90分のこの映画、ストーリーを語ることは容易だが、その解釈は多義的で冗長性に富み多様なものになるであろう。
先ずはそのストーリーから
スウェーデンのある地方に“お城”と呼ばれる大邸宅があった。時は19世紀末の秋。広々とした屋敷には37歳になるアグネス(H・アンデルソン)が、召使いのアンナ(K・シルバン)とともに、両親が死んで以来取り残されたようにひっそりと暮していた。彼女の人生に男性が現われたことは一度もなく、今は、病んでいた子宮ガンが急に悪化したためベッドに臥せていた。そのアグネスの見舞いに姉のカーリン(I・チューリン)と妹のマリア(L・ウルマン)が駈けつけてきた。カーリンは既に二十歳にならぬうちに二十歳年上の優秀な外交官フレドリックと結婚しており、5人の子供がいたが、結婚後すぐ自分の選択の失敗を悟っていた。子供たちには母親らしい愛情を抱いて接したことがなく、夫に対するどうしようもない軽蔑と人生に対する敵意を抱いていたが、世間には貞淑な妻と見せかけていた。末の妹マリアも成功した商人ヨアキムと結婚しており、5歳になる子供がいたが、彼女自身子供っぽく、美しくして人眼をひくことにしか関心を示さなかった。召使いのアンナは30歳ぐらいの健康で素朴な田舎女だった。若い頃に生んだ子供は3歳で死亡し、以後アグネスに献身的に仕え、2人の間には主人と召使いという以上の親しいつながりがあった。
暁方、アグネスの容態が急に重くなり、そのまま息を引きとった。その夜、牧師の祈りの言葉がカーリンに暗い思い出を呼び起こさせた。夫との心の通わぬ夕食のとき、ワイングラスを壊した彼女は、その破片を歓びのない自分の性器深く突き刺した。彼女はベッドに横たわり、血まみれの肉体をひらいて夫を見すえた……。カーリンとマリアがアグネスの日記を読むと、そこには友情や神の恵みについての言葉があふれていた。苦しみの中で、彼女がそれを心から感じていたのか、それともそれらの事柄に飢えていたのか、二人には判らない。二人は自分たちの冷たい空気について話し合い、カーリンは率直に妹マリアへの憎しみを口に出し、許しを乞う。そのとき、アンナが子供のような泣き声を聞きつける。その泣き声はアグネスだった。アグネスはまずカーリンに救いを求めるが、彼女はアグネスを愛していないからといって冷たく去っていく。マリアはアグネスを見棄てない、というがやはり自分のことしか考えていない。アグネスは結局最後にアンナに添寝されながら、母親に甘えるようにアンナの膝に頭をもたれて永遠の安息の時をもつのだった……。
葬式がすむと、カーリンとマリアは冷え冷えと一族再会を約束して、右と左に別れていく。唯一人、後に残されたアンナは形見にもらったアグネスの日記を読み返す。
「姉妹三人が昔のように集まったので、久しぶりにそろって庭を散歩する。明るい日光、明るい笑い。世界中でいちばん近くにいてほしい人が、皆私のそばにいてくれる。わずか数分間のたわむれだが、私にとっては楽しかった。人生に感謝しよう。人生は私に多くのものをあたえてくれた」。(MovieWalkerより適宜抜粋改ざん)
内心に深い憎しみーそれは結局自己嫌悪に他ならないがーを蔵する長女カーリンは黒いドレスを、自分の性的欲望に奔放な末娘マリアは赤いドレスを、ドレープも絨毯も赤い部屋に住む次女アグネスは白いドレスを着ている。ドレスによる性格の暗示。
ベルイマンは子供の頃から、魂の内側は赤い色をした薄い粘膜である、と想像していた。(人と思想ベルイマン2000年第一刷p161)
ここから人は容易に子宮を連想するだろう。
併せて著者の小松弘は、ベルイマン自身の言として
「大きな赤い部屋に白い衣服を着た三人の女がいて、何かをささやき合っている、というこの映画を作る数年前に見た夢がこの作品の基になっている」と書き記しており、「夢に基づいているこの映画は(それ故)夢と現実、記憶の風景と幻影の境界がはっきりとつけられない作品になっている」としている。
そう言ってしまえば、アグネスが医師から死亡を確認された後、キリストが復活したように叫んでカーリンとアンナを代わる代わる枕頭に呼ぶのだが、それも夢の世界の出来事と片付けることが出来よう。
確かにこう解釈すれば一件落着なのだが、しかし「夢と現実を区分するキュー」がない。
例えばタルコフスキーの「ノスタルジア」では「夢想は白黒画面、現実はカラー」という明確なキューがある。
この現場に立ち会った二人の姉妹と召使いアンナたちも揃って同じ夢を見ていたのだろうか。
なんにせよ、合理的な解釈を求める私の魂は、アグネスは仮死状態から一次的に復活した、と見ることも出来るのではないかと考える。一方合理的解釈は新たな非合理的解釈を生む、というよくある現実もあるからこの説の危うさもある。
さすれば、井戸端会議風に「アグネスは死んでも死にきれず蘇った」とすれば良いのだろうか。どうももやもやは消えないのだ。
この復活はアンナの恐怖(ないし願望)を反映しているかも知れない。
(これは)現実と夢の境界を曖昧にし超自然的なものを呼び寄せている、とする見解もある。ベルイマンは邦訳のないインタビュ
(Egil Tornqvist 1995)で
死は究極の孤独であり、アグネスは生死の裂け目に宙づりになっている。そこにおいては何があっても不思議ではない。この状況は実際にも映画でも知ることが出来ない。
そこにキリストがいるのだ。
と語っている。
アグネスは日記を、姉妹とともに過ごした楽しい時間を「人生に感謝しよう」と閉じるわけだが、蘇ったとき、姉カーリンはアグネスに触れることを拒み、マリアはそそくさと立ち去る。
最後再び息絶えるとき、アンナだけが添い寝してくれる。
その関係性の現実がアグネスの「本能的直感」であり、
その孤独感が「叫び」になり姉妹を自分の枕頭に呼び寄せるのだ。
一方アグネスの「死」が呼び寄せたカーリンとマリアは、アグネスがマリアに対する憎しみを口にしたことを契機に、和解し互いに触れ合う。
この場面は言葉は発せられず、背景の音楽のみ。
それが一時的にもせよ、邂逅には言葉より身体接触なのだ。
この場面をタルコフスキーは
「叫びとささやき」の中に、極めて印象的な最も重要なエピソードがある。二人の姉妹が父の家にやってくる。彼女らの姉がその家で死にかかっているのだ。
(「刻印された時間」p282原文のまま以下同)
やがて姉妹は二人きりで残されるのだがある瞬間、非常に親密で人間的なつながりを感じる。そして、、、お互いを慈しみ合う。こうした瞬間は束の間の儚いものであるがゆえに、いっそう激しく待ち望まれている。彼女たちの短い交流のシーンの中で、ベルイマンは台詞の代わりにレコードでバッハのチェロ組曲を流した。印象は幾倍にも強められ、深さと広がりがそこに添えられた。この何か精神的な高みへの、肯定的なものへの出口は、幻影であることが強調されている。それは夢であり、存在しないし、しえないものだ。しかし芸術の助けを借りると、その幻影でしかない出口さえも、観客にカタルシスや精神的解放、浄化を体験する機会を与えるのである。
芸術はわれわれの存在の意味を象徴している。
映画はわれわれの存在の意味を象徴し、精神的解放や浄化の先に「希望」と「信仰」を与えることが使命、とするタルコフスキーには、
恐らくアグネスの「復活」は存在了解の為の障害にはなり得ないのだと思われる。



