半導体問題と米づくり | ニシムラマサキのブログ 【株式会社 西村工務店 代表取締役】【 SASAYA・うづかの森 オーナー】

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どうすれば地域を『素敵』に変えられるのか、誇るべき田舎になるのか、そんなことばかり考えています。

最近、ニュースでしきりに半導体問題が取りざたされている。

 

 

そんな記事を目にしつつ、こんなことを感じた。

 

先般、選挙があったが、その期間中に町じゅうを走り回って感じたのが、耕作放棄地が増えてきているということだった。

これまでも耕作放棄地はあった。特に私が住んでいるハチ北のように、急峻な場所では小さな棚田が多く、そういう場所での耕作放棄地は広がっていたのだが、ここにきて、地元でも一等地、つまり、まとまった広い田んぼがあって、明らかに耕作しやすそうな場所でさえも耕作放棄地が広がってきていることを強く感じた。

 

特にそういう場所は、人目にもつきやすい場所でもあるので、なおさらよく目立つ。

 

あと5年、あと10年たつといったいこの町の姿はどうなっていくのだろう…。

 

そんなマチの姿が、半導体のニュースに重なったのだ。

 

半導体は、産業のコメと呼ばれているようだが、半導体が入手できなければ、車もスマホも、動かせないらしく、それが動かなければ単なる物体の塊でしかなく、機能する価値あるモノにならない。

 

半導体が不足している一因として、台湾などに製造拠点が集約化され、日本での製造拠点が減ってきていること、日本の製造拠点も、工場の火災などに見舞われて、製造ができなくなってしまったことがあるようだ。

 

特に国内では価格競争に立ちいかなくなり、製造拠点を手離してしまったということだが、いずれそれはコメの問題と同様のシナリオになるのではないかと思ったりもする。

 

私は、自分が米づくりに直接かかわるようになって二年目を迎える。

 

私の家はもともとが百姓だ。しかし父が工務店を経営するようになり、我が家は、しばらく農業からは遠ざかっていた。

私が、会社を手伝うようになった20年前ぐらいから、父はまた農業に精を出すようになった。

 

私は、会社経営最優先でやっていて、父がやりはじめた農業にもほとんど関わることなくきていたのだが、10年ほど前に、うづかの森という宿泊施設をやるようになって、農業体験を絡め、会社の中に農業部門をつくり、宿泊施設のスタッフに米づくりも任せるようになった。

 

その期間も私はあくまで、経営者という立場で、自分で作業はしてこなかった。

 

しかし、3年ほど前、任せていた社員が辞めてしまった。

いよいよ自分がしなくてはいけなくなり、今は一反少々の田んぼを手掛けている。

何分農業に関しては素人で、いまだ自信をもって農業をやっているとはいいがたい。

 

自分が直接汗を出すようになって、農業をとりまく問題というのが、よく目にみえるようになってきた。

一言で言うと、米をつくるのは本当に大変だということだ。

 

多くのところは兼業農家だ。

普段の仕事があり、休みの日などを利用して農作業に精を出すわけだから、働き方改革などといって休日が増えていても、実際に、体を休めている人など農業に関わっている人にはいないだろう。

 

また、手作業で米を作る人はほぼいない。機械を使ってやっているのだが、農機具の維持や、燃料費、肥料や苗代など、さまざまな経費を積み上げていくと、市場に出回っている米を買うほうが、よっぽど経済的には有利だという話になる。

 

だから、耕作放棄地が広がっていく現状も、自分自身の体験と重なり、その実情は痛いほどわかる。

多くの人が耕作をやめていくのは、経済という中に組み込まれた農業では価値を感じないからだ。

 

だが、そうやって自らが米をつくることを手離した先が果たして安泰なのかというと決してそうではないだろう。

 

今はコロナ禍の真っただ中だが、数年前に、誰がこんな経済的に困窮するような状況になると想像できただろうか?
これまで過去数十年は食うことに関してはそれほど大きな問題になったことはない。いや、以前凶作だった年に、タイ米を輸入したことがあったことを思い出すが、それも食料が壊滅的になったというわけではなかった。

 

米をつくることを手離していった人たちも、その根底には、食料を手にすることはできる『だろう』という大前提がある。

食料が手に入らない状況を迎えるということなど想像もできないはずだ。

 

しかし、過去何十年食べることに安泰だからといって、今後も同様ではないことを、今のコロナ禍でズタズタになった経済に直面し、私たちは学んだはずだ。何がおこるかわからないということを今私たちは身をもって体験しているわけだから、どうやったら、食料が手元に届くのかという、かなり基本的なことをしっかりと担保する必要があるような気がするのだ。

 

耕作放棄地がひろがるということは、自らが食料を生産し、手にする機会を放棄していることに他ならない。

 

食料を確保し、自給するということにもっと大真面目にならなければならないような気がしてならない。

私自身が米づくりを語る程遠い、半人前の百姓であるということを承知のうえだが…

今しっかりと農作業に精をだしていただいているベテランの農家の先輩たちに、リスペクトの念をもって、そのように感じる今日この頃だ。