原題は、Im Lauf der Zeit. 「時の過ぎゆくままに」、
あるいは「時の流れに身をまかせ」でもいいだろう。
こう書くと、沢田研二やテレサ・テンの歌が直ちに思い出されるのであるが、ヴィム・ヴェンダース(以下2W)の映画は、
男二人の道行きである。(これに浄瑠璃的意味合いは全くない)
地方の映画館の巡回撮影技師のブルーノは、大型ワゴンで移動中、フォルクスワーゲンが川に突っ込み、その中からジャケットを着た男がトランクを持って脱出するのを目撃する。
その男ロバートは後に小児科医と言うが、妻と離婚したばかりらしく、
寡黙でブルーノも深くは追求せず、二人で旅をすることになる。
自らも旅人の2Wは、登場者の旅の理由も登場者についても論理的に、あるいは順序だてて説明をすることなく、ある時、話のついでにそれらが出てくる。
旅の目的地は、二人の心境の変化に応じ、ロバートの父親が一人地元紙を発行している街やブルーノの生まれ故郷などを訪れる。
「故郷を見てよかった。
なにかもやもやしたものが吹っ切れてスッキリした。
落ち着いたよ」とブルーノ
ロバートは小児科医、といっても、後に障害も発生することもある、子供が字を書くことを覚え始めたころの研究者である。
旅の途中、電話機があれば借りて妻のもとに電話をするが、切られてしまう。別れたものの気になって仕方がないのだ。
一方ブルーノは性に対する欲望は強いものの、あるいはそれが故にひとりの女性と暮らすことに自信が持てない。
一人暮らしも捨てがたい、と思っているのだ。
「セックスの時には女の中に入る訳だが、それで完全な一体感があるか?俺は孤独を感じる。骨の髄まで。」と本音を言う。
旅の途中、東との国境に当たり、その見張り小屋にマットを持って寝ることにする。その小屋にはアメリカに対する憧憬の落書きであふれていた。ふとした行きがかりで喧嘩をし、ロバートは目にくまを作るが、翌朝ロバートは
「このままじゃだめだ。 R]
と書いたメモを扉に張り付けてバスを拾って鉄道駅に行く。
その駅で字を覚えたての子供が、自分の目にしたものを逐一ノートに、書き付けている。ロバートはその子に「自分のサングラスとトランクとそのノートを交換しないか」と取引し汽車に乗る。
汽車の中から、ブルーノのワゴンを見るロバート。
並走して走り、踏切で二人は瞬間目を合わせる。
「これでいいのさ」とブルーノ。
ある地方の劇場で、もう閉館を決意した女主人がブルーノに言う。
「映画は映像の芸術でしょう?
だから今のような下劣な儲け主義の映画はかけたくないのよ。
かといって理屈っぽいリアリズムも嫌だわ。
せっかく見てくれる人から生きる希望を奪うみたいで。
こんな田舎だから、いい写真は来ないのよ。
亡くなった父も映画館を残したいと言ってけど、
今のような具合じゃ閉めた方がいいと思うわ。」
これは2Wが言いたかったことであり、1976年カンヌで国際批評家連盟賞を受賞した一因なのだろう。
これは2Wのロードムービー3部作の最終作とのこと。
前二作は見ていない。
ブルーノを演じたリュデガー・フォーグラーは
同じ2W監督の「リスボン物語」に出ていたことを思い出した。
ところでさすらう二人の男に共通しているのは、
相手の性、女性の問題である。
ベターハーフ、というキリスト教的ゾレルンに脅迫されて、よき夫であらねばなら無い、という役割の強制。
男も女性同様がんじがらめなのだ。
この映画に関し、2Wは
「この映画の始まりはウオーカー・エヴァンスのアメリカ南部についてのルポルタージュであった。エヴァンスの一連の写真は、ある明解で決まった奇抜な文体を持っており、本当に憂鬱状態の概念についての仕事でさえあった。私たちはそれに似た一種の「ノーマンズランド」についての一種のレポートを作る気になったのである」
(キネマ旬報別冊ヴェンダースバンケット 1988/6)
という目くらましの言辞を述べている。
目くらまし、というのは批評家から的のように矢を射られないようにする工夫である。
一方挿入における男の「孤独感」についてであるが、その孤独感は最初では無く終わりに、より正確に言うと終わった後に感じるものだ。
何だろう、その孤独感。
哺乳類では取り違えようのない肉体的性差があるが、
終わったときに感じるものは、逃れようのない男の性の営みに、否応なく乗せられてここに至ったという、悔悟では無く諦念では無く、あえて言う必然的な、人間の性、と言うよりは「哺乳類のオスの性」の必然、と言った方がいいものがある。
男と女は簡単にはわかり合えない、解合出来ないものなのだ。
2Wはどの程度分っているのだろうか?
分ろうとして、なんども結婚と離婚を繰り返したのだろうか?
































