ジャズ
何かをしながら聴けるところが一番の魅力です。
先日は、幼馴染がニュースの番組でゲスト出演をしていて驚きました。
冬、雪が降ってもパンツギリギリのラインの短パンを
穿いていたイメージが強い人です・・・。
イマドキの子供では見ない格好ですね。
私が子供の頃は、冬だというのに半袖の子もいたものでした。
鼻水垂らしてガビガビになっている子供も最近見ないですね。
さて、
ラジオで「この曲は誰が歌っているのか」というクイズになっていた曲を
youtubeから貼り付けます。
既に画面上に正解が出てしまっていますが・・・。
※携帯からアクセスの方はごめんなさい。恐らく聴けません。
Doris Dayの曲ですが、彼女が歌っているのを聴いて真似したのでしょう。
英語の読み書きができなかったのに、ここまで覚えて歌えるなんて・・・。
絶対音感の域を凌駕しています。
少しの発音のミスなんて取るに足りない問題です。
柔らかく女性らしい声色と抑揚の付け方が素敵で、Doris Dayより好きかも。
Doris DayのVER.
DAWN
< ある日、ある時間、ある建物の屋上にて >
夜でもない朝でもない、ある時間帯。
澄んだ空気、静かな道路。
夜の帳は、光に押され明けゆく。
徐々に徐々に陽光が差し込む。
夜から朝へ止まることなく刻々と表情を変化させる空。
重い空は白み、青を取り戻し始める。
蒼、碧、藍、群青、水色・・・。
幾つもの青によるグラデーションが現れる。
街も色を取り戻し始める。
色が目を侵食してゆく。
光と闇、寒色と暖色が混じり合う、その残像に夢心地。
まだいくつか星が残り、街明かりも名残惜しく、
いつが夜と朝の境目なのか分からないまま、
街が動き出してしまう、そんな少し前の雰囲気が好き。
そして、ある瞬間、地上の営みと宇宙の流れの交わりを感じる。
自己を意識しない自分が風景と協調、調和し、
流れに身を任せると、
何でもないいつもの光景が心に残る情景となる。
そのときの自分だけが見て、感じている空間が特殊な体験を提供してくれる。
外側に存在する事象から解放され、
俗世に縛られた体という器から本当の自分が抜け出て、
凝り固まった脳が溶けだす。
フロー、ピーク・エクスペリエンスのように境界を失う。
自分が溶けてしまう。
溶けて全体と一体になり、
全体の一部となる。
そんな至高の世界に触れたような感覚をまた味わいたくて。
出展作品 2 ビタミンカラー
バラはピンクが多かったので、黄色やオレンジ色が作りたくなって制作してみました。
花と果物は去年作ったものです。
アレンジが思い浮かばず放置しておりましたが、
ショー初日の帰宅後に閃いて、完成しました。
ビタミンカラーでちょっと元気なテイスト。
オレンジやレモンなどの柑橘系は、どうやったら出来るのか分かりませんでしたが、
なんとなく作ってみたら思いのほか上手く出来ました。
包丁でスパッと切った綺麗な切り口のオレンジではなくて、
切れない包丁で切った感じです。
その方が質感がでるような気がしました。
また果物にチャレンジしてみようと思います。
器は、以前作り置きしていた真鍮の器を見つけてそれに決定。
タイルと器の相性は良いと思います。
オレンジの瑞々しさを引き立てられるように、
タイルはボソボソとした感じにしてみました。
特に、『木馬』など、黒の配色に拘ったものは“習作”扱いにして残そうと思っています。
今回の作品は、家族に見せたところ、果物が効いていて好評でした。
父は、展覧会やデパートなどで巨匠の絵を扱っていたり、
皇室の地方公務の際、ご宿泊される旅館の部屋に飾る絵などを
選んでいたりしたので、褒められると結構自信になるのですが、
父が私のレベルにおいて「良い」と言ったものは売れず、
「う~ん」と感想を言わなかったりしたものは直ぐに売れました・・・。
渋いテイストは女性のウケがイマイチのようです。課題も多く残っているので、どう乗り越えられるか考えないとなりません。
私は単純な性格なので、浅はかだったとちょっと意気消沈。
どこから手をつけたら良いのやら・・・。
取り敢えず、
これは手元にあるので、少しグリーンを増やしたり手直ししようかと思っています。
ショーを終えて(超長文)1
まずは、検索をかけて辿り着いてしまった方、しょうもないブログですみません。
無事に、ショーが終わりました。
二年前に掲載されていた新聞の記事でこのショーを知り、
実際に見て、自分も作ってみたくなり試行錯誤で始めたミニチュア。
一つ、目標が達成できました。
見る側から見せる側という非常に貴重な経験をさせていただき、
感謝しております。
ブログを見て遠方からお立ち寄りくださった方(数名いらっしゃいました)、
ショーで初めてお会いして私の作品に共感してくださった方、
作家さん、その他多くの方から愛情の篭ったご支援をいただき、
感激しました。
父母、弟、祖母との絆も深まりました。
影で嬉し泣きをしました。。。
実は、三日間に亘り、目の疲れで一睡もできない上
絵具や薬品のアレルギーで顔や体に蕁麻疹とタダレが出るわでボロボロの状態でした。
肝心の制作や調整も間に合わず、協会の決まりごとが書かれた文章も
きちんと読まず、ご迷惑をお掛けしました。
とても反省しております。
今回の経験で、課題が沢山出来ました。
技術がなさ過ぎますし、ちっぽけな自分に今はかなり悲観しておりますが、
強度の面も改善策が浮かんだので、少しずつ成長していければと思います。
もし、ご購入してくださった方で
破損してしまったということがありましたら、ご一報いただければ幸いです。
無料で直します。
値段を伏せたり売らないものが多かったのですが、
初日の売上には御の字です。
まさかの額でした。
実際売れた数は少ないものの、一つも売れないことを想定していたので、
非常に驚きました。
中には二つご購入してくださった方もいらっしゃって、涙が出るくらい嬉しかったです。
以下、今回のショーを終えての感想を書きます。
思い出したことを追加していきますが、2回に亘る更新で
超超長文になります・・・。
宜しければお付き合いください。
絵画の世界でもよくありますが、
感心と感動の違いを改めて知りました。
キャンバスに絵の具が乗っただけのものと扱い、無価値に思う人もいれば、
描かれた世界に共感したり、心を奪われて、
その感動を“大切な思い出の記念”、もしくは“自分の人生をより豊かにするもの”
と感じて大金を叩いて買おうとする人もいる。
芸術はゴミにも財宝にも化ける魔法のようなもの。
ミニチュアにもそれが当て嵌まる可能性があるのではないでしょうか。
ある人にとって、何百万、何千万円の価値があるものが、
道端に落ちていても拾わない人もいるのが
私は芸術だと思っています。
私が仕事の合間に何ヶ月もかけて一生懸命作った作品を
瞬き一回で、何の印象もなく過ぎ去る人もいる。
ゴミ以下の印象にすら残らないものにもなりうるし、
瞬き一回で好いてくれる人もいる。
私が作っていくものが
何十年かかっても一生かかっても、芸術に近付けば、
それ以上望むことはありません。
飽き性且つ怠惰な性格で技術もない私が
どこまで続けられるのか分からないのですが、
誰かが感動するものを制作できれば、どんなに私の心も豊かになるでしょう。
この世界では興味が全くないものや嫌いなものも
好みが変わり、好きになる可能性も秘めています。
例えが大き過ぎますが、
ピカソで言う『青の時代』の作品が好きな人もいれば、
理解できないような抽象的で本質を抽出したような画風の
『キュービズムの時代』の作品が好きな人もいますし、どれも嫌いな人もいます。
『青の時代』が好きだったのに、
数年後、数十年後に『キュービズムの時代』が好きになるかもしれません。
逆もあり得ます。
私はピカソが好きなわけではないですが、夢中になる可能性もあるのです。
非常に面白い世界だと思います。
改めて魅力を感じました。
(続きの“2”は更新済みです。そのままスクロールしてください。)
ショーを終えて(超長文)2
今回の出展で方向性が変わりました。
「作り物の世界を追求したいのかリアルを追求したいのか、
はっきりした方が良い」
審査の際のお言葉は真摯に受け止めますが、私は作りものもリアルもどちらも好きです。
余剰を残し(余白の美)、鑑賞者に参加をさせる日本文化特有の参加型の作品も好きですが、
欧米的な、はっきりくっきりの完璧で余白がなく、
これでもかというくらいの壮絶な技巧が詰まった作品、完璧を思わせる作品、
鑑賞者に参加させない迫力で圧倒させる作品も両方好きなのです。
それでも、どちらかというと欧米人が否定してしまうような日本的な空間美や曖昧さ、
不完全さの方が好きです。
人間でも何でも、受け取る側によって感じ方が変わるような
多面性多様性を持っている世界が好きです。
色々なものが入り混じった世界こそ私が目指したい世界なのかもしれません。
全てをリアルにしたら、それは私にとって偽物に感じます。
リアルなものと作りものなものの共存。
引き立て役のような粗雑なものがあるからこそ、
活きるものがあると思います。
それと、数名に「これは何の種類のバラですか」と聞かれましたが、
何の種類で良いのです。
もっと言うと、シャクヤクに見えても
ラナンキュラスに見えても今は何でも良いと思っています。
ただ、作風は純粋さを連想させるものも、陰鬱を連想させるものも
両方作りたいです。
根底には、“せつなさ”が欲しいです。
模型としてのミニチュアも大好きで非常に惹かれますが、
私には技術がなく、たとえ教わったとしてもその技術は絶対極められないと
思うのでその方向は進めないです
(極めるより、色々かじった方が良いと思っています)。
それに、模型はある程度まで値段が高くなってもそれ以上にはならないけれど、
芸術は無限大に広がります。
私にはまだ(というか一生!?)芸術的な作品は作れませんが、
欧米的なミニチュア(全てが完璧に思えるような作品)を
制作できる要素の方がありません。
進むなら、
情緒的で曖昧、価値観が多種多様な極めるという概念がない世界です。
殆どの欧米人には、受け入れられない世界だと思います。
私の作風は、全く欧米人には受け入れられないと自覚していますが、
それでも、日本文化が好きで日本の武具の研究をしている外国人の教授に
見せたら非常に気に入ってくれました。
勿論お世辞の可能性もありますが、お世辞も嫌いではないです。
今回の出展でも実感しましたが、
目を見れば、その言葉が心から発せられたのか、
自分の好みではないけれど何かに感心して発せられたのか、
全くそうは思っていないけれど、傷つけては申し訳ないという気持ちから
発せられたのか分かることが多いです。
根底に世間体や自分の評価があっても、
一生懸命になる気持ちが分かるからこそ相手への計らいが生まれますし、
努力は認めてくれているのです。
飾りだけの言葉だとしても嬉しく思いました。
逆に言葉がなくても、興味があるか否か感じ取ることも好きです。
興味があるのに、意地悪を言われたときには嬉しくなってしまいます。
話が反れましたが、
作風は人間性を反映しているものだと思います。
文章力がないので分かりにくいかとは思いますが、
前述したことを自分の性質や好みなどに当てはめます。
私は、尊敬の眼差しを向けられる人にも
世間ではアウトローとされる人にもどちらにも魅力を感じます。
アングラな世界にも交じりっけのない純粋な世界にもどちらも惹かれるものがあります。
魅力はどこにでも転がっています。
極端で全く異なる二つの意見どちらにもそれなりの説得力が
存在していることが多いです。
世の中は逆説で溢れています。
矛盾する異なる考えを自分の中に抱え込むことは可能です。
一見矛盾する考えを如何にして健全に統合できるか。
二律背反やゲシュタルト心理学の話になってしまいそうなので、
それは避けますが、
裁判の制度をとっても、
“責める側(検察)”と“守る側(弁護)”の両方がそれぞれ
はっきりと主張することによって、総合的な真実に迫ることができるという
発想があります。
ただ、私自身の考えや作風には白黒つける必要性が必ずしもなく、
むしろ付けないほうがよいことがあると思っています。
黒も白も好きですが、
私はグレーで両極端な人間で、それでバランスを保っています。
そのときそのとき
黒よりのグレーにも白に限りなく近いグレーにもなっていると思います。
ただ、私は黒にも白にもなれません。
なれないことの苦しみもありますが、それが嫌いではありません。
それは、自分が両者の橋渡しのような存在なのか、
それとも舵の取れない存在なのか、漂う存在なのか、何なのかは分かりません。
水のように、固体になったり液体になったり気体になったり、
状態変化する正体の定まらない存在なのかもしれません。
でも、水の成分が変わらないのと同じで、私の本質は変わりません。
影響は受けても染まりません。
おそらく、何にもないカテゴライズされない存在です。
私が作ったある作品は嫌いだけれど、ある作品は好き。
私の極一部が好かれた瞬間なのかもしれません。
全てが全て受容されることは有り得ないと思っています。
ただ一部にでも共感してくれる人、波長が合った人を大切にしたいです。
二言三言で終わる話を変な形に膨らませて、長々書いてしまいました。
必要以上のことを書きましたが、反感を買っても何でも良いのです。
反感や批評から学ぶべきものが多くありますし、
ブログでも制作でも全てが自己満足です。
それだけははっきりしています。
私は誰にも代わることができないし、
誰かの作品をそっくりそのまま作れないのと同じで、
誰も私にはなれないし、誰も私と全く同じ作品は作れないと思います。
それが個性です。
一人の人生を伝記として本にするのなら、
全ての本に一つとして同じものがないのが個性です。
皆、かけがいのない唯一無二の大切な大切な存在だと思います。
周りきれませんでしたが、ショーに出展された作家さんの全ての作品において、
私にはない要素があり、皆素晴らしいと思いました。
自己満足で、拙劣な文章を長々と失礼しました。
来年の出展はまだ悩んでいますが、制作は続けます。