『コックと泥棒、その妻と愛人』 食と性、生と死の饗宴 | シネマの万華鏡

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映画記事は基本的にネタバレしていますので閲覧の際はご注意ください。

 

この間、とある過去記事に「グリーナウェイやクローネンバーグ、D・ジャーマンにベルトルッチ。私の好きな監督たちをこんなに丁寧に取り上げてくれる人、なかなかいません」と嬉しいコメントをいただきまして。ただ、クローネンバーグとベルトルッチはたしかに大好きで、いくつかの作品を記事にしているのですが、ピーター・グリーナウェイとデレク・ジャーマンの作品の記事って実は全く書いてなかったりして滝汗

せっかくだから、この際グリーナウェイとデレク・ジャーマンも後付けで書いちゃおうと。

なかなかレビュアー泣かせなお2人とあって、とりあえず一番記事にしやすい作品を・・・となるとやっぱりグリーナウェイの『コックと泥棒、その妻と愛人』? うん、今日はこれで決まりです。

 

舞台はフレンチ・レストラン

(タイトルロールの4人。左から「愛人」マイケル、「コック」リチャード、「妻」ジョジーナ、「泥棒」アルバート)

 

この映画の舞台はフレンチ・レストラン。グルメ映画?と思いきや、少なくとも美食礼賛の映画とはちょっと違います。

主要登場人物はタイトル通りの4人。「コック」=レストランのシェフ・リチャード(リシャール・ポーランジェ)と、「泥棒」=強盗団のボスでリチャードのレストランのオーナーでもあるアルバート(マイケル・ガンボン)、「その妻」のジョジーナ(ヘレン・ミレン)、そしてレストランの常連客でジョジーナと恋におちる「愛人」マイケル(アラン・ハワード)です。

 

金にあかせて高級フレンチレストランを買い取り、毎夜妻と手下たちを引き連れて店を訪れては、飽食三昧・横暴三昧のアルバート。粗暴を絵に描いたような男、グルメを気取った彼がその実味オンチであることは、言うまでもありません。

夫に日常的に暴力を受けながらも逃げられず、籠の鳥のジョジーナにとっては、レストランで食事の合間にマイケルとの逢瀬を楽しむひとときだけが幸福な時間。しかし或る日ついにアルバートに浮気がバレ、2人は残酷な形で引き裂かれます。そして復讐の鬼となったジョジーナの仰天復讐劇のフィナーレへ。

ただ、ストーリーだけでは、この作品を3割も表現したことにはならない気がします。衝撃の結末だって、ネタバレしても何の問題もないと思ってしまうくらいに。

そもそもこの映画にとってストーリーは、食事に例えるなら供される料理そのものではなく、料理を盛り付ける皿やカトラリー。グリーナウェイ的世界観を映像作品として展開させるための方便にすぎないと思ったほうがいいような気がします。(もっとも、優れた映画は皆そうだし、それでこそ映画なのですが)

 

ほぼ全シーンがレストランの客席と調理場を舞台に繰り広げられるという、ワンシチュエーション・ムービーに近い作品。レストランという小宇宙の中で、食のさまざまな側面が引き出され、物語に共鳴していきます。

 

食と性、生と死の饗宴

(豪奢な料理に囲まれていると、傲慢な男が一層傲慢に見える。これも「食」の不思議ですね)

 

本作の中で、終盤、ジョジーナに「料理の値段はどうやって決めるの?」と聞かれたリチャードが、こんなことを言います。

黒っぽい食材には高い値段をつけますね。ぶどうにオリーブ、黒スグリ。人は死を思い起こさせるものを好みます。黒い食べ物を食べることによって人は死を克服した気分になる。

黒い食べ物の中でもキャビアと黒トリュフが最も高価です。

死と誕生。

終わりと始まり。

最も高価な食材が黒というのも頷ける話だと思いませんか?

キャビアにも黒トリュフにも縁がないものですんなり共感できないのが残念なのですが(笑)、それはともかく、ピーター・グリーナウェイは、このセリフを通して、本作が何故レストランを舞台にしているのか、この作品にとって食とは何なのかを教えてくれています。

宮廷料理を源流とするフランス料理は、絢爛豪華な食材の饗宴。しかしその反面、頭骨付きの雛鳥の丸焼きやカエル料理など、グロテスクな死をしたたかに見せつけてくるメニューもあります。食は生命力の源であると同時に死穢にまみれている、という普段私たちが目をそむけている事実を思い出させてくれる料理です。

グリーナウェイが、「肉」という名の動物の死骸があまたぶらさがった厨房をジョジーナと恋人マイケルの密会の場に選んだのも、セックスというビビッドな生の実感、そしてその行為の果てにあるマイケルの死の予感も、どちらもこの上ない形で演出してくれる、「生」と「死」がせめぎ合う場所だからではないでしょうか。

 

グリーナウェイは食から「生」と「死」という要素を引き出し、物語に織り込んだ。本作には非常に暴力的でグロテスクなシーンも多々あるのですが、グロテシズムも、実は食のいつわらざる一面。

そして食肉の最終形態である「腐敗」までも、真正面から描いています。大量の腐った肉とそれを覆いつくす蛆が詰まったコンテナに閉じ込められるシーンはまさにホラー!!

この映画が製作された80年代は日本ではグルメブーム、世界的にも美食への憧れが高まっていた時代だと思うのですが、そんな時代に「食」を題材にしながら「美味しい料理」ではなく「食」の本源的な意味に迫ろうとしたグリーナウェイ、やはりタダモノではありません。

 

名画に集約される色彩

(フランス・ハルス作『ハールレムの聖ゲオルギウス市民隊幹部の宴会』)

 

この作品を語るのに色彩というポイントは避けて通れません。赤・黒・白・グリーンと、場面によって、部屋によって、ガラリと色が変わります。レストランの赤いホールでは赤だったジョジーナの服が、白い化粧室に入ると白に! こんなダイナミックな色の演出が随所に仕掛けられていて、観る者を飽きさせません。特に、油絵具のような赤の深い色味が素晴らしい。

リチャードのレストランの壁にはフランス・ハルスの『ハールレムの聖ゲオルギウス市民隊幹部の宴会』が飾られているのですが、赤・黒・白・グリーンという本作の基調になっている色彩が、実はこの絵の色彩そのものだというのも面白いですよね。

何故この絵を選んだのか、本作のキーカラーをこの絵に集約させたかったということなのか、それとも他に意味があるのかは分かりませんが、なにしろ本作の中でこの絵は一定の存在感を持っています。グリーナウェイはのちに『レンブラントの夜警』でレンブラントの名画『夜警』を題材にしていますが、自身画家志望だったくらいですから絵画に造詣が深い人なんですよね。本作の絵画の配し方1つにも、彼の芸術志向が伺えます。

 

コックは見た

ところで、本作の中にも芸術家と呼べる人間が1人、コックのリチャードです。彼の志は高く、俗物アルバートとは対極的な人物像として描かれています。

実は本作のタイトルロールの4人の中でコックは一番出番が少ないのですが、それでも「ひょっとして愛人マイケルよりもリチャードのほうが魅力的では?」と思えるくらい(これは個人的な好みかもしれませんが)リシャール・ポーランジェ演じるリチャードはオーラがあるし、グリーナウェイがリチャードの店の一番目立つ場所に、グリーナウェイ自身のアイデンティティとも言える「絵画」を飾ったのは、ひょっとしたらリチャードがグリーナウェイの分身的な立ち位置の登場人物だからということもあるのかもしれません。

リチャードと彼のパトロンであるアルバートの関係は、芸術志向のグリーナウェイと、資金提供と引き換えに「もっと大衆ウケする作品を!」と要求する、芸術を解さない出資者やプロデューサーの関係のアナロジーなのかも?なんて想像してみたり。(ゴダールは『軽蔑』で、ヴィム・ヴェンダースは『ことの次第』で、出資者やプロデューサーに対するぼやきを描いていますよね)

 

でも、リチャードの役割の中で一番興味深いのは、彼とヒロインであるジョジーナとの関係です。

ジョジーナの恋人はマイケル。リチャードは夫の雇人であって、一見2人には何の関係もありません。しかし、面白いことにジョジーナは「マイケルとの関係が現実だということの証人として」リチャードを選び、彼に2人の情事を見せつけるのです。そしてマイケルの死後、彼がたしかにこの世に存在し、自分と愛し合ったことを確かめるかのように、リチャードに彼が目撃した自分たちの情事の一部始終を語らせるんですよね。

この場面の流れから、リチャードはジョジーナにひそかに想いを寄せていたことが伺えます。ジョジーナも、それを知っていたんじゃないでしょうか?

この倒錯!!

ジョジーナとマイケルの情事のシーンは、ジョジーナことヘレン・ミレンもマイケル役のアラン・ハワードも惜しみなく裸体を披露しての文字通り体当たり演技なのですが、本作のエロティシズムの核心は、むしろリチャードとジョジーナの屈折した関係のほうにあるのかもしれません。

そしてまた、物語の主人公になるのではなく、物語の証人となる、という立ち位置は、画家のそれにも通じるものがあって、リチャードの視線の向こうにグリーナウェイの視線を感じる部分でもありますね。

 

ゴルチエを纏う女

 

ヒロインのジョジーナことヘレン・ミレンの衣装は当時一世を風靡したゴルティエ。ボンテージ・スタイルを中心にしたセクシーで強い女のイメージを持つブランドです。ゴルチエのコスチュームとマドンナの出会いは必然以上、何か運命的なものさえ感じます。

 

ゴルチエのイメージに呼応するかのように、マイケルとの出会いによって自らの性を解き放つジョジーナ。マイケルとの恋ははかなく終わりますが、ゴルチエのパワーを纏った女・ジョジーナはけして泣き寝入りなどしません。むしろマイケルを失ってからの彼女のほうが狂気全開という意味で強烈なオーラを放っています。

 

ヘレン・ミレンって強い女が似合う女優で、セクシーというイメージはあまりないのですが、終盤のジョジーナの狂気は、そのあと一歩足りない色気を絶妙に引き出している気がします。

ジョジーナが最強で最凶になるラストシーンは、まさにゴルチエを纏ったヘレン・ミレンの真骨頂。

或る意味で阿部定にも匹敵するジョジーナの愛の狂気が込められた本作最後のメニューは、特製も特製の丸焼き「オイスター」。リチャードの言葉のとおり「人は黒い食べ物・死を想起させる食べ物を好む」のであれば、黒焦げになったソレはまさに最高の料理のはずですが、果たしてどんなお味だったのでしょうか?

 

最期になってしまいましたが、何の脈絡もなく歌い出す少年給仕!彼のボーイソプラノの歌声が作品に与えるニュアンスや、全くの脇役なのに本作の絵ヅラに欠かせない存在感を放つティム・ロスのお下品な所業の数々も、見逃がせません。オーダーしていない料理がたくさん出てくるような、不思議な感覚の映画です。