心と物質の乖離がある。それをつなぐための思考がいろいろあるが、結局は理論に頼る。つまり二元論ということがよく言われるが、実は物質と心と理論の三元論なのかもしれない。理論といってしまうと、もしかしたら心の方に収めたくなるかもしれない。しかし法則と数理論となると、物質の側にあると思いたくなる。理論で心と物質が架橋出来たら、あとは物質に寄せるか心に寄せるかという話になる。もちろん現代の多数は物質が基だと言うだろう。
前提として、さすがに三元論は理屈としてどうなのかという気はする。本当のところは一元論であるべきだ。現実問題として私たちはひとくくりの世界としての宇宙の中にいる。理論で心身が分かれるなら、理論がむしろ元凶であるというべきなのかもしれない。
トマス・ネーゲルが、コウモリの体験は人間には推測できない、それを知るのは自分がコウモリになってみるほかない、と言った時、それに寄せられた批判の大半はたとえ話として冷笑するか、音を映像としてとらえる体験をある記号に置き換え、演算によって問題を解決しようとするものであった。
なお、演算とはふつうに文章として書かれたものもさす。なぜなら数学とは特殊な形式を持つ文章以外のものではないからだ。直接的体験の特異性を論じた思考実験に対する反応は決まってこの二つである。そうした反論が意味をなさないというのは、ネーゲルの元の論文の言いたいことが、記号なり客観的知識なりに置き換えることの不可能なものが、直接体験にはあるということだからだ。「哲学的ゾンビ」とか「メアリーの部屋」とか、主張はいずれも同様の趣旨を持ち、反応もまた同様である。直接的な体験を記述に置き換えてしまえば、確かに他人にも理解可能になる。理解を再確認する方法も発生するに違いない。私はそのことに反対するわけではない。しかし体験をある記号で概念化した時点で失われるものがあるという主張に対して、記号同士の処理ですべてを済ませてしまう思考法が意味を持ちうると信じられるということが、私にはあまりよくわからない。しかしこの考え方が繰り返されるということは、質は情報化できたと信ずる人が多いということなのだろう。緑色を波長で表現したら、質は失われると私は思う。だがそれでも何も失われないとする人が多い。
ここにどうしても見解の一致しない部分がある。私はその意見を理解するし、一面の正しさはあるのだろうと思う。しかし納得はしないし、納得できるという心情がわからない。
論理学的世界、ひいては数学的世界は、ラッセルやクワインにとって、現実よりもはるかに広い世界を表象しているのだろう。近年では可能的世界やmereological sumsなどということが存在論での問題となっている。それが確かに実在として考えられるのだとすれば、私たちが単純に現実と信じているのはその一部分にすぎないと言ってもよいような気になる。
しかしこうした理屈による構築物が現実より大きな世界を構成すると考えるのは、幼稚なイメージというべきではなかろうか。それは、その理論の妥当性とは別の問題である。理論的構築物が無限大や永遠などという概念を扱い、また現実があまたの可能的世界の一つにすぎないとしても、それらの「世界の描像」はやはり現実よりは小さい。ラッセルやクワインの本を紐解くたびに、彼らが、このイメージの転倒のせいで語るべき順番を全く間違っているという印象を受ける。 論理学的な事実を述べておれば、それが言語についての、ひいては人間の思考や意識についての正確な記述になりえる。人間の思考を正しく記述すればすなわち世界についての正確な記述でありうる。二人とも経験主義的でありながら、書くことの中にそうした単純な思考が透けて見えるのはどうしたことだろうか。厄介なことに、世界を記述する最高の手段である物理学はまた極めて論理的に整備されたシステムであり、もし論理学が人の作ったものであるなら、そしてそれで人の心が表現できてしまうなら、世界は内側から外側まで一様に論理的構造で語りつくされるように思えるのである。その中で日常的世界のみが、あいまいで矛盾に満ちていることなど、とてもありそうにない。そういうことかもしれない。しかしもし実際にそうなっているのであれば、アドホックな理屈で解消せずに、受け入れるべきだと思うのである。もしかしたら日常的な世界の外にもあるはずの、矛盾やあいまいさの反映かもしれないではないか。