意識は物質で説明できると簡単に思われている節がある。しかし片方を理論に還元し、もう一方も理論に還元することで、通行可能という錯覚が生じている可能性が高いのではないだろうか。フッサールの語る通り、物質とは計量可能性に基づいた観念であるとして、その計量可能性への還元を物質への還元だと思い込んでしまうという錯覚だ。
意識を理解するうえで還元論を実現する方法として同一性が問題にされるとき、脳内の状態、たとえばC繊維の発火が痛みとして解釈されるということだ。しかしこのままでは実は同一であるという主張にはならない。意識が把握する限りの同一であるとは、全く別の物を同一であると無理にこじつけているにすぎない。ある状況において同一視できるということであって、もし二元論を排するつもりであるなら、包含関係が存在するということにとどまる。2+3は5に対する一つの表現である。1+4も5であるから、5の方が広い概念になる。これは先の「解釈」の文脈で言えば、私の日常的感覚に従うなら“C繊維の発火∈痛み”(痛みの一つの表現としてC繊維の発火がある)だが、哲学上では、またたいていの科学的解釈でも“痛み∈C繊維の発火”とすることが当たり前とされる。
私にはこの解釈はあまり根拠がないもののように思われる。人間の体験として痛みが根源的なのであるから、脳内のある状態はその一解釈に過ぎないということが自然な考え方であって、脳内の一状態がある意味では痛みと解釈し得るという感じ方は理解が逆転している。ただ、痛みというものは、ありうるとしたら現象論ということになろうが、学問として究められたものではない。どう展開してよいのか、さしあたって私にも見当つかない。
一方、脳内の物理的状態は、もちろん広範囲の理論に結びつけやすい。生物学としても、物理学としても、現代ならコンピュータ理論としても扱える。ただそれは世界に備わった特性かどうかは定かではなく、しかし人間の思考形式による階層わけであることははっきりしている。ここで言うのはすでに文章化された形式のことであって、カント的な意味合いでのカテゴリ分けではない。つまり“痛み∈C繊維の発火”というのは、そのような汎用性の高さの表現であって、存在論に転用できる見方ではない。
しかしその逆も言える。物理的出来事を意識に還元することはだれも望まない。ある対象を見るとは、一種の説明を与えることだ。つまりそれは特殊な説明的システムに取り入れることであって、対象の存在論的身分を消去することではない。還元論は、精巧な理論体系が、それよりは一段あいまいな、感覚に支えられた個別の事象を、同一性に頼った消去主義的な理屈によって塗りつぶす作業である、と理解できる。その意味では、意識が還元先になるということは、よほどの偏見を持たない限り、思いつかないことかもしれない。私も多分無謀であると言うだろう。心の中で正しいとは思っているが、納得してもらう自信がない。
けれど、もし存在論を持ち出すならこちらが優先されるべきだろう。問題はこの存在論が、隠し持った意図など持たないことを、なかなか理解されないということだ。意図というのは、説明可能性に関する形而上学のことなのだが。
小石は世界を理解する必要はない。滑らかに世界とつながっている。生き物は、世界の中でもがく必要があるので理解しようとする。目的を持つことと自己の存在の確認は、どちらが先かはよくわからないが、意志があるから自己が存在するものであるということは間違いがないだろう。つまり何かが存在するという認識は、世界の理解できなさである。
だが理解可能性に対する要求が存在論であることの理由であるなら、「完璧に」という形容句を取り去ることで、消去主義ではない還元論もありうるのではないか。私はそれに反対したいが、だからと言って、例えばもっとも典型的な成功例として挙げられる熱力学と統計力学の関係を完璧な理解ではないと言っていいのかどうか。これは通常では完成したシステムどうしでの還元であるから問題がないという形で解説される。しかしこの例では存在論を巻き込まないということが正しさの理由であるのかもしれない。すなわちどちらも唯物論の内部での記述法にすぎないという理解だ。あるいは関係を正確に記述する表現法が存在するとだけ言えばよいので、還元論はあくまで特殊な一つの形而上学を意味すると言えばよいのだろうか。
ある意味で還元論は単なる非難のための言葉でしかない。しかし心の問題においてこの非難の言葉が発せられるとき、人はその存在論的な含意に対して反応しているのだと思われる。答えは簡単だと思うがどうだろう。一つの現実的事象にたいし、複数の説明システムがある。どれが最も精緻かという問題があり、説明システムどうしでの包含関係は、あるいはあるかもしれない。しかし現実に対して余すところなく説明できるということはない。還元論はその二つについての勘違いなのではないか。
還元論とは大まかに言うなら、世界を多層的な構造と解釈し、ある上部の構造が下部構造の特性を十分に展開することで説明できてしまう、という考え方だ。この「構造」が説明のシステムと解されるなら、特段の問題はない。世界自体の持つ構造とされる時、存在論的な混乱が生ずる。上部構造が下部構造に対し、機能主義的な理屈によって解消されるとみなされるということは、最低でも理論的なつながりがあるとは信じられているわけだ。それが人間の能力を過信した、幾分ロマンティックな見方によって解消されるなら、むしろ根拠のない形而上学を持ち込むことになる。例えば上部構造(生態学)も下部構造(分子生物学)も生物学の範疇にあるから還元可能であるとすることは、漠然とした希望に過ぎない。もし二つの層をつなぐうまい理論があるのなら、ひとつながりの単一の層であり、その中で上部構造は局地的な現象であると言ってよいのかもしれない。適切な説明は、つなぐ二つの層を説明のシステムに溶かし込むことで、存在論的な峻別を免れさせるだろう。意識と物質を適切につなぐ理論がないことが、いつまでもこの二つを別の身分に置くことになるのかもしれない。このあたりの関係は非常に微妙で、根拠のない形而上学(ただし心理的には根拠がある)を持ち込むことが最初からもくろまれていても、そこで利用される還元主義的なシステムにわずかでも説得力があるなら、なかなか批判がされにくい。それはあたかも、いくつかの因果関係を示しただけで、経済によって人間の行動が全的に説明可能であると強弁したマルクス主義が、人を魅了し続けた事例で分かる。相対性理論も周到な視野狭窄で真実らしく思わせる。一度この迷妄にとらわれるとなかなか脱出が難しい。これはある程度仕方のないことだ。もともと理論とはすべてある意味で還元論だから。独断的であるし、視野狭窄に陥りやすい。
その存在論を問題にするのは、今私がやっているようにどこか的外れな批判のように映るのかもしれない。もしここに誤解があるなら、還元論というラベルの付かない還元論の擁護も、多少は的外れなものになる。
還元論は百パーセント正しいという意味では成立しない。どこかで掬いきれない要素が残る。ここで言いたいのは、ものすごく当たり前の、これだけのことだ。
H₂Oは水のことだがこれで全部の性質は賄いきれない。流れに手を入れて救い上げたときの滑らかな感じ、光を反射してきらきらするところ、鏡面のように景色を映すさま、飲み込んだ爽快感、これらを水分子と他の分子との関係で語れるだろうか。たぶんいくつかの理屈は語れるだろうが、それらを総合して現実の水になるかというと、そういうことには絶対にならない。
例えば緑色を見た体験と、脳の一部が活性化するという事実を取り上げて、脳内過程と緑色の同一性を言うとする。一対一対応があるということをモジュール仮説と呼ぶ。脳の機能が細分化されているという意味だ。しかしこれはあまり精密ではなく、かなりおおざっぱに同一性が主張されている。つまり活性化はいつでも広い範囲で起き、一定ではない。もしその活性化の特に目立つ部分を見るにせよ、それが起きるということはすなわちそれが緑色体験の因果論的結果ということになる。しかしその範囲にぶれがあるということは、逆に、緑色体験が広範な意識活動の一部であるということであって、包含関係が転倒する。
脳の中に意識があるのではなく、意識の中に脳がある。あるいは最低でも、意識の対象として脳があるという考えでよいのではないか。もちろん脳はじかに見えない。そこに目がないのだから当たり前だ。しかし外にあるものでも物陰にあったりカーテンを閉めてあったりすれば見えない。背中だって見えない。ここには何の不思議なこともない。つまり意識の裏側を想定して探す必要はない。簡単に言うなら意識を別概念として立てる必要すらない。最初に意識と世界という二項対立を基礎に据えてしまうから、節合点としてのクオリアという概念が必要になる。そしてそれは間違いなく、唯物論で語るための仕掛けである。パトナムはこれを、二元論に陥ることへの過度の警戒の結果であると見ていたが、もう少し強い、唯物論への欲求があるだろう。というのも、観念論支持者からこの概念を支持する例はあまりない(あくまでも現代の範疇で)。
そして唯物論とは、歴史的に数理主義である。双子のゾンビ(後述)では、私と同じ内部の反応という名目で、仮想的に意識を明文化している。ゾンビとは、そしてAIも、機能主義的に記述が可能な、観念化された機械に過ぎない。意識は、たぶんなくてもよいのだ。もし世界が、抽象的な言葉ですべて理解できる仕組みになっているならば。
もし私の言い分が正しいなら、意識を脳内過程に還元する説、つまり唯物論は否定できる。当然私の説明がうさんくさく、でたらめであるという感想もあるだろう。その場合には、なぜこのようなでたらめが主張できるのか、それは脳が因果関係として機能していないからではないかということができる。その場合でも、唯物論は否定される。
ちなみにだが、水槽の中の脳というパトナムの問題提起の解決も、こういう感じの論法だった。説得できるかどうかはわからない。