「わたしは、確かに似ていると言いました。重力と蝋燭が消えるという現象についてです。そこがあなたには不満かもしれない」
「不満というわけでもないのですが、些細な違いがあるとしたら、その説明責任はあなたのほうにあるような気がするのです。これは、批判したいというわけではないですよ。どちらかというと、あなたの意見を私は正しいと思う。でも順番としてそういうものだろうと思うのです」
「わたしは似ているといいます。思考実験の形態の話です。しかしですよ、アインシュタインは似ているどころか同じであるというのです。何が、といえば、座標系を使った創作物語と現実が、です」
「ああそういえば、あれが現実そのものであるという主張なのでした」
「考えてみればそのほうがよほどひどいと思いませんか」
「それはそうなのですよねえ。しかし何と言うか、科学とは数理的に表現するものではないですか。だからどうしても座標という表し方にも正しさがあるような気がするのも事実です」
「ある程度のね、ある程度の正しさです。科学は時折その埒を超えて強く主張してしまう」
「例はありますか」
「四次元世界の存在がそうですね」
「それはオカルトだということがみんなの認識ではありませんか?」
「少なくとも相対論は四次元空間を要求します」
「そういえばそうでした。でも不思議ですね。ここまでの話ではあまり四次元の必然性はないような気もする。重力と座標の関係ですよね」
「空間が曲がるということは、四次元空間が必要ということです。一枚の紙を平坦な二次元世界と見做して、これをゆがませるとどうしても三次元の中で展開することになります。つまり重力は一つ余剰の次元を必要とします」
「そうですか。あれ、でもあなたは、ゆがんだ世界の住人はゆがみを感知できないと言ったのではないですか。ということは、二次元のままゆがみを展開できませんかね」
「確かに感知しません。しかしゆがみがあると言ってしまっている。重力はゆがみであるということは、理論上にせよ感知できるということを表します。この三次元世界にゆがみがあるのだとしたら、いずれにせよそれは四次元世界の中でしかゆがむことができないのですから、四次元世界は存在するというしかないのです」
「それならそれでよいような気もするけど……問題は何でしたっけ?」
「数理的な表現は、ある妥当性の内部に収まるならよいけれど、正しさの域を超えて不当に信じられてしまう例、ということでした」
「四次元がそうであると言いたいわけですか?」
「一次元も二次元も三次元も、そういう表現形態にすぎません。そこまでは、現実世界の中に縦横高さという要素に分けて対応を見つけることが可能です。しかし四次元の方向とは何か。縦横高さの全てに対して、もう一本余計な垂線を足すことはできない。ならばそんなものは存在しない」
「もう一本は時間という説もありますが」
「それは比喩ですね」
「私もそう思いますが、見えないけれど垂線である可能性はないですか」
「そう、だから正しさの域を超えた不当な正当化がそこで起きていると言いたいのです。縦横高さは、定規という物体で測ることのできる長さを持つ要素で、それぞれ互換性があります。この世界で、どの方向を縦と決めても、横と高さが設定できます。つまりこの三つは同じ要素です。けれど時間は明らかに違いますよね」
「まあそうです」
「だから四次元空間は、不当な、なんと言いますか、外挿だと思うのです」
「でもですよ、ここまでの話の流れからすると、一つの可能性として、重力が実際に空間のゆがみであるとしたら四次元空間は肯定されることになりますよね」
「今までいくつか出してきた例では納得ゆきませぬか」
「そんなことはないのですが、まだ抽象的な話にとどまっているという気もします。現実世界に座標は存在しないと言われると、まあその通りなのだろうとは思いますが」
「話の順番が逆だとわたしはずっと考えていました。つまり重力が空間のゆがみであるとすれば四次元が必要になるということ、これは順番がその通りであるとすれば経験論的な考え方としてわかります。でも四次元が存在するという考え方のほうが先にあって、そこに合わせた重力論が後でできてきたのです。歴史の順番としては、そうでした」