Gon のあれこれ -8ページ目

Gon のあれこれ

読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

殿山泰司(1915-1989)は自ら三文役者を自称し、どんな役でも声がかかれば気楽に応じ、映画(200本以上)テレビ、ラジオに数多出演した。

 

三才年上の新藤兼人とは復員後大船撮影所で再会し、後に誘われて吉村公三郎、新藤たちの近代映画協会創立(1950)に参加。

1960年の「裸の島」はモスクワ国際映画祭グランプリを受賞、

 

映画は10か国以上に売れて近代映画協会はそれまでの借金を清算したうえ、以後の同協会の映画つくりの基礎を築いた。

 

この映画のストーリーを映画。Comより拝借する。

1915年10月17日、タイちゃんこと殿山泰司は、銀座の“おでんお多幸”の長男として生まれ、36年、俳優となった。36歳の時、タイちゃんは京都の喫茶店“フランソワ”のウェイトレス、キミエと出会い相思相愛の仲になる。ところが、彼には既に鎌倉に内縁の妻・アサ子がいたのだ。

タイちゃんは、女優のオカジこと乙羽信子を介してアサ子に別れ話を持ち出すが、逆にアサ子はタイちゃんに黙って婚姻届を出し、養女まで迎えてしまう。しかし、東京でタイちゃんと同棲を始めたキミエも負けてはいない。対抗心をむき出しにして、兄の息子・安夫を養子に取ったのだ。こうして、たちまち二児の父親になってしまったタイちゃんであったが、仕事では「愛妻物語」「裸の島」といった素晴らしい作品に恵まれ、しかも「人間」では数々の賞に輝いた。その後、肝硬変、母の死、子供たちの結婚、浮気事件、様々な出来事を経て、古希を迎える年となったタイちゃん。選り好みせず仕事をしてきた彼だったが、このところめっきり仕事の依頼が減っていた。ところが余命半年の診断を受けた時、皮肉にも3本の仕事が舞い込んでくる。そして、堀川弘通監督の「花物語」への出演を終えた直後の1989年4月30日、ジャズとミステリィをこよなく愛した三文役者・タイちゃんは、キミエに看取られながら他界した。

ジャズとハードボイルドと女と酒をこよなく愛した殿山であったが、

エッセイは独特の文体、リズムがあり、嫌みなくすらすら読める。

1970年代、80年代、90年代と出張が多い仕事であったため、車中と機中で、本を読む他はない時間が結構あったし、そのころ丁度ハードボイルドとジャズに趣味があったので、殿山のエッセイも何冊か読んだ。

本を読んで刺激されても、実際にジャズを聴きに行く時間(70年代は米国からミュージシャンが多数来日した時代でもあった)や、映画館に行く時間は取れなかったので専ら本やLPで楽しむしかなかったのであるが、その渇望は86年のヴァンクーヴァー国際交通博覧会を見てニューヨークに寄り、ヴィレッジヴァンガードで確かコルトレーンを聞いて近くのバーでロックを啜りながらその余韻を楽しんで少し癒された。

 

泰司を演ずる竹中直人は泰司同様個性的で芸達者な役者であるが、

 

少し熱の入る役者であり、少し違和感があった。

また演ずるにあたってあまりメークアップ(特にくちのまわり)をしていないようだ。

たくさんの映画に出て台詞以前に独特の存在感があった泰司の記憶もまだ新しい時に、「似せる」ないし「雰囲気を醸し出す」難しさはあるだろう。唐突だが笑福亭鶴瓶ならどうだったのだろう、とも思う。

 

 

勿論配役は役者の所属など、もろもろの問題をクリアしなければいけないのは承知でいっている。

 

余談だが彼のエッセイは疾っくの昔に処分してしまったので、今回

 

 

「殿山泰司 ベスト・エッセイ(ちくま文庫)」

を購入して拾い読みした。

敗戦で捕虜になる前、大量に文書を(戦犯に問われないよう)焼却した(p83)ことや慰安婦の問題(p85)がさらりと書かれている。

かれの社会・政治批判の視点は共鳴できるところが大いにある。

 

 

 

 

 

去る6月18日にファイザーの二回目を終えて、感染リスクがやや減少したもの、とみて23日に出かける。同展鑑賞は3年連続である。

 

都美セレクション グループ展に馴染みのない方にこの展覧会の概略を記す。

展覧会は東京都美術館が開催する、グループによる展覧会企画のコンペ。具体的な作品を持ち込んでの応募とは違い、「企画案」の優劣やそのプレゼンテーション(企画書)が選考対象となる。

毎年三つのギャラリーを使って三つのグループが選択される。

審査委員は3名。因みに2022年の公募要領は、今年7月9日まで応募締め切り。グループは作家3名以上で構成し、出品各作家は過去一回以上展覧会を開催した経験が求められる。

来年の会期は6月上旬から7月上旬のうち4週間程度となっており、

今年度の会期は今月30日をもって終了。

 

今年コンペを勝ち抜いたグループは

ギャラリーA:体感A4展

同     B:暗くなるまで待っていて

同     C:版行動 映えることができない

各グループの各作家が、テーマをそのように解釈し、それをどのように表現するかは、各グループとその作家に任されている、と毎年作品の展示をみて結論付けている。

 

以下の感想は選択されたテーマやそのテーマとの関連性について云々したものではない。個別の作品で印象に残ったものをいくつか取土り上げる。

 

1,ギャラリーC 内間安セイ(王へんに星、漢字辞典にはない語)

  最も惹きつけられたのは、内間の作品群。「詩」のシリーズ。

(Short Poem)1967 木版画

(Pastral Poem)1967木版画

Poem はこの絵の枠内にあるすべての内容の符号である。

ベートーベンの「運命」がその楽譜の中のすべての音符から成り立っているように。

だから、どの部分がPoemであるか、という詮索は無意味だ。

この木版画に触れたとき、見るものは絵から先に見るにせよ、題名から見るにせよ絵と題名を脳内で一体化するのだ。

凧のような形、線や点々、あるいは横文字の反転した要素などに、内間の郷愁、あるいは幼いころの夢想を詮索することは出来る。

そうした脳内の散歩から夢想=詩情をくみ取った。

内間は1921年カリフォルニア生まれの沖縄出身移民2世。1940年早稲田大学建築家中退。戦後独学で絵画と版画を学ぶ。1960年ニューヨーク在住後、コロンビア大学の助教授、ホイットニー美術館での版画展など。2000年死去(以上沖縄県立博物館・美術館の作家紹介より抜粋)

展示されてはいないが彼の作品をいくつか紹介する。

 

 

ここから画像を拝借した。

(Forest Byobu with Bouquet)1979木版画

 

(Space Landsscape) 1,970-75 木版画

静謐さが心にしみてくるような作品に魅了される。

瞑想的で鎮静効果がある。

岡本太郎とは対極的な作品、と感じる。

 

2 ギャラリーA A4体感展

回廊をめぐり下をのぞき込んだ時から目についた作品、

作者己己(Mi Mi)の、会場全体を見渡す位置にバルコニー状に突起している物の下に 文字が縦書きで三面に書き連ねてあるボックスがある。都美の設計は前川国男(1905-1986)だが

前川国男が近代建築に「人間」を取り戻すために作ったこの「展望台」の下に、機能的必然で作られたAサイズのものを対比するように置いた、

 

 

とこの作者己己は制作意図を「論考」で語っている。

大学を出て間もないころ、都美の手前にある、同じく前川が設計した東京文化会館の向かいにある国立西洋美術館の設計者ル・コルビジェの事務所で修業したが、そこでの「ドミノ」の学びを継承発展させて前川は自分の5原則を打ち立てている。

1高層部をセットバック

2半地下

3廻廊・テラス

4分棟・広場

5樹林・サンクンガーデン

これらは威圧的なファサードや長い廻廊を避け、常に空間をヒューマンスケールの中に置きたい、という彼の設計思想の表明でもあるが、

この展示室内にあるバルコニーがその一部であるかどうかは不明である。建築法上の問題があって、バルコニーに通じる廊下が閉鎖され現在はそこに至ることができない。

 

私の解釈はこうだ。

我々は展示されている対象物を、一個一個(大概は順路に従って)

見てゆく。そこにはそこに存在している自分と、オブジェクトの間に一回限りの出会いがあり、情動と意識の中からあるものが浮かび上がってくる。それを印象や感想や批評などと名付けている。

その展示室を出たときに個々の印象などが必ずしも総合ないし合成されるわけではない。バルコニーに上がって展示物を見渡した時に、個々の展示物の総合ないし合成とは違った印象が生まれる可能性があるだろう。それが単にどの展示物に多く人が群がっている、ということを発見したとしても。わたしはその仕掛けを前川が作った、と見る。

 

もう一点は西島雄志の「枠組みの中の器」

社会的枠組みは抽象的なものではないし、その強制力も様々な形と強弱がある。それを上から「台の上の出来事として客観的に俯瞰する」ことを強いるのはとても人工的だ。あるいは「全体的」と言い換えても良い。私は上からではなく台と同じレベルで三方から眺めたが、よりリアルな感覚が得られた。

(この二作品は持参のカメラに収めたのだが、アップするのが面倒で割愛する。都美のホームページ上からA4体感展のちらしをご覧いただきたい)

 

セレクション展の感想はこれぐらいにして、次は昼飲み。

このコロナ禍で、展覧会に行っても直行直帰で味気ない思いをした。

上野駅の公園口から坂を下りてアメ横に向かったが、人の通りもとても少ない。ナッツやドライフルーツを数点購入した後、大統領で久しぶりに昼飲み。アクリルの衝立が2席ごとに並んでいるが、実質的効果は気休め程度だろう。軽く飲んで次は店外に丸椅子が並べられていつも混んでいる回転すしへ、ここでも申し訳程度のアクリル衝立。

回転台には現物を乗せず、皿の上にはネタの名前だけの小旗。

なるほど、と思って数皿頂く。

展覧会や映画、あるいは古書市など終わった後、御酒を頂きながら余韻を楽しむのが常であったが、コロナ禍で長い間それを我慢してきた。オリンピックで変異株主体の次の大きな波がやってきて、再度より厳しい宣言が出されるかもしれず、昼のみを楽しむのも長くは続かないような気がする。

 

Le Hollandaise という、壁には17世紀のオランダの画家、

フランス・ハルスの「聖ゲオルギウス市警備隊の幹部達」

と題する大きな絵が掛けられているフランス料理店が舞台。

 

当時のオランダ(レンブラントもハルスより後だが同じ17世紀)では

結社が流行し、聖ゲオルギウスと冠が付くのは、恐らくゲオルギウスを守護聖人とする結社の幹部の面々、という事だろう。

 

このレストランに泥棒の親方と妻、それに子分どもが毎夜大きなテーブルを囲む。泥棒といってもコソ泥とは違い暴力で強奪する夜盗の類だろう。そのカネでこのレストランのオーナーになり、それを笠に着て傍若無人の振る舞い。よって料理の味がわかる筈がない。

 

妻はそんな夫に心底うんざりしているが、ある夜、このレストランの片隅で一人静かに本を読みながら食事をしている、夫とは対照的な中年の男に惹かれる。

目くばせし、引っかけてトイレでセックスする。

雇われシェフもこの二人に肩入れ(泥棒は孤独だ)して厨房の一角にある書庫を使わせ、そこで度々二人は楽しみ合う。

 

さすがに泥棒も妻がトイレに行くと言っては長時間席を外すので疑いを持ち、二人の現場を突き止め、頭にきて狂気に駆られた泥棒は、

おとなしい男を嬲り殺す。勿論、殺人とは暴力の極だ。

 

愛人を殺された妻は、狂気に駆られ復讐をしようとする。

或る夜、妻はシェフの協力を得て作った特大の料理をクロスを掛けて泥棒に供する。

それはローストされた妻の愛人。言ってみれば美食の逸脱の極、

カニバリズムだ。

拳銃を頭に狙いを定め、「陰茎から食え」と泥棒に命じる。

去勢不安にかられた(その意味では正気に戻った)泥棒はどうしても、それにナイフとフォークを入れることができない。

既に狂気の妻は、それを見て泥棒を撃つ。

 

暴力の極としての殺人、美食の逸脱の極としてのカニバリズム。

その狂気を走らせる愛とトイレとキッチンでのセックス。

狂気に駆られ者たちが織り成す悲喜劇、、、

 

とくれば、シェイクスピアを想起する。

ハルス(1581-1666)の活躍した時代はイギリスではジェームズ一世(在位1603-1625)の治世にあたる。

シェイクスピア(1564-1616)がジェームズ一世の庇護を受けて絶頂の時を迎えたころ。

中年男女の悲喜劇と言えば、「アントニーとクレオパトラ」。

厨房の図書室で横になって愛し合う場面や妻が全裸の後ろ姿で

祭壇のような台に立つ姿は何となく既視感があるのだが

特定できないのが残念だ。

同時代性を想起するもう一つは絵画の中の男性たちの襞襟。

これは当時ヨーロッパで、王侯貴族や富裕な市民(特にオランダ)で流行した。ジェームズ一世の肖像画にも描かれている。

 

余談だが妻役のヘレン・ミレンも含めて泥棒も愛人もシェフも出演者はみな40代の中年。ヘレンの全裸の後ろ姿も腰回りにちと余肉が

ついている。

 

監督の Peter Greenaway は Allusion 仄めかし、暗示が多く、

時に衒学的とも言われるそうだ。

しかし見る側は、そうした部分をいろいろと追及して見るのもとても面白い。

 

ネルソン・グッドマンは「芸術の言語」において、

 

 

美的経験について語っている。

「美的経験は静的と言うより動的である。繊細に識別すること、

微妙な関係に気づくこと、記号システムとその符号を固定し、それらが何を指示したり、例示しているかを特定すること、作品を解釈すること、作品の観点から世界を、また世界の観点から作品を再組織化することー美的経験にはこういったことが含まれる(同書277p)」

 

この動的、と言う意味は、芸術の原動力が好奇心であり(中略)われわれを駆り立てるのは知りたいという衝動であり、われわれを喜ばせるのは発見である。(同書295p)

 

そしてこの発見は、見る度に、読む度に、聞く度に新しい発見をもたらす。どんな素晴らしい絵でも、映画でも、詩でも繰り返し触れれば、そのうち一時的に飽きが来ることもある。

 

「一つの作品が、不快なもの、魅力的なもの、心地よいもの、退屈なものと言う形で順次変わっていくこともある。(中略)

われわれは未開拓の部分に目を向ける、そして、ある記号に対する興味の頂点は、気づきの得られる時点ー不明瞭なものから明白なものへと移行する途中のどこかーで生じることが多い。

それゆえ今までになかった見方によって、新たな意義ある微妙な差異が見いだされる可能性がつねにある。(中略)

そういうわけで美的価値の変遷と持続は、美的価値の認知的性格からすれば、ごく自然な帰結である。同書p296-7抜粋)」

 

壁に掛けられたハルスの絵、同時代の英国でのジェームズ一世と襞襟、狂気に駆り立てられた人間の悲喜劇を描いたシェイクスピア、ジェームズ一世の後ろ盾を得て押しも押されもせぬ存在になったシェイクスピアの中年男女の悲喜劇は「アントニーとクレオパトラ」、、、

 

という糸を手繰って描き上げたこのブログ、少なくとも私の好奇心を大いに満足させてくれた。

 

余談だがいつも面白く拝見している、ゼルダさんの「シネマの万華鏡」

数日前にこの映画についての記事がアップされた。

 

 

​​​ベルイマンのDVDを借りたのだが、重いテーマのベルイマンの息抜きに、と思ってついでにこのDVDを借りたのだが、思わぬ面白い体験をさせてもらった。

余談ついでに言うが、レストランのホール、キッチン、外部などで色調が変わる。この変化については

 

「この映画はファンタジーですよ。

だから、この映画の中にあること、外にあること(シェイクスピアはその一例)をともに楽しんで」

 

というメタメッセージとして受け取った。

 

美食の果てのカニバリズム、暴力と殺人、トイレとキッチンでのセックス、、というおどろおどろしいテーマとそのコントラストの激しさを

このメタメッセージで最後の盛り付けをしているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

90分のこの映画、ストーリーを語ることは容易だが、その解釈は多義的で冗長性に富み多様なものになるであろう。

先ずはそのストーリーから

スウェーデンのある地方に“お城”と呼ばれる大邸宅があった。時は19世紀末の秋。広々とした屋敷には37歳になるアグネス(H・アンデルソン)が、召使いのアンナ(K・シルバン)とともに、両親が死んで以来取り残されたようにひっそりと暮していた。彼女の人生に男性が現われたことは一度もなく、今は、病んでいた子宮ガンが急に悪化したためベッドに臥せていた。そのアグネスの見舞いに姉のカーリン(I・チューリン)と妹のマリア(L・ウルマン)が駈けつけてきた。カーリンは既に二十歳にならぬうちに二十歳年上の優秀な外交官フレドリックと結婚しており、5人の子供がいたが、結婚後すぐ自分の選択の失敗を悟っていた。子供たちには母親らしい愛情を抱いて接したことがなく、夫に対するどうしようもない軽蔑と人生に対する敵意を抱いていたが、世間には貞淑な妻と見せかけていた。末の妹マリアも成功した商人ヨアキムと結婚しており、5歳になる子供がいたが、彼女自身子供っぽく、美しくして人眼をひくことにしか関心を示さなかった。召使いのアンナは30歳ぐらいの健康で素朴な田舎女だった。若い頃に生んだ子供は3歳で死亡し、以後アグネスに献身的に仕え、2人の間には主人と召使いという以上の親しいつながりがあった。

暁方、アグネスの容態が急に重くなり、そのまま息を引きとった。その夜、牧師の祈りの言葉がカーリンに暗い思い出を呼び起こさせた。夫との心の通わぬ夕食のとき、ワイングラスを壊した彼女は、その破片を歓びのない自分の性器深く突き刺した。彼女はベッドに横たわり、血まみれの肉体をひらいて夫を見すえた……。カーリンとマリアがアグネスの日記を読むと、そこには友情や神の恵みについての言葉があふれていた。苦しみの中で、彼女がそれを心から感じていたのか、それともそれらの事柄に飢えていたのか、二人には判らない。二人は自分たちの冷たい空気について話し合い、カーリンは率直に妹マリアへの憎しみを口に出し、許しを乞う。そのとき、アンナが子供のような泣き声を聞きつける。その泣き声はアグネスだった。アグネスはまずカーリンに救いを求めるが、彼女はアグネスを愛していないからといって冷たく去っていく。マリアはアグネスを見棄てない、というがやはり自分のことしか考えていない。アグネスは結局最後にアンナに添寝されながら、母親に甘えるようにアンナの膝に頭をもたれて永遠の安息の時をもつのだった……。

葬式がすむと、カーリンとマリアは冷え冷えと一族再会を約束して、右と左に別れていく。唯一人、後に残されたアンナは形見にもらったアグネスの日記を読み返す。

「姉妹三人が昔のように集まったので、久しぶりにそろって庭を散歩する。明るい日光、明るい笑い。世界中でいちばん近くにいてほしい人が、皆私のそばにいてくれる。わずか数分間のたわむれだが、私にとっては楽しかった。人生に感謝しよう。人生は私に多くのものをあたえてくれた」。(MovieWalkerより適宜抜粋改ざん)

 

 

内心に深い憎しみーそれは結局自己嫌悪に他ならないがーを蔵する長女カーリンは黒いドレスを、自分の性的欲望に奔放な末娘マリアは赤いドレスを、ドレープも絨毯も赤い部屋に住む次女アグネスは白いドレスを着ている。ドレスによる性格の暗示。

 

ベルイマンは子供の頃から、魂の内側は赤い色をした薄い粘膜である、と想像していた。(人と思想ベルイマン2000年第一刷p161)

ここから人は容易に子宮を連想するだろう。

 

 

 

併せて著者の小松弘は、ベルイマン自身の言として

「大きな赤い部屋に白い衣服を着た三人の女がいて、何かをささやき合っている、というこの映画を作る数年前に見た夢がこの作品の基になっている」と書き記しており、「夢に基づいているこの映画は(それ故)夢と現実、記憶の風景と幻影の境界がはっきりとつけられない作品になっている」としている。

そう言ってしまえば、アグネスが医師から死亡を確認された後、キリストが復活したように叫んでカーリンとアンナを代わる代わる枕頭に呼ぶのだが、それも夢の世界の出来事と片付けることが出来よう。

 

確かにこう解釈すれば一件落着なのだが、しかし「夢と現実を区分するキュー」がない。

例えばタルコフスキーの「ノスタルジア」では「夢想は白黒画面、現実はカラー」という明確なキューがある。

この現場に立ち会った二人の姉妹と召使いアンナたちも揃って同じ夢を見ていたのだろうか。

 

なんにせよ、合理的な解釈を求める私の魂は、アグネスは仮死状態から一次的に復活した、と見ることも出来るのではないかと考える。一方合理的解釈は新たな非合理的解釈を生む、というよくある現実もあるからこの説の危うさもある。

さすれば、井戸端会議風に「アグネスは死んでも死にきれず蘇った」とすれば良いのだろうか。どうももやもやは消えないのだ。

この復活はアンナの恐怖(ないし願望)を反映しているかも知れない。

(これは)現実と夢の境界を曖昧にし超自然的なものを呼び寄せている、とする見解もある。ベルイマンは邦訳のないインタビュ

(Egil Tornqvist 1995)で

死は究極の孤独であり、アグネスは生死の裂け目に宙づりになっている。そこにおいては何があっても不思議ではない。この状況は実際にも映画でも知ることが出来ない。

そこにキリストがいるのだ。

 

と語っている。

 

アグネスは日記を、姉妹とともに過ごした楽しい時間を「人生に感謝しよう」と閉じるわけだが、蘇ったとき、姉カーリンはアグネスに触れることを拒み、マリアはそそくさと立ち去る。

最後再び息絶えるとき、アンナだけが添い寝してくれる。

その関係性の現実がアグネスの「本能的直感」であり、

その孤独感が「叫び」になり姉妹を自分の枕頭に呼び寄せるのだ。

 

一方アグネスの「死」が呼び寄せたカーリンとマリアは、アグネスがマリアに対する憎しみを口にしたことを契機に、和解し互いに触れ合う。

この場面は言葉は発せられず、背景の音楽のみ。

それが一時的にもせよ、邂逅には言葉より身体接触なのだ。

この場面をタルコフスキーは

「叫びとささやき」の中に、極めて印象的な最も重要なエピソードがある。二人の姉妹が父の家にやってくる。彼女らの姉がその家で死にかかっているのだ。

(「刻印された時間」p282原文のまま以下同)

やがて姉妹は二人きりで残されるのだがある瞬間、非常に親密で人間的なつながりを感じる。そして、、、お互いを慈しみ合う。こうした瞬間は束の間の儚いものであるがゆえに、いっそう激しく待ち望まれている。彼女たちの短い交流のシーンの中で、ベルイマンは台詞の代わりにレコードでバッハのチェロ組曲を流した。印象は幾倍にも強められ、深さと広がりがそこに添えられた。この何か精神的な高みへの、肯定的なものへの出口は、幻影であることが強調されている。それは夢であり、存在しないし、しえないものだ。しかし芸術の助けを借りると、その幻影でしかない出口さえも、観客にカタルシスや精神的解放、浄化を体験する機会を与えるのである。

芸術はわれわれの存在の意味を象徴している。

 

 

映画はわれわれの存在の意味を象徴し、精神的解放や浄化の先に「希望」と「信仰」を与えることが使命、とするタルコフスキーには、

恐らくアグネスの「復活」は存在了解の為の障害にはなり得ないのだと思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ベトナム戦争(1965-1975)の最盛期に公開されたこの映画、

当初の題名は「戦争」であったが、ベルイマンは「恥」(Shame)に改めて公開した。彼自身はベトナム戦争反対の立場であったから、その意味するところは小さくないだろう。

あらすじは

エヴァ(リヴ=ウルマン)とヤン(マックス・フォン・シドウ)夫妻はオーケストラのバイオリン奏者であったが戦争が始まったため島の農園に移住する。戦闘機から脱出した兵士が農園の近くで撃ち殺され、戦闘が迫ってきたことを感じ逃げ出すが、軍隊と出会い、従軍記者にインタビューを受け、ヤンは答えないがエヴァは中立ではいられないという。

農園に戻った二人は敵に協力した、とされ収容所に拘束されそうになるが、大佐で市長のヤコービに取りなされて救われる。

そのエヴァに対する”貸し”をヤコービはエヴァに金を払うから体で返せと迫る。昼間ヤンが休んでいる時二人は温室に出かけ情交し、

エヴァとヤコービ

エヴァが居ないと気付いたヤンは寝室に探しに行って空のベッドに札束があるのを見つける。エヴァは戻ってくるがヤコービは戸口で引き返す。折から敵対する側の軍がやってきてヤコービを拘束する。ヤコービはエヴァに渡した金と引き換えに解放を求め、軍はヤンの家を家探ししバイオリンまで破壊するがその金は発見できない。

そこでヤンにピストルを渡してヤコービを撃て、という。

最初は躊躇しながらもヤンはヤコービの体に数発撃ちこむ。

その後、二人の破壊されたぼろ屋に若い脱走兵が来て、食べるものを強要する。エヴァはそれを与えるが、ヤンは居眠りをした隙に銃を奪い、外に追い立て殺して靴など奪略する。

ヤンは脱走兵を殺す前に、ある浜辺から脱出する船が出ることを聞き出しその船に乗ろうとするが、エヴァにはついてくるかどうかは好きにするがいい、、と言い放つ。エヴァはヤンについて浜辺に行き、二人はヤコービから得た金を払って漁船に乗り込む。

海上に乗り出した船は島影の見えない場所でエンジンが故障し、船長は入水する。食べ物も水も尽き他の乗船者は次々と死に船外に浮かんでそれをヤンはオールで突き放す。

最後に二人きりになってボートの船底に横たわり、エヴァはヤンに自分が欲しかったがヤンが拒んだ子供を産む夢想を語る。

夢を見たわ、きれいな通りを歩いていた。

片側には古い建物、アーチや円柱のある建物よ。

反対側には緑の公園、生い茂る木々の足元に

小川が流れているの

高い壁があった。バラに覆われた壁。

突然戦闘機が来て火を放った。

炎に包まれたバラはとても美しかったわ。

燃え盛るバラが小川に映っていた。

私は赤ん坊を抱いていた。

私たちの娘よ、抱きしめると娘は唇をギュッと押し付けた、

私の頬に

 

私は必至で何かを見出そうとしていた。

誰かの言葉を

でも見いだせない。

 

エヴァは目をつむり画面は暗転して終わる。

 

ベルイマンが「戦争」という題名を変えようとしたのは、ベトナム戦争たけなわの折それに関連付けられるの嫌ったからだろう。

ひとはどんな小さな戦争、内乱であってもそれは否応なく名もなき我々の生活に侵入し、破壊する。

その破壊は建物や道路ばかりではない。平時には保たれる我々の良心も保つ余裕がなくなるのだ。

争いを嫌い、臆病で小心なヤンも、自分の命と等しいバイオリンを破壊されて何かを捨て去る。

そのヤンの変貌もまた、この映画の視点の一つだろう。

 

一方のエヴァは、性を求めるヤコービも心の中は傷ついていることを知り抱きしめる。脱走兵にも温かい食べ物と寝る場所を与えようとする。彼女の心は戦争に傷ついても破壊されないのだ。

 

「恥」とは何だろう。

自分たちを救った代償に妻の体を奪われる「恥」

その恥を雪ごうとヤコービの体に弾丸を打ち込む。

或る敷居を超えてから、少年兵から強奪することを何とも思わない。

もう自分が生き延びること、自我しかないのだ。

この変貌は「恥」ともいえるだろう。

これを「恥」とするには、より高い見地がなければならない。

 

キリスト教の神にアンヴィバレンツな感情を持つベルイマンの

この映画には、明確に「神」を主題にしてはいない。

しかし、神なき人間のエゴイズム、が伏流している、

と見ることもできよう。

それがエヴァの最後の言葉、

見出そうとして見いだせない誰かの言葉、

につながっていると思うがどうだろう。

 

余談だが、「ソラリス」や「ストーカー」「ノスタルジア」などの監督

アンドレイ・タルコフスキーは、この映画について

彼(ヤン)は力も性格も弱い男である。妻は彼よりはるかに強い。人生と諸状況が、それにもかかわらず、彼が自己防衛を強いることになるため、彼は徐々に悪党に変ってゆく。

かれは自分の中にあった素晴らしいものを失う。

しかしこの時の悲劇と不条理のすべては、この新しい性格ゆえに、彼の妻にとって彼が必要になってくるということだ。

以前と同じように、妻は夫を軽蔑している。

妻は、夫が彼女の顔をたたき、出ていけ、という時だけ彼に取り入るのだ。善の受動性と悪の能動性という、世界の始まりと共に古い理念が響き始める。

にわとりさえ殺せない彼が、身を守るすべを見出すや否や、彼は残忍な冷笑家になるのだ。殺人や侮辱という汚れた必然性をまえにして恐怖を味わうためには、非常に正直な人間でなければならないということが問題なのである。この恐怖を失い、そのことによってあたかも勇気を獲得したかのようになることで、人間は実際、その精神性と知的な誠実さを失い、自らの無辜と別れを告げるのである。戦争はとりわけ明瞭に、人々の中に残忍な、反人間主義的原理を誘発する。(「刻印された時間」217-219適宜抜粋)

 

「善の受動性と悪の能動性」

もう余り付け加えることもないだろう。

 

私はカルメル会女子修道院から帰ってすぐ受洗した。

受洗へ私を押しすすめたことについては決定的な一つのことがあったのではなく、いろんなことが重なって受洗というところにへ焦点を結んだのであり、そのうちどれ一つが欠けてもそうはならなかったであろう。(霊的な出発1985年p155)

この5月3日の高橋和己50回忌のブログを書いた際、

妻であった高橋たか子さんが75年洗礼を受けたことを初めて知った

 

受洗へ決定的な一つは無かった、というが少なくもその端緒はある。

1967年和己は京大の助教授に呼ばれ、京都に行くが、たか子は

鎌倉に残る。そして一人パリに旅発つのだ。

1966年。34歳。この年の春頃、京都時代に環境から蒙った根深い男尊女卑による、生命力圧殺の症状がふいに昂じて、強度のノイローゼになり、以後数年断続することになる。

(京都の環境にいるとき)すでに、半ば死んでいた。

なかば死んでいた私を、救い上げてくれたのが、高橋和己であった。

彼だけが、女としての私を軽蔑しなかった。

私の中に私自身の気づかない能力を夢見て、その夢の力で私をぐんぐん引き上げてくれたのだった。

そうして私は、内的に大きく成長した。

生き生きとした私がそのころから顕れてきた。

夢の力と言ったが、愛の力といってもいい。

(一方)高橋和己がいくらか社会的地位を得て京都の環境に馴染んでいくにつれ、いっそう、芸者とバアのホステスと女優と歌手以外の女を無視する男性社会が、私に対して壁のように立ちはだかるのがわかった。

東京へ行こう、東京へ行こう、と私は思うようになった。男女が互いに人間として話が出来、誰でも自分がどういう文学が好きかを発言できることのできる、東京へ。(二十五年の後にp152-155抜粋)

 

 

和己が「捨子物語」で酷評をあび、それに耐えられなかったために、京大文学部中国文学科の助教授職にぽいと乗ってしまった。

年末に、京都から小川環樹教授が鎌倉に出向いて来て、吉川幸次郎教授の意向を口にして、和己はそれを受け入れてしまったのだった。

(文芸編集長をはじめとする作家高橋和己を支援する)東京側と(京大中国文学アカデミズムの)京都側の力のせめぎあいは、和己が京都に決めてしまって決着した。折しも、私はノイローゼの只中であった。和己が受諾することに決めたとき、直ちに私は私で、鎌倉に残ることに決めた。

数日して、たぶん1967年一月一日だったような気がする。

夜、(和己は家にいなかった。彼も悩みに悩んでいて飲み歩いて何日も帰ってきていなかった)私は鎌倉から京都の吉川幸次郎教授の所に電話した。

普段は公的に話しかけることのためらわれた、この大学者にむけて、私はせっかく東京に出てきた高橋和己を、京都にひっぱり戻すなど、勝手なことをしてもらっては困ります、と言った意味のことを、ずけずけと言った。

私は京都に行きません。このことで私たち夫婦は別居ということになります。別居は離婚につながります。と私は言った。

奥さん、怖いこと言わないでください。

と中国の倫理で身を固めた大学者は言われた。

1967年の四月に一人でパリに立った時、気持ちとしては離婚の様なものであった。(同書160-163抜粋)

パリ行きは一種の転地療法の様なものであったらしいが、滞在中教会でパイプオルガンを毎日聞きに出かける。

 和己は70年4月結腸がんが見つかり手術する。以後71年5月3日に亡くなるまでたか子は病床で和己を看病する。

死別後たか子は本格的な作家活動に入る。

 

1975年6月遠藤周作の紹介で、北海道のカルメル会に一週間ほど滞在し、その報告がてら遠藤周作にあって入信を勧められ受洗する。

1980年からパリで「霊的な手探り(霊的な出発152p)」がはじまり

一間きりのアパートに住まいながら、陰修者として孤独と沈黙のうちに修道女と同じ祈りと静寂の生活を送る。

 

信仰と作家との関係については

アヴィラの聖テレジアによれば、人間はひとりひとりが内部の「霊魂の城」をもっている。「城」は七つの部屋から成っていて、第一の部屋、第二の部屋、第三の部屋、、と奥へ奥へ連なる。そして第七の部屋が一人の人間の中心であり、そこに神が存在する。

けれども彼女によれば、多くの人は「城」の城砦の外、即ち社会、生活、家族、仕事、人間関係といった事象と共に生きている。

しかし、「城」の中へ入る人も、中で外と同じようにいろんな事象に出会う。中へ中へと入って第七の部屋まで行こうとする人に、しつこく邪魔をするものがある。それを彼女は「有害の獣たち」と呼んでいる。

私の体験では、第一、第二、第三の部屋を行き来しながら、小説を書いている様である。それは古典的名称で説明すれば、悪魔が引き起こす現像のことであり、現代的な言い方をすると、単なる想像力と記憶と思考力のもたらす心象というよりも、これらの相乗的作用で宙空に多彩な竜巻の様なものが現出して、そこに巻き込まれて、その眩暈のうちに目にくるくると飛び込んでくる心象、といえばいいだろう。

小説を書いている時、私の内部にぽっかり穴の様なものが開いていて強い命のぎらぎらするものが下から湧きたって、私はと言えばそれを上から覗き見ている、といった感じなのである。

さて第四、第五、、、と中へ部屋をすすむにつれて、人間の能力、想像力や思考力の働きよりも、神の力の働きのほうが強くなってくる。小説を書いている時のあの湧きたっているものは、第三の部屋あたりまでらしく、その先は澄んでき、沈黙の領するところが大きくなってくる。

或る種の芸術家が創作によって潜入する人間内部と、聖テレジアが祈りによって潜入した人間内部とは、まったく同じところであり、けれども芸術家は芸術を捨てないと、祈りによって行けるずっと先のところに行くことが出来ない。

(小説家として)小説の体験と祈りの体験とが同じ場所で行われることが、体験的にわかるので、「霊魂の城」の具体性がありありと目に見えるようだ。

聖テレジアが「霊魂の城」で表現しようとこころみている、表現を絶する人間内部ーこれはまさに存在論そのものであり、一人の修道女が、ただ祈りを通してのみ自己を凝視し他者を凝視することによって、芸術家並みの近く力と繊細さと鋭敏さとで、芸術家のいけない先を体験的に知り、それを表現した、とはじつに素晴らしいことである。

(神の飛び火p144-148抜粋)

 

修道女といえば私には忘れられない方がいる。

20代後半、某大学のキリスト教教育研究所が米国から講師を呼んでOD(組織開発)のトレーナートレーニングに参加して同じ参加者の、北海道の女子修道院付属の高校の校長で後に修道院長になった方であるが、夕食後の自由時間にビートルズでGogoを共に踊って邂逅した。その方は屈託のない明るい笑顔と眼鏡の奥に知性がキラキラと光る素敵な方であった。

その明るさは、祈りによって神と共にある、神を愛し神から愛されている人の境位から来るなにものか、であった、と今ではわかる。

(その方とは上京された折連絡をいただいてお目にかかったり後には年賀状の交換のみとなり、ついに一昨年神の御もとに旅立たれた)

 

プロテスタントとして生涯を終えた母のもと、小学生のころから隣の市の教会の日曜学校や夏期学校でイエスキリストと聖書に多少馴染んでいたが、兄のように受洗はせず、以後しかし自分がイエス・キリストと神のもとにあることを時に鋭くそれを意識せざるを得ない時もあった。

 

キリスト教徒はカトリックもプロテスタントも含めて文化庁の推計では1%(平成26年)に落ち込んでいるらしい。

「赤信号みんなで渡れば怖くない」という集団志向の、

あるいは「その場の空気」が往々にして支配し、結果責任の所在が不明になる日本社会では、キリスト教の神を、言葉においても行いにおいても己の絶対的な導とする事は往々孤独な途を行く事である。

 

一方、子供のころ母親からよく言われた「神様が見ている」と言うことは、神の目から見て悪いことをするな、という事でもあるが、苦しみの中にあっても、神が見守っていてくれる、という支えでもある。

一時期礼拝に参加した事もあったが、例えば西欧の美術館に行けばキリスト教絵画を豊富に見る機会があり、観光地としての教会も多い。そして、映画でも例えばベルイマンやタルコフスキーを鑑賞すれば否でもキリスト教を意識せざるを得ない。

 

こうした事で神の存在は近くなったり遠くなったりしているが、

洗礼、という事になれば大きな決断がいる。

 

まず処女懐胎や復活、という三位一体の根幹をなす事柄をどうやって受容するのか、という論理的なハードルがある。

高橋たか子さんはそのハードルをどのようにして乗り越えたのだろうか、ということも今回彼女のエッセイを読む関心であったが、そうした事は通り過ぎて、まっすぐにエロスからアガペーへ、神との愛に向かったようである。パリ滞在中、何人かの神父との出会いの中、神父の言の中にも神の啓示と解してぐんぐんと先に進んでいる。

論理ではなく感性で、頭ではなく身体全体で神に向かっている。

 

祈りと瞑想。

新旧を問わずキリスト教にも仏教にも祈りと瞑想は中核的な行為だ。

祈る行為は自分の卑小さの認識でもあり、祈りの中から自分を見つめなおす余地が、新しい自分に生まれる可能性が生まれる。

瞑想は荒立つ魂を鎮め、浄化する。

祈りはどんな時にでも可能であるが、瞑想は時に妄想を生む。

夕食前に25分前後、時間がない時には10分でも瞑想をするが、

瞑想は、一度指導を受けた方が良いだろう。

瞑想の間に生まれてくる妄想にどう対処するか、は自習できない。

私は上座部ー今もスリランカやミャンマーに残る仏教の瞑想法を実践しているが、千葉山中の道場で10日間の合宿で指導を受けた。

これを受けるために仏教に帰依することは全く必要とされていない。

 

 

先に処女懐胎や復活に触れた。

これを「史実」-論理 と捉えるか、「象徴」ー変容と捉えるかでハードルそのものが異なってくる。これはキリストの奇跡についても同様だ。

たか子はイエスのガリラヤ湖の水上歩行(マタイ伝14章他)は象徴的な事として以下のように理解する。

自由で豊饒だけれども、嵐に荒れる危険な命の海は、もし私たちがイエスと共に歩くとき、嵐はやみ波はおさまり、混濁していた水は澄み、そして私たち自身水上を歩くことができ、自由と豊饒を味わうことができる。(霊的な出発p69)

 

そしてガリラヤの海は人間内部の心の海を意味し、我々がイエスを忘れると心の海が荒れ、船に乗ると嵐が止んだ、という時の船は教会のことと解する。

この伝でゆけば、「受肉」も例えば我々の内なる神のことと理解することも出来よう。

しかしこの象徴ー変容によって高橋たか子は神の声を聴き、神の存在を身近に感じ、安らかに一生を閉じ神の御許に昇天することができた。これ以上の何を望むことがあるだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日5月3日は、作家、中国文学者の高橋和巳が残念ながら

1971年39歳で早逝してから50年の忌日である。

 

今私の手元には、文芸(河出書房新社)1971年7月、高橋和巳

追悼特集号があって、京都大学の恩師吉川幸次郎の哀辞がある。

 

詩に関する学の進歩の遅遅たるを恨む私は、私の才力の有限を感ずる故に、いっそう学者としての君に期待した。

嘗って私は君と六朝の詩人たちを論じ、君の最も敬愛した陸機、また潘学、石崇、、、みな平常の死を得なかったことに言及したときは、高橋よ、君は感慨を発して、本当にそうですね、といった。

君の病によっての死は、人々の死と同じでないけれども、高橋よ、私は曽ての君の感慨と似た感慨を抱かざるを得ない。

私は私の哽咽を君の霊にささげる。尚くは響けよ。(抜粋)

 

    付記:哽咽 こうえつ、むせび泣くこと  尚くは 久しくは

この切々たる辞は読む度に涙がにじむ。

 

同号では葬儀委員長を務めた埴谷雄高を始め、小田実、野間宏、桑原武夫らの弔辞や在りし日の和己との思い出が綴られているほか、

妻で後に小説を書くたか子の「臨床日記」などがある。

 

小説といえば、ゲーテのいわゆるBildung(修養)小説と言われるマイスターや詩と真実などを読んだぐらいであったが、学生の頃仲間で話題であった高橋和己の書を手に取った。最初は「邪宗門」であったかと記憶している。

 

高橋和巳は学生時代に読んだ唯一、と言ってもよいくらいの小説家であり、50回忌にあたり、彼の最も敬愛した陸機についての博士論文「陸機の伝記とその文学」を彼への哀悼の気持ちを込めて読んだ。

(高橋和巳作品集9所収)

 

 

 

1959年博士論文として提出されたものだから、中国文学専門外の私にはよく意味のとれないところがある。

そこで高橋の後輩で同じく吉川門下の興膳宏の著作1973年中国詩文選の一つ、「潘岳 陸機」に助けを借りた。

 

 

 

陸機(261-303)は三国志の一つ 呉の国の名家に生まれた。

呉の国は、曹操の魏国を北に、劉備と諸葛孔明の蜀を西にした中国南部に位置し、孫権が229年建業(南京あたり)に呉王朝を立てた。

以後この建業に都を置いた東晋、南朝の宋、斉、梁、陳の各王朝(589年)までを六朝と呼ぶ。

孫家と陸家は姻戚の深い関係にあり、また、陸機の青年時代には王朝成立から既に50年前後経過し、独自の文化的風土が形成されていた、と和己は見る。

 

しかしその呉は後継者争いや内部争い、当初は英明と言われた孫晧(264-284)が酒色に溺れて国が乱れた。一方魏では265年禅譲により晋王朝が成立し、国力を蓄えて建業に侵攻し280年呉は滅びた。

 

呉の名家として富裕な生活を送っていた陸機の人生は、呉が晋に滅ばされたことで逆転する。

陸機は儒教を学んだが、儒教とは為政者の仁徳を持って政を司り、しかも謙虚を個人の徳とする。孔子は沢山の英明な弟子を育て、自らは宰相として仕官することを希ったが遂に果たせなかった。

儒教には老荘思想にある隠棲の道は予定されていない。

 

陸機は弟の陸雲とともに詩才を謳われたが、詩才は全軍を鼓舞する将軍の武器でもある。

例えば魏の太宗曹操は優れた詩人としても名高い。

20歳で呉が滅亡し、自らの才を天下に知らしめる方法を模索すれば、晋の都洛陽で名を上げるより他はない。

洛陽に出ても儒家の陸機は、戦争に敗れた国から来た、しかも国乱れて敗れた、と言うことが重なり屈折した心情であったろう。

 

洛陽に出るとき、陸機は以下の詩を読んでいる。

 

たづなをとりて長路に登り

嗚咽して密親(親しい人)を辞す

行き行きて遂に遠く

野途むなしくして人なし

 

夕べに憩いて(自分の)影をいだいて寝

朝にゆきては思いをふくみて泣く

枕を撫でて寝ぬるを能わず

衣を振るいて独り長く思う

 

都に出てみたものの頼るべき呉人はもとより居らず、

引き立ててくれる高官をさがして張華(232-300)を訪ねる。

張華は当代きっての文人でもあり、第一線を退いてはいたが国家の重鎮でもあった。だがいかんせん北方出身の傍流ではあったが。

 

張華は陸機の詩才を聞き及んでおり、陸機の呈した文章を読んでその天才的な才能に舌を巻き、陸機と弟の陸雲を晋の有力者に紹介する。しかし南人、敗北者の呉人である二人を見る目は冷たかった。

あるとき笵陽出身の貴族廬志に満座の中で

「陸孫と陸抗はあなたのなんに当たるかな」

と父祖の名前を本名を使って出される。当時は本名で呼ばず、

字(あざな)や官名で呼ぶのが礼儀とされていたのである。

しかも呼び捨てだから無礼・侮蔑であった。

しかし陸機はさりげなく

「君と廬いく、廬梃の関係と同じだよ」

とやり返す。

これが廬志に恨みを残し、後々彼の死に繋がる讒訴に至るのであるが、単に気が強い、と言うのではない。屈折した思いを背景に、へりくだること、阿ることを良しとせず、また対抗心もあったろう。

 

渇くとも盗泉の水を飲まず

熱くとも悪木の陰に憩わず

悪木 豈に枝なからんや

志士苦心多し

 

飢えては猛虎の窟に食らい

寒えては野雀の林に栖む

日は帰るも功は未だ建たず

時は往きて歳はすなわちくる

 

人生 誠に未だ易からず

なんぞここに此の衿を開かん

わが耿介の懐いをかえりみ

俯仰して古今に恥ず

 

自らを尊しとするが故に安易な妥協は出来ない

しかし仕官しなければ功も立てられない

気概、誇り、、、

それを証明するために如何とするか

人生は誠に容易ないとなみではない

人生の途上でどうしてこの胸の内を開かすことができよう

同化せず独自の信念を貫く生き方(耿介)

をしようとの決意を抱きつつも、古の賢者のごとく

その通りに行動し得ないことが口惜しくまた恥ずかしい。

 

陸機の心中は一言で言い尽くされるものではない。

上洛前の弁亡論では呉の滅亡の因を論じて歯ぎしりをし、

陸家の先達を称揚して自らを鼓舞する。

 

ここに陸機の詩や賦(散文詩)の魅力がある。

 

​​​​陸機は妻子(二人)あるも そのことを語らず、官吏としての仕事も語らない。友との交わりを語らず社会の有様に悲憤慷慨を吐かない。

具体的な事柄を超越して人間の運命を語る。

 

悲しいかな、川は水を集めて以て川をなし

水はとうとうと流れて終日止まない

人の世は人を集めて社会とし

人はだんだんと老いの坂を下ってゆく

いつの世にも新らたなる人はなく

何人も一つの世に久しく永らえる事はできない

 

先に友との交わりを語らず、と述べたが、政権の所在は不確かでめまぐるしく変わり、今日の友は明日の敵となることがしばしばの時代。

心を許す交わりを、その交わりに信を置き安住する事はできない。

 

高橋和巳は、この時期について

まことに多くの人材と才能が暗い政治の深淵に足をとられて死んでいった。希望を失って故郷に帰る者もあり、浪費と遊宴にあけくれる者もあったが文人たちの多くは憑かれたように権力に接近しようとし、政治的陰謀にも多く加担した。

しかも、来たるべき南朝の文学の方向を決定したのは彼らだったのである。(南朝の)修辞主義的傾向が急速に一般化したのは、発表や鑑賞の場の、軟化した清談の座との一致、表現自体のへの注目と批評ーあるいはまたそれに環をかける競争意識や、豪華なものにより高く価値を与える貴族的嗜好など(による)。

陸機個人は文章自体の政治的効用や道徳性に執着したけれども、

(残念ながらそれを)喪失していった空白的自由さも要因の一つであろう。

 

陸機は「文の賦」によって文章論を著した先駆者である。

そこで陸機は創作に取り組むまでの動機、事前に構想を練りそれを文字に写すプロセス、文の効用、文体論、文章の音楽性、創作技術等を論じた包括的な文学論である。

 

中国語の四声の確立は五世紀後半と言われるが、陸機は「音声」を五色になぞらえている。いずれにしても中国語が抑揚が豊かで、

これが詩の音律をもたらしている。

そして一字一音であるから五言詩、七言絶句は五音と七音、

俳句や三十一文字の源流である。

 

 韻が大切な詩を、多言語に翻訳する時、失われるのものは多いのだが、日本では、四書五経は寺子屋や藩校で教えられ明治以降は「漢文塾」で学び明治の文豪と言われる人たちは漢文の素養が基礎にあった。更に脱線するが、和己も師の吉川幸次郎も中国語を四声で学んでいる。だから和己は文化大革命のさなか、訪中して紅衛兵と会話している。四声を学ばなければ漢詩も唐詩も本当には味わえないのだが、そこまでするには時間とエネルギーが大変だ。

まあ太極拳程度の中国語門外漢としてはなんとか筆談出来れば了としている。それでも中国語解釈参考書は読む必要があるが。

 

哲学者熊野純彦(1958~)が著した三島由紀夫論

 


があり、その はじめにー三島由紀夫と高橋和巳 という一章があり、

和己の三島論や和己ー三島の対談などに触れた後、

そして五十年の月日が流れ去って、高橋和巳は忘れられた。いっぽう三島由紀夫の作品はなお読まれ続けている。

一つの時代を生きて、同じ世代に迎えられ、ひとしく支持をうけた。高橋は時節に殉じて作品とともに消え、三島が時代を超えて生き残った、ということである。(同書7p)

著者は三島の自決も和己の死も中学生くらいだったのだろう。

だからといってそう簡単に高橋和巳を「時節に殉じて作品とともに消え」などと安直に決めつけないでもらいたい。

 

和己の没後25年、河出書房から「高橋和巳コレクション」全10巻が刊行されている。先に紹介した「高橋和巳作品集」では吉本隆明や野間宏、埴谷雄高や竹内好など錚々たる大家が巻末論文で高橋を論じているが、「コレクション」では巻末のエッセイが俵万智や中沢けい、あるいは妻の高橋たか子を含め全員が女性。

高橋夫妻

その9巻「日本の悪霊」では妻のたか子の友人であった三枝和子が

以下の文を書いている。

(この巻には、高橋ー三島の対談が掲載されている)

 

 

なくなってから四半世紀、新しい発想でコレクションの刊行が企画され、順調な成果が上がっていると聞く。新しい発想とは、生身の高橋和巳とも、高橋和巳の文学とも全く無縁でいた世代の人たちからの見直しである。彼女たちが、まるで明治か大正の文豪を扱うような感じで高橋和巳を読んでいるのが私には面白い。(486p抜粋)

私が面白く感じたのは、明治か大正の文豪云々である。

高橋の小説はむつかしい漢字の多い文体で、漢文の教養がベースにあった文豪たちとその面で似ていなくはない。

例えば三島の小説には結構親切にルビが振ってあるが、和己の小説にはとても少なく感じる。鴎外の渋江抽斎ですら結構ルビがある。

誰が著作権の管理を、と調べてみると、高橋たか子の弟子で翻訳家の鈴木晶氏が管理していたのを高橋たか子没後「近代文学館」に寄贈されたとのこと。漢字からますます縁遠くなる世代のために、ルビを振る、ということは多分これからもないのだろう。

ちなみに鈴木晶(本名喜久男)氏は元日経記者でエッセイストの鈴木涼美氏の父君である。

 

ちと脱線したが、私が熊野純彦にいいたいことは、高橋和巳が

「作品とともに消えた」と安易に決めつけないでもらいたい、と言うことだ。

 

吉川幸次郎に後継者と見込まれた高橋和巳には中国文学者としての著作が他にも多々ある。

今後それらを読んで高橋を偲ぶ機会もまたあろうかと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)は、大化の改新(645年)前後に題材を採るが、大胆に換骨奪胎して、権力とそれに翻弄される男女の恋をクライマックスに据えた、全5段、9時間あまりの長編劇。この長さでは男女の恋も一つならず、脇役が主役の場面も多々ある。

 

1771年、大阪竹本座で初演。潰れかけていた竹本座がこの作のヒットで息を吹き返した、とある。

 

NHK制作のDVD5枚は7代目竹本住太夫(1924-2018、人間国宝)が出演しているが、いつどこで収録されたかのクレジットは無い。

DVDは幸いに字幕付きであり、これが無いとよく意味がとれなくなるが、太夫が語り、謳う謡曲(台本)もいくつかあるらしく、鑑賞に当たっては小学館の以下の書を脇に置いて参照した。

 

 

天智天皇の地位を奪おうとした蘇我蝦夷は、政敵中臣の鎌足に謀反の濡れ衣を着せて失脚させる。

領地争いで対立している大判事清澄と太宰の後室定高だが、清澄の息子久我の助と定高の娘雛鳥は恋仲である。

その逢い引きの場に鎌足の娘天智天皇の局采女が逃げ込んできて久我の助は機転を利かせて采女の窮地を救う。

 

蝦夷の息子入鹿は蝦夷の謀反を証拠立て父蝦夷を切腹させる。

入鹿は蝦夷が妻に白い牡鹿の血を飲ませて生ませたので超人的な力を持ち、実は自分こそが帝位に就こうと謀っていたのだった。

 

入鹿は、蝦夷謀反の取り調べには大判事に当たらせ、その息子久我の助を家臣に召し、定高の娘雛鳥を側室に召すという。しかし内心は久我の助が采女の行方を知っているとみて、召した後拷問にかけて白状させる腹であった。それを悟った大判事は久我の助に切腹させ、定高の娘雛鳥もこの世で夫婦になれぬなら自分も死のうとする。

 

「古は神代の昔山跡の、国は都の始めにて妹背の始め、山々の、中を流るる吉野川、塵も芥も花の山、げに世に遊ぶ歌人の、言の葉草の捨て所、妹山は太宰の小弐国人の領地にて、川へ見越しの下館、背山の方は大判事清澄の領内、、」の口上から始まるこの場。川を挟んで久我の助と雛鳥が言葉を交わし、大判事と定高が帰宅して、事の次第が明らかになり久我の助切腹、雛鳥の首を切る、と相成る次第。

二人が夫婦になるのはあの世で、と契りを交わす大きな山場。

この場面、先ずは浄瑠璃から

 

ついで歌舞伎

 

最後は歌川豊国の浮世絵

 

最後まで粗筋を追うと「ネタバレ」になるのだが、反面筋を知って、

この人形遣い、大夫、三味線お三者で構成される舞台を楽しむ方がより多く楽しめるだろう。

というのはこの舞台は「通し」で鑑賞するものではなく、一回の公演でいろいろな演目が出る。ちなみに5月の文楽公演のリンクを貼る。

 

 

人形浄瑠璃と言い、文楽という。

どう違う?と即座に疑問がわくが、竹本織大夫の書「文楽のすゝめ」にも説明はない。

 

 

よって、あるブログの記事を拝借する。

 

 

一度衰退した人形浄瑠璃は明治の初めに、「彦六座」と「文楽座」の二座体制になっていましたが、彦六座が解散したため、人形浄瑠璃を掛ける興行元が文楽座のみとなったのでした。

現在でもこの流れを引き継いでいますので、文楽がつまり人形浄瑠璃となっています

 

この妹背山婦女庭訓は、5枚のDVDを9回に分けて鑑賞した。

巣ごもりの機会を活用して、今まで充たせなかった好奇心を満足させたが、とても面白かった。

 

さて、4月25日から三度目の緊急事態宣言が発令された。

GOTOや蔓延防止法でアクセルやブレーキを、大した根拠なく適当に踏んだ結果の三度目だ。

 

今インドで爆発的な感染が起きているが、関空も成田も防疫体制が甘いらしい。機内で自己申告で熱や症状が無いことを申告した者にはPCR検査ではなく抗原検査で済ませ、待機もスマホで確認するだけだという。既にインド種B.1.617が国内で見つかった。

 

トルコ旅行で連れ合いが猫に手を出してひっかかれて、成田の防疫事務所に立ち寄り、狂犬病の注射を打つよう勧められたことがあったのだが、その事務所は小さくて係官も数人であった。

 

まさか今もその時と同じ規模、とはもちろん思わないが、官邸のコネクティングルームカップルから始まって緩みに緩んだ自公政権と中央官庁の有様を考えれば、しっかりした態勢が取られているとは考えられない。その現状を「緊張感をもって」とか「最大限の努力」とか空々しい言葉で糊塗している有様が見え見えだ。

 

我々国民も自公政権に対して甘すぎる。

世論調査で満足しているのだ。

中には「悪夢のような民主党政権」という自公政権の催眠術に罹ったままのものも多数いる。

 

オリンピックを含めてこのつけを我々国民は払わされるだろう。

しかも憲法を「非常時に対処するには現行憲法では無理」という幻想を振りまいて、改定のための投票法を今通過させようとしている。

自公政権の本丸は「非常事態宣言」なのだ。

それを抵抗なく受容させるための数次の「緊急事態宣言」。

大袈裟な、というなら「世論調査結果」の今後を見ていてご覧。

世論はどんどん慣らされて流されてゆくから。

 

 

 

 

 

 

 

後に萬屋錦之介と改める錦之介(1932-1997)29歳の時の作品。

原作は大佛次郎、監督は時代劇の大御所伊藤大輔。

 

 

徳川家康の長子三郎信康は、生母が信長が桶狭間で滅ぼした今川義元の姪築山殿、妻は信長の娘徳姫。

ストーリーを映画ドットコムより抜粋する。

武田の大軍を迎えて鮮かに勝利を収めた家康の一子三郎信康は、一躍織田陣営に名をあげ、岡崎の城に凱旋したが、次女を生んだ妻徳姫は気位高く信康が産室を見舞うことを許さなかった。今川義元の血をつぐ築山御前を母に持ち、九歳で信長の娘徳姫を娶った信康は戦国時代とはいえ、血の相剋に生きる運命児だったのだ。父母は身の立場から浜松と岡崎に居城を別にしている有様、築山御前の冷い仕打に妻としての態度も忘れかけた徳姫との溝が深まって行くのも仕方がなかった。苦悶の続くある日、信康は野で菊を摘む花売のしのに一度だけの愛を与えたが、築山御前と情を通じる鍼医の配下に目撃されていた。妻には心の隔りを感じる信康にも服部半蔵ら忠誠の部下があった。信康だけを愛する母築山御前は、怨敵信長を討ちとるようにと老巫女梓を供に持仏堂に籠り、信長・徳姫父子の呪殺を祈願していたが、一計を思いつき、しのに今川家を建てる男子を孕ますべく侍女小笹と名を変えさせて信康の身辺に置いた。母の企みに気ずいた信康にもまして徳姫の打撃は大きかった。築山御前の謀略は意外に大きく武田方に織田徳川の情報を売ろうとしていたことも明らかになった。「母上が信康の母でさえなければ斬り、父上が信康の父でなければ討ちます。生きるに生きられぬ思いはこの信康……」と絶句、障子の蔭で立ち聞くしのを一刀で仕とめた。徳姫は十二カ条の訴状を父信長に屈けた。夫婦の誤解もとけてひしと抱きあう二人だったが時は遅く、かねてから信康の抬頭を快く思っていなかった信長は、秀吉の入智恵をもって訴状をたてに、信康と築山御前の断罪始末を家康に命じてきたのだった。家を護るために妻と子を死路に追いやらねばならない家康にもまして、信康の胸中は複雑だった。母は既に浜松に護送され信康の死場所も二俣城に決った。介錯は事もあろうに服部ら忠臣、。三者三様の慟哭のうちに信康最期の時が訪れた。時に天正七年九月、そして信長が本能寺の変に斃れたのは、信康自刃の二年八カ月後の事であった。

 

家康の長子、母は今川の血縁、妻は信長の娘、、と婚姻関係が合従連衡の紐帯であった戦国時代の血縁。三郎信康の運命は信長が「東海の覇者」と謳われ武田信玄や北条氏康とも義理の兄弟関係がある今川義元を討ったことから運命は奔流に飲まれてゆく。

 

「俺は前後左右、壁のようなものに包まれて居る」

と逆らおうとしても逆らえない自分の運命に切歯扼腕する。

 

妻徳姫が信長に訴状を送り、信長は家康に母築山と三郎信康の断罪を命じ、家康は信康に切腹を申しつける。

 

「四方八方に立つ壁を突き破る事が出来ずに死ぬのは口悔しい。

第一の壁は徳川の家じゃ、徳川の為。

第二の壁は信康自身の持って生まれた血じゃ。

父上は妻を殺し俺を殺し、それほどまでに徳川の家が大事か、

俺はそうは思わん。

そういう因習の壁を突き破って生きたい、と思った。

生まれついて俺は徳川の子。母にとっては今川の血。

取り込められて結局むざむざと死んでゆく。

今になってこうして死ぬくらいなら、

他に別な生きようも死にようもあった筈。

 

父上も苦しかろう。今は織田に押さえつけられているが、

いつか日の差すときもあろう。それまで日差しを遮っていた三郎信康が倒れただけでも、幾分の明るさは増してくるだろう。

人柱か、、、」

 

と隣室に用意したおいた切腹の座に進みながら、

「徳姫に伝えよ。

由も無い成り行きであったが、女の事ゆえ咎めはせぬ、許す。

愛していた、と」

 

脚本は伊藤大輔。大佛次郎の原作を読んでいないので不明だが、

60年安保闘争の後に公開されたこの映画。

社会に対してどんなメッセージを送りたかったのだろう。

「日の差す時」のための「人柱」、、、、、

 

監督の伊藤大輔(1898-1981)は当時63歳。

宇和島の生まれで、松山中学では伊丹万作や中村草田男らと回覧雑誌を発行。文才があって伊藤が文章を書き、伊丹が挿絵を書く、と言うようなこともあったらしいが、中学卒業後父逝去のため進学を諦め、呉の海軍工廠に製図工として勤務する。

工廠内で演劇グループに参加したことで労働組合との関係を疑われて退社。上京して伊丹と同居生活をしながら「松竹キネマ俳優学校」に入り、以後脚本家として50本以上のシナリオを書く。

1924年国木田独歩原作「酒中日記」で監督デビュー。同年「剣は裁く」が時代劇第一作となった、とWikipediaにある。

 

以後大河内伝次郎と「忠治旅日記」や「丹下左膳」などで時代劇監督としての名声を不動のものにする。

1929年市川右太衛門「一殺多生剣」など社会主義思想の影響を受けた「傾向映画」の代表作などもあるから、60年安保には無関心では居られなかったと思われるが、それについての記述は見当たらない。

「反逆児」はブルーリボン賞を受賞。戦後の代表作、と言われる。

その後も錦之介の舞台の脚本や演出を手がけた、とあるから二人の縁は深い。

 

信康が自害したのは20歳の時。29歳の錦之介が凜々しく演じた。

上に引用した台詞は力がこもりすぎて、少し聞き取れないところがあったが、売れっ子錦之介はこの頃年間8本前後に主演しているから、じっくりと役作りする時間はあったのだろうか、とも思う。

 

伊藤大輔監督は、ついたあだ名が「イドウダイスキ」。

レールの上をカメラが移動するシーンが好きだったらしい。

1942年嵐寛寿郎と「鞍馬天狗」を撮るが、

 


この中でアラカンはロケ先の玉野(岡山)の造船所で300メートルのレールが敷いてあり、伊藤に

「寛寿朗クンご苦労ですが、全力疾走してください。右に左にバッタバッタと斬り倒しながら一気に」と言われ

「センセイこれちょっと無理やと思いますけどな」というと、

伊藤はじろりと睨んで

「ああそうですか。あなたには無理ですか」と

「あなたには」と皮肉っぽく言われてて乗せられ、走ることになる。アラカンはこの作品を自分の代表作と言っている。(同書181P)

 

最後に、史実としての三郎信康についてであるが、

家康は徳川政権成立後徳姫に2千石の領地を与えていること、
信康が徳川一門内でもめ事を起こしていたこと、

「信長公家」には、信康が徳姫の夫であるが故に、家康からの相談に対し、「信康を殺せ」とは言わず、「家康の思い通りにせよ」とある、

あるいは家康、信康親子がギスギスした関係であった、との資料もあり、内部抗争説の資料もある。真相は藪の中である。

物語的には、この映画の信康像が悲劇的で共感を呼びやすいのだろう。

 

巣ごもり以降、日経の日曜版の文化欄が充実している。

伊藤大輔監督のあれこれを、3週、上中下と連載してあるのを読み

レンタルで借りて鑑賞した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

​​​目当ては上村松園の「焔」

間抜けな事に展示は4月4日までで終了。

展覧会を代表する絵が、こんな短期間展示とは思わなかった。

その恨みを乗せて少し言う。

 

松園の「青眉抄」から、引く。

 

 

「焔」は私の数ある絵のうち、たった一枚の凄艶な絵であります。

中年女の嫉妬の炎、一念が燃え上がって炎のように焼け付く形相を描いたものであります。謡曲葵の上には六条御息所の生霊が出てきますが、あれからヒントを得て描いたもので(中略)葵の上は光源氏の時代を取材したものですが、私はそれを桃山風の扮装にしました。

(中略)あの頃は私の芸術の上にもスランプが来て、どうにも切り抜けられない苦しみをああいう画材に求めて、それに一念をぶち込んだのでありましょう。」(同書P35)

平安風は十二単に代表される衣装

桃山風とは小袖の事か

藤の花や蜘蛛の巣が描かれていることについて、学芸員の方は

「光源氏や葵の上をからめとるという思いが象徴的に示されている」(日経3月18日特集)

としているが、六条御息所の嫉妬が「からめとる」類のものか否かについては異論があろう。

私は、藤の花は藤原氏の係累としての身分(の高さ)を、蜘蛛の巣は孤閨の恨みのメタファーと読む。

なによりも嫉妬の焔の凄まじきは口に食んだ髪であろう。

「髪は女の命」、その命をかけた執念が感じられる。

もう一つは

「能の嫉妬の美人の顔は眼の白目のところに金泥を入れている。これを泥眼と言うが、金が光るたびに異様なかがやき、閃きがある。」と謡曲の師であった金剛巌氏からの助言に従ったこと(同書60P)も加えるべきであろう。

 

岩波の「能鑑賞案内」には

 

 

光源氏の正妻葵の上は、物の怪に憑かれて病床にある。巫女に占わせると物の怪は六条の御息所の生き霊であった。葵の上との車争いで恥辱を受けた御息所は、生き霊となって葵の上に憑き、後妻(うわなり)打ちの挙に出て連れ去ろうとする。葵の上が余りに重体なので、小聖が呼ばれ小聖は祈る。悪鬼と化した御息所は抵抗するが、祈り伏せられついには成仏する。」(同書281P)

 後妻打ちは前妻が女の家人などを連れて後妻の家に言って乱暴すること。御息所の嫉妬の炎は、桐壺帝の東宮(第一皇太子)に嫁いだものの早世され、年下の光源氏と逢瀬を重ねる。が光源氏はその美貌と知性と教養に惹かれるも、嫉妬心の強さに腰が引けて間遠になる。その嫉妬の先が光源氏の正妻葵の上に向かうのである。

 

松園(1875-1949)43歳の時の作だが、この年の一月、師であり、あいだに一子(松篁)をもうけた鈴木松年(1848-1918)が脳溢血で急逝する。松年には妻子があったから、その葬儀や松年との一子の遺産分割などの問題があったのかも知れない。しかし婚外子をもうけた程の自我の強さと それ故の世間との軋轢を乗り越えようとする意思がこの絵に反映されているとすれば軋轢による「内面の葛藤を表現する」という近代的自我の希少な発露がある。

 

展覧会は幕末ー明治初期から大正、昭和初期にまたがるものであるが、富国強兵で近代国家の仲間入りを急いだ政府は、脱亜入欧、和魂洋才で絵画もまた洋画を官学のお雇い外国人や洋行から学ぶ。

当時、西欧の画風の影響を云々することが、絵や作家に「箔をつける」意図もあったに相違ない。

時は19世紀後半のロマン主義から、ラファエロ前派、印象派や象徴主義やフォービスム、あるいはドイツ表現主義やデカダンなど、写実の軛を解かれて一斉に争鳴したときである。その材料に事欠かない時でもあった。

 

展覧会のキュレーションは編集によく似ている、と思う。

ある着想のもとに材料を集め、区分しそれにネーミングして配置とか流れを作る。コロナ禍が世界に蔓延している状況では海外から材料(絵画)を集めることは至難の業で、いきおい国内の美術館や個人蔵に頼らざるを得ない苦衷があるだろう。

それ故の無理なストーリーをちと感じるのだ。

 

「怪しい絵」とあるが、絵は対象をあるがままにコピーするものでは無い、と言う一点においてすべての絵は「怪しい」のだ。

 

「我々の目は「無垢」ではない。無垢どころか、常にもうろくしている。

自身の過去に執着しているだけでなく、目がものをどのように見るかだけでは無く、何を見るかも必要と偏見に左右される。目は対象を写すと言うよりもそれを取り上げて作り出すものである。」

とネルソン・グッドマンは「芸術の言語」のなかでゴンブリッジを引用しながら述べている。

 

絵を鑑賞する我々もまた、自分の偏見に基づいて「見たいように見ている」。さすれば、編集者(キュレーター)の「偏見」は、グロテスク、エロティック、神秘的をくくる、つまりは集合する観念として「あやしさ」

ということらしい。それでは松園の「焔」のあやしさはどれだろう。

 

あやしさ、には怪しさも妖しさもある。

怪異、奇怪、怪物、怪奇、、

妖怪、妖女、妖婦、妖麗、妖気、、、

例えば橘小夢の「水魔」

2015年この絵を弥生美術館で見て、以下のブログでも書いたのだが

 


その上下は逆では無いか、という私の視点からすれば、「奇怪」だが、引きずり込まれる女の表情が恍惚としているのを見て「妖艶」と見ることも出来るだろう。

 

もう一つはファムファタール。

これは絵画のモチーフになるものだが、男を絡め取って破滅させる女像はマノンレスコーやサロメ、清姫や高野聖の女妖怪と洋の東西を問わない。従ってファムファタールと言う切り口は幅広く、時代を問わない。勿論19世紀末「ファムファタール」がクリムトやピアズリー、あるいはモローの主題となったことは確かだが、説得力に欠ける気がした。

 

一方脱亜入欧でアジア人蔑視感情を孕み、反面 西欧に対するコンプレックスを内蔵してその両価値感情が最後は八紘一宇と鬼畜米英に収斂していまうのであるが、結局敗戦によって和魂の精神主義が廃されて、戦後日本画も徐々に廃れてしまう。

逆にその価値を西欧人が認めて素晴らしい作品が海外に流出する。

 

一方同じく廃れてしまった教養の中に漢文がある。

松園も長いこと漢文の私塾に通って学ぶ。漢文だけでは無い、謡曲や能も松園の、あるいは日本画作家の教養であった。

作家の側だけでなく、鑑賞する側での教養もまた日本画の基部である。

謡曲なども、独特の節回しがあるからそれに慣れないと聞き取りづらい。まして能は面を被って言うのであるから尚更である。

だからそういうものに親しむ機会が乏しくなると、理解が難解になってますます縁遠くなってしまう。

そこにこれら伝統芸能の困難がある。

それにつれて日本画の困難も然りだ。

私はをれを惜しむのだ。