果てしなく以前の昨年の10月8日(土)に善光寺街道歩き旅の第2回として、上田から屋代までの区間を歩いた旅の第二弾、その12です。
当日の歩行ルートは↓。
街道復帰までの道のりや寄り道なども含めて歩いた総距離は23.5km前後だったようです
ガイドブックは山と渓谷社の『ちゃんと歩ける 伊勢参宮道 善光寺街道』です。
その11では坂城の宿場の手前で村上義清の墓所にお参りをした後、坂城の宿場の入口付近までたどり着いたところまでをご紹介しました(↓再掲)。
暫く進んだら↓の四つ辻で左折すると坂城宿に入って行きます。
左折すると早速街道左側に良さそうな家がありますね。
あちこちに手が入っていますが壁の様子などを見る限りかなり古そうですね。重厚で立派です。
その立派な家の真向かいに西宮神社があるので、お参りしていくことにしました。
水路はありませんがちゃんと境界としてプチ太鼓橋があります。「こっから先は神域だからね!」ということですね。
「横町 大神社」とあります。この「横町」は旅籠が並んで栄えたエリアだったそうです。
旅籠に泊まった振り分け荷物の旅人になったつもりでお参り!
元旅籠町だった横町、名残があると言えばありますか。正面に山が見えていて、低い建物ばかりだった頃はかなり風光明媚な宿場だったことでしょう。
上の写真の右側に写っていた「こだわりの石臼搗き米」のお店。蔵造りの建屋はかなり歴史がありそうです。
石臼搗米の蔵の背後の路地の奥に見えていたのは心光寺というお寺でガイドブックには「文化十三年(1816)の徳本名号碑がある」というやや不親切な説明があったきりですが、先を急ぐので遠くから遥拝するに留めます。
正面だけでなく右前方にも山がぬっ!と現れてきました。山すそに張り付いたような土地柄なのですね。
こちらは元々大きな商家だったのでしょうが、一階ががらんどうになってガレージ化しています。屋根左端のプチ越屋根は養蚕とか実用的なものではなく装飾的なものかな?と想像しました。
側面に土壁が少し露出している、古民家リノベタイプの山根屋書店。うっかり入らずに通過してしまってちょっと後悔しています。
やがて宿場の枡形に突き当りここで右折します。
この右折枡形の左側には少し坂を下った先にしなの鉄道の坂城駅があります。
ここで本来は一旦駅の方に向かい、↑の写真の左端に見切れているコカ・コーラの自販機のお向かいにある「坂城陣屋」跡碑を見に行く筈だったのですが、枡形の先の景色が早く見たくて焦ったためドロップしてしまいました(;´・ω・)。
しかしすっかり便利になった現代社会ではこれを補う「Googleストリートビュー」という奥義があるので惜しみなく使わせて頂きます。左側に写っている看板が、坂城陣屋の説明ですが、
なんとこの解説板、読めるレベルの解像度でアップに耐える写真だったのです。
ざっくりいうと坂城の藩庁だった訳ですが、領主だった板倉氏が元禄十六年(1703)に欧州もとい奥州に移封されると廃止され、その後大火で焼失した訳です。
その後少し離れた場所に建て直したのが、前々回の記事でご紹介した中之条陣屋です(↓再掲)。
枡形を右に進んだところ。この辺りが坂城宿の中心地だったと思いますが、寂れた感じですねえ。
しかし右側手前に写っている建物は趣がありそうなので、道路左側に渡って激写します。
これはまた素晴らしい!花月堂菓子舗というんですね。森永ミルクキャラメルの看板も目を引きますが、看板部分於左上部分を見る限り元々お茶屋が本来の商いでしょうかね。
ベタベタ余計なポスター貼らないで欲しいですが、これは坂城町の貴重な昭和文化財でしょう。
こういう看板建築、一度壊すと二度と戻りませんので何とか保護されて欲しいものです。
元々はもう少し活気のある商店街だったんでしょうが、かなり寂しい景色になっています。
岩井金物店。↑の写真の左側をご覧いただくと分かりますが、一階はもうガレージになってます。
二階も窓一つしかないので様子が分かりませんが、恐らく住居としてもすでに無住になっていて、ガレージとしてだけ生き残っている可能性が高いと思います。
その右隣りの「リカーショップ陣屋」は恐らくお休みだったようです。
その斜向かいにあたる街道右側で目立つのがこちらの変則的な長屋門。
本陣跡はふるさと歴史館になっています。
こちらの本陣は宮原家が勤めたそうで、例によってあのお方の足跡が、、
「明治天皇御小休所」の碑が立っていました。
少し本陣跡の建物などを見てから先に進みますがこの続きはその13でご紹介します。
つづく