ニシムラマサキのブログ 【株式会社 西村工務店 代表取締役】【 SASAYA・うづかの森 オーナー】 -40ページ目

ニシムラマサキのブログ 【株式会社 西村工務店 代表取締役】【 SASAYA・うづかの森 オーナー】

どうすれば地域を『素敵』に変えられるのか、誇るべき田舎になるのか、そんなことばかり考えています。

 

 

今朝の日本海新聞の記事。

 

うちの村の秋祭りは9月23日なのだが、祭礼が終わったあと、それにかかわった地区の役員や関係者が車座になって、森甚のちくわをあてに、ビールを飲むのが昔からの習慣だ。

 

なぜなのか、聞いたことはないのだけど、左手に持つのは必ず『森甚』のちくわと決まっているのだ。

僕がこっちに帰って祭りにかかわるようになって、25年ぐらいになるけど、ずっと変わらない。おそらくそれ以前もそうであったのだろう。

 

以前森甚商店が閉店するとの記事を読んで、
『自分たちが続けてきた伝統も途絶えるのかぁ

、次の祭礼で、左手に僕らは何をもつのだろう…』

と思ったが、今日の記事が目に飛び込んできて、素直にうれしかった。

 

二方社長は、僕が青年会議所をさせていただいているときに、豊岡で同期の理事長で(厳密にいうと、僕自身はもうすでに卒業していたので、同期理事長とはいえないのだが…そこのところは話せば長くなるので、やめとくけど…)よく顔をあわせていた人でもあったから、なおのことうれしく思う。

 

以前、二方さんと話をさせていただいたときに、かまぼことかちくわと言ったいわゆる『練り物』の食文化が日本からどんどんとなくなっていることを憂いていて、そういうものを絶対に守り切るのだと熱く語っていたことを思い出す。

 

今年も、祭りのあとの左手には、変わらぬ森甚のちくわが手にできる、

一つ消えようとした食文化を継承したという記事に、本当にありがたく思った。

 

新しいことに果敢に攻める二方社長は、本当の男前だと思う。

心から敬意と感謝を表します。

コロナウイルス禍で非接触型のコミュニケーションが増えてきた。

 

但馬は幸いに、コロナウイルスの感染者が出ていないこと、建設業という業種柄、外での仕事が多く三密になりにくく、かつ現地に行かなければ仕事にならないこと、などがあって当社自体はリモートでの仕事にはいたっていない。

 

ただ、いくつかの会議、また当社へのセールス事案ではリモートを希望する方がいくつかあることもあって、私自身も、リモートでの仕事をいくつか経験してきた。

 

メディアなどでは、100%リモートでの運営を行っている企業を紹介されたりしているし、おそらく今後はその方向にすすんでいくのは間違いない。

 

私の会社で使用しているクラウドサービスの打ち合わせで、あるIT企業の営業担当者には、いつもこんな話をする。

『ITのセールスだから、リモートでも打ち合わせは十分可能だけど、3回に1回とか、5回に1回とか、リアルの会議は必須だ』

 

 

思うに、お客様がよほど来ないでくれと言われない限りは数度に一度は『その場所に行く』ことはどんな業種であれ重要だ。それはパソコン上で動かすクラウドサービスであってもだ。

 

それは、その会社の背景には必ず、その地域というものが、深くかかわっているからだ。

 

地形、気候、風土、文化…そして人。

そういう複雑な要素が絡み合って、企業とか組織を形成している。

 

その場に自分が身を置くことによって、感じるものがあり、それを理解しようとすることが、相手を成功に導く。

とらえどころのない感覚という意味では非科学的だと言われるかもしれないが、僕は昨今言われるデータがすべてではないと思う。

 

よく考えてみてほしい。

科学によって、さまざまなことが解明し、予測できることが増えてきてるの事実だ。

 

しかし、どんなに社会が進化しようとも、人だけが持ち合わせる特別な何かはある。

いやそれこそが、人が世の中に存在する意義だ。

以前、娘と直島にある地中美術館に行ったことがある。

 

僕自身がアートについて、いろいろ語れるほどの知識やセンスを持ち合わせているわけではない。

だけれど、ふいとなんとなくアートに触れたくて、娘をダシにして見に行くことにしたのだ。

 

子どもたちは、まさにまっさらなキャンバスのような存在だから、小さなころから本物に触れておくことは、彼らの将来のためにはなるだろうという思いはあった。

 

 

地中美術館の中にあるモネの『睡蓮』と対峙する。

 

 

 

睡蓮の絵は、美術の教科書にも出ていたし、あちらこちらで目にすることはあったが、本物に対峙するのははじめてだった。

僕自身が一番心動かされたのは、まさにそこで書いたであろう筆遣いだった。

 

筆を走らせ、絵の具を何重にも塗り付けていくさま、わずかであるけど、絵の具が乗った分だけは、厚みを増している。

 

そして、べったり塗ったり、筆先だけをこちょこちょと動かしたり、一枚の絵を描き上げるためにどれだけの労力を要したかわからないけど、何度も何度も思考錯誤しながら描いていったのかな…

 

そんなふうに僕には見えた。

 

 

今、4Kだ8Kだと映像技術が進化し、また印刷技術も進展し、モネの絵も細部にわたり見えるようになった。

今のVR技術も相当進化しているのだろうけど、あの筆の何ミクロンかの筆の厚みまではさすがに表現はできまい。

 

つまりは、やはりコピーしたものは、どこまで忠実に再現しようともやはりコピーなのだ。

 

僕はあの絵と対峙したとき、まさにモネがその場所にいて、キャンバスを引いたり、近づいたり、右に行ったり左に行ったり、動き回っているように思えた。

 

絵のすばらしさそのものは僕自身はよくわからないけど、『感動』、つまりは心動かされたことだけは事実だ。

 

世の中が便利になって、近しいものはいくらでも手に入るような時代になった。

でもどんなに努力をし続けてもやはり本物は本物である。

インターネットなど業界の仕事の進め方の特徴の一つは、ある意味の緩さがあるということだと思う。

 

 

例えば、ウインドウズなどのOSや、ソフトウェアなどは、ある程度使用しているうちに、不具合がみつかり、アップデートのプログラムが無料で配られたりしている。

 

製品は完ぺきに越したことはないが、予測できない不具合というものはどうしてもあるし、使っていることでわかるものもある。

 

もちろん命にかかわるようなかなり重大なことが絡むようであれば、そうはいかないものも多いけれど、世にリリースして、衆知にさらされ、磨かれていく製品やサービスというものは多いと思うし、まちづくりなどはその典型だと思う。

 

最も大事なのは、まずはやってみることだ。

そして、やってみることで得られる経験値というものは、やらずに机上で何百日考えるよりはるかに大きい。

 

僕なんか、失敗ばっかりで、まともに成功できたものなんで百のうちに一つもない。

だけれど、さまざまな失敗の中で得られて経験値というのは、人生の別の場面で必ず役にたっている。

 

日本という国は、失敗というものにかなり不寛容な国だ。

前に進む勇気、前に進む努力を評価し、世の中全部がそれによってアップデートされる社会でありたい。

 

 

 

 

 
もう20年ぐらい前の話だ。
 
ある日、兵庫のJCの会議があって、当時、会長をしていた先輩が、次のような話をされたことが強烈な印象として残っている。
 
『今日、地区の日役があったのですが、みんなといっしょにすることができなかったので、早朝にやり終えてからここに来ました。』
 
その会長は、当時、1500名を超えるJCメンバーを率いていたと思う。
私は、会長という重責を担っていて多忙な人だったから、そんな雲の上のような人がまさか普通の人と同様に日役をしていることにとても驚いた。
 
JCは、『明るい豊かなまちづくり』を目指す青年団体で、草の根的な運動も時に展開する。
だから、兵庫の会長自らが、そうやって地に足のついた活動を自らがしていることを知って、とても感動をしたのをおぼえている。
 
昨日、道路の草刈りがあったが、私は出席することができなかった。
本当は先週やる予定になっていたのだが、大雨で延期になり、急遽昨日やることがきまったが、私自身は、以前からこの日、別の用事がきまっていたので、出席することができなくなってしまったのだ。
 
だから、前日にある程度刈っておいた。
 
私は地域の一員であることを最も感じるのは、日役を行っているときだ。
内の村では、こういった活動を総事(そうごと)と呼んでいる
うちの村は他の地区に比べるとおそらく総事の数はかなり多いと思う。
 
正直、そのことをうざったく思うこともあるが、でもそれは地域の一員として認めてもらうためにはやらなければならないことだと自分に言い聞かせている。
 
ゴミの収集、道路の整備などなど、こういったことは市町がやるものだと思っている人は多いだろう。
私たちが税金で納めたお金を国や地方公共団体が職員にさせたり、土建屋などに発注して、ことをなすのが当たり前になっているが、しかし、みんながすこしづつ労務を提供しあって、ことをなすということも立派な公共の事業だ。
町のごみ拾いなどが各地で行われたりするが、むしろ、地域のインフラの維持というものはそういうことが基本だと思う。
 
うちの村では、決められた総事に出役できなかった場合は出不足といって、ペナルティのお金を払わなくてはならない。
中には、労務を提供したくないので、その出不足をあえて払うことで解決している人もたまにいるが、特に地域の中で一人一人が果たす役割が大きい田舎では、労務の提供することが何より大事で、お金で解決できるというものではないと思っている。
 
とにかくやることが大事なのだ…。