくりの人間がいる。

 

そんな話を、昔どこかで聞いたことがある。


それは、似ているというだけで、同じ人間というわけではない。


ましてや、同じ人生を歩んでいるわけでもないだろう。

 

俺に似ている、この男は既に死んでいる。

 

「わたしも驚きました」

 

「こんなところで、死んだ主人そっくりな人に会うなんて」

 

「ぶしつけなこと聞きますが、だんなさんは病気かなにかで」



女の目は、さらに暗い光を放った。


床に視線を落としている。



「いきなり、そんなこと聞くもんじゃないよな」

 

「自殺しました」

 

「死ぬ前に、さっきあなたの座っていたあの席で、コーヒーを飲んでいたらしいんです」


「その後、屋上から、、。」

 


夫が自ら命を絶った場所。



そこに来て、亡き夫を思い出していたのだろうか。

 



もう一度、その写真を観た。


少し引き攣った笑顔。


無理に笑っているのが、なんとなくわかる。

 


俺も、写真に撮られると同じような表情をしていた。