Gon のあれこれ -9ページ目

Gon のあれこれ

読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

原題は、Im Lauf der Zeit.  「時の過ぎゆくままに」、

あるいは「時の流れに身をまかせ」でもいいだろう。

 

こう書くと、沢田研二やテレサ・テンの歌が直ちに思い出されるのであるが、ヴィム・ヴェンダース(以下2W)の映画は、

男二人の道行きである。(これに浄瑠璃的意味合いは全くない)

 

地方の映画館の巡回撮影技師のブルーノは、大型ワゴンで移動中、フォルクスワーゲンが川に突っ込み、その中からジャケットを着た男がトランクを持って脱出するのを目撃する。

その男ロバートは後に小児科医と言うが、妻と離婚したばかりらしく、

寡黙でブルーノも深くは追求せず、二人で旅をすることになる。

自らも旅人の2Wは、登場者の旅の理由も登場者についても論理的に、あるいは順序だてて説明をすることなく、ある時、話のついでにそれらが出てくる。

旅の目的地は、二人の心境の変化に応じ、ロバートの父親が一人地元紙を発行している街やブルーノの生まれ故郷などを訪れる。

 

「故郷を見てよかった。

なにかもやもやしたものが吹っ切れてスッキリした。

落ち着いたよ」とブルーノ

 

ロバートは小児科医、といっても、後に障害も発生することもある、子供が字を書くことを覚え始めたころの研究者である。

旅の途中、電話機があれば借りて妻のもとに電話をするが、切られてしまう。別れたものの気になって仕方がないのだ。

 

一方ブルーノは性に対する欲望は強いものの、あるいはそれが故にひとりの女性と暮らすことに自信が持てない。

一人暮らしも捨てがたい、と思っているのだ。

「セックスの時には女の中に入る訳だが、それで完全な一体感があるか?俺は孤独を感じる。骨の髄まで。」と本音を言う。

 

旅の途中、東との国境に当たり、その見張り小屋にマットを持って寝ることにする。その小屋にはアメリカに対する憧憬の落書きであふれていた。ふとした行きがかりで喧嘩をし、ロバートは目にくまを作るが、翌朝ロバートは

「このままじゃだめだ。 R]

と書いたメモを扉に張り付けてバスを拾って鉄道駅に行く。

その駅で字を覚えたての子供が、自分の目にしたものを逐一ノートに、書き付けている。ロバートはその子に「自分のサングラスとトランクとそのノートを交換しないか」と取引し汽車に乗る。

 

汽車の中から、ブルーノのワゴンを見るロバート。

並走して走り、踏切で二人は瞬間目を合わせる。

「これでいいのさ」とブルーノ。

 

ある地方の劇場で、もう閉館を決意した女主人がブルーノに言う。

「映画は映像の芸術でしょう?

だから今のような下劣な儲け主義の映画はかけたくないのよ。

かといって理屈っぽいリアリズムも嫌だわ。

せっかく見てくれる人から生きる希望を奪うみたいで。

こんな田舎だから、いい写真は来ないのよ。

亡くなった父も映画館を残したいと言ってけど、

今のような具合じゃ閉めた方がいいと思うわ。」

 

これは2Wが言いたかったことであり、1976年カンヌで国際批評家連盟賞を受賞した一因なのだろう。

これは2Wのロードムービー3部作の最終作とのこと。

前二作は見ていない。

ブルーノを演じたリュデガー・フォーグラーは

同じ2W監督の「リスボン物語」に出ていたことを思い出した。

 

ところでさすらう二人の男に共通しているのは、

相手の性、女性の問題である。

ベターハーフ、というキリスト教的ゾレルンに脅迫されて、よき夫であらねばなら無い、という役割の強制。

男も女性同様がんじがらめなのだ。

 

 

この映画に関し、2Wは

「この映画の始まりはウオーカー・エヴァンスのアメリカ南部についてのルポルタージュであった。エヴァンスの一連の写真は、ある明解で決まった奇抜な文体を持っており、本当に憂鬱状態の概念についての仕事でさえあった。私たちはそれに似た一種の「ノーマンズランド」についての一種のレポートを作る気になったのである」

(キネマ旬報別冊ヴェンダースバンケット 1988/6)

という目くらましの言辞を述べている。

目くらまし、というのは批評家から的のように矢を射られないようにする工夫である。

 

一方挿入における男の「孤独感」についてであるが、その孤独感は最初では無く終わりに、より正確に言うと終わった後に感じるものだ。

何だろう、その孤独感。

哺乳類では取り違えようのない肉体的性差があるが、

終わったときに感じるものは、逃れようのない男の性の営みに、否応なく乗せられてここに至ったという、悔悟では無く諦念では無く、あえて言う必然的な、人間の性、と言うよりは「哺乳類のオスの性」の必然、と言った方がいいものがある。

男と女は簡単にはわかり合えない、解合出来ないものなのだ。

2Wはどの程度分っているのだろうか?

分ろうとして、なんども結婚と離婚を繰り返したのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この討論では、既に書籍化されており

 

 

その討論内容と三島と全共闘側の主要な発言者の{討論を終えて」が掲載されている。一方映画では、討論が「主要部分」に切り取られ、主要な発言者であった芥正彦、司会の木村修、撮影したTBSカメラマン・記者

に平野啓一郎、小熊英治、橋爪大二郎、内田樹や楯の会のメンバー等のコメントが挟まった編集がなされている。

私は平野や小熊の意見を特に興味深く聞いた。

 

先ず映画の解説を映画。com より。

1969年5月に東京大学駒場キャンパスで行われた作家・三島由紀夫と東大全共闘との伝説の討論会の様子を軸に、三島の生き様を映したドキュメンタリー。1968年に大学の不正運営などに異を唱えた学生が団結し、全国的な盛り上がりを見せた学生運動。中でももっとも武闘派とうたわれた東大全共闘をはじめとする1000人を超える学生が集まる討論会が、69年に行われた。文学者・三島由紀夫は警視庁の警護の申し出を断り、単身で討論会に臨み、2時間半にわたり学生たちと議論を戦わせた。伝説とも言われる「三島由紀夫 VS 東大全共闘」のフィルム原盤をリストアした映像を中心に当時の関係者や現代の識者たちの証言とともに構成し、討論会の全貌、そして三島の人物像を検証していく。ナビゲーターを三島の小説「豊饒の海」の舞台版にも出た東出昌大が務める。監督は豊島圭介。

 

以下は私の映画を見ての感想である。。

 

まず、三島が単身乗り込んだ、とあるが、実際は楯の会のメンバーが予め最前列に陣取っていたから、三島ヒロイズムに寄りすぎである。

また、大学の不正運営とあるが、発端は日大の国税査察に端を発する不正経理問題から日大の闘争が始まった。東大では医学部インターンの不当処分が発端と言われている。この闘争の過程で大学の自主性のなさが明らかになり、また国家公務員エリート養成機関として国の管理体制に組み込まれ、学問の自由=大学の自治が幻想にすぎないことが明確になって闘争は先鋭化しゲバ棒を振るい、バリケードを築いて暴力的になった。

 

三島は冒頭、「私は暴力を否定したことはない」、と言いきって学生たちの心を鷲掴みにした。みな子供の時から暴力はいけない、と行動を抑制されてきたし、暴力否定は言うまでも無く、当時の情勢下で大学ー文部省を利するものだったからである。

 

一方三島は、

天皇親政によって歴史と文化的伝統を守る、

とするドンキホーテ的保守主義者であるが、その根底は愛国である。

三島の愛国は、忠君愛国であるが、学生たちには、その根底に愛国(様々だが反体制的な反米独立や愛国)があった。当時、愛国=ナショナリズム=右翼・体制自民党というシェーマがあって愛国を表だって言いにくい事もあり、潜行せざるを得なかったと思われるが、全共闘の学生の中で愛国=反体制的な三島がよく読まれていたことにその証をみる。

下の写真を見て分るように、鋭い対立があるようには見えぬ。芥がその場を和ませようと娘を抱いてきた点もあるだろうが、その娘が怯えているようではないのだ。

 

楯の会のメンバーの回想でも三島は共闘は出来なくとも、討論には満足していたようである。

 

三島の小説は読んだことは無い。

「憂国」は三島自らこれを読め、と言っているし、性的自伝、と言われる「仮面の告白」も書棚にあるが読み始めてもつい他の本に手が出てしまう。

 

一方、「告白には「太陽と鉄」が併録されている。

 

 

 

 


これらを読みながら、今私の中にある「仮説」は以下のようなものである。

三島の全半生、概ね敗戦で天皇が神格を否定して人間宣言をしたあたりまでに、三島は大きな心理的「剥奪ーdeprivation」が二つあったと思う。

 三島が絶賛した映画「総長賭博」のブログで以下のように書いた。

三島(本名平岡公威)は祖父、父も東大法学部から官僚になった家柄に生まれ、幼少のころは祖母の絶対的影響下に置かれ男の子らしい玩具は取り上げられ、外での男の子らしい遊びも禁じられた。祖母は公威の遊び相手におとなしい年上の女の子を選び、公威に女言葉を使わせた。この祖母の直接の訓育は三島が12歳まで続くのだが、早熟の天才三島のIQ(精神年齢)は12歳といえども青年期くらいの筈であり、こうした生育環境は彼の精神形成に影響を及ぼさないわけは決してないだろう。三島は自分の性(肉体)と女言葉を使わされたことで言語を奪われたのである。それらは後の人生において「回復」されなければならないものであった。30歳ごろからボディビルで身体を鍛えようとしたことにもそれが現れているし著作「太陽と鉄」そのように受け取れる叙述もある。天皇に対する忠節、という時代に感応しない絵空事を、つまり観念だけが暴走することを本気で信じ、切腹をするまでに至った事を理解するには、幼少の生育環境の要素を補助線として差し挟まなければ不可能だと思う。一方「天皇に対する忠誠」は象徴天皇が三島に求める筈のない、三島の天皇に対する一方通行の忠誠である。恋愛における片思いがそうであるように、一方通行の感情は対象に対してどのように想像をめぐらすことも出来、それに伴って欲望というエネルギーを無限に備給することが可能である。その欲望の備給の中にエロティシズムがあり、忠節の極限状態としての切腹ー陶酔があるのである。

 

 

三島は自分の本来の性、男性性をどうして知ったのだろう。

男の子であれば、小さい頃からままごとをする女の子とは一線を画し、男の子同士で遊んで取っ組み合いもしたりするのである。

裸になれば、ついているものが同じで、女の子とは違うことを自然に理解する。そうした明確な契機を持たなかったようである三島は、おそらく夢精によって男がやってきたことを知ったらしい。

その男性性の獲得は「鉄」ボデイビルによって、肉体の鎧をまとうことで達成された。

もう一つ剥奪されたものは、臣平岡公威である。

学習院が旧帝大と並び国立大学の皇族や華族の子弟を教育する機関であり、三島は高等科卒業の折り、トップの成績で天皇陛下から銀時計を下されている。その式典で三島は、天皇陛下が身じろぎひとつせず3時間近く直立していたことに深く感銘を受ける。

そして平岡家は、三代にわたる高級官僚,天皇陛下の臣であった。

銀時計を賜った時に感じた天皇に対する「恩顧」の気持ちは、敗戦とマッカーサーの元に天皇から赴いて会談した件やそれに続く「人間宣言」で砕け散った。その衝撃が大きければ大きいほど、天皇に屈折した気持ちを持つに至るだろう。二つ目の剥奪は「天皇」であり、「太陽と鉄」では太陽は神輿を担いだとき、つまり共同体の祭祀ーその中心は天皇ーの中に太陽を見た、と言っているが、直接的には、太陽ーアマテラスに仕える、臣の身分が剥奪されたのである。

 

三島の告白は一筋縄ではいかない。

言葉の襞に分け入れば、迷宮が待っている。

迷宮に入り込まないようにするには、ある仮説を立てて読む、

と言うようなことが今の私の限界でもある。

 

 

 

 

 

 

 

東西冷戦下、東ベルリンから西ベルリン、つまり西欧世界に逃亡する人が多くて東側、ソヴィエト側から1961年作られたベルリンの壁。

 

その壁もソヴィエトの、言わば国力の衰退でソ連邦を維持することが困難になって連邦のたがが緩み、1989年ついには崩壊したベルリンの壁。

 

ヴェンダース(以下2W)のこの作品は壁崩壊の直前1988年日本公開。

日本だけで無く世界的な大ヒット、となったらしい。

ヒットの理由は、壁崩壊も好奇心を刺激した側面もあっただろう。

しかも、制作を予定していた映画「夢の果てまでも」(1991年公開)が何かの事情で撮影開始が遅れることになり、いわばその埋め草にドイツ語でベルリンの街で撮影する条件で制作されたものだという。

 

世界を旅し、旅する人の世界を描いた旅する2Wが、いわばホームグラウンドに帰郷した者としてベルリンを彷徨するうち、天使像の多さにヒントを得て、即興のアイデアを盛り込みながら制作されたものだという。

 

この映画だけでは無いが、

このあたり、旅人2Wのセレンディピティを感じる。

セレンディピティとは「意外なものに出会う能力」。

故郷に対する先入観を棄てて、言わば子供が新しい世界を眺めるようにベルリンをさすらった結果の発見  無心の報酬。

そしてその発見を形にすべく、後にノーベル賞を受賞したピーター・ハントケの協力を求めて脚本を書き、「ローマの休日」のアンリ・アルカンを撮影監督に迎えて制作される。

セレンディピティ、には新しい革袋の為の協力者も欠かせない。

 

「天使」は、われわれ東洋世界の者には無縁だが、ユダヤ教やキリスト教には身近な存在。

神のそばに仕えて天上から人間世界を眺め、

天使ガブリエルのようにマリアに受胎を告知する。

堕天使、という存在もある。

天上から地上に降りて、人間と化し、人間に禁じられた知恵を、

たとえば武器の作り方などを授ける。

一方「守護天使」という存在もある。ひとりひとりについて、いわば善行を促す存在だ。勿論ついた人間の危機を救う役目もある。

主はあなたのために、御使いに命じて

あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。

彼らはあなたをその手に乗せて運び

足が石に当たらないように守る(詩編 91.11-12新共同訳)

 

 

 

ダミエルとカシエルの二人の天使は地上に降り立つが、

無心の子供には時折その存在が見えるが大人には見えない。

二人が世界を見るときBlack & White の世界。

ダミエルがサーカスの空中ブランコ乗りマリオンに恋心を抱き、人間世界に住みたいと願ってそれが成就するとカラーの世界になる。

いわばこのおとぎ話の世界の愛を、

東西分断の裂け目が鋭く露出するベルリンで物語るメタファーは何か。

 

来たるべき東西ドイツの統合を先触れしているようにも思える。

 

子供は子供だったころ

じぶんが子供だなんて知らなかった

すべてに魂があって

すべての魂はひとつだった。

 

子供は子供だったころ

手のひらにブルーベリーばかり降ってきた。

今だってそうだ。

山に登るたび、もっと高い山にあこがれ

街に行くたび、もっと大きい街にあこがれた

今だってそうだ。

子供は子供だった頃

木をめがけて槍投げごっこをした

ささった槍は今も揺れている。

 

この詩はおそらくはハントケ作。

最初の方と終わりに出てくるものを抜粋合成。

 

ベルリンへは、2006年ドイツ ワールドカップ対ブラジル戦(ドルトムント)のチケットが入手できたのでそれに合わせてドイツ国内、ミュンヘン、ケルン、ドレスデン、ベルリンとチェコのプラハに旅した。

6月19日 成田からルフトハンザでミュンヘンへ。ミュンヘン三泊

  22日 ICEでケルンへ、大聖堂近くの娘の泊まるホテルで荷物を預け

      ドルトムントへ。連れ合いを待たせて娘とブラジル戦観戦。

      娘を見送った後ドルトムントから連れ合いと

      寝台車コンパートメントでドレスデンへ。シャワー付き寝台車。

  23日 ドレスデン一泊

  24日 ECでプラハへ プラハ3泊

  27日 ECでベルリンへ ベルリン3泊

  30日 ルフトハンザでベルリンからフランクフルト経由成田着7月1日

ベルリンでは美術館とバウハウスの建築群を中心に見て回った。

そのため交通の便を考えて宿泊は ホテルベルリン。バウハウスの資料館にも近く、絵画館や博物館島にもバスや地下鉄の便がよい。ホテルはドイツ鉄道のホームページから予約。映画では今はソニーセンターがあるポツダム広場のあたりがよく出てくるが、当時は相当荒廃している様子であったことが映画を見てわかった。

尚電車でベルリン郊外にある、ポツダム宣言起草のため、チャーチル、トルーマン、スターリンが宿泊したホテルを訪問し、当時の資料を拝見し感慨深いものがあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画「パリ、テキサス」で音楽を担当したライ・クーダーが、

キューバの老演奏家たち、そして彼らとの素晴らしい体験を

記録に残しておきたい、という切望を受けてヴィム・ヴェンダース

(パリ、テキサスの監督Wim Wenders 以下2W)が

ドキュメンタリーにしたブエナビスタソシアルクラブ。

 

「友人が取ったテープを聴いた。

魂の音楽を求めていた。

あれ程素晴らしい演奏も、素晴らしい曲の数々も

初めてだった。

それで船でキューバに渡りあちこち捜し回った。

優れた総演奏家にも出会ったが当時はなす術もなかった。

 

だが以来思いは持ち続けていた。

 

レコード会社の友人から電話でキューバに誘われた。

地元の演奏家とレコードを作るという。

かつてない凄いアイデアだ。

僕はすぐに乗った。

 

僕らは老演奏家を探すことから始めた。

ファン・デ・マルコスが助けてくれて、直に部屋は

老演奏家で一杯になった。

コンペイ、エリアデス、イブラヒム、ルーベン、、

ラウー奏者のバルバリートは僕がテープで聴いた人だと分かった。

彼こそ(ここに至る)出発点だ」ライ・クーダー

(当初は西アフリカのプレーヤーも加わる筈であったが

彼らがパリで足止めに遭い、即老演奏家達と共演することにした)

 

映画の中で2Wは老演奏家の人となり、

キューバでの彼らの人生を挿入してゆく。

 

ライにキューバのナット・キング・コール と言われた

ボーカルのイブライムはハンチングが定番の小顔の男。

「私は私生児として生まれた。12歳で母を亡くした。

一人っ子だったし、すぐに父を亡くし孤児になった。

当然独力で生きなければならない。学校もあきらめた。

(歌の世界からいったん足を洗って)

仕事をあぶれた時に思った。なんでもやろう。

靴磨きも、ゴミ収集人でも宝くじ売りでも。

わたしには養うべき家族がある。

それは恥じゃない。」

 

ある日ファン(バンドマスター)が来て”何してる”と聞くから

”靴を磨いている”すると”一緒に来てくれ、歌って欲しい”

私が”イヤだ歌はもうやめた””いやあんたの声が必要なんだ”

そうやって来てみると、オチョアがいた、セグンドも

ピアノにはルーベンがいて、私を見ると弾き始めた。

昔 私がキューバに広めた歌でカンデーラだ。

私は歌った。

ライが物陰から出てきて”録音したい” と。

 

老演奏家たちはみな魅力的だ。

社会主義キューバは貧しい国だが、その貧さも少ない富も

国民全体で共有している、という共通の思いがある。

物欲にとらわれないでいるからこその強みがある。

ライが最初にテープを聴いて惹きつけられたのは

自分のギターに似たラウーという楽器の音だ。

奏者のバルバリート・トーレスは

「私は10歳の時農民の音楽を演奏、ラウ―というアラビアの楽器だ。

ムーア人がスペインにもたらして改良されネックが長くなった。

サイズも少し大きい。それを中世の吟遊詩人がキューバに伝えて

改良が加わりキューバのラウーが誕生、現在の形になった。

ライ・クーダーも2Wと同じ旅人である。

勿論世界中をコンサートツアーをする、という意味ではない。

出張で旅行するビジネスマンを普通 旅人、と言わないのと同じだ。

ライはエスニシティ豊かな音源に関心があって、

水源が山奥の懐から始まって、気候風土に味付けされながら

独特の味わいをもたらすように、音源もその土地とそこに住む人々

の固有の音がある。

例えば1987年には喜納昌吉&チャンプルーズ

1993年にはインド、1994年にはマリのミュージシャンと

コラボしている。

彼もまた音源、ルーツの世界を旅する旅人なのだ。

 

この映画の中で、老演奏家たちとコラボしたあと、

深い満足を感じているライの姿が映されている。

思うに 手にしている楽器は何であれ、楽器は演奏者の「身体」と

共鳴し合うものであり、合奏は他の奏者と身体的に共鳴し合っている。身体からの共鳴、なんと深い相互理解だろう。

 

ビエナビスタソシアルクラブのCDは、確か上の娘に勧められて

輸入盤を買った。手元にあるそのCDに数年後NHKの衛星放送で

放映された番組紹介記事が挟まってあった。

(今回はレンタルで視聴)

1959年、米国寄りのバティスタ政権をカストロやチェ・ゲバラたちが武力で倒した後、彼らは米国の承認を望んでいたのだが、時はアイクーニクソンの共和党政権。交渉の窓口だった粗暴な男ニクソンはその要望をはねつけ、ひとひねりすれば打倒できると踏んで、亡命キューバ人を使ってカストロ政権を打倒する計画を立てる。

キューバ南部のピッグス湾に上陸するこの計画を引き継いだ就任間もないナイーブなケネディは、キューバ軍にあえなく撃退されたこの事件で傷つくが、しかし同時に多くを学ぶ。キューバがアメリカの承認の思いを断ち切ってソ連に自国の安全を委ねると決意し、フルフチョフにミサイル基地を提供する密約を結ぶ。1962年秋、その基地が建設されているのを知ったケネディはカリブ海でキューバを海上封鎖、米ソ核戦争の危機が高まる。

封鎖に至るまでの間、空爆や上陸侵攻などのいろいろな代替案が検討され、一度の空爆でキューバのすべてのミサイルを完全に破壊することは不可能で、その際残ったミサイルで米国本土を攻撃されるリスクを知ったケネディは、交渉による解決を密かに決意する。

一方のフルフチョフも、ミサイル配備では結局のところキューバの安全は守れないことを知る。

こうした緊張につきものの偶発事件や、権力内部での争い、同盟国のこの紛争の取引の具にされるのでは、といった懸念などが渦巻くのであるが、ケネディとフルフチョフはこれらにも拘らず、危機がコントロール不能になる事態をなんとしても避けようとしていたことが、結局ミサイル撤去とキューバの安全保障という取引の成立に至ったと思う。

マクナマラ国防長官は後に、キューバ危機から二つの教訓を学んだと述べた。

1つは「核兵器で武装された国家間の危機管理は本来的に危険かつ困難であり、また不安定である」。

2つは「判断の過ち、情報の誤り、誤算のゆえに核武装した大国間の軍事行動の帰結を自信をもって予知することは不可能である」ということであった。(Wikipediaより)

我が国も、核武装などと、核を簡単に弄ぶべきではない。

 

一方、キューバは引き続き米国の経済封鎖が続き、国民は窮乏生活を余儀なくされるのである。

この窮乏生活の中で音楽と歌と踊りとは、かけがいの無い娯楽であり、また同時にキューバ音楽の独自性を保つことにもなった。

 

それにしても、旅人ライもベンダースもうらやましい。

旅先に数週間、場合によっては数か月滞在し、昼となく

夜となく、あるいは紅灯の巷に遊んで露地の石畳を踏みしめ

通り過ぎる店の佇まいや匂いを嗅ぎながら五感で身体全体で

異郷を感じる。

勿論、地元の人たちとのつたない会話のやり取りからも

旅の味を味わい尽くす。

 

余談だが、小学生のころ夏休みになると教会の日曜学校にも行ったが、母親の実家のあるところまで、国鉄で半日がかりで二回は乗り換えが必要なのだが 独りで行って、その家の子供や近所の子らと一日中遊び、数日泊まっても里心がつかない。

なかなか帰ってこないので、親からは「鉄砲玉のようだ」とよく

からかわれた思い出がある。

 

私もまた子供の頃から旅人だったのだろうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「写真は短刀の一刺し、絵画は瞑想だ」

と述べた写真家ブレッソンのドキュメンタリー映画。

 

その内容を映画comから引用させていただく。

2004年8月、アンリ・カルティエ=ブレッソンの訃報が世界中を駆け巡った。享年95歳。彼はロバート・キャパらとともに、写真家集団“マグナム”を設立し、小型カメラのライカを片手に、スペイン内戦前夜やパリ解放、ガンジーの死など歴史的瞬間を撮った報道写真の先駆者だった。また、写真集『決定的瞬間』で独自の写真美学を確立し、世界中の写真家に多大な影響を与え、写真を芸術の域に高めた。ヨーロッパ、アメリカ、インド、中国、日本など世界中を旅した彼は、その“激動の20世紀”の瞬間を捉え続けた。人前に顔をさらすのを嫌い、自身についてほとんど語ることのなかった彼は、人生の最期に初めてその半生と作品についてこの映像の中で語っている。映画は当時93歳のカルティエ=ブレッソン本人と、親交のあった写真家エリオット・アーウィットや劇作家アーサー・ミラーなどの貴重なインタビューで構成されている。青春のメキシコ、捕虜収容所の脱走、戦時下のパリ、助監督もつとめた映画監督ジャン・ルノワールとの出会い、“マグナム”の仲間たちとの思い出、マリリン・モンロー、ココ・シャネル、トルーマン・カポーティ、サルトルとボーヴォワールら20世紀の“顔”を撮影したエピソード……。そして、ついにカルティエ=ブレッソン本人の口から“決定的瞬間”の謎が明かされる。写真集『決定的瞬間』のフランス語版タイトルの意味は“逃げ去るイメージ”。そこには歴史的瞬間だけでなく市井の人々のなにげない日常の瞬間も捉えられている。カメラは、すべての人生の中に“決定的瞬間”を見いだす彼のまなざしそのものだった。彼はその瞬間を生き生きと語り、そして微笑む。そこには人生への愛が満ち溢れている。

ブレッソン(1908-2004)は恵まれた中産階級の家に生まれ、芸術的野心に燃えた少年でキュビズムの彫刻家に師事する傍ら休日にはスナップ写真をとることを趣味とした。 

晩年1974年以降は絵画に傾倒し、冒頭のような言をのべた。

写真は一瞬を捉えることに集中するが、絵を描くことはひたすら没頭してあるカタルシスを得ることを瞑想に例えたものだろうか。

 

またこうも言っている。

「写真は瞬間の芸術だ。

その瞬間を選ぶ楽しさ。

いいぞ、まだだ、よし今だ!」

 

93歳のブレッソンはよどみなく受け答えし、記憶もしっかりしている。

決して老いぼれてはいない。

 

ブレッソンないしブレッソンの写真を語る人たちもなかなかに面白い。

 

劇作家のアーサー・ミラーは、一時マリリン・モンローの夫であったが、

マリリンが物思いにふけっているブレッソンの写真を見ながら、

「マリリンは美しかった。

いつも何かを考えていた。

この写真には彼女の知性の基礎が現れている。

とても内省的な写真だ。」

 

「しかるべき配列と構図こそ最も大切なものだ。

配列が基本なんだ。感情は自ずと現れる」(ブレッソン)

この言にもっとも相応しく、気に入った作品。

これを撮ったときのブレッソンの忍耐を思う。

 

「ポートレイトは楽しい。

先ずカメラの存在を忘れさせること」(ブレッソン)

被写体の女優イザベル・ユベールは

「2、3枚撮って見せる、

その一枚が突出して素晴らしい。

私の知らない内面を覗いている気がした。

彼はそれを私から引き出した。」

 

「ポートレイトは難しい。つかの間だから。

”今の笑顔をもう一度、とは言えない。」(ブレッソン)

しかしこの劇作家サミエル・ベケットのある方向を凝視している写真は

どのようなタイミングで撮ったものだろうか。いろいろと想像させられる。

 

彼は日本にも何度か来ており、下の写真は1965年のもの。

 

晩年は絵に傾倒したが、ルーブルのウッチェロ「サン・ロマーノの戦い」

やピエロ・デラ・フランチェスカなどを見て、

「傑作を見た後は、一杯やりたくなる」(ブレッソン)

と思わずうなずくことを言う。

 

「構図が正しければトリミングは必要ない。

疑う視線と、あとは表現のセンスだ。

その視線を持っていたのはジャコメッティとドガぐらいだ」(ブレッソン)

目に見えるものの背後にあるものを見ようとすれば、

疑う視線が必要だ。

それはジャコメッティによく当てはまる。

また、ドガの踊り子の作品の数々は「瞬間の芸術」でもあり

そして、それぞれの踊り子に各々の動作の方向性と表情があり、

それらをくまなく表現しようとした作品を指しているのだろうか。

 

 

「記憶は奇妙だ。プルーストに敬意を」

「過去は白紙だが、いつもゲップのように戻ってくる」

「写真は死なない、生き続ける」

 

自らの、その通りの生をブレッソンは生きた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

原題は Cafe de Los Maestros

概要を映画comより

「ブロークバック・マウンテン」「バベル」でアカデミー作曲賞を受賞した音楽家グスタボ・サンタオラージャがプロデュースするアルゼンチンの伝統音楽タンゴのドキュメンタリー。2006年、ブエノスアイレスの古いレコーディングスタジオに、名曲集アルバム「CAFE DE LOS MAESTROS」を収録するため、タンゴの黄金時代を築いたスターたちが結集した。激動の歴史を生き抜いてきた音楽家たちが、タンゴと祖国への熱い思いを語る。

 

 

2008年公開、日本公開は2010年。

監督:ミケル・コアン 

アルゼンチンタンゴに特有のバンドネオン。

もともとはドイツの楽器製作者ハインリッヒ・バンドがアコーディオンをベースに考案。バンドにアコーディオンのイオンを組み合わせて「バンドイオン」それがいつの間にか「バンドネオンに変化したらしい。

アコーディオンに比べ左右のキーが同じ機能でいわば両手で蛇腹を押し開き出来るためキレのいい音が出るそうだ。切れの良さのもう一つの要因は末尾の音符を省略することによる、と映画の中にある。

 

大概の人がそうであるように

この映画を見て思い出すのはヴィム・ヴェンダースのドキュメンタリー

「ブエナヴィスタ・ソシアルクラブ」

楽器の編成が違えば音楽も違ったものになる。

キューバ音楽はアフリカ由来の打楽器とスペイン由来のギターの組み合わせ。

 

一方アルゼンチンタンゴは、ピアノにバンドネオン、バイオリンなどの弦楽器、トロンボーンやトランペットの吹奏楽器もありオーケストラ編成。

多数の音楽家が飯を食える構成だ。

 

この映画をみて感じたのは、アルゼンチンタンゴが「クレーオール」の音楽ということ。ほとんどが大陸からやってきた白人たちが奏で唄い踊る。

アフリカ由来の音源もある筈だが私の耳には聞き取れない。

アリューシャン列島を伝って我が縄文人とDNAを共有する先住民族の影もない。しかしアルゼンチンタンゴは我々日本人にも大変馴染み深い音楽でもある。

 

クラシックコンサートのような堅苦しさもない。

ワルツのようなドレスコードもない。

歌の歌詞も哀愁に満ちてセンチメンタル。

なぜかくも日本でもてはやされるのか。

その秘密を知りたいと思う。

 

マエストロたち

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

ロスアンゼルスダウンタウン5番街の角に近いミリオンダラーホテル。

その吹き溜まりのような安宿には、少しいかれた人たちが住んでいる。

その屋上から男イジ―が飛び降りる。

「ユダヤ教徒は絶対に自殺はしない。他殺だ」

マスコミが食いつけば、「権威のある家の息子が浮浪者や先住民と暮らし謎の死を遂げた」と大騒ぎになる。と心配して、ある上院議員を通じて「赤外線追尾ミサイルと呼ばれる直情径行のFBI特別捜査官

スキナー(メル・ギブソン)が派遣される。

 

スキナーにとって、ホテルの住民はすべてが容疑者。

その中の一人、住人からは「バトラー(執事)」と呼ばれている

少し頭の弱い好青年トムトム(ジェレミー・デイビス)や、時に売春で稼ぐエロイーズ(ミラ・ジョヴォヴィッチ)、ビートルズの隠れたメンバーと自称するギタリスト、先住民らしき男ジェロニモなどがその面々。

 

トムトムは密かにエロイーズに惚れている。

「エロイーズは影の様だ。よく見ないと見逃してしまう。

昼は体の中に留まっているが、夜には他人が入り込んでいる。

彼女を守りたがる僕にイジ―は、”心配ない、彼女は存在していないから”と。」

 

詩人のように鋭い観察力の持ち主に「頭が弱い」といったスキナー捜査官は、ホテルの住民が捜査よりもトイレの水洗が壊れる方を心配している、と聞いてホテル機械室の配管をぶち壊して水浸しにする。

スキナーも負けずにいかれている。

 

人物像はかくも倒錯している。

住民たちはテレビが取材に来るのを利用して、ある陰謀をめぐらす。

飛び降りたイジ―を天才的な画家だ、と吹聴してジェロニモが持っているタールをべったり塗った絵を高く売りつけよう、というのだ。

 

ある日トムトムはエロイーズへの愛を遂げ、至福の時を味わう。

「愛を描くことは出来ない、

海や自然の神秘のようには。

それは僕ら自身が自覚した秘密。

それは聖人の中の罪びと。

それは絵に込められた光」

この詩を使う日が訪れようとは、

(死んだ)イジ―に感謝しないと。

 

ある日、スキナーはトムトムを呼び、トムトムはバカの境界を行ったり来たり(演技)しながら、スキナーがエロイーズを犯人に仕立てようとしていることを知る。

 

「自分をバカだと思っているからこそ、告白は真実と思われる。

”僕がイジ―を屋上から突き落とした”とスキナーに告白すれば、、」

 

「物事はどう運ぶかわからない

例えば愛がそうだ

ぼくをエロイーズへと導いた愛は

僕を親友殺害に導いた愛と同じものだ

同じ愛が異なった結果を招いた

 

僕はスキナーを好きだった

彼は(実は)僕らの仲間だった

彼は忘れようとしていたけど。

僕を逮捕できなくて残念だね

 

蛇足だけどすべては僕の自我が原因だと思う

僕に自我があるなんてエロイーズに合うまで

知らなかった

 

僕の望みはエロイーズに触れることだった

彼女の心に、、、、そして触れた

たとえ一瞬でも。

彼女が来た

二人で逃げよう、というエロイーズを振り切って、

ミリオンダラーホテルが一段と輝いている夜、

トムトムは屋上を駆けてダイブする。

 

トムトムとエロイーズの愛

そして二人を追い、二人を好きになるスキナー

3人の主人公の物語をトムトムの詩をもって再構成した。

 

 

 

トムトムはイジ―に頼まれてイジ―の手を離した。

 

世界を旅し、他人の人生を旅する旅人

ヴェンダースの今回の旅の世界はロスのミリオンダラーホテル。

トムトムとエロ―イーズ、二人を取り巻くスキナー捜査官の

悲劇的というよりは暖かいものが残される人間愛の物語。

旅を愛する者は

旅する世界にも出会う人達にも

優しくなければ。

 

ロスの私立探偵フィリップ・マーロウ

「タフでなければ生きてゆけない

優しくなければ生きている資格がない」

 

U2 のボノの着想から始まっただけあって、ボノの作詞した曲や

ミラの歌う歌が流れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ピナは画家だった。

問いかけることで、私たちに色をつける。

そうやって絵を描いていった。

たとえば 「月はどんな感じ?」

 

月、と名付けられたものを思い描くとき、

言葉では汲みつくせないものがいくつもある。

「(そこで)想像してもらうことが大切。

問いかけることで、特別な何かを感じ取ってもらう。

それがダンスの出発点。」

 

 

ピナ・バウシュは1940年、ケルンとドルトムントの間に位置するゾーリンゲンに生まれたコンテンポラリーダンスの振付師、芸術監督。

故郷に近いエッセンの芸術大学を首席で卒業、国費交換留学生としてニューヨーク、ジュリアード音楽院舞踊科を出た後メトロポリタンオペラバレー団などで活躍したのち1962年に故郷に帰って69年芸術大学の教授就任、73年やはり故郷近くのヴッパタール舞踊団の芸術監督に就任する。

芸術は潜在意識ー内面から湧き出るものを表現する、

というドイツ表現主義の影響を受け、抽象的な主題に取り組んだ。

ステージのセットはたとえばカーネーションやピートを床に敷き詰めたり壁が倒れてくるなど普通ではないようなものであり、踊りもまた演劇的な要素が強いものと言われる。

カーネーション

 

ダンサーに「問いかける」ことで

ダンサーを表現者に変身させる。

 

「もっとクレージーに表現して」

「私を怖がらせて」

「踊りなさい、自らを見失わないように」

「違う表現はないの?」

 

などと団員を励まし、問いかけることで団員を支える。

惜しいことに、ピナは2009年6月30日68歳で急逝。

その6日前にがんの診断を受けたばかりだという。

 

このドキュメンタリーの監督ヴィムヴェンダースは

世界を旅し、他人の人生を旅する旅人。

今回の旅はコンテンポラリーダンスの世界、

その革新者ピナバウシュの人生の在り様。

 

ヴィムは1945年生まれだからピナの5歳下。

ピナの生まれ故郷に近いデュセルドルフ出身。

そのためもあってかピナ・バウシュとヴェンダースは

長年の交流があり、彼女の「素晴らしい踊りを映像化しよう」

と常々思っていてもその術がなかったが、デジタル3D技術の登場で映画化を決意、2009年秋に撮影開始が予定されていた。

ピナの死の数か月先である。

 

ヴェンダースは制作をあきらめたが、バウシュのヴィッパタール舞踊団の団員の姿ー恐らくはピナの遺志を継いでいこうとするその姿

に励まされ制作を再開2011年に完成公開された。

だからこの映画はピナ・バウシュに捧げられたものであり、

原題の Pina という中に、ヴェンダースの

ピナへの尊敬と親しみと惜別の情を込めた呼びかけ、

と見るのは読み込み過ぎだろうか。

 

この映画の中でも、言及されているが

ピナの代表作の一つとして「Cafe Muller」(ウムラウト)がある。

ピナの実家はカフェレストラン、というから着想はそこから来ているとも考えられる。カフェには回転ドア(ミューラーには水車小屋の主人という意味もある)があり、そこから暗い舞台に登場、目の見えない女性がカフェの椅子が散乱した舞台を闇雲に歩き回る。

周りの人は、彼女がぶつからないよう進路の椅子を必死で除く。

これで表現したかったのは「信頼」?

そういえば、硬直した姿勢で勝手に倒れる赤いドレスの女性を男性が必死で支える劇もあった。これもまた「信頼」だとすれば、

彼女の表現したかった「信頼」は何に向けられたものだったのだろう。

ピナ・バウシュとヴィッパタール舞踊団は世界中の国々で公演されている。一例を挙げると、

1982年:パリ、ウイーン、ローマ

1984年:東京、大阪、京都

その他:エジンバラ、モスクワ、リスボン、北京、ソウル、台北など

 

この映画にも紹介されている踊り。

 

追記:コンテンポラリーダンスで踊るものとそれを見る者に

共通の理解ーコミュニケーションをもたらすものは何であろうか、

と言うことをこの映画を見て考え始めている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「苦しみと幸せと惨めさは、

   女性なら皆知っている筈」

と、タンゴのパートナーファン・カルロスと自分とのドキュメンタリー

制作にあたり、「それが映画にするほどの価値があるのか、自分の人生はありふれたものだから」と ありふれた理由を語ったマリア・ニエベス。

 

1940年代のアルゼンチンタンゴの都ブエノスアイレス、そこで二人は出会い、以来半世紀以上のパートナーを組んだ。

2015年映画製作の当時マリアは疾うに80歳を超えている。

出会いから別れまで、愛憎に満ちた二人の長い物語。

先ずは概要から(映画。COM)

アルゼンチンタンゴの伝説的ペア、マリア・ニエベスとフアン・カルロス・コペスを描いたドキュメンタリー。それぞれ14歳と17歳の時に出会い、その後50年近くにわたってペアを組んだマリアとフアン。何度も別れを繰り返しながらも必ずまた手を取り合ってきたふたりだったが、やがてフアンはマリアの元を本当に去ってしまう。現在80代になったふたりが若きダンサーや振付師を聞き手に、ふたりの愛と葛藤の軌跡や互いへの思いを明かしていく。そしてその中でも特にドラマチックな場面を、若きダンサーたちが美しいタンゴの振付で再現する。ビム・ベンダースが製作総指揮に名を連ね、「ミュージック・クバーナ」のヘルマン・クラルが監督。

タンゴはタキシードにドレスを着て、

「これは紳士・淑女の踊りである」

というメタメッセージの傘の下に、

時に見つめ合い、時に唇を寄せ合って

時に足を絡め、身を横たえて

性的行為の仄めかしが横溢する。

 

結びあわされた手と肩に寄せた手を通じて

相手の体温や汗ばみ、つまり興奮を感じ取り

そのことが一層お互いの情感を高め合い、

更にはそれを観る者に感情移入を誘う。

 

踊る二人に恋情が芽生えるのは必定。

恋情は嫉妬を呼び、嫉妬は憎しみをもたらす。

なぜ二人は結婚しなかったのだろうか。

 

結婚が、若い男女のファンを失う、

という恐れもあったであろう。

しかし、

結婚すれば、仕事上の危機は、家庭の危機に直結し、

愛情の危機は、舞台の危機に直結する。

危機は倍加し増幅するのだ。

結婚しなかったことが、パートナーとして長続きした理由、と読む。

それに二人が夫婦だと知ると、

寝間を覗くようでこちらの居心地も悪い。

 

二人の愛憎があからさまに二人の口から出ることはない。

まだ二人の中にはその愛憎が風化していないのだ。

 

総指揮のヴィム・ヴェンダースは

世界を旅し、他人の人生を旅する旅人。

それを自然に風化するまでそのままにしておく。

あからさまにしないことが、旅人としての礼儀なのだ。

 

 

そしてアルゼンチンタンゴの名曲、「リベルタンゴ」

 

 

 


加えてこのドキュメンタリーの特別映像と予告編。

 

 

お終い。

 

 

 

 

 

 

 

1968年正月第二週作品として公開され、東映が期待したほどの興行成績ではなかったが、翌69年三島由紀夫が「これは何の誇張もなしに『名画』だ、ギリシャ悲劇にも通じる構成」と激賞して、この作品がヤクザ映画で初めて芸術的評価を受けた作品となる。

 

先ずはあらすじから

1 昭和9年、河島という右翼の黒幕の私邸に、江東地区を縄張りとする天竜一家の総長(親分)が弟分の仙波組組長仙波(金子信雄)の手引きで招かれ、「子分たちを満州に送り込んで麻薬を含む荒稼ぎをしてくれないか」「これは国家的使命だ」などと誘われるが、総長は「わしの一家は博打打の分を守って渡世するのが家憲」と断る。

2 その直後総長が倒れ、急ぎ跡目を決めなければならなくなる。

衆目の一致するところ筆頭組長の中井(鶴田浩二)だが、中井は自分は大阪のよそ者だから、と言って断り、代わりに弟分の松田(若山富三郎)を推す。しかし仙波は既に他の組長たちに根回しをしており、「刑務所に入っているような奴はダメだ」と反対され、結局中井や松田の弟分である石戸が後継者に選出される。

3 石戸の襲名披露の前に出所してきた松田は一家は中井か自分が継ぐべきで、それを石戸が受けたのが許せない、と逆上する。そして石戸に直談判するが、石戸は天竜一家の決定である以上意地でも立派な総長になってみせる、と返す。松田はいきり立って殴り込みをかけるが、果たせず謹慎させられる。これは仙波が天竜一家を乗っ取るために描いた筋書きどおりだった。

4 間に立った中井は幹部たちをなだめ松田をおとなしくさせようとするが、松田はあくまで襲名披露をつぶそうとし、松田の周囲の子分たちも彼に殉じようとし、その子分を庇おうとして中井の妻が自死する。

悲劇は広がってゆくのだ。

5 遂に中井は雨の降る寺の境内で松田と兄弟分の縁を切る。

一方で中井は石戸に「あんたが二代目に立ったことで仙波と何か裏の話でも出来ていたのか」と確認するが、それは無かった事がわかる。中井は石戸が仙波と裏で通じているのであれば、石戸を切るつもりであった。松田に石戸の潔白を話すと、松田は「そんなことはもう問題じゃない。石戸の後塵を拝することは自分を安くする」といって納得しない。あくまでも意地を通そうとする。

6 修善寺の総長賭博の会場に全国から親分集が集まる。そこで仙波は石戸を河島の前に呼んで「天竜一家は大陸から麻薬を密輸して儲ける団体に発展的に解消し、今回の総長賭博のテラ銭はその団体の活動資金にする」と告げるが石戸は憤然とはねつける。

7 直情径行の松田は賭博の成功を祈って参拝に来た石戸を負傷させるが、石戸は仙波の言いようにはさせぬ、と傷を隠して襲名の儀式終え床に就いたところを仙波の刺客に殺される。

8 賭場が終わってテラ銭が集まり、それを仙波は自分が管理する、と言い出すが中井が抗議する。すると仙波は「松田が石戸を刺したのはお前が手引きしたんだろう」と言われ、自分の身の潔白を立てるために松田の居場所を突き止め彼を刺す。

9 その帰り道、中井は仙波の放った刺客に襲われ、逆にこれを捕え、仙波が石戸を殺したことを確かめて修善寺に戻り仙波に対する。

中井が仙波に詰め寄ったとき、仙波は「中井ツ、、叔父貴分のワシにドスを向ける気か!てめえの任侠道はそんなものだったのか!」と責めるが中井は「任侠道か、、そんなもん俺にはねえ、、俺は、ただのケチな人殺しなんだ、」と静かに言って仙波を刺す。

これに中井を無期懲役とする裁判所の判決がダブって終わる。

 

この映画は「兄弟仁義」シリーズの監督山下が、「日本侠客伝」シリーズの脚本家笠原との話し合いで、「兄弟仁義」の逆、つまり義理人情の任侠映画ではなく、ヤクザの内紛を描く葛藤劇をやろう、と決めた(Wiki)。つまり「天竜一家」という組織の跡目をめぐる内紛劇である。

しかしそうは言っても、疑似家族的な背景は変わらない。

親分ー子分、義兄弟、親分の弟分は叔父貴、、など。

悪役は満州から麻薬を持ち込んでそれを売りさばく組織を天竜一家を乗っ取って利用しようとする河島や仙波。何やら岸信介や里見某が脳裏に浮かぶ。

 


さて三島が何を高く評価したか、についてであるが、手元にその資料がないので、ここでは佐藤忠男の「長谷川伸論」に従って紹介する。

「総長賭博」はたしかに傑作である。これほど、組織と個人の闘争のあり方を純粋に煮詰め上げた作品はそう、ザラにはない。が、同時に、ある一点においてこれはまったくバカバカしい映画であり、そのバカバカサしさは、(1970年三島が自衛隊市谷で憲法改定のために決起せよ、と呼びかけた後に割腹した)三島のバカバカしさと等価である。」

「任侠道の真髄は『弱気を助けて強気を挫く」というところにあり、多くのやくざ映画によれば親分の絶対無謬性を最後に叩き切るのがヒーローなのである。こんな(反体制的な)恐るべき正義派は堅気の世界にも滅多に居らず、ましてや現実のやくざの世界などには決して存在するわけがない。」(p16)

「三島が自ら演じたドラマにおいては、ヤクザ映画の任侠道という観念が、そっくり、忠誠という観念に置き換えられる。三島があの事件で全国民にアッピールした事はただ一つ、日本人は天皇に忠誠心を持て!ということであった」(p17)

「中井は松田が、組織を破壊しても筋は通さねばならぬ、主張して居ることを許すわけにいかない。なぜなら中井は組織の秩序を維持し続けることを至上としている男だからであり、それが彼の任侠道だからである。彼は先ず組織を全否定する松田を殺すことによって組織に対する自分の忠誠のあかしをたて、しかる後に組織悪の核心(仙波)に白刃を向けるのである。」(p14-15)

三島事件について最も興味深いことは、三島がアッピールしたのは天皇への忠節に他ならないのに、つまり任侠道を本気にしないと同じように、天皇への忠誠と言うことを本気にせず、ただその形式にだけ感動している人が少なくないことであり、それはおそらく、思想のデカダン現象ということであろう。やくざ映画を、そのイデオロギーを抜きにして形式美だけで愉しむことが一種のデカダン現象であるように(p18)

 

三島(本名平岡公威)は祖父、父も東大法学部から官僚になった家柄に生まれ、幼少のころは祖母の絶対的影響下に置かれ男の子らしい玩具は取り上げられ、外での男の子らしい遊びも禁じられた。祖母は公威の遊び相手におとなしい年上の女の子を選び、公威に女言葉を使わせた。この祖母の直接の訓育は三島が12歳まで続くのだが、早熟の天才三島のIQ(精神年齢)は12歳といえども青年期くらいの筈であり、こうした生育環境は彼の精神形成に影響を及ぼさないわけは決してないだろう。三島は自分の性(肉体)と女言葉を使わされたことで言語を奪われたのである。それらは後の人生において「回復」されなければならないものであった。30歳ごろからボディビルで身体を鍛えようとしたことにもそれが現れているし著作「太陽と鉄」そのように受け取れる叙述もある。天皇に対する忠節、という時代に感応しない絵空事を、つまり観念だけが暴走することを本気で信じ、切腹をするまでに至った事を理解するには、幼少の生育環境の要素を補助線として差し挟まなければ不可能だと思う。一方「天皇に対する忠誠」は象徴天皇が三島に求める筈のない、三島の天皇に対する一方通行の忠誠である。恋愛における片思いがそうであるように、一方通行の感情は対象に対してどのように想像をめぐらすことも出来、それに伴って欲望というエネルギーを無限に備給することが可能である。その欲望の備給の中にエロティシズムがあり、忠節の極限状態としての切腹ー陶酔があるのである。

 

最後に佐藤忠男は

私は、義理人情を、忠義よりはマシナモラルだと思うのである。忠義には、臣下の忠節を踏みにじった主人に対する報復ということはないが、義理人情では、義理を踏みにじった親分には盃を叩き返して白刃を向けることが許されている。義理人情というのは半ばは双務契約であって親分が義理を欠けば、子分もまた盃を返す論理的根拠を持つわけである。長谷川伸的な(沓掛時次郎の)世界があくまでも庶民的なものであるとすれば「総長賭博」の世界は、ほとんどサムライの世界である。伸の世界ではやくざは、自分がやくざであることを恥じて極力へりくだっているが、「総長賭博」的な世界では、やくざはほとんど一門一家における立身と栄達を誇りとしているようにみえる。」(p32-34適宜抜粋加除)

と述べている。佐藤は長谷川伸の「沓掛時次郎」と三島絶賛の「総長賭博」を対照して、明らかに長谷川伸に肩入れしている。そして文の襞には著者佐藤忠男の民衆作家長谷川伸に対する尊敬の念が織り込まれているように思える。

 

チャンバラ映画にもその後のやくざ映画も殆ど見たことが無かったのであるが、前のブログ「沓掛時次郎」で述べたように、ミラーニューロンを出発点に「共感」についていろいろと考えるうちに、仏教の慈悲や宣長の「もののあはれ」から「義理人情」ないしは「義理と人情」に至ったのであり、その過程で 映画を通して日本の文化や道徳観を探ってきた佐藤忠男 に巡り合った。その追及の伏線には、電車の優先席にどっかと座ってスマホをいじっている若年から壮年の人がたくさんいる事態、それを中国や韓国旅行での経験に照らして、一体日本の「道徳観・倫理観」はどうなっているのだろうか?という問題意識がある。