#セザンヌと過ごした時間 #ダニエル・トンプソン監督作品 #Cezanne and I | Gon のあれこれ

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読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

没後「近代絵画の父」と呼ばれたポール・セザンヌと、生前から「居酒屋」や「ナナ」でパリの文壇にセンセーショナルを呼んだエミール・ゾラの友情と葛藤に満ちた物語。

 

 

 

映画ではセザンヌの絵の革新性やゾラの自然主義小説についてなんら語られていない。

しかも映画は過去にフラッシュバックする。

それについて行くためには背景の知識が必要であり、それは観る側が当然持っている、と言う前提なのだろう。

 

1789年バスチューユの襲撃から始まってマリーアントワネットの断頭台でピークを迎えたフランス革命と、彗星のように現れたナポレオンのクーデターで幕を閉じた18世紀。

帝政と共和制を繰り返しながら、産業革命でブルジョワジーと労働者の新興階級が勃興したセザンヌとゾラの時代19世紀。

そういえばこのブログで触れたパリのパサージュも、オスマンのパリ大改造もパリ万国博もこの世紀であった。

 

絵画ではナポレオンの戴冠式を描いた新古典派のダヴィッドとその後継者アングル。

一方、革命と反革命の中で勃興した新興階級は新しい文化の担い手として個人の感受性や主観に重きを置くとともに国民の国家、民族意識、ナショナリズムが高揚してヴィクトル・ユーゴやバルザックのロマン主義文学やドラクロワの戦場で民衆を導く乳房を露出した自由の女神に代表されるロマン主義絵画が登場した。

 

1839年南仏のプロヴァンスに新興ブルジョワジーの息子に生まれたセザンヌ。一つ年下のゾラが転校してきて奇しくも二人は生涯の友となる。セザンヌによればゾラは頑固で狷介な奴であり、同級生によればセザンヌは極めて優秀だったが物思いにふける多少とっつきの悪い生徒であった.

(「セザンヌ」岩波文庫ガスケ著)

二人が周りから浮き上がった存在同士として友人になるのは必然だったかもしれない。

 

父の指示で法律を学ぶも画家の夢を捨てきれなかったセザンヌ。

小説家を夢見るが受験に失敗したゾラ。

ゾラにも後押しされてパリで画学校に学ぶが、サロンに応募しても落選し、落選展にも落選したセザンヌ。

評論家の端くれにしがみつきながら、「居酒屋」(1879年)、「ナナ」(1879年)で一躍人気作家になったゾラ。

そのゾラの小説「居酒屋」は下層の男に翻弄される居酒屋の女将。

その娘「ナナ」は高級娼婦でその濫費で男を次々と破滅させていく。

その描くところは卑しい者の高貴な魂であり、不純のなかの純粋さ。

所謂自然主義文学である。

 

一方セザンヌは失意の中で故郷に帰り自分の目指す絵画に没頭するが、画家としてのセザンヌを受け入れ無かった父が1886年に死亡して遺産相続で40万フランと言う大金を手にして生活が安定する。

その同じ年にゾラは居酒屋の女将の息子(ナナの異父兄)である画家を描いた「制作」を発表。

セザンヌがこのモデルは自分だと思い込み、その描写が彼を怒らせ、それが二人の不仲の原因とされている。

 

しかしガスケ著「セザンヌ」では、ゾラが「小説」を書いたのであり、「居酒屋」から始まる広大な全体の中に組み込まれたストーリーを書いた事をセザンヌは承知していた。

「制作」(ガスケ著では「作品」となっている)から15年後、1900年頃、

 

ゾラは心からの友情を込めてセザンヌを愛していた。

『(ゾラ)はこのとおりに私(セザンヌ)に言ったのだ。僕は彼の絵がだんだんわかり始めてきた。長い間つかめなかったんだ。率直で信じがたいほど真理にせまる絵なのに、ぼくは、あれを苛立った絵に思っていた』(ガスケ著p131)

とあり、この映画の、「制作」を巡って二人が亀裂した、とするストーリーとは異なるセザンヌ談を載せている。

 

不遇を託ったセザンヌも1895年、ある画商の尽力で開いた個展が成功した。

ゾラは1902年9月21日に亡くなり、セザンヌは1906年10月に死亡。

1907年の「セザンヌ回顧展」にはピカソやマチスが集まって評判となり「近代絵画の父」と言われる評価が始まる。

 

その近代絵画の父と呼ばれるセザンヌの絵

 

何点もあるサント=ヴィクトアール山を描いた中の晩年1897年頃の作品だが、印象派から出発したセザンヌは、印象派の「光を色に置き換える」画法が、結果として対象の形態を曖昧にしたことに批判的で、自らは対象を「球、円筒、円錐で捉える」ことから出発し、この絵のように面を立方体的にとらえて岩の重量感を表現し、かつ左下から時計回りに山の稜線に至る視線を誘導することによって遠近法とは異なる奥行きをキャンバスの中に表現した。

このセザンヌの幾何学的にとらえる視線は、ピカソ等のキュービスムにインスピレーションを与えた。

この「大水浴」は最晩年1906年の作。

この絵は『セザンヌの想像力を長い間引き付けた水浴という主題の偉大な結論と、つねに見なされてきた。この絵は叙事詩的なスケールの大きさ、優美で開放的な空間、アーチ状の樹木による丸天井を持っている。アーチ状の樹木は、その下のヌードによる三角形に対応し、それらを聖別している。またこれは、人物と風景とのあいだに成立した微妙な均衡をも強調している。これらのためにこの作品には、近代絵画の傑作の地位が与えられたのである.』(岩波世界の美術セザンヌp317)

 

かくて映画は原題の「Cezanne et Moi」(英題Cezanne and I」はセザンヌとゾラの友情と葛藤をめぐって展開するのだが、落選展でマネが出品した「草上の昼食」

 

が現実の裸体の女性を描いた、として不道徳を理由にスキャンダルを巻き起こす。意外なことにそれまでの絵画では裸体の女性は神話や物語を描いた絵にのみ登場していたのに、脱衣を左下に描くことで現実の女性であることを示したから、とされる。

この絵は身なりの整った二人の紳士と、女性の裸体を彼らの欲望の対象として赤裸々に示すことでゾラの始めた自然主義文学の匂いを感じる。

同じくマネの絵「オランビア」

は、ティツイアーノの「ウルビーノのヴィーナス」が主題である。

この絵も描かれた女性がそれと分かる娼婦であることで批判を浴びたらしい。 ゾラの「ナナ」も娼婦であり、マネは「ナナ」の絵も描いている。

こうした事からゾラはセザンヌとの友情は別にして、画家としてはむしろマネに同志的結合を感じていたのではないかと思える。

 

セザンヌやゾラの時代、パリには詩人のボードレールやマラルメが、画家ではルノワールやドガ、あるいはゴーギャンやホイッスラーが、カフェに集って飲み、酔っては互いに刺激し合った。

バルザックやヴィクトル・ユーゴーだって少し年上だが同時代人である。

 

資本主義と民主主義が明るい未来を予感させていた時代、

 

ちょっとタイムスリップしてその輪の中に入りたい。

 

 

参考:この時代に関するブログのリンク

19世紀パリ時間旅行

 

パリのパサージュ

 

ロンドン・リスボン・パリ三都周遊旅行 第七日