剛柔流空手道の稽古と同じく、
伝統舞踊では内に締める動きや呼吸法と併せて
とてもユニークな練習法があります。
例えば、布などを床に等間隔に敷いて、
摺り足から、その軸をぶらさずに跳び越えていく。
大きさの異なる数センチ前後の球を床一面に撒いて、
それらを一つずつ、足の指で掴んで元の箱に戻す。
姿勢を正しながら、腰を床に下ろして座り、
両足の親指と人差し指から
足の側面やかかとまでを使って、折り紙を折る。
これらは足の指一本一本、
軸の中心からその先の先まで気を通して
鋭敏な感覚を養うこと。
同時に、足腰の基礎をつくり、
強くて柔らかい、しなやかなものを培うこと。
いずれも、本質を身につけるために
指導者たちが試行錯誤してきた表れであり、
その意図しているところを推測すると
たいへん興味深く、おもしろくもあります。
矢部師範の恩師、山口剛玄先生が
剛柔流空手道の源流、インドのヨガに立ち返って、
息吹による鍛錬法や四股立ちから上体を屈伸させる
運動法を考案して取り入れてきたことなど、
矢部師範が懐かしそうに話してくれたことを
いまもふとしたときに思い出します。
すべては、みなのためとする
信念と想いから生まれてくる創意工夫であり、
長年、受け継がれてきている伝統は
このような着想から起こってきたであろうことも
想像できます。
たくさんの先人たちが、
たゆまぬ努力とともに積み重ねてきた先に
いまの私たちがあるということ。
これは、私たちのこれから先、そのまた先にも
何かしらを学び、得ていく者たちが
無数にいるであろうことをイメージすることも
そう難しくありません。
明治の哲人、内村鑑三は、
人生は準備的であり、樹木的であると述べています。
真面目にいまをまっすぐに生きること、
その姿勢をもつこと自体がたいへん尊いもので、
意味と意義がある。
そのなかで耕し醸成され、実らせたものによって
後輩たちや、のちの世代の者たちへの
何かしらの学びや獲得につながっていくということ。
耕し醸成され、実らせたものが何であったかは、
そのときに分かるものであり、
いまはひたむきにどう生きるかを考えることこそ
もっとも大切である、
との内村鑑三氏の言葉 ―――
先人たちが地ならしをして
築いてきたものから何かを得ていることは、
社会で生きる中で誰もが経験をしてきていること。
その有無や大小があるとするならば、
それは、気がついているかどうかの差に過ぎません。
その気づきが及ぶ広さも深さも人それぞれであり、
そこから何を考え、
どのように歩んでいくかについても
またそれぞれなのです。
恐れ、畏れる(大先輩方とともに)
伝統舞踊の稽古から内村鑑三さんまで
話題がかなり行き過ぎた感があり、
道半ばの身としては
恥じ入るところも少なくありませんが、
先人たちなくしていまの自分がないことに
疑いはありません。
この夏は、戦後80年として
全国各地で多くの事業やその報道がなされています。
また新しいものに出会えるように思います。
その期待感はとても大きい。
これも不思議な縁というほかはありません。
追記
「腕を上げたな」
先日、指導員に伝えた一言が、
自分もかつて恩師からかけてもらった言葉であると
少し時間がたってから気がつきました。
何とはなしに発したものですが、
同じような言葉をかけるようになるとは参ったな、
とも思いながら苦笑いをしつつ、うれしくもあり、
自然と笑みがこぼれました。
あの指導員の心身の引き締めは、
一朝一夕に成せるものではありません。
伝統の呼吸法と、
内に締める円の動きを徹底して稽古している
うちならではと感心しました。
いいものはいい。
とてもシンプルですがこれに尽きるのです。
表面的な見た目や
その形などをそれらしく似せている
世間にあまたある空手道場とは雲泥の差であり、
天と地ほどに違う。
先人たちの学びに感謝をしつつ、
またそれとは異なる何か、
改めて言葉にならないものを感じています。
5つ、再掲します。
