「産業による贅沢の生んだ新しい発明であるこれらのパサージュは、いくつもの建物をぬってできている通路であり、ガラス屋根に覆われ、壁には大理石がはられている。建物の所有者たちが、このような大冒険をやってみようと協同したのだ。光を天井から受けているこうした通路の両側には、華麗な店がいくつも並んでおり、このようなパサージュは一つの都市、いやそれどころか縮図化された一つの世界とさえなっている」
絵入りパリ案内
これはヴァルターベンヤミンの「パサージュ論」からの孫引き(p6)だが、パサージュが惹きつけて已まないのは、その時代背景である。
現存最古のパサージュ「パサージュ・デュ・ケール」が開通したのは1798年。以下ヴェンヤミンも言うように、その多くは1822年以降の15年間に作られた。
この間の主な歴史的事件を列挙してみる。
1789年:7月フランス革命起こる。8月人権宣言。
1793年:国王ルイ16世王妃マリーアントワネット パリ、コンコルド広場でギロチンによる公開処刑。
1796年:ナポレオンのイタリア遠征。
1799年:ブリュメール(霜月11月)18日のナポレオンのクーデター。
以後1804年まで「頭領」、14年まで「皇帝ナポレオン」
1814年:イギリス、プロシア、オーストリア連合軍パリ入城。
1815年:ナポレオン、幽閉先のエルバを脱出。帰還して百日天下。
1814~24年:ルイ18世(ブルボン家)
(1817年頃より、フランス 産業革命期に入る)
1824年~30年:シャルル10世(アルトワ伯)
1830年:7月革命。
1833~48年:ルイ=フィリップ
1848年:2月革命起こる。
1848年~52年:大統領 ルイ=ナポレオン(ボナパルトの甥)
1852年~70年:皇帝ナポレオン三世。(ルイが皇帝に即位)
1853年~70年:セーヌ県知事、オスマンによるパリ大改造。
この政治的には疾風怒涛の時代、パリ市民は一方でパサージュの店々を散策して、買い物を楽しんだり、カフェで寛いでいたりしていたわけである。
この間の事情が今一ピンと来なくて、「旧体制と大革命」を手にとって見たのだが、却って混乱が増す。そこで「パリ風俗史」 を読んでみる。
「(大革命後)庶民階級に旧体制攻撃をけしかけた張本人であるブルジョワは、自宅にこもってふるえていた。 余りに多くの行き過ぎた流血騒ぎ、市民の祭典に辟易していた。大量虐殺と崇高な精神にうんざりしたパリは、1794年ロベスピエールが逮捕、処刑されたのを契機に、大革命はようやく終息に向かい、パリは、ギロチンも演説も、虐殺も、祭典も、行列もない、穏やかな生活を取り戻した。(p189抜粋)」
「金を儲け、儲けた金を乱費蕩尽すると言う抗いがたい欲求がパリを支配し、人々は快楽に溺れ、ありとあらゆる常軌の逸脱に走った(。p191)
「(ナポレオン)ボナパルトは、配下の兵士らの人気に支えられて皇帝の冠を手にした。(p200)」
「(ナポレオンの)過酷な規律は、民間人にも及んでいるが、それでもパリは、いつも通りのパリである。女性たちは相変わらず愛らしいファッションに浮き身をやつし、『男は戦争のためこの世に生を受け、女は戦士の気晴らしのためこの世に生を受ける』というニーチェの言葉を、ずっと前から体験していたのである。p205)」
「ルイ=フィリップ期になると、パリの様相は一変する。政争をよそに、パリは発展し、巨大建造物で彩られた。1842年マドレーヌ教会完成。ルイ=フィリップ橋など多くの橋が架けられ、多くの噴水が設置され、最高裁判所の建物も拡大された。多数の街路の敷設工事が開始されたのも、ルイ=フィリップ時代である。p215~217)」
「1848年二月の革命は、革命的知識層主導のロマン主義運動だった。『三銃士』の作者アレクサンドル・デュマは興奮のあまり自ら武装集団を組織してその先頭に立ち、暴動を粋(ダンディー)な行為とみなしたボードレールは、ピストルを手に走る。にっくき義父、オビック将軍を殺そうと。(p231)」
「初めてパリを出発した鉄道列車は、サン=ジェルマン行きだった。開通式が挙行されたのは、1837年8月のことである。詩心豊かなヴィクトル・ユゴーは、こう歌った。
おまえの速さは途方もない。
路傍の花は、はや花でなく、
赤や白の斑点模様、否縞模様。
(p234)」
いかがであろうか。少しは当時の雰囲気と、詩人や小説家達の時代を感じていただけたであろうか。
一方、マルキストでもあった、シリアスなベンヤミンは、パサージュが栄えた条件を、織物取引が絶頂期に達して、大量の商品在庫を店に常備する最初の店舗であった流行品店が登場し始め、その陳列の場としてパサージュがいわば必要とされた事、と鉄骨建築の開始でそれがパサージュの天蓋に早速活用された事を挙げている。
パリのパサージュは、ルーブルやオルセーなどの美術館ほどの集客力はないにせよ、立派な観光資源となっているようだ。
それは久しぶりに手に取ったパリのガイドブックに特集されている事でわかる。
実はこの11月、パサージュと同月没後80年を迎えるフェルナンド・ペソア の事跡を尋ねることをメインにパリ・リスボン旅行を計画した。勿論ルーブルやオルセーも1996年以来の再訪予定である。絵の好みも知識もそれなりに幅が出来たので、見たい絵がいくつも出てきた。
そうして考えてみると、ロンドンのナショナルギャラリーは96年と2000年以来行っていないし、テートは96年以来だ。
ちょっと足を延ばせばロンドンに立ち寄れるので、結局ロンドン・リスボン・パリ三都市、ホテル8泊の旅行計画となった。