剛柔流空手道の源流はインドのヨガにある。

 

シルクロードを経て中国大陸に伝わり、

 

座禅、仏教、太極拳などにその息吹を伝え、

 

海を経て、沖縄では武術としての唐手に発展し、

 

そのうちでも特に那覇手、現代の剛柔流に至る。

 

 

剛柔流を学ぶなかで、ヨガに出会い、

 

その稽古にヨガの流れを汲むもの、

 

そこに体系立てたものがあることを、

 

私の恩師の恩師、

 

全日本剛柔会の創始者 山口剛玄先生は、

 

剛柔流の己の内にあるもの、

 

体感として語っており、

 

その剛玄先生のヨガを学ぶ姿勢について、

 

私も恩師からこれまで幾度となく

 

話を聞いてきている。

 

 

また、剛玄先生の

 

著書「剛柔の息吹」(昭和41年発刊)の

 

なかでも、ヨガに関する頁では、

 

「ヨガの権威 野田雄弘先生の知遇を得た」との

 

出だしから始まり、本文では、

 

ヨガの語源から弛緩法などの修養法、

 

剛柔流の考察、

 

剛柔流をヨガの考え方で補う稽古法、

 

神経系統図まで幅広く述べられている。

 

 

そのヨガの語源は、梵語で「つなぐ」、

 

英語では「yoke(つなぐ、結びつける、絆など)」。

 

ヨガが、身体のあらゆる部位を結びつげる、

 

心と身体をつなげる、

 

呼吸と身体を融合させる、

 

などと解釈されるゆえんであり、

 

そのおおもとが

 

この一言に凝縮されているのであろう。

 

 

近年は、ヨガが世界中で広く浸透している。

 

私もかれこれ20年以上、

 

ヨガにふれる機会を得てきたものの、

 

断続的で深掘りには及ばない取り組みであり、

 

横隔膜の上下動、

 

身体の弛緩の極意などなかなか難しい。

 

だが、自分の重心をはかって、

 

最善のバランスをとり、据えること、

 

その揺れ、移動を自在とする点などでは、

 

まさに、その源流を、

 

己の内なるものとして感じとることができる。

 

 

   

    

 

恩師に連れられて

 

全日本剛柔会にお邪魔した際の、

 

剛玄先生の常人離れした雰囲気は印象深い。

 

また、かつても記した、

 

曹洞宗の大本山 永平寺で目の前にした

 

ゆるぎなく 大きいが、柔らかく 静かでもある、

 

一人の高僧の山のような座禅。

 

 

身近では、やはり、恩師の

 

地鳴りが湧き起こるような軸足からの立ち上がり、

 

並行する身体の解放と収縮、

 

そこにガチッと連動する深い息吹、呼吸法。

 

いずれも、脳裏から離れない。

 

 

在りたい自分と、

 

いまの自分の差異を感じ、

 

葛藤、試行錯誤し、

 

目指すところへ向かって取り組むこと。

 

ヴィクトール・フランクルは、

 

これを「実存的緊張」と呼んだ。

 

 

フランクル研究の第一人者は、

 

現代は緊張感が足りない、

 

ストレスが足りない、と断じる。

 

みんな違ってそれでいい、

 

みんなそのままでいい、

 

という、あらゆる自由が

 

ますます許容されゆく時代。

 

自分探しにあけくれて、それでも惑い、

 

迷い続ける人々がいかに多いか。

 

自由ゆえに、

 

自立、自律を求められるほどに、

 

自分を確立することは

 

容易ではないとも言える。

 

 

サン=テグジュペリの「星の王子さま」では、

 

一輪の花が人間を評して、

 

「根がないものだから、たいへん不自由している」

 

と揶揄する有名な一文にもあるとおり。

 

根を張る、根を下ろす、という取り組みは、

 

自分の軸を持つということ。

 

 

年度末に差し掛かり、春の陽射し、

 

木々や草花の芽吹きも目立つ季節。

 

さまざまな節目を迎える道場生へのエールに

 

尽きることはないが、

 

波があるなかでも、長く、

 

これからもともに、

 

よい時間を過ごしていきたいと思う。

 

継続こそが、力である。

 

 

3つ、再掲します。

 

丹田

 

伝統空手

 

自律