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ニシムラマサキのブログ 【株式会社 西村工務店 代表取締役】【 SASAYA・うづかの森 オーナー】

どうすれば地域を『素敵』に変えられるのか、誇るべき田舎になるのか、そんなことばかり考えています。

今日から新年度…

多くの組織で新卒者を迎え入れての事業がスタートをするところも多いだろう。

 

うちの会社は、5月からが新会計年度なので、ラストスパートといったところだ。

 

さて、日経新聞によると、今春卒業した学生が就職先を決めた理由として

 

将来性、雰囲気、給与、規模といったものを上回り

『社会貢献度の高さ』

がはじめてトップにたったのだという。

 

あながち合点も行く。

これまで常に就職人気ランキングの上位にあがっていたJAL、ANA、JTBといった企業群たちは、コロナウイルス禍の中で業績が低迷し、かつての華やかさを感じれるようなものではなくなってしまった。

 

学生自身もそこは機敏に感じ取り、カッコよさでは、仕事はもう選べない…そんなことを身にしみて理解したであろうからだ。

 

よくよく考えてみれば、どんな会社にあっても、自らが提供しているモノやサービスで世のためにならないものはない。

だから、どんな会社も社会になんらかの形で貢献している。

ただ、そこには高い低いの差というのは必ずあり、その会社がどんな思いでそのサービスや製品にむきあっているかという本気度はさまざまであり、そこが問われているということだと思う。

 

モノやサービスの対価として、金銭を授受し、それが従業員の給与や、会社の利益として蓄積をされていく。

しかし、単に儲けたいだけなのか、儲けた先、あるいは儲けることにどんな意義があるのか、そこに学生は機敏に察知し、取捨選択をしてくということ。

 

会社経営者である私の立場からすると、四方八方から槍を突き付けられている状況のようにも思う。

 

今の若者は東日本大震災、新型コロナウイルスという未曽有の難局を潜り抜けた相当にたくましい人たちだ。

 

そういった若者がこれから世に解き放たれ、そして社会を形成していき、世の主流になっていく。先輩ヅラした世のおっさん、おばさんたちは、彼らの厳しいまなざしの中で、生き方がより問われる社会となっていくであろう。

 

新年度スタート

気持ちを新たに、おっさんもがんばっていこう。

先日まで、東日本大震災10年に関するさまざまなトピックスがあちこちで飛び交っていて、ボランティアの話題も相当あった。

 
私もわずかではあるが、ボランティア活動に携わらせていただいき、そのときの出来事がいろいろと頭をめぐっていた。
 
それと同時に、『ボランティア』とは一体何なのかとふと疑問が沸きあがってきた。
 
ボランティアの定義について、以下のネットの記事を転載する。
 
"ボランティア"の語源は、ラテン語の"voluntus"や"Voluntarius"だと言われています。
その意味は、「自由意志・自ら進んでやること」。
"ボランティア"とは、一般に「自発的な意志に基づいて 人や社会に貢献すること」といわれており、次のような原則があります。
    自発性    … 自由な意志で行なうこと
    無償性    … 利益を求めないこと
    社会性    … 公平に相手を尊重できること
    創造性    … 必要に応じて工夫できること
 
 
無償性とある。
本当に私は利益を求めなかったのか…というとうそだ。
 
これはあくまで私の場合なのだが、やはり私は何かを求めていたと思う。それが明示される場合とそうでない場合もあるのだけれど…。
その場面で何かを期待していたということはなかったけれど、私の場合、結果として多くの人と知り合い、自分の人生での貴重な経験を得ることができた。
 
もし、何の見返りも得られなかったとしたら、虚しさみたいなものしか残らなかったと思う。
 
それ以上に大事なことは自分ではよいことをしたと思っていても、相手が喜んでくれたのかどうかということだ。
そこのところが抜けおちてしまえば、そもそもボランティアとしてもやる意味がない。
 
ボランティア活動が阪神大震災、東日本大震災以降、日本にはかなり根付いた。
しかし、大事なことはやはり相手のためになっていて、なおかつ自分自身にもメリットがあるようにというより、そういう経験値をメリットとしてとらえるようにしていくことだと思う。
 
 

人にもよるのかもしれないけど、この田舎で生きていくためには、会社とか、家族とか以外の人と会議と称する機会が多々ある。

 

これまでは当然のことながら、リアルな会議しかなかったが、まだ活用するようになって、1年ぐらいしかたたないと思うが、ZOOMなどのオンラインミーティングが使えるようになってから、その便利さに味をしめて、そういった会議に出るたびに、オンラインでやりましょう、オンラインでやりましょうとバカの一つ覚えみたいに言いまくっている。

 

そう言っている責任上、出席者に、使い方を説明したり、オンラインミーティングの各種のセッティングを行うのはけっこうめんどくさい。

だけれど、これまで、自分が会議に参加するために、移動を伴って浪費していた時間に比べると全然ましなので、もうこれは一つの文化になるまでやり続けなければならないと思ってやっている。

 

私が住んでいるのは、スキー場のふもと。つまりは山奥のどん詰まりである。

だから、地元のムラの会議を除けば、車で少なくとも10分は移動しなくては会議場所に行けないのが通例だ。

しかも、それは単に移動時間の話であって、車を止め、会場に入り階段をあがり…なんてことをやっていると、それが15分20分と加算されていく。

 

それが、往復を入れれば、あっという間に30分はその時間をとられているということはザラだ。

30分と言えばそれはもうかなりの時間で、その間にできることはたくさんありすぎるわけで、もうこの失うはずだった時間が取り戻せてきているというのは、もうエクセレント!としか言いようがない。

 

そして、実はオンラインの会議を行うようになってさらに重要なことに気づく。

それは、この会議は本質的に重要なのかどうかということだ。

 

会議においてもっとも重要なことは、人と人が意見を交換し、そこである種の価値をつくることにある。

特に異なる考えをもちよってぶつけあって、きづかなかったことにきづいたり、人のアイデアに重ねて、よりいいものを生み出していくことこそが『会議』を行うことの本質だ。

 

単に伝達するだけなら、今ならメールやチャットで十分。つまりは一方的に相手に投げつけたり、受け取ったりするだけでいいのだ。

そこに時間を共有させている意味はまったくないし、まして、リアルに顔をあわせる意味もない。

 

よわい48を超え、時間の有限さを身に染みて思う。

自分の時間を少しでも取り戻し、意義ある人生にするために、オンラインオンラインと今日も呪文を唱えよる。

 

 

スポーツ選手の華麗なる技、洗練された動き…

そういうものに人は心揺り動かされる。

 

以前テレビでイチローのドキュメンタリーをやっていたことを思い出した。

自宅で過ごすシーンの中に、リビングルームで何度も何度も素振りを繰り返していた。

 

彼のゲーム中でのバットさばきは洗練された動きそのものだ。

神の領域に近い。

 

しかし、それは素振りの数に比例していたのだ。

 

世の中にスマートに見えることはたくさんあるが、実のところはそんなにスマートではない。

 

泥臭く、ひたすらに繰り返す…。

その中に一本の道筋が見える。

 

解を見つけるというものはものなのだろう。

今年は、うちの町は選挙イヤーである。

 

任期満了に伴い、町長選挙、議会議員選挙両方が実施される。

 

私は、何の因果か、選挙活動にどっぷりはまるようになってしまい、国政、県政、町政それぞれの選挙に関わってきた。

 

政治的な発言もよくするほうだと思うし、まちづくりに関するさまざまな組織にも所属し、さまざまなところで発言もさせていただいた。

 

 

そんな私の言動を見て、多くの方が

 

『議員になったらどうだ』

さらには、

『町長に出たらどうだ』

との声をいただく。

 

そうやって声をかけていただくことは大変光栄だ。たとえ冗談であってもそのように言っていただけるということは、私の言動に対する評価の一つの現れだと思っているからだ。

 

だけど、ここできっぱり言う。

私は、一切それらになるつもりはない。

 

ただ、こうも思う。

政治とは政治家がやることだと世間は思っているのだろうということ。

そこにそもそものまちづくりの過ちがあるような気がする。

私は、むしろ、これから先の社会では、いわゆる企業人が政治を形作る時代なのだとさえ思っている。

 

冷静に見つめてみてほしい。

今、社会に最も影響があるのは誰か…。

 

先日アメリカの大統領が、トランプ氏から、バイデン氏に代わった。

共和党の大統領から民主党の大統領に代わり、政治的判断においては、アメリカも大きな変化がおきることは間違いないだろう。

 

しかし、今社会に影響力があるのは、いわゆるGAFAM(google、apple、facebook、amazon、microsoft)であり、テスラのようなテクノロジー企業だ。

 

これらの企業たちは、国境さえも簡単に飛び越え、今の社会の在り様を形成してきた。

 

今、盛んに行政のデジタル化が言われている。

押印を廃止し、テレワークを実施するという行動の変革は、まさにこういったテクノロジーのおかげであり、おそらく地方行政の在り様もこれから大きく変わっていく。

 

行政の変革も、テクノロジー企業がさまざまな便益を生み出した結果なのだ。

 

もう一つ、狭義の政治というのは、議会で法令や条例をつくったり、国や自治体の予算や決算を行ったりするものを言うが、広義には、議員や首長だけが行うのではなく、国民、あるいは住民自らの生活の営みそのものが政治ということだ。。

 

例えば、普段出すゴミの置き場に対してのルールを定めたり、その運用方法を話し合ったりすることも政治『的』な活動の一つだ。

住民通しがお互いに話し合ってモノゴトを決め、そしてそれに従い行動するのに、いちいち政治家が関与はしていない。

 

大きなものごとを決めていくことに政治が意思決定をすることは大いにありうるが、さりとて、政治ですべてが決まるということではない。

私は、政治家であろうがなかろうが、町や国家をよくするために考え、行動することは当然のこととして考えているし、むしろそういう住民サイドから政治『家』に押し広げていくプレイヤーも必要なのだ。

 

だから、私は住民としてのプレイヤーにこだわりたいし、何より私は小さいながらも会社を経営し、それを育てていく責任がある。

そしてそのことを通じて、社会に広く貢献するのが私の使命だと思っている。

 

前回議会においては、定数になったため、選挙はなかったが、今年はどうやらありそうだとのうわさを聞いている。

自分は、あくまでも住民、一人のプレイヤーとして、行く末を見守りたいと思う。