窓から見たら視界の優に下半分が葎に覆われていた。気絶するような衝撃を受けた。もしかしたら玄関周りはもっとひどいかもしれない。扉に、波が打ち寄せるように緑色が覆いかぶさっているかもしれない。表に出るのにも苦労しそうだ。ドアノブに絡んで回せなくなっているかもしれない。そんな意思をあいつらが持ちうるだろうか? わからない。あるいは……。

 そう心配しながら目が覚める。さいわい、それは悪夢だった。思わず寝間着の袖口で額を拭ってしまう。気持ちの悪さはあるが、汗は出ていない。年のせいで発汗作用が弱くなっている。それから少し体をひねってみる。かすかに痛い。手を使って体を時計の針のように回転させ、足をベッド横に出してようやく起き上がる。

 腰は、何をしたという覚えはないのに二日前に鈍い痛みを発した。姿勢を変えずに寝ている間に悪化したようで、一日だらだらと無駄にした。そして今朝はどうにかまともに動ける。寝ている間に痛みは亢進するが、台所に行って、白湯を作っている間には引いてきた。昼を過ぎるころにはよくなっているだろう。これもすべて年のせいと言ってしまってよいものか。薬は残り少ないので、なるべく使わない。出かけても、手に入るかどうか。いや、こういう気遣いも、結局はあまり意味がなくて、使おうとした時には効果が無くなっているのかもしれないが。

 色褪せたカーテンを開ける。悪夢の状況ほどではなかったが、庭の草が数日ですっかり伸びている。刈らないと、いずれ飲み込まれる。それを葎と呼ぶのが正確かどうかは知らない。かなり古い言葉だ。さびれた家屋にたかる植物群を指すらしい。草の名前をひとつひとつ覚えていられない。そもそもあっという間に新しい種が生まれてくるのだ。もう植物学者というものが存在しないし、もちろん分類学などと言うばかげた営為に時間を費やす気力を、人族はとっくに失っている。

 数年前だったが、管理者のいなくなった図書館に出かけた。植物の名前を知りたいと、妙な好奇心を起こしたのだった。自転車を使うか迷った末に徒歩で出かけたのだっけ。パンクが怖いのだ。修理用具はあるが、多分もう手に入らない。あるものだけで残りの人生を乗り切れるかどうか、いつも考えてしまう。しかし歩いているうちに、そもそも道が日々に悪くなるので、使えるうちに使う方がまだ合理的なのではないかと思えてくる。途中に錆びの出た一級河川の看板があるが、もともと二メートルもない川幅のところ、今は水のほとんどない湿地となっていて、その上を単葉の緑色が覆っている。短い橋が架かっているのだが、いずれは使えなくなるのだろう。自分の命よりは持つのだろうが、橋が傷み始めたら自転車も何もあったものではない。全ての日々の行為が残り時間と合理性の兼ね合いでいらぬ葛藤を引き起こすのだった。

 途中で数人の姿を見かけた。肩を落としていかにもとぼとぼと歩いている。こちらに気づく様子もない。憂鬱が大気を重くしている。

 図書館は最も早く放棄された施設のひとつだろう。外観はきれいなままに残っていた。両開き扉の取手には金属の心張棒が交ってある。最低限の自治的な秩序の証。外して、薄暗い館内に入る。もちろん誰もいない。電気系統は最初のうち通っていたというので、電源を試したが、電子書籍関連は立ち上がってくれなかった。汚れた木製ラックに紙の本はあった。空きが多い。持ち帰ってしまうのだ。専門書の類は比較的残っている。植物学、分類学の棚をあさり、適当に拾い読みする。ある程度見ていって、結局ろくにわからなかった。

来た時のままにして戻ろうと思ったが、二冊だけ持ち出した。立ったまま読み進めるのは難しいと感じたし、疲労も気になった。進化論の本を二冊。やはり自転車を使うべきだった。

 不思議が解き明かされる期待を持っていたわけではない。たとえ解き明かされていたとして、どうにかできるわけではない。自分の不安を確認しておきたいだけかもしれなかった。それでどうなるのだろう。死んでゆくことに対する諦念を強めておきたいのか?

 地球の生き物は新陳代謝が速まることで進化を遂げた。すべてのものみなそうである。あくまで平均だ。種ごとの違いは存在する。原子の生命は永遠が前提であっただろう。細胞分裂が基本だからだ。しかし個体の死を発見し、さらに世代交代を早めることでほかに打ち勝つ手段としてきた。

人もその大枠に沿って枝分かれしてきたはずだった。しかしある時特殊な変化を遂げた。それは平均寿命が延びていることだ。実は、これは種としてあり得ないはずだった。誰も気にも留めず、指摘する者もほとんどなかった。

 そして突然に変わってしまった。ここで今までになかった、まったく別種の進化が展開し始めたのかと思われた。しかし従来の斬新的な進化の概念とはかけ離れているように思われた。すると単純に、それとは別の、外的な要因があるのか。熱心なやり取りが世界中で展開されていたが、短期間に議論は収束していった。なぜなら、対策を考える暇もなく、驚くばかりの短期間で人類の活気が消滅していったからである。それにしても速度が異常である。たった半世紀で、ここまで生命力を失い、追い込まれてしまうとは。絶滅という強迫観念が無意識裡に埋め込まれたようだった。

 

まあ出だしのみ、文章の修練のつもりなので幼稚やもしれませぬ。