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ニシムラマサキのブログ 【株式会社 西村工務店 代表取締役】【 SASAYA・うづかの森 オーナー】

どうすれば地域を『素敵』に変えられるのか、誇るべき田舎になるのか、そんなことばかり考えています。

ワーケーションということばが盛んに言われるようになった。

 

しかし、少し冷静に考えると、その主語が、『都会の人』であるということに気づく。

 

ワーケーションは、ワークとバケーションの造語ということなのだが、田舎の人はそもそも、そこがワークの場なのだから、わざわざ他所に出て仕事をすることもあるまい。

 

ワーケーションタウンを目指すところが、数々出てきていて、そういう意味では、私たちのマチは完全に出遅れ感が否めない。

 

全国のマーケットの中でどれくらいそういうニーズがあるのかわからないが、なんとなく、飽和的にも思える。

 

いまさらに、ワーケーションタウンを目指しても、もはや周回遅れだろう。

 

私は、うちのマチはワーケーションにふさわしいポテンシャルは持っていると思う。人が自然を求めて、そういう場所にでかけるのは本能だと思うからだ。

 

だから、そういうポテンシャルある場所にでかけたくなるのは、必然とも思える。

 

周回遅れであるならば、いまさらにそこには追随せず、独自の道を歩むべきだ。

 

私は、イノベーションタウンを提唱したい。

さまざまな人がそこに集い、交わる中で新しいアイデアを生み出していき、そしてそのアイデアを形にしていく。

それこそが生産性の本質だ。

 

イノベーションがおきるような仕掛けをさまざまかけあわせていく。

他人どおしが集い、対話を行う中で違う価値観に出会い、そこから自分のアイデアを膨らませてみたり、変化させたり…。

 

それをまた自らの仕事や生活に活かしていく。

料理をしたり、アウトドアアクティビティをしたり、あるいは瞑想したり。

 

そうやって自然に身をゆだねながら、革新的なものを生み出す。

そういうことを全面的に押し出してやっていく場所。

 

それが私が考えるイノベーションタウン。

今のワーケーションに一線をひき、異なる形でマチを活かす。

 

どうだろう?

 

5日間の選挙活動が終わった。


最初の2日は、選挙事務所にいたのだが、後の三日は候補者に同行し町内を文字通り駆けずり回った。


もちろん、僕自身はあくまで候補者を支援する立場でそれ以上でもそれ以下でもないのだが、住民に手を振り、頭を下げ、候補者の街頭演説に耳を傾けていれば、なんとなくあたかも自分がその立場であるような気持ちになってくる。


候補者のような崇高な理念も行動力もないのだが、まちのことについて自分なりに頭を巡らせる時間だ。


行く先々で目にする空き家、耕作放棄された田んぼなど、地域の課題も目の当たりにする。


一方で、新しく整備されたインフラ、新築された住居などのマチが少しずつ形作られる様子も目の当たりにする。


そうやって自分の中の頭のなかにさまざまな情報がインプットされていくのだ。


僕自身は、直接政治を動かす立場ではない。

でも、マチを構成しているパーツの一つだ。


パソコンのように、高性能なCPUが、あってもそれ事態では何の機能も果たせないように、それには周辺機器が必要で、全体が一つのシステムにならないとその、機能を発揮することはできない。


そしてまたそのパソコンを動かし、その利便性を享受し、其処から新しいなにかを生み出し、生活をより豊かにしていくことが何より大切だ。


マチ全体を俯瞰し、物事を考えるとても貴重な時間を過ごせたように思う。


今日は選挙。

一つの形が現れる。


どんな結果が待ち受けていても、その形を受け入れ次なる未来に向けて僕らは、またひたすらに生きていくだけだ。



今年は選挙イヤーだ。

 

まずは、4月25日に投開票される香美町長、議会議員選挙。

そして、7月実施予定の県知事選挙。

そして、任期が10月に迫った衆議院選挙だ。

 

さまざまなテーマが繰り広げられることだとは思うが、選挙をめぐってどうマチやクニを変革していくのか、そういう議論が活発に行われることを願う。

 

で、私自身が一丁目一番地政策にあげてほしいのが、デジタル化だ。

これは、何も県政、国政レベルでの話ではなく、もっとも身近な町政こそデジタル化を強力に推進すべきと考える。

 

しかし、僕自身が言うところのデジタル化というのはそんな小難しい話ではない。

要するところは、今ある無料のテクノロジーを使い倒そうよという話だ。

 

LINE、facebook、twitter、Zoomなどなど、世に出回っている無料ツールを使いこなそう…

ただそれだけのことである。

 

先日もこんなことがあった。

区の総会のおりに、香美町が製作したという、ハザードマップ情報が掲載され、装丁された資料が配られた。

カラー刷りの30ページぐらいに及ぶ立派な冊子だ。

 

各家庭に一つということになっていて、本来は地区の週番と呼ばれる係が、各家庭に配布されるものだが、総会があると機会だったので、週番の人が公民館で一人一人に配っていた。

 

仕事柄、県のハザードマップは何度も見る機会があったので、こういう情報が整理されていることは知っていた。

しかし、これらをわざわざ冊子にして印刷して製本されたものを各家庭に配る意味がどこにあるのだろう…と思った。

 

実際の単価は知らないが、仮にこの冊子の製作が一部500円だったとして、香美町全戸に配られる6000部とすると、約300万円の出費になる。

 

ハザードマップで、自分が住んでいるところ、私の場合であれば、大笹地区の災害発生危険のある場所を把握するということは重要であることは間違いがない。

 

しかし、それなら、兵庫県のハザードマップの閲覧の仕方を指導して住民がハザード情報をどうやって手に入れるのかということを指導することのほうが重要だ。

 

スマホやPCを見れない情報弱者はどうするのだ?という意見も当然あるだろう。

だったら、そういう人にだけ必要なところだけコピーして配れば十分だ。

 

その冊子には、他の地区のことも掲載されていたが、実際香住や小代のハザード情報をどれだけの人が関心してみるのだろうか?

少なくとも私自身は自分の直接的な生活圏である場所以外のハザード情報など関心もないし、もしそれが必要なら、ネットで検索をするだろう。

 

町レベルのデジタル化の推進という部分の本質がこの一連の中にあるように思う。

私自身は、プログラミングを学んだわけでもない。ただ、ユーザーとして少しだけ頻繁に利用しているだけの話である。

 

分からないことはネットで調べたり、人に聞いたりして、少しづつ利用の仕方を学んできた。

 

先日、うちの仕事に関わっていただいているパートさんにスマホで管理する新しいアプリを導入した。

このアプリを導入する部分が一苦労なわけで、その部分を全面的にこちらがしてあげた。

 

アプリを導入し、使い方が分かればしめたもので、あとはみんなそれを使って業務を効率化してくれている。

 

本来、アプリは、生活を便利にしたり、業務を効率化するために導入するものである。

だから、アプリを使って、仕事がやりやすくなるのは当たり前の話である。

 

しかし、一番問題なのは、そのアプリを導入する場面だ。

パスワードを設定したりする作業は正直いって面倒だし、そこをてこずると、便利さを享受する前に挫折してしまう。

 

だから、その部分を懇切丁寧に指導してくれれば、業務の改善は一機にすすむ。

 

これは何も業務だけの話ではなく、行政サービスとて同じであろう。

世の中には、便利さや、快適さを提供してくれる無料アプリや、無料の情報がたくさんあるが、それらの導入部分を少しサポートしてあげることで、飛躍的に生活が改善できるということはごまんとあるのだ。

 

私が思うに、行政職員はdocomoやauなどの携帯キャリアのショップの店員さんに、そういったアプリの導入方法の研修を受けて、その方法を理解し、その知識を住民にむけて『スマホ使い方講習』などをやったらいいと思う。

 

そうやって、みんながもっと気軽にスマホを使えるようにしてあげれば、行政コストもずいぶんとさげられるだろう。

先のハザード情報の掲載されたさっしをを住民にむけて『スマホ使い方講習』などをやったらいいと思う。

 

 

 

そうやって、みんながもっと気軽にスマホを使えるようにしてあげれば、行政コストもずいぶんとさげられるだろう。

 

先のハザード情報の掲載された冊子を配らずとも、その情報の入手の仕方さえ教えてあげれば、数百万円の出費はもっと違った行政サービスへ使われていくことになるに違いない。

 

ある立候補予定者は、スマホを使えない議員は議員を辞職するべきだ!と厳しくいっていた。まさにそうだと思う。

間もなく選挙がはじまる。

 

選挙の論点で底の部分もしっかりとみて投票をしてほしいと思う。

先日、法事に行っているときに、僧侶からこんな話を聞いた。

 

なぜ、墓は、離れたところでしかも地区でいうと山の上の方にあることが多いのか?

 

という話だ。

 

仏教用語に山上他界という言葉があるそうだ。

日本では古来より、山上に異界が存在していると言われ、なので、死者が眠るとされるお墓を仏の世界により近いところに据えたのだという。

 

確かに、うちの地区でもだいたいにして、比較的見晴らしのよい、集落からは少しあがったところに墓地は存在する。

 

となると、それよりはるか上にある山はもう極楽浄土の世界じゃないか!と思った。

春になり、山の雪解けで登山道も走るに適する時期となった。

 

 

最近、トレイルランニングにはまっていて、変態活動と称しては、山に一人ででかける。

息を切らしながら、ときにもがき苦しみながら走るので、ときおり、『普通』の人からは不思議がられる。

 

自分でも苦しいなぁと思いながら走ることは日常茶飯事で、それをも含めて楽しいと思っているから、

 

そう思う自分って変態だなぁと、そういう活動を変態活動と呼ぶことにした。

 

でも、僧侶の山上他界という言葉をきいて、まさに極楽浄土の世界で活動しているのだとしたら、そりゃ幸せなことじゃないかよ!

 

と変にその言葉が刺さった。

 

世はアウトドアブームで、登山にいそしむ人もずいぶん増えてきた。

そういった人たちは多かれ少なかれ、俗世間から離れた極楽浄土の世界を疑似体験しているのだと思う。

 

さくらも散り、今度は山々の木々が芽吹きはじめてきた。

いやこりゃ間違いなく極楽浄土の世界だ。

NHKからのこのツイートに私もとても感動をした。

 

 

 

 

しかし、一方で、『努力は必ず報われるものではない…』

 

という批判的ツイートも散見された。

 

池江選手がいうところの努力の報いは、オリンピックの出場であり、そして周囲が当然に期待するであろうオリンピックの金メダルということであろう。

 

努力が実を結び、そこに向けて着実に階段を上る池江選手は、その言葉通り『努力が必ず報われている』ことを実感しているに違いない。

 

一方、我々凡人が、努力を続けてもさて、オリンピックの金メダルを勝ち得るのか…ととわれれば、

『そりゃいくらなんでも無理だろ』

 

と世間の人が思うのもこれもまた事実だろう。

 

しかし、私自身は

『努力は必ず報われる』という言葉は、普遍的な言葉だと思っている。

 

それは、努力の結果というのが、また別の形でやってくるかもしれないという条件がつくのだが。

 

例えば私のようなおっさんに例をとろう。

今からオリンピックを目指して努力をするとする。

そこを目指すのは自由だし、人に迷惑をかけない限り、そのために練習を行うこと自体に誰も咎められることはない。

でも、これまでの世間の常識から考えて、また科学的に考えても、それが達成できるということは100%難しいであろう。

 

そう考えると、決してかなわない夢をおいかけた努力は、オリンピックに出場するという目標に対しては、まったく意味をなさないものであろう。

しかし、その努力の中で、さまざまな思考をし、さまざまな経験を積むはずだし、『何か』を得ているはずである。

 

その何かは、自分の人生においては絶対にプラスに働くものだ。

 

また、余命1週間しかなかったとしよう。

その1週間の中で努力をしても、身が滅んでしまえば、何も残らないというのも間違いだ。

家族や、友人、もしかしたら、まったく見ず知らずの人も、何らかの心理的影響が及ぼされるはずだ。

 

自分自身は、そこで得られなかったとしても、その努力は他の人の役にたつことになるかもしれない。

 

だから、努力をすることには普遍の価値があるのだ。