大河ドラマ『光る君へ』は、次回からいよいよ「越前編」へ。

 

為時が下国「淡路守」から大国「越前守」に「国替え」となる経緯が、今週の放送で描かれました。

 

「国替え」されてしまったのは、源国盛

 


源国盛@森田甘露さん
2024年大河ドラマ『光る君へ』より

 

ドラマでは、選ばれた国盛が「漢文ができない」ということで「越前守」は不適格であるとされ、漢学に長けた為時が選ばれる…という流れでした。

 

「漢文は命じて書かせたもので私は苦手です」とか

「どこかにいい通詞はおりませんかね~」とか

のほほんとした雰囲気の、油断と不敵のかたまり(笑)

 

国盛の役をやっていた人、どこかで見たことあるような…と思って探してみたら、『歴史悲話ヒストリア』で浅井長政をやっていた人なんですね。

 

歴史悲話ヒストリア「浅井長政 戦国ぽっちゃり男子の愛と誠」(外部)
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/325.html

 

油断と不敵、そして最終的には敗者に回ってしまう…国盛と浅井長政は似てますかね(^^;

 

(放送当時の2017年と今現在とでは、長政に対する評価もだいぶ変わってますけどね)

 

国盛は、道長の「乳母の息子」なのだそう。そんな重要ポジションなら、初回から登場してもおかしくなかったような…?

 

為時のために「越前守」を下ろされてしまった半年後、秋の除目で「越前守」と同じく大国の「播磨守」となるのですが、この出来事が原因で病となって没してしまったそう。

 

乳兄弟・幼馴染なのに、後に為時の栄達のために裏切られ、そして亡くなる。紫式部大河としては大変興味深い人材だったのに、この1カットだけの登場っていうのは、やっぱり使い方間違ってましたな(うーむ)

 

なお、道長の乳母(国盛の母)って誰だったのだろう?というと、探してみてもよく分からず。後に「乳母」をうまく活用して後宮に人脈を形成した道長なのに、自身の乳母は誰なのか不明というのも、なんとも不思議なことでございます。

 

 

乳母の話は置いておいて。

 

「源国盛」という名を見て、「また源氏か」「どの源氏だよ」と思われた方も、多いのではなかろうか。

 

前左大臣・雅信や道長の妻・倫子は「宇多源氏」。

「四納言」の1人・俊賢や道長の妻・明子は「醍醐源氏」。

行成の祖父・保光、伊周の舅・重光も「醍醐源氏」。

 

…と来た中で、国盛は「光孝源氏」の人物でした。

 

 

光孝源氏は、光孝天皇の子孫が賜姓して皇籍を離れた氏族。

 

光孝天皇は『百人一首』の15番歌の詠み人でもありますねー。

 

きみがため 春の野にいでて若菜摘む
わがころも手に雪は降りつつ


光孝天皇/古今集 春 21

 

 

光孝天皇は、歴代で数えると58代。宇多天皇の父にあたります。現在の『光る君へ』の一条天皇から見ると5世ほど遡る天皇(光孝-宇多-醍醐-村上-円融-一条)

 

「光孝源氏」は、「宇多源氏」や「醍醐源氏」、有名な「清和源氏」や「村上源氏」に比べると、だいぶ歴史の登場頻度は落ちるのですが、それでも有名な人がいたり、女系では意外な所と繋がったりしています。

 

そのあたりを系図で紹介してみると、このようになります。

 

 

 

そうそう。系図の中身に入っていく前に、1つ。

 

NHK『光る君へ』の公式サイトに、「源国盛」の人物紹介ページがあるのですが、そこに書かれてある紹介文…

 

貴族

源 国盛(みなもとのくにもり)

森田 甘路(もりた・かんろ)

藤原公任が選んだ三十六歌仙の一人である源信明の息子

 

「公任が選んだ三十六歌仙の一人である源信明の息子」。

 

「え、そういう紹介?ということは次回は三十六歌仙にも触れていくの!?」と、驚くと同時に期待もしていたんですが、放送では全くなかったですね(苦笑)

 

国盛本人が三十六歌仙なわけじゃないからな…と思いつつ、じゃあアレなんだったのよ…と。公任と交流するシーンでもあるのかと予想してたのに…。

 

放送前から公開されているページなので「越前守が国盛から為時に国替えされる」のをネタバレしないように、こういう紹介文になっているのでしょうか…?

 

ともあれ、こいつに綺麗に釣られてしまって(笑)、系図を「三十六歌仙」が入るように作ってしまっておりまして…。

 

なので、ついでにそちらもご紹介していきますw

 

 

元慶8年(884年)、「乳母子の源益(まさる)を宮中でコロした」として「天皇失格」のレッテルを張られた陽成天皇は、時の実力者・藤原基経によって譲位を余儀なくされ、光孝天皇が即位しました。

 

17歳の陽成天皇から55歳の光孝天皇へという、異常事態とも言える皇位継承・皇統交替。このあたりは、以前にも触れたことがあるので、そちらもドウゾ。

 

藤原の兄弟たち(後見人憂懼編)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12804303698.html

 

光孝天皇には多くの皇子・皇女がいるのですが、中でも重要と思うのは、この4人。

 

定省親王

是忠親王

源国紀

綏子内親王

 

定省親王(さだみ)は、光孝天皇の跡を継いで「宇多天皇」となった人物。

以降、陽成天皇の系統に皇位が戻ることは、ついにありませんでした。

 

綏子内親王(やすこ)は、光孝天皇の第8皇女で、宇多天皇の同母妹。陽成天皇の妃となった女性です。

 

陽成院といえば『百人一首』13番歌の詠み人ですが。

 

つくばねの 峰より落つる みなの川
恋ぞ積りて淵となりぬる


陽成院/後撰集 恋 776

 

筑波嶺から流れ落ちて来る細流の「みな(水無)の川」が、積もり積もって下流では深い淵となるように、「みな(女男)の川」も時を経て、淵のように深い恋になりましたよ…のような意味。

 

この和歌には「つりどののみこにつかはしける」という詞書があって、この「つりどののみこ」こそが、「釣殿宮」と呼ばれた綏子内親王のこと。

 

「釣殿」は光孝天皇から相続した「釣殿院」のことで、現在の「六条院公園」のあたりと言われています。

 

 

「河原左大臣」こと源融の別荘「六条河原院」のご近所さんですな。

(ちなみに「河原院」は、現在の「渉成園」のあたりとされます)

 

というわけで、『百人一首』の和歌は綏子内親王に向けて詠まれたものだったんですねー。

 

和歌に出て来る「淵」が呼び起こす「情念」は、澄みわたっているというよりも、暗く淀んだ、怨念じみた雰囲気を感じずにはいられないものがあり…。

 

陽成院が譲位し、そしてその子孫が再び皇統に戻ることが無かった経緯と重ね合わせると、この和歌も「ただの恋の歌」ではないようにも読めてしまいますね(そう読みたいだけだろ…というツッコミ歓迎w)

 

 

続いて、「源国紀(くにのり)」は光孝天皇の第14皇子。

彼が、国盛の曾祖父にあたります。

 

国紀は「正四位下・大蔵卿」を最終官歴としました。

さすが新皇統の皇子だけあって、「八省」の長官(卿)の地位まで昇っていますw

 

国紀の息子の公忠と、孫の信明は、ともに「三十六歌仙」に選ばれています。

 

代表歌…を挙げるほどワタクシは和歌には詳しくないんですが、公忠の詠んだ中には個人的に好きな和歌があるのでご紹介w

 

殿守とのもりの 伴のみやつこ心あらば
この春ばかり朝ぎよめすな


源公忠/拾遺集 雑春 1055

 

「殿守の伴のみやつこ」とは、"内裏のショムニ"こと「主殿寮(とのもりょう)」のお掃除担当な宮仕えの人たちのこと。「朝ぎよめ」は、朝のお掃除。

 

桜の花びらが地面いっぱいに広がっている春の朝、今日だけは庭掃除しないで、この風情を残してくれまいか…みたいな意味でお掃除をさぼる時に詠むと見逃してもらえるかもしれない和歌です(何)

 

(『今昔物語』では、何故か藤原敦忠が詠んだことになっています)

 

鷹狩が趣味で、キジの肉を食べて生産地を当てることができたらしい。ある人がそれを試したら、ホンマに当てやがった…という話が『大鏡』に載っています。違いが分かる男もすごいけど、試してみる人も相当だ。

 

息子の信明の代表歌は、技巧を凝らす古歌をけちょんけちょんに批判していた正岡子規さえも褒めたという和歌。

 

ほのぼのと有明の月の月影に
紅葉吹きおろす山おろしの風


源信明/新古今集 冬 591

 

ほんやりと輝く有明の月の光の中、紅葉を吹き下ろす山嵐の風よ…みたいな意味。

 

「五・八・五・八・八」と3節も字余りになっている珍しい和歌ですが、かえって語調が整ったのか、それをあまり感じさせませんなー。

 

信明は女流歌人の中務(なかつかさ)との交流でも知られ、個人的にはそちらで詠まれている和歌の方が印象深いかな。

 

いたづらに たびたび死ぬと言ふめれば
逢ふには何を かへむとすらむ
(中務)


返し

死ぬ死ぬと 聞く聞くだにも逢ひ見ねば
命をいつの世にか残さむ
(源信明)

 

「私に会えないと死ぬと度々仰るけど、いざ逢うとなったら何を代償になさるおつもりなんですか?」という信明の口癖をからかった中務の問いに、「死ぬ死ぬと聞き聞きなされ、それでも逢って下さらないのだから、私はいつの世までこの命を残せばいいのでしょうか?」とやり返した…というやり取り。

 

「死ぬ死ぬ」なんて字面を平安時代の和歌で見るとは思わなかったので、印象に残っている和歌です(笑)

 

こんな楽し気な和歌をやり取りしていた2人の間には「井殿」という娘が生まれており、彼女は藤原伊尹の室となっています。

 

信明の最終官歴は「越前守」。国盛は、信明の子(中務の子ではありません…ただし前述の通り「生母不明」なので、可能性だけはある…?)ですが、当初「越前守」に選ばれていたのは、これも響いているんでしょうか?(なぜかwikipediaには載ってないのですが…)

 

国盛の兄弟姉妹では、妹の明子に注目。

 

彼女は、紫式部の夫・宣孝の兄にあたる説孝の室となっており、紫式部と共に彰子のサロンに出仕しています。その名も「源典侍(げんのないしのすけ)」。

 

もっと後になると、敦成親王(一条天皇の子。のちの後一条天皇)の乳母に選ばれています。これは明子が道長の乳母子だから…なんでしょうかね?

 

ということは、国盛もあんなことで病死してしまわずに長生きしていたら、後一条天皇の乳母の兄弟ということで、何かしら出世する道もあったかもしれませんな…。

 

そして、「越前守」の因縁の相手となった為時と、意外なところで繋がっていたのですねー(宣孝と紫式部が結婚するのは、この除目より数年先ですけど)

 

話を戻して、明子と説孝の間には頼明がおり、その子孫には、あの「悪左府」頼長さまの母となった女人や、現天皇に続く皇統・土御門天皇の生母となった在子(承明門院)、そして上杉氏などがおります。

 

系図で見てみよう(藤原氏勧修寺流)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12832517474.html

 

信明の弟・通理(みちさだ)の子孫では、孫娘が宣孝の子・隆光(紫式部と結婚前の子)の室となっています。

 

こちらの子孫は、「夜の関白」顕隆を始めとした葉室家、鎌倉時代に「初代関東申次」となる吉田経房などに繋がっていきました。

 

系図で見てみよう(藤原氏/紫式部周辺)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12804259307.html

 

そして、通理のひ孫にあたるのが、僧侶となった永観

 

京都東山にある「禅林寺」を「永観堂」と呼ぶ由来となった人物ですねー。

 

 

永観は「禅林寺」を「浄土教」(※「浄土宗」ではなく)の道場としても活用したことで、中興の祖となった人物。

 

本尊の阿弥陀如来の周りを念仏しながらぐるぐる回る修行中、阿弥陀如来が出現してともに回り始めたので、驚いて立ち止まってしまうと、阿弥陀如来が振り返って「永観、遅し」と言った…という「振り返り阿弥陀」の伝承が残されております。

 

「西山浄土宗」の歴史(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12853404656.html

 

 

話を国盛自身に戻して…。

 

国盛の娘は、源道方の室となっています。

道方は、道長の舅となった雅信(倫子の父)の同母弟・重信の子。

 

重信は藤原隆家の舅でもあり、その関係なのか道方は当初「中関白家」に近しい立ち位置だったようで、『枕草子』にも「道方の少納言」の名で登場します。

 

国盛が国替えされたのは、この「中関白家に近い道方の舅だったから」…というのは、さすがにない…かな?

 

道方と国盛娘との間には、経房が生まれています。

経房は『百人一首』71番歌の詠み人です。

 

夕されば 門田の稲葉おとづれて 
あしのまろ屋に秋風ぞ吹く


大納言経信/金葉集 秋 173

 

白河朝~堀河朝にかけての代表的歌人。管弦から蹴鞠までこなす「三舟の才」藤原公任にも比される多芸多才な人。

 

息子の源俊頼、孫の俊恵法師と、三代に渡って『百人一首』の詠み人が続いて行く…というのも、以前にご紹介しました。

 

系図で見てみよう(宇多源氏)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12734496370.html

 

俊頼の母(経信の室)は、国盛の子・貞亮の娘なので、俊頼にとって国盛は父方・母方両方の祖父ということになりますね。

 

経信と相婿になる形で、藤原行成の息子・行経も貞亮の娘を娶っています。

 

子の伊房の子孫が、世尊寺家に繋がっていくので、国盛の系統は世尊寺流にも流れ込んでいるのですな。

 

 

さて、話を光孝天皇の皇子まで戻して、今度は是忠親王(これただ)の系統。

 

是忠親王は、定省親王(宇多天皇)の10歳年上の同母兄。

母は仲野親王の娘・班子女王でした(桓武-仲野親王-班子)

 

兄を差し置いて宇多天皇が天皇になったのは、藤原淑子が定省を猶子としていたことが関係しています。

 

淑子は当時のキングメーカー・基経にとって仲良しの異母妹。彼女の強い推しで宇多天皇が即位し、是忠は「天皇の同母兄」となったのでした。

 

父・光孝天皇が即位すると、是忠親王は「左衛門佐(従五位下相当)」から一気に「参議(三位相当)」へ昇るという、異数の昇進を果たします。

 

続いて、同母弟・宇多天皇が即位すると、中納言へ昇進。順調に昇進を重ねていく是忠親王ですが、寛平3年(891年)、宇多天皇の要請により「皇族復帰」することになりました。

 

表向きは、皇族を増やして皇位継承者を確保・安定させたいというもの。

ですが、本当の理由は、この年に藤原基経が薨去したことにありました。

 

「中納言」以上の議政官6人のうち4人が「源氏」となり、大黒柱の基経を失った上に、少数野党に転じてしまった藤原氏が、逼塞感を覚えていたのです。

 

そこで、派閥のバランスを整えるために中納言の是忠親王を皇族復帰させたというわけ。

 

「皇籍」に戻ることは栄誉なことですが、「太政官」に籍を置き続けることはできません。つまり、「中納言」を1つ空けるためだった…と言われています。

 

その頃に是忠親王が詠んだという和歌。

 

甘樫の丘の探湯くがたち清ければ
濁れる民も かばねすましき

 

19代・允恭天皇の時代、乱れた「氏姓」の制度を正すために、全ての氏族を飛鳥甘樫丘に集めて行ったという「盟神探湯」を詠んだ是忠親王。その心中は如何なるものだったのか…?

 

 

「三十六歌仙」の1人・源宗于(むねゆき)は是忠親王の子。

 

『百人一首』28番歌の詠み人でもあります。

 

山里は 冬ぞ寂しさ まさりける
人目も草も かれぬと思へば


源宗干朝臣/古今集 冬 315

 

山里は寂しいものだけど、冬になると殊更に寂しさが募るものでした。人の訪れもなくなり、草木も枯れてしまうと思うにつけて…みたいな意味。

 

なんてことない平凡な歌…って思います?ワタクシは思いました(笑)

 

しかし分析してみると、「離る(かる)」と「枯る」が掛詞になっていて、上の句と下の句を「倒置法」で余韻を残しているという技法が凝らされています。

 

さらに、この歌は「本歌取り」。叔父にあたる是貞親王が歌合を開いた時、藤原興風(京家。三十六歌仙。『百人一首』34番)が詠んだ一首を本歌にしています。

 

秋くれば 虫とともにぞ なかれぬる 
人も草葉も かれぬと思へば


藤原興風

 

本歌の方は「秋」を詠んでいますが(歌合のテーマが「秋」でした)、これを「冬」の歌とすることで、寂しさを一層掻き立てることに成功しているそうな。

 

まぁ、だったら平凡と思ってごめんなさい…ってところでしょうか…。

 

父は皇籍に復帰させられましたが、本人は賜姓源氏のまま人生を全う。しかし、官職は「正四位下・右京大夫」止まりで公卿にはなれず、受領階級として地方官を歴任することになりました。

 

官位昇進を望んで、宇多天皇に和歌を送って訴えるお話が『大和物語』にいくつか載っているのですが、帝は「何のことだか分からん」と言って、とぼけていた…といいます。

 

…宗于が出世できず不遇をかこっているの、父が皇族復帰したことが半分くらい占めそうで、宇多帝にも責任があると思うのですが、全く意に介していません。これはひどい(笑)

 

歌人としては、興風や清原深養父らとともに、宇多天皇の時代「寛平歌壇」の代表的人物。紀貫之とは、昵懇の仲だったと言われています。

 

しかし、醍醐天皇の時代になると、宇多上皇は風流三昧から仏道三昧に生活を変えてしまい、日本初の勅撰和歌集『古今和歌集』が醍醐天皇により編纂されるのですが、こちらは新進の歌人たちに委ねられ、宗于は置いてけぼり…。

 

色々な意味で時代の運を掴めなかった感がありますね…(冬の山里を詠んでいるのは、自分の不遇を詠んでいるようにも思えなくもない)

 

(そして、そんな宇多天皇は転がり込んで来た皇位を早々と譲位して、以降「上皇・法皇」として30年余りを好き勝手に暮らしている…中々の大物感がありますよなw)

 

ちなみに、『百人一首』には「天皇の孫」は4人しかいないのですが、その中に1人ということにもなりますね(僧正遍昭・在原行平・在原業平・源宗于)

 

 

宗于の兄弟に当たる清平の系統では、孫娘(是輔の娘)が源雅信の子・扶義の室となり、娘と成頼が生まれています。

 

娘は「七日関白」道兼の子息である兼隆の室となり、子孫は「宇都宮氏」になった…と言われています。成頼は「佐々木氏」の祖となる経方の祖父。

 

清平は、代表的な武家の先祖だったわけですな。

 


さらに、宗于の兄弟である英我王の系統では、孫の康尚が仏師となり、道長が法性寺に建てた「五大堂」の仏像製作を担当しています。

 

その子の定朝は、仏像の形式「定朝様」として名をはせている仏師。

 

道長の子・頼通が建立した宇治「平等院鳳凰堂」の本尊「阿弥陀如来坐像」が代表作ですねw

 

ワタクシは、到着した時が拝観時間の4分後というギリギリアウトで、まだご尊顔を拝んだことがないのですが、仏像好きなら一度は是非…という美しさを誇っております。

 

鎌倉時代の「東大寺南大門」の仁王像を始め、写実的・肉感的・躍動的な造形で知られる仏像を数多く制作した運慶は、言い伝えによると定朝の子孫となるそうです。

 


運慶@相島一之さん
2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』より

 

「家系継承」の系図であって「血統子孫」の系図ではない…とは思うのですが、本当だったらいいな…と思ってしまうのも事実で。


光孝源氏は女系として色々なところに溶け込んでいるのですが、男系としてはあまり、ぱっと目立ったところには現れていません。

でも、運慶たちが男系の子孫として繋がっているなら、「嬉しい例外」になり得るんだけど、実際にはどうだったんでしょうかねぇ。
 

 

 

以下、余談。

 

 

光孝源氏について紹介してきましたが、実は光孝天皇の御後には「光孝平氏」もおります。

 

平氏というと普通「桓武平氏」が思いつきますが、他にもいくつか「平氏」はあって、その代表的な一族です。桓武平氏以外は、あまりは繁栄せずに終わっていて影が薄いんですね(笑)

 

先述した通り、光孝天皇は陽成天皇から譲位されて「皇統交替」を果たした初代天皇。平安の初代天皇・桓武天皇を意識して平氏を賜姓したのかな…?(このあたりは妄想)

 

光孝平氏で代表的なのは、平兼盛。

是忠親王の子・興我王の子孫とされます(他の系統説もあり)

 

兼盛と言えば『百人一首』にも採られる代表的歌人ですが、赤染衛門の父である説もある人物ですね。

 

そのあたりは、以前にも触れたのでリンクを回すとしますが、光孝源氏に触れたついでに、光孝平氏もあったんですよ…ということでw

 

女流歌人の親戚たち(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12834049709.html

 

 

 

【関連】

 

大河ドラマ『光る君へ』放送回まとめ
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12837757226.html