Gon のあれこれ -24ページ目

Gon のあれこれ

読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

印象派の著名な作品が見られる、とあって足を運ぶ。

 

これらの絵画はチューリッヒ美術館に寄贈され、これらを展示するために建設中の新館に収められて

 

再来年の2020年に公開の予定である。

 

かつてチューリッヒに一泊して湖上遊覧船に乗ったものの美術館は行かず仕舞い。

 

ベルン美術館と共にぜひとも行きたい美術館である。

このルノワールの「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」はビュールレが本人から購入したらしい。

ルノワールは背景の使い方がとてもうまい。

ゴーギャンについては 映画 ゴーギャン タヒチ、楽園への旅 が今年初め公開されたばかりだが、

 

この「贈り物」と題された絵は1902年、とあるから二度目のタヒチ行でヒバ・オア島に「快楽の館」

 

を建て3人目の現地妻14歳の少女ヴァエホと彼女との間にできた乳児を描いたものに違いない。

 

ゴーギャン、とくればゴッホ

 

一時はゴーギャンと共同生活をしたゴッホ。

 

挙句の果てに自分の耳を切り落とす羽目になったゴーギャンとの関係は私には不可解だが、

 

1888年作のこの絵は、ちょうどゴーギャンとの共同生活を始めたばかりの時だろう。

 

ゴッホの好きなミレーの「種まく人」をヒントに浮世絵から一本の木によって画面を分割した

 

この「日没を背に種まく人」は、その当時ゴーギャンが主張していた、「想像に基づいて描く」という理論

 

を試してみた絵画のように思われる。 結局それはゴッホにとっては付け焼刃でしかなく、

 

すぐ自然をモデルに描く、という本来のスタイルに戻ったようである。

没後「近代絵画の父」と呼ばれるようになったセザンヌ

 

彼と幼馴染の自然主義小説家エミール・ゾラとの複雑な関係を描いた映画「セザンヌと過ごした時間

 

は昨年9月に鑑賞したが、この「赤いチョッキの少年」は2008年、ビュールレのコレクションを展示

 

してあった美術館から、今回展示のゴッホの「花咲くマロニエの枝」やモネの「ヴェトゥイユ近郊のヒナゲシ

 

畑」などと共にヨーロッパ最大の盗難事件と言われる被害にあった作品である。

 

2012年セザンヌのこの絵が最後に発見されて事件は収束するのだが、興味のある方は

 

以下のリンクをご覧いただきたい。http://www.afpbb.com/articles/-/2871011

 

同展には、上記の他アングル、カナレット、ドラクロワ、マネ、ピカソからジュルジュ・ブラックまで、

 

実に多彩な作家の素晴らしい絵が集まっている。  絵画好きにはたまらない。

 

一方このコレクター エミール・ビュールレは1890年ドイツに生まれ(1956年没)、大学で言語学などを

 

学んだ後、第一次大戦に従軍。 戦後たまたま寄宿した先の銀行家の娘と恋愛して結婚。

 

その後義父の経営するスイスの会社の子会社に出向して武器商人となる。

 

第二次世界大戦中、ナチスドイツとも取引して莫大な財をなし、それがコレクションの原資となった

 

素晴らしい絵画の世界の裏側は実社会の一断面でもある。

 

原材料はキャンパスと絵具だが、それが「将来絵の価値が上がる」という思惑だけで莫大な価格が付く。

 

当然、マネーロンダリングにも、資産隠しにも、税気逃れにも利用される。

 

戦争は孤児を、寡婦を、身寄りのない老人を生み、その惨禍は筆舌に尽くし難い。

 

この写真は国連難民高等弁務官事務所から張り付けたものだが、罪のない子供、最も弱い

 

子供たちがその惨禍を、一生涯、いやその子供や孫たちの世代まで引きずってゆく

 

彼女にもルノワールの「イレーヌ」と同じ、人生を望むように生きる権利がある筈だ。

 

毎年些少ながら寄付をしているが、紛争の火はあちこちで燃え盛り止むことがない

 

虚しさを覚えながら、それでも少しの足しになれば、との思いからである。

 

親や祖父母たちの多大な犠牲の上に、今日の我々の

 

主権者たる選挙権、民主主義と平和憲法がある

 

ゆめゆめ、この選挙権、基本的人権、民主主義と平和憲法を疎かにしてはならない

 

 

 

 

原題は The Post 「報道の自由」を社運を掛けて守り抜いたワシンポスト紙の物語である。

 

あらすじは

リチャード・ニクソン大統領政権下の71年、ベトナム戦争を分析・記録した国防省の最高機密文書=通称「ペンタゴン・ペーパーズ」の存在をニューヨーク・タイムズがスクープし、政府の欺瞞が明らかにされる。ライバル紙でもあるワシントン・ポスト紙は、亡き夫に代わり発行人・社主に就任していた女性キャサリン・グラハムのもと、編集主幹のベン・ブラッドリーらが文書の入手に奔走。なんとか文書を手に入れることに成功するが、ニクソン政権は記事を書いたニューヨーク・タイムズの差し止めを要求。新たに記事を掲載すれば、ワシントン・ポストも同じ目にあうことが危惧された。記事の掲載を巡り会社の経営陣とブラッドリーら記者たちの意見は対立し、キャサリンは経営か報道の自由かの間で難しい判断を迫られる

わが国では、寿司友、などと揶揄される時事通信社の田崎史郎はじめ、新聞テレビ記者が、

 

安倍首相を囲む宴席にはべり、テレビなどで臆面もなく安倍擁護を連発する。

 

あるいは読売新聞の社主(皮肉)ナベツネが安倍首相と会食を度々して、首相自ら「私の意見は

 

読売新聞を見てください」と本末転倒なことを国会で平気で述べる。

 

巷間、安倍政権御用達 読売新聞、安倍政権の走狗 サンケイグループ

 

(サンケイ新聞、夕刊フジ、フジテレビ)などとも言われている。

 

これらは時の権力とメディア、「報道の自由」の問題にかかわる見過ごせない事実である。

 

つまり、事実の隠蔽やすり替え、あるいは縁故主義や利益誘導など腐敗しがちな権力を監視する

 

ために、最高の法、憲法で「報道の自由」を保障したのだ。

 

これは敗戦の苦い教訓でもあった。

 

我々有権者が単に選挙の時だけではなく、平和と安全、生活の安定と福祉がどのように守られ

 

かつ増進しているのか、あるいは悪化しているのかを判断するためにも絶対必要なものでもある。

 

米国ではトランプ政権や共和党周辺の「フェイクニュース」が専らの問題であり、テレビではCNN

 

がトランプと鋭く対峙しているが、新聞はワシンポストだけではなく、高級紙ニューヨークタイムズなど

 

「権力の監視」と言う役目を忠実に果たしているように見える。

 

この「報道の自由」に関連して、映画の中で言及された中から二三取り上げてみる。

 

1、「権力者に対して同時に友人と記者であることは出来ない

 

  ポストの編集主幹ベンが、ペンタゴンペーパーに含まれる友人との人間関係から、報道すべきか

 

  否かに迷うキャサリンに、自分の亡きケネディとのかつての関係について語った言。

 

  ケネディ夫妻とは家族ぐるみの付き合いであったベンがダラスの悲劇の当日、病院で洋服を

 

  血だらけにしたケネディの妻ジャクリーンから「この病院での事は一切報道するな」と言われて、

 

  過去の関係性そのものが権力者から見て、果たして何であったかを思い知らされる。

 

2、「報道の自由を守るには、報道することでしか守れない

 

米国憲法修正第一条には次のように定められている。

議会は、国教の樹立を支援する法律を立てることも、宗教の自由行使を禁じることもできない。 表現の自由、あるいは報道の自由を制限することや、人々の平和的集会の権利、政府に苦情救済のために請願する権利を制限することもできない

 権力者と親しい関係にあるから、と言う理由で報道を差し控える、など論外であるが、

 

 ニューヨークタイムズのスクープで始まったこの報道に対して、時のニクソン政権は裁判所に、

 

 報道は国益を損なう、と言う理由で差し止めを求め、発行人や編集責任者は訴追される恐れが

 

 あった。ポスト紙もこれにひるむことなく追随して報道する決意をするときにベンが述べた。

 

3、「報道(ジャーナリズム)は国民のために存在するのであって、権力者の為にではない

 

 米国のフォックステレビにはトランプ側近が多く出演し、フェイクニュースを流すことで知られる

 

 キャスターもいる。一方、トランプは自分の気に食わない報道に対しては、逆に「フェイクだ」と

 

 決め付ける事態が発生している。

 

 監督のスピルバーグは、こうした状況下で、今こそこの映画を作るべき時、と予定を変えて製作に

 

入ったらしい。主演のメリル・ストリープもトム・ハンクスもトランプ政権の批判を公然かつ決然

 

と為している。 彼らの強いメッセージが込められた言と思う。

 

(これに関してはスピルバーグが制作急いだ理由語る、「ペンタゴン・ペーパーズ」パリプレミア 参照)

 

余談だが、先に述べたようにこのスクープはニューヨークタイムズから始まり、法廷闘争でも

 

ニクソン政権の矢面に立ったのは同紙であってワシンポストではなかった。

 

しかし、他紙に追随して報道することを、何故か良しとしない日本のメディアと違って、

 

彼らは自分もまた独自に調査し報道する。それが力となって権力に対峙し「報道の自由」を

 

守っていくことに繋がる。 最近の例でいえば森友問題の朝日新聞のスクープに毎日が追随した

 

ケースがあるが、毎日は大いに称賛されてしかるべきだろう。

 

トランプは、ワシントンポスト紙を搦手から、つまり卑怯な手段で非難攻撃している。

 

ポスト紙は現在アマゾンのジェフ・ベゾフが買収してオーナーの地位にあるが、そのアマゾンが

 

米郵政公社に不当に安い値段で宅配を利用している、とやり玉に挙げている。

 

これには、むしろアマゾンは郵政公社の経営をたすけているから、この程度の赤字で済んいる、

 

との反論があるようであるが、手段を択ばないそのやり方が、あの民主党本部に盗聴を

 

仕掛けたニクソンを彷彿させるらしい。

 

最後に主演のトムハンクス。

 

ハドソン川の奇跡のサリー機長とはまた違った役作りで、ぴたりと編集主幹の役にはまっている。

すごい俳優だな、と感服するのみである。

花冷えの3月22日、パンダを見ようと列をなしている動物園の観客を横に見ながら入館。

 

ピター・ブリューゲルのバベルの塔展 は昨年6月に同じ都立美術館で鑑賞した。

 

今回は、彼の息子たちや孫を含めたブリューゲル一族の展覧会。

 

ピーター・ブリューゲルに関しては、上記のリンクからブログを参照していただきたいが、

 

彼の「冬の狩人」は最も好きな彼の絵である。

 

同展覧会の主催者挨拶は以下のとおりである。

16、17世紀のヨーロッパにおいてもっとも影響力を持った画家一族のひとつであったブリューゲル一族。一族の祖であるピーテル・ブリューゲル1世は、現実世界を冷静に見つめ、人間の日常生活を何の偏見もなく、ありのままに表現した革新的な画家でした。この観察眼は、子から孫、ひ孫へと受け継がれ、一族の絵画様式と伝統を築き上げていくことになります。
父の作品の忠実な模倣作(コピー)を手掛けた長男のピーテル2世。父の自然への関心を受け継いで発展させ、多くの傑作を残したヤン1世。そして、ヤン2世やアンブロシウス、アブラハムといったヤン1世の子孫たちが、一族の作風を受け継ぎ、「ブリューゲル」はひとつのブランドとして確立されていくのです。
本展は貴重なプライベート・コレクションの作品を中心とした約100点の作品により、ブリューゲル一族と、彼らと関わりのある16、17世紀フランドル絵画の全体像に迫ろうという挑戦的な展示になります。

祖ブリューゲル(1525-1569)に関して、「現実世界を冷静に見つめ、、云々」とあるけれども、

 

それは当時人気のあったヒエロニムス・ボス(1450-1516)の絵の作風をまねたものであった。

 

従って写実的絵画、と言うよりは、描く対象を美化したり寓意を混ぜたりせず描く、と言う事なのだろう。

 

現在のオランダとベルギーはかつては共にブルゴーニュ公国(フランスブルゴーシュ地方を含む)

 

に属していたが、その継承者マリーが、後の神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン(1459-1518)

 

と結婚し、マリーの死後はマクシミリアンの所有に、そして後にマクシミリアンの子供フィリップが

 

イベリア半島の継承者アラゴン王家の娘と結婚し、その子供カールがスペイン王(カルロス一世)

 

(1500-1558)になってこの地域を継承し(1516)後にローマ皇帝と(1519)なった。

 

更に退位(1555)に当たって両親から受け継いだスペインとネーデルランドは息子フェリペ二世

 

(1527-1598)に譲り、神聖ローマ皇帝位とオーストリア・ハンガリーチェコ(ボヘミア)は

 

自分の弟フェルナンド(1503-1564)に譲った(1556)。

 

ネーデルランドに関して言えば、ブリュッセルやアントワープを含むフランドル地方は、

 

交易が盛んな豊かな土地であり、油絵の祖ファン・アイクを筆頭にボスやブリューゲル一世、

 

あるいはルーベンス(1577-1640)などが活躍している。

 

ブリューゲルの子 同二世(1564-1637)とヤン(1568-1625)、あるいは孫のヤン二世

 

(1601-1678)、ひ孫のアブラハム(1631-1697)を含むブリューゲル一族の活躍した

 

16世紀中盤から17世紀終盤までの時代はどんな時代であったか。

 

先に述べたフェリペ二世の時代、既にルター(1520年キリスト者の自由)やカルヴァン(1541年神権政治)

 

の宗教改革の火は盛んになり、1581年にはフェリペ二世の統治を否定したオランダ独立戦争が

 

始まっている。これは結局1648年のヴェストファーレン条約で、北部17州ーアムステルダムや

 

デン・ハーグを含むーが独立しネーデルランド共和国が成立している。

 

この独立戦争でフランドルやブリュッセル、ブリューゲル一族の住むアントワープを含む南部は、

 

カトリックのスペインに帰属した。

 

当時のアントワープは、大航海時代を経て地中海から、つまりヴェネチアやフィレンツェから金融センター

 

としての地位を奪って裕福な商人の住む都市であった事もあって、カトリックスペインの統治は

 

かなり過酷なものであった。

 

一方、ファン・アイクから祖ブリューゲルの時代はフランドル絵画と呼ばれ隆盛を誇ったが、

 

ルネッサンスに続くマニエリスム絵画は同じハプスブルグ家のルドルフ二世のボヘミアで

 

アルチンボルドによって代表される。

 

そしてさらに続くバロック絵画は独立したプロテスタントの北部17州からレンブラントやフェルメール

 

を輩出した。

 

彼らをブリューゲル一族の子や孫たちの生きた時代と対照すると

 

祖ブリューゲル(1525-1569)はアルチンボルド(1527-1593)とほぼ同時代人。

 

子のヤン・ブリューゲル(1568-1625)は活躍の場は異なるがバロックのカラヴァッジョ

 

(イタリア1571-1610)と重なり

 

孫のヤン・ブリューゲル二世(1601-1678)はレンブラント(1606-1669)、

 

ひ孫のアブラハム・ブリューゲル(1631-1697)はフェルメール(1632-1675)と重なる。

 

マニエリスムにせよバロックにせよ、ルネッサンス様式からの逸脱だが、それらがボヘミアや

 

北部ネーデルランドで隆盛したことは興味深い。

 

ボヘミアのルドルフ二世はカトリックの神聖ローマ皇帝ではあったものの、プロテスタントに融和的で

 

側近にもプロテスタントが多くいた。

 

こうしてみると、ブリューゲル一族は、スペイン王室の支配の軛にからめとられて発展

 

ーそれは別な意味では逸脱でもあるーの契機を失ってしまったようにも思える。

 

祖ブリューゲルは今際に彼の絵が後に一家に禍根を残すことを恐れて妻に焼却を命じた

 

と言う。(先のブログ参照)

 

宗教改革はルターの「キリスト者の自由」にあるように、内面を重んじるものであった。

 

それは対抗改革のロヨラのイエズス会が厳格な神への帰依を要求したことと対照的だ。

 

繰り返しになるが、ブリューゲル一族はスペインの過酷な支配、カトリックの厳格な形式に

 

押し込められて、内的な自由を奪われ発展の契機を失って、生彩に乏しい絵画になってしまった

 

のではないか、と言うのが私の見方である。

 

よって「受け継がれたブリューゲル一族の魂の伝承」という展覧会の視角には違和感を感じる。

 

他国の美術館から著名な絵画の貸し出しを受けるために、キュレーターの方々は大変な苦労を

 

されていると思う。

 

それを思うと、批判は、まして素人の私がするのは大変おこがましいのであるが、

 

それだけ一層筆が重く、ブログを書き上げるのが遅くなってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨年9月91歳で亡くなったハリー・ディーン・スタントンの最後の主演作。

 

90歳を超えて、筋肉の衰えは隠せず日課のクロスワードの記憶も覚束ないが、

 

抗重力筋を精一杯使って背筋を伸ばし大股で歩くその姿勢の中に,,精一杯の彼の「尊厳」が垣間見える。

 

カウボーイハットにカウボーイブーツ、カクタスに砂漠、、とくれば古き良きアメリカのアレゴリー。

 

駆るべき牛はミルクで済ますが、馬や銃は、つまり仕事と争いは無く、今はもう平和な時代なのだ。

 

通称はラッキー。

 

冒頭”Harry Dean Stanton is Lucky"とあるから、

 

通称ラッキーはスタントン自身の事に思えるし、出てくるエピソードも彼自身の「歴史」が刻まれている。

 

ミュージシャンであった彼の、その素敵な歌声も披露される。

 

 

独り気高く生きようとするが、肉体の衰えは抗しようがない。

 

ある日、死期が近づいているのを覚ったラッキーは、あるがままの、リアルな自分を受け入れざるを得なくなる。

 

陸ガメに遺産を相続させようと考えたハワードや、

 

海軍のコックとして乗艦したラッキーと同じく沖縄で、死に瀕した少女の

 

今際の無垢な微笑みを忘れられない元海兵隊員との対話を通して過去の体験を浄化していく。

 

そして無神論者ラッキーの到達した心境は、あの仏陀が瞑想で覚った法。

 

すべて形あるものは無と化していく。 我々が今現実に見ているもの(五蘊)も空(色即是空)なのだ。

 

監督は俳優のジョン・キャロル・リンチ。彼の最初の監督作品。

 

友人ハワードは、あの難解な「マルホランド・ドライブ」の監督デヴィッド・リンチが演じる。

 

ヴィム・ヴェンダース監督の「パリ・テキサス」で主役を務め、

 

独特の、リアルな存在感ーオーセンティックと言いたいがーのスタントンへの賛歌。

 

亡くなった今では「挽歌」と言ってもいいだろう。

 

参考:オフィシャルサイト

http://www.uplink.co.jp/lucky/

 

    

        

沙門空海が804年から2年間、密教を学ぶために遣唐使として入唐し、

 

白楽天(白居易)と知り合った。 その時白楽天は

 

唐の第9代皇帝で、唐代の隆盛を極めた玄宗の寵愛を一身に受けながら、

 

それがもとで玄宗から死を賜らなければならなかった楊貴妃との悲恋を

 

長恨歌に歌おうとしていたところであった。

 

唐の都長安(西安)ではその時 奇怪な事件が起こり、白居易と友人空海は

 

いやおうなく巻き込まれていく。

 

そしてそれは白居易が書こうとしていた「長恨歌」のテーマ、

 

つまり楊貴妃の死にまつわる、未だ晴らされざる恨みの権化、妖猫の仕業であった。

原題は「妖猫伝」

 

道教とも絡んで中国人には妖怪はなじみ深いもの。

 

道教には幻術が付き物だし、聊斎志異や平妖伝や封神演義は今なお広く読まれている

 

中国では、「妖猫伝」でワクワクさせることが、つまり観客動員が出来るのだろう。

 

翻って日本では南総里見八犬伝や山田風太郎の忍法帖はこの伝統だと思われるが、

 

「空海」と「美しき王妃」の物語でなければ、動員できないのか、と疑問が湧く。

 

 

上映までの宣伝、予告編がやたらと長く30分以上。

 

こんなに宣伝するならタダにしてくれ、と言いそうになったが、館内を見回すとガラガラ。

 

この題名は必ずしも日本の観客にはアピールしなかったようだ。

 

それにしても、一体シネコンの経営はどうなっているんだろう。大丈夫なのか。

 

それはさておき、楊貴妃の張榕容(チャン・ロンロン)は胡人のような美しさだし、

(台湾人、両親のどちらかがフランス人)

 

猫は猫の持つ怪しさが存分に発揮されいて、十分に怖い。

 

楊貴妃の死にまつわる物j語りは、貴妃の死のもとになった安禄山の変ののち怪奇小説が

 

唐で流行したとあるから、いろいろなバージョンが、神話が生まれたに相違ない。

 

空海と白居易が交流した、との史実はないが、空海より先に遣唐使として入唐し、頭角を現して

 

玄宗皇帝に仕え、ベトナムの総督までになって重用され、遂に日本に帰ることなく長安で

 

亡くなった阿倍仲麻呂は李白や王維とも親交があった大教養人であった。

 

だからといって、宦官でもない彼が、後宮の楊貴妃に会えたかどうかは疑問である。

 

すぐ史実を云々するのは、こういう歴史ファンタジーを見る上では余計な事と知りつつ、

 

つい言及してしまうのが悪い癖だ。

 

しかし、映画は十分に面白かった。

 

映画館を出て、本屋などに寄って用を足した後、

 

いつものラーメン屋で生ビールを飲んで

 

余韻に浸りながら昼食をいただく。

 

追記:ベトナム旅行ののちインドシナ半島の仏教伝来のルートについていろいろと調べ物をして

    旅行中書ききれなかった物事を書く「旅行後記」の筆が止まっている。

    インドから中国へは、玄奘三蔵も通ったシルクロードを経由したと思われるが

     他にもルートがあっただろう。玄奘は大乗仏教の経典を伝えたが、インドに行く先々で

     上座部仏教(今は小乗とは言わない)の地に出会っている。

     上座部から大乗、というのは必然的な流れではないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

いよいよベトナム滞在最終日の第5日目は、6時朝食、8時出発してハロン湾クルーズ。

 

船内で早めの昼食をとった後、また4時間強バスに揺られてハノイに戻り、市内見学ののち

 

ハノイ空港3月2日午前0時40分発で成田着7時の行程。

 

船着き場には40人乗り前後のクルーズ船がひしめいている。

 

出港許可でも取るのであろうか、しばし待たされたのち出港。

 

まずはティエンクン洞窟へ。

この洞窟、上陸して少し階段を上った後、岩山の壁に入り口があるのだが、

 

外見からは想像もつかないほど天井も高く、奥行きも広い。

 

写真ではとても捉えきれないのでYouTubeの画像を貼る。

天井に、まるで彩色された雲海のようなところがあって、

 

システィーナ礼拝堂に勝るとも劣らない荘厳さがある。

 

床にはところどころ珊瑚礁の化石があって、この地が太古に海中にあったことを窺わせる。

 

この時期、言われている様な湿気もなく、床も乾いており安全に鑑賞できる。

 

見学後船に帰ってビールを飲み、食前にはグラスワインを頂くが、これが7ドルとえらい高い。

 

ハノイには約200キロ、途中休憩を挟み(バスの運転手の労働規約がある)4時間強の旅。

 

バスの一番後ろが市内見学には最も眺望が良いのでそちらに移動。

 

ホーチミン廟は遺体を保存するため大変な手間暇お金をかけているようだ。

 

ベトナム戦争で多くの人が親や祖父母を失っているせいか、実の父親のように慕われているとのこと。

 

旧市街を散策、と言ってもバイクや車の騒音と排気ガスの中だが、人込みを縫うようにして歩く。

 

水上人形劇は50分、と言われ、退屈を覚悟したが結構面白い。

 

後ろの席に違う団体の老婦人二人が居て観劇しながらおしゃべりしている。

 

このマナーの悪さはどこから来るのか。

 

日本では公共空間で あしろこうしろ、とうるさく言うので

 

言われないと何をしてもいいと勘違いするのか?

 

それとも婆あ特有の図々しさで回りの事に無頓着なのか。

 

恥ずかしい人たち。

 

ツアー最後の夕食はレストランで「ベトナム風フレンチ」。

 

一応前菜から始まり、メインディッシュは肉と魚のチョイスがある。

 

ワインセラーのあるここでのワインもグラスで7ドル。ワインはぜいたく品扱いなのか。

 

速めに空港につきスイスイとチェックイン、出国。

 

出発便のラウンジで空いてる席で横になって休み一息つく。

 

11時ごろから混んできて、どうやら群馬県の工場に研修に行く若い人たちがいる。

 

そこに乗り継ぎで帰国する団体の婆さんが二人。

 

頼まれもしないのに、研修の心構えを偉そうにしゃべる。

 

一人は「上の人の話をよく聞きなさい」と言い、もう一人は「遊んで楽しめ」と共に無責任な事をいう。

 

研修生と言えば、体の好い「搾取労働」との批判をされている。

 

日本に好感を持って来たものの、日本嫌いになって帰国する。

 

日本におけるこの有様が東南アジア諸国の研修先で韓国の方が選ばれる理由らしい。

 

加えて、ベトナムにしろカンボジアにしろ日本とは比べ物にならないほど庶民の生活は貧しいから、

 

つい偉そうに振舞う。

 

優先席にどっかと座ってスマホをいじる若い男女を生んだ日本のどこが偉いのか。

 

旅行先の文化や住民に敬意を払うのは、観光客として最低限守るべきマナーだ。

 

などと同胞をみて腹が立つやら情けなくなるやら。

 

その所為か、機中で少し気分が悪くなった。

 

あるいは夜中にワインを飲んだせいかもしれない。チュー

 

このブログは、旅行明けの土曜日3日に午前中久しぶりにジムに行ってさっぱりした後書いている。

 

毎日泊まるホテルが違い、食事後チェックインで早朝出発。

 

実に余裕のない旅だ。

 

疲れもたまる。

 

 

 

 

 

 

 

今日は、ミーソンーダナンとベトナム南部の観光後、ハノイに飛び

 

そこから200キロ先のハロンまで、ホテルチェックイン9時過ぎの強行日程。

 

よってホテル発は7じ20分と早いのだが、朝食堂は6時半から。

 

リゾートだから、まあわからなくもないが、短期滞在早立ちの旅行客には辛い。

 

最初のミーソンは、5~7世紀のインドシナ半島を支配したヒンズー政権の王宮遺跡。

 

いわばアンコールワットのベトナム版だが、カンボジアの遺跡より相当古い。

 

ベトナム戦争時、ゲリラが潜伏していたこともあって、8割がた空爆で破壊された。

 

遺跡内にも爆弾で空いた穴の跡がある。

 

遺跡は立像の顔も削り取られ惨憺たる有様だが、諸外国の観光客は多いらしい。

 

その後、ダナンまで1時間強バスに乗ってダナン へ。

 

チャム博物館は同じヒンズーの遺跡を集めた博物館。

 

男女の陰陽をシンボライズして「豊穣の神」としたのであろう。

 

ブラフマン、シバ神、ヴィシヌ神の像などのほか、聖なる牛の像もある。

 

ガイドさんが見学時間を多めにとってくれたものの、説明書きを読む時間がない。

 

結局、立体的、豊満な像を見て回るのが大半で、少し心残りであった。

 

ダナンは国際空港、フエよりはよほど綺麗。

 

空港のカフェでWiFiをつなげてニューヨークタイムズを読む。

 

ダナンは予定通り到着、荷物などのトラブルもなく、夕食後ホテル21時着。

 

もう疲れてホテルのバーに足を運ぶ気力が残っていない。

 

 

 

 

今朝は5時起床、6時朝食、出発7時50分。

 

朝食堂はアジア人が多い。

 

ホテルグレード、服装や仕草など勘案して、アジア人も豊かになった、と思う。

 

日本の繁栄の未来は、日本人に対する好感度を含めて、アジアにこそあるのだ。

 

バスで阮朝の王宮遺跡へ。これも世界遺産。

 

前一世紀から一千年の中国支配、その後の1千年は自前の王朝の盛衰が続く

 

阮はフランスの傀儡時代を含め1845年まで。

 

正門の中央の瓦は皇帝の色黄色。

 

右わきの文官の門を抜けて次の門に、義由仁居 (右から読む)

 

とあるからこの王朝が恐らく朱子学の思想のもとに徳治主義を建前として掲げた事がわかる。

 

全体の模型図を見ると壮大な王宮である。

 

次の天婆寺で、ゴ・ジンジェムの米傀儡政権時代、フエで焼身自殺した僧侶の車の展示。

 

ゴの仏教弾圧に抗議しての自殺、とある。

 

確かゴはクリスチャンで在米中米軍に引っこ抜かれて傀儡政権の大統領になった。

 

仏教弾圧は米の指示、とは思えないが。

 

そこから双頭のドラゴンボートでカイディン王朝廟へ。水はメコンよりはるかに綺麗。

 

昼食の王宮料理は品数も多く、順次運ばれ盛り付けの形も多彩。

 

その後安南に移動し旧市街へ。

 

夕暮れ時になってランタンが灯り、空は青く建物は暮れてランタンが灯っている。

 

マグリットの絵にあるような、超現実的な光景。

 

「観光客」として文句なく楽しめるし、来てよかった、と思う。

 

「灯篭流し」を経験して夕食、これもおいしくいただいてリゾートホテルへ。

 

広い敷地に低層のパブリック棟と宿泊棟が点在している。

 

安南旧市街、思い出してみても素晴らしい。

 

日本橋周辺だけでなく広い旧市街に大変な数の観光客でごった返していたが、

 

自動車やバイクの侵入もなく、街そのものがヒューマンスケールで居心地がいい。

 

もう9時も過ぎた。就寝。

 

 

 

 

今朝は5時起床、6時朝食、7時50分出発。

 

この早立ちでは、ジムで汗を流す余裕はない。折角ホテルをグレードアップした甲斐がない。

 

しかし、いいホテルのもう一つの価値は好いホテルバーがあること。

 

旅先の仕事で疲れた心身を、半ば放心しながらあれこれと思いめぐらす場だ。

 

その意味ではこのホテルの最上階のバーは景色がよくていい風が吹いていて静かで良かった。

 

さて今日はバスで約二時間、ミトーに行ってメコン川クルーズがメイン。 

 

30人乗りぐらいの木造ボートでデルタに渡る。

 

川は粘土色で砂を掬ってコンクリートの材料にする大型の浚渫船が出ている。

 

川は中国に源を発し、タイやカンボジアを巡ってここに至る。海まではあと50キロの道のりだ。

 

そのためここでは肥沃な土が運ばれて田んぼや畑の地となり農業生産の中心となっている。

 

しかし中国はダムをいくつも作り、下流の諸国の富を奪おうとしている。

 

農業だけではなく砂の浚渫も大きく影響を受けるだろう。

 

水の確保が死活的に重要な中国を一方的には責められないが、「中華思想」の自己中心性には辟易する。

 

蜂蜜や果物など試食販売手法による洗礼を受け流して、デルタ内の4人乗り手漕ぎの船に乗る。

 

生活排水が流れ込み、決して綺麗とは言えない。時折嫌な臭いもする。

 

おいしい昼食をいただいて、また同じルートでホーチミン空港まで帰る。

 

16時発のフエ行き便が1時間遅れて暗い中6時半ごろ到着。

 

インドシナホテルは町の繁華街の一角で、バーは外来客も入りやすいよう1階にある。

 

連れ合いの入浴中、バーカウンターに座ってコニャックソーダをいただく。

 

書き残したことは沢山あるが、時間がない。

 

と言うことで明日も早い出立のため早めに就寝。

 

 

 

 

今日はベトナム航空成田発9時30分にてホーチミンへ。

 

上の娘が成田まで送ってくれる、というので余裕を見て5時出発で3時半起床。外は真っ暗。

 

昨夜は市内の下の娘も交えて親子四人で夕食。

 

獺祭を上の娘(泊り)と飲みながら、哲学科出の下の娘(車で帰宅)としばし哲学談義。

 

8時半就寝で7時間の睡眠だが、寝起きの気分はスッキリしている。

 

到着は途中休憩を含め約二時間弱。荷物を受け取ってチェックイン。

 

現地通貨ドンを両替して出国審査から搭乗機ラウンジへ。

 

少し遅れたが機上の人となる。機内では「君の名は」を見る。

 

この映画ファンタジーではあるけれど「結び」をテーマにした男と女の「純愛物語」

 

到着は予定時刻より30分ほど遅れたが、メンバーの中の人の荷物が出てくるのが遅れて、

 

全員そろったのが午後4時前。

 

統一会堂は4時までなので行程変更で「戦争証跡博物館」へ。

 

沢田のピュリツアー受賞作品を見たかったので嬉しい誤算。

 

ガイドさんに掲示場所を聞いて直行。

 

彼の作品だけではなく戦場のむごい写真、

 

とりわけ打たれたのは枯葉剤で奇形した胎児がホルマリン漬けにされた瓶が棚いっぱいに並んだ写真。

 

米国の宗教右派、それを利用する共和党が「胎児の人権」を言うが、その前にこれを見よ!

 

と怒りがこみ上げる。

 

その後ベンタイン市場、サイゴン大教会などを回り夕食後ホテルへ。

 

連れ合いが入浴している間、最上階の涼しい風が吹き抜けるバーで、

 

「コニャックソーダー」を注文して、マジェスティックホテルのあたりを観望するが、遠くて視認は無理。

 

かくして長い第一日は終わった。