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ニシムラマサキのブログ 【株式会社 西村工務店 代表取締役】【 SASAYA・うづかの森 オーナー】

どうすれば地域を『素敵』に変えられるのか、誇るべき田舎になるのか、そんなことばかり考えています。

コロナの第4波を受け、各地で緊急事態宣言が発令、また延長の見通しになるなる中で、オリンピックの可否に対する議論が騒がしい。

 

私自身思うところを書きたいと思う。

 

私の意見は、開催すべしというものだ。

観客はいれてもいれなくてもどっちでもいい。

 

とにかく、実施をする。

これが私の意見だ。

 

去年の中止は、これまでに例のない出来事で、苦渋の決断だったと思う。

だけれど、2年目に突入した今となっては、この1年私たちはさまざまな知見を得た。

 

サッカーやプロ野球などの国内の大規模に人数を入れるものもやってきたし、国際マッチでさえ、無観客でやってきた。

そういう経験を経て、確かにスタジアムに人はいないけれど、テレビ画面の向こう側に多くの応援者がいることを選手は実感できたはずだ。

 

某、通信会社のCEOが、この状況にあってオリンピックをやる意味はあるのか!
と、ツイートで騒がしいけれど、僕はかえってこういいたい。

 

5Gなどの最新の通信設備を世界に発信してもらう機会ではないのか?と…。

 

トップアスリートは、走ったり、跳んだり、投げたり…スポーツを行うことが生業だ。

不要不急とはいうが、アスリートにとって、スポーツを実施することは、生きることと同義だ。

 

延期、中止の議論でもっとも重要なことが抜けているように思う。

それは『今』という時間だ。

 

アスリートが2020年のオリンピックという一時にあわせて、すべての時間をそれにささげてきたはずだ。

これから成長段階にある人ならまだしも、もう競技を行う限界の年齢にきていたら、その瞬間をうしなった段階で、すべてを失うのだ。

 

時はもう二度とは戻らない。

 

オリンピックだけにとどまらず、最高の人数をスタジアムに入れ、最高の舞台を整えるという、これまでの延長線上にある最高の姿というものがあるだろう。

 

だから、その条件が整って、そういう舞台を用意してこそのオリンピックだ…という意見も、ごもっともな話である。

 

だけれど、日常を考えてみても、高校3年間や、大学4年間は、この一年が、コロナですべてが自粛だったから、もう一年延期して卒業単位をしてもらうのだという話には決してならないだろう。

 

それも、時はとまることがないという大前提があるからだ。

 

だから今できうる条件の中で最高のものをそろえる。

そういうことでも十分に納得しうるものになるはずだ。

 

また、多くの場面でリモート○○に以降してきた。

リモートワーク、リモートスタディ、リモート会議、

スポーツの世界でも、人が同じ場面を共有しなくても、仮想上の世界で戦うバーチャル大会も開催されてきた。

 

そういったことを経験し、リモートで行う○○というのが、むしろスタンダードなものになったものもある。

 

オリンピックが世界最高の舞台ならば、GAFAなどのテックジャイアントがそれぞれがもっている世界最高の技術を結集して、アスリートが同じ場面で競えるように、空気の温度や、濃度、気圧などおなじ空間を用意し、離れていても同じ条件で戦えるようにしたらいいではないか?

観客も、テレビでもネットでもあっても、とにかく最高の応援を、自分がいる場所からやっていったらいい。

 

全世界が心を一つにして、オリンピックをやりきる。

それが、この閉塞した世界を幸せに導くのだと思う。

 

 

最近、M&Aを支援する会社からの電話、郵送文書などが激しい。

 

だいたいが無視をしているのだけれど、銀行の方などにお聞きすると、それだけ今、企業の後継者問題が深刻になっていることがその理由らしい。

 

私の会社も10年後、あるいは20年後に、どう存続させるかとうことを、真剣に考えなくてはいけないけど、いまのところは、私は体調もよくまだまだ当分死ぬことはないだろうから、元気でいる限りは、まだ先送っていい問題だと思っている。

 

それとは別の話になるのだが、、私の周辺に限らず、日本のいたるところで、空き家が増えており、それらが適切に運用されていないということでいわゆる『空き家問題』となっていて、今後ますます状況は深刻化しそうだ。

 

これらは別の問題のようだけれど、別の視点でとらえてみると、これは結局のところ、どう資源を有効に活用するのか…という問題に行き着く。

 

これまで蓄えてきた無形、有形の資産が次に引き継がれなくなり無駄になってしまうこと…これがこの問題の本質である。

 

仮に、空き家も単なる借家で、息子、娘に引き継ぐ資産でなければ、別にこの問題が生じることもないし、それは企業とて同じである。

 

製造設備や、建物も、それが有効に使われれば価値あるものとして存在するが、それが引き継がれなければ、単なる物体の塊でしかなくなる…。

 

最近、勃興してきている、UBERや、AIRBNBなどのシェアリングエコノミーと呼ばれている新しいサービスなども、突き詰めれば、今存在する資源をどう有効に活用するかということだ。

 

UBERの本家本元は、移動サービスだけど、空いている車を利活用するという点、そしてAIRBNBは民泊サービスだけど、これもまた空いた部屋の有効利用という点での資源有効活用サービスともいえる。

 

こう考えていけば、モノをあまり増やさずして、それらを最大限に活用しているのかいないのかというのが、『課題』であり、またその『解決』策ということだ。

 

これまでは所有することが価値だった。

しかし、これからは、それらをどう使い倒すのかということが価値の有無を決める社会になる。

そうやって考えれば、もう少し違った解決策が見えてくるような気がする。

 

人口減少社会になれば、人の営みに必要なインフラは以前より、少なくて済む。

モノを増やさない前提で、活かしきること…これがこれからの社会の在り様だ。

 

私たちの事業の在り様も、その観点から考えると大きな転換点を迎えている。

これまでは『つくること』で価値を創造してきた。

 

しかし、先も述べたように、空き家である個人住宅にしろ、企業がもっている不動産や、それ以外の資産はちまたであふれかえっていて、もし、新たに何かを一つつくるのであれば、一つなくすくごとをルールにするぐらいにしなければいけない状況だ。

 

建築や土木の視点でいえば、実は新しくつくることのほうが今あるものを利活用することよりけっこう楽でもあったりする。

古い建物は、設備とか電気とか直接目に触れない部分で、使い始めると、突発的なトラブルをおこしたりする。

 

その点新しい建物は、そういうものが作る過程の中で明らかだから、トラブルはおきにくいものだ。

 

また日本という人間の国民性として新しいもの好きということもあって、あるものを活かすという概念はそう大きくは育てられていないようにも思う。

 

日本においては人口が減少していくことはかねてから言われているように明らかであり、人口の数に対してこれからますますさまざまなモノが適正な量を越えていくであろう。

 

すべてのものがずっとありつづけなければならないと思っているわけではないが、価値あるものはしっかりと次に生かし切る社会にはしていかなくてはいけないように思う。

最近、ニュースでしきりに半導体問題が取りざたされている。

 

 

そんな記事を目にしつつ、こんなことを感じた。

 

先般、選挙があったが、その期間中に町じゅうを走り回って感じたのが、耕作放棄地が増えてきているということだった。

これまでも耕作放棄地はあった。特に私が住んでいるハチ北のように、急峻な場所では小さな棚田が多く、そういう場所での耕作放棄地は広がっていたのだが、ここにきて、地元でも一等地、つまり、まとまった広い田んぼがあって、明らかに耕作しやすそうな場所でさえも耕作放棄地が広がってきていることを強く感じた。

 

特にそういう場所は、人目にもつきやすい場所でもあるので、なおさらよく目立つ。

 

あと5年、あと10年たつといったいこの町の姿はどうなっていくのだろう…。

 

そんなマチの姿が、半導体のニュースに重なったのだ。

 

半導体は、産業のコメと呼ばれているようだが、半導体が入手できなければ、車もスマホも、動かせないらしく、それが動かなければ単なる物体の塊でしかなく、機能する価値あるモノにならない。

 

半導体が不足している一因として、台湾などに製造拠点が集約化され、日本での製造拠点が減ってきていること、日本の製造拠点も、工場の火災などに見舞われて、製造ができなくなってしまったことがあるようだ。

 

特に国内では価格競争に立ちいかなくなり、製造拠点を手離してしまったということだが、いずれそれはコメの問題と同様のシナリオになるのではないかと思ったりもする。

 

私は、自分が米づくりに直接かかわるようになって二年目を迎える。

 

私の家はもともとが百姓だ。しかし父が工務店を経営するようになり、我が家は、しばらく農業からは遠ざかっていた。

私が、会社を手伝うようになった20年前ぐらいから、父はまた農業に精を出すようになった。

 

私は、会社経営最優先でやっていて、父がやりはじめた農業にもほとんど関わることなくきていたのだが、10年ほど前に、うづかの森という宿泊施設をやるようになって、農業体験を絡め、会社の中に農業部門をつくり、宿泊施設のスタッフに米づくりも任せるようになった。

 

その期間も私はあくまで、経営者という立場で、自分で作業はしてこなかった。

 

しかし、3年ほど前、任せていた社員が辞めてしまった。

いよいよ自分がしなくてはいけなくなり、今は一反少々の田んぼを手掛けている。

何分農業に関しては素人で、いまだ自信をもって農業をやっているとはいいがたい。

 

自分が直接汗を出すようになって、農業をとりまく問題というのが、よく目にみえるようになってきた。

一言で言うと、米をつくるのは本当に大変だということだ。

 

多くのところは兼業農家だ。

普段の仕事があり、休みの日などを利用して農作業に精を出すわけだから、働き方改革などといって休日が増えていても、実際に、体を休めている人など農業に関わっている人にはいないだろう。

 

また、手作業で米を作る人はほぼいない。機械を使ってやっているのだが、農機具の維持や、燃料費、肥料や苗代など、さまざまな経費を積み上げていくと、市場に出回っている米を買うほうが、よっぽど経済的には有利だという話になる。

 

だから、耕作放棄地が広がっていく現状も、自分自身の体験と重なり、その実情は痛いほどわかる。

多くの人が耕作をやめていくのは、経済という中に組み込まれた農業では価値を感じないからだ。

 

だが、そうやって自らが米をつくることを手離した先が果たして安泰なのかというと決してそうではないだろう。

 

今はコロナ禍の真っただ中だが、数年前に、誰がこんな経済的に困窮するような状況になると想像できただろうか?
これまで過去数十年は食うことに関してはそれほど大きな問題になったことはない。いや、以前凶作だった年に、タイ米を輸入したことがあったことを思い出すが、それも食料が壊滅的になったというわけではなかった。

 

米をつくることを手離していった人たちも、その根底には、食料を手にすることはできる『だろう』という大前提がある。

食料が手に入らない状況を迎えるということなど想像もできないはずだ。

 

しかし、過去何十年食べることに安泰だからといって、今後も同様ではないことを、今のコロナ禍でズタズタになった経済に直面し、私たちは学んだはずだ。何がおこるかわからないということを今私たちは身をもって体験しているわけだから、どうやったら、食料が手元に届くのかという、かなり基本的なことをしっかりと担保する必要があるような気がするのだ。

 

耕作放棄地がひろがるということは、自らが食料を生産し、手にする機会を放棄していることに他ならない。

 

食料を確保し、自給するということにもっと大真面目にならなければならないような気がしてならない。

私自身が米づくりを語る程遠い、半人前の百姓であるということを承知のうえだが…

今しっかりと農作業に精をだしていただいているベテランの農家の先輩たちに、リスペクトの念をもって、そのように感じる今日この頃だ。

香美町町長選挙、香美町議会議員選挙が終わった。

 

私が支援している候補者も当選は果たしたものの、結果はあまり思わしくなかった。

コロナ禍での選挙ということもあり、人との接触を避けながらどうPRできるのか…

 

そんなことを考え、さまざまな策を講じてきた。

選挙対策用だとの批判も承知しつつ、youtubeなどの動画も作ってみた。(僕ではなく僕のチームガだけど…)

 

自分たちもそれで爆発的な効果があるとは思ってはいなかったけれど、政策をできるだけ理解してもらおう…そのことには注力してきたつもりだ。

 

ただいわゆる、選挙事務所に動員したり、電話作戦を講じたり…という従来型のことはやらなかった。

 

何を支持し、あるいは支持されずに票として現れたのか…実はよくわからない。

 

だけれど、近所、知人、友人を総動員する選挙は、この田舎においては、まだまだ健在であり…

いや今なお最も主流な形なのかもしれない。

 

本当は少しでも政策を訴えそこに共感してもらえる政治になるべきだと思う。

 

しかし、とにかく政治家は、選挙に勝ちスタートラインに立たなければ、仕事はさせてもらえない。

公職選挙法に抵触しなければ、どんな方法をもってしても勝たねばならない。

 

そう言う意味では、まだまだ選挙に対する甘さがあったのかもしれない。


候補者が自分の力不足で…

としきりにおっしゃっておられた。


力不足は、支えていた我々もそうだった。

どっちのたから不足かということはさして問題ではない。


結果を冷静に受け止め、次に同じ轍を踏まないこと


ただそれだけだ。



 

政策の話をする。

 

先般選挙活動の中でも、よく耳にした言葉は『医療の充実』ということだった。

 

まあ一理ある。県下でも高齢化率の上位のまちなのだから、高齢者の切迫した状況に、ズトンとダイレクトに響く言葉だ。

 

しかし、私自身はどうもあの言葉が気に食わない。

医療を軽視したいわけではない。しかし、大事なのは、みんなが日々健やかに暮らし、医療費に金を使わないことだ。

 

そのためには、努力が必要だ。

適切な食事をとり、しっかりと睡眠をとる。飲酒や喫煙はほどほどにする。

 

そうった基本的な生活に加え、体を動かしたり、サプリメントを摂取したり、また運動後には、ストレッチやマッサージなどをして体を十分にほぐすことも必要だ。

 

そうやって手にいれた健康的な生活は、病気にかかって治すのに必要なエネルギーよりも何倍も前向きだ。

 

話は変わるが、私の父が病に伏したのは、8年ほど前にさかのぼる。

高所から転落し、骨盤を骨折した。

 

それから入院生活となり、リハビリに励んでいたところ、脳梗塞を発症し、そこから半身が言うことを聞かなくなって、みるみる体の機能が衰えていった。

車いすの生活になり、今は母親が四六時中介護にあたっている。

 

ときおり、体調を崩し、病院に入院することもしばしばだ。

 

その8年間で使った医療費、介護費は莫大だ。

何より、その8年で失った時間は甚大だ。

 

祖父は30年ぐらい前に78歳でなくなったが、終期は介護が必要な状況であった。

おそらく、西村家のDNAというのは、あまり長寿に耐えられないものなのかもしれない。

 

そう思うと、今、48歳だが30年後に備え、健康を維持あるいは発展させるための努力は怠ってはいけない…と思う。

 

今、私はトレイルランにはまっていて、週に3~4日ぐらいは必ず運動をするようにしている。

大会で完走を目指そう、もっと順位をあげようそういう意識で練習に取り組んでいるので、感覚的には健康を維持しようというものではないが、結果として健康の増進には貢献している。

 

この春、ずっと目指していた大会があり、それにむけて昨秋ぐらいから、相当自分を追い込んで練習に励んできた。

時間を費やし、またそのメインの大会に向けて、小さな大会にも出場するなどして、お金も使ってきた。

 

先日、久しぶりに練習を兼ねて地元鉢伏山に登った。

 

 

自己ベストだった。

 

これから練習を積めば、まだまだタイムは縮まると思う。

今は体調もすこぶるよく、これはひとえに取り組んできた成果だ。

 

30年後、40年後、健康な生活を手にいれている保証はどこにもないが、少なくとも何もしないことに比べるとはるかにポジティブに生きている。

 

 

政策の話に戻そう。

 

マチが病気の人のために使うお金を、もっと人が健康的に生きるインセンティブのために使わったらどうだろう。

 

香美町は、先般、マイナンバーカード普及のために、それを作ってくれた人には5,000円の商品券を出すという政策を行った。

そうしたところ、かなりの人がマイナンバーを作ったそうだ。

 

人は、インセンティブが動機づけになる。

であるならば、健康を維持した人、あるいは向上した人、さらには、そのために努力を惜しまない人に対して、商品券とかそういう飴玉を用意してもいいのではないだろうか?

 

運動をすることによって、生活習慣病を予防し、健康が維持できることは自明の理である。

町民が健康を意識し、ポジティブに生きることにコミットしているマチは魅力的だ。

 

マチがそういうことにお金を使ったら、それは生きたお金にならないだろうか?