見送られて格子戸を出ると、うかつにも気づけてなかったが、左手の築山と思えた盛り土の正体は古墳なのであった。十メートルほどの直径、高さは一メートルに満たないが、ふもとに杭が打ってあり、森戸古墳と書いてある。家屋の入り口に古墳がある。そんなことがあるのだろうか。よく見ると、この家の囲いは、低いながら由緒ありげな作りになっている。もしかしたら地元では名家なのかもしれない。私はそのあたりのことはよく知らない。しかし何となくあののんきさの理由はうかがえる気がした。幸運を強調していたが持ち物が多いこともたぶんそこに由来するのだろう。人生を楽しんでいるように見えたことを、自分から切り離すためにこんなことを思うのか。

 家までは一キロ足らずある。道は住宅街と農地の境を区切る。農地のほうは彼の住所の地名であり、それに取り囲まれるような形で私の住むほうの住宅街がある。つまり無理に切り取って宅地にしたということだ。どんな経緯があったのかと思いながら、そのことに興味があるわけではなく、ただ他にすることもないので無益な想念が流れているだけなのだろうが、のんびり歩く。住宅街の方には何人残っているのか。右手は昔桑畑があって、その向こうに関東山地が見えていた。山は今もある。桑畑は草地に変わった。日暮れかけて、空の薄暗さと微妙に溶け合った、深緑の巨大な泥塊になっている。西側だけが薄赤く染まっている。  

 いくつかの黒い塊が頭上で行き交っている。こうもりだろうか。蝙蝠は未だ蚊を追っているのだろうか。食性の変化があったのだろうか。私の心配することではない。少なくとも数世代はつないでいるわけで、人よりは適応している。

 久しぶりに眠れぬ夜だった。どうも調子がくるってしまったようだ。私は悲観的な人間で、それが今の、人々が孤立してゆく状況を、さして悲嘆に沈むこともなく、徐々に自分の終わり方として受け入れる気持ちに適応させていたと思っている。彼はどうも、人間的な生きる楽しみをいまさらながらに切り開くように見えた。この観察が当たっているかどうか、そしてまた、私がそのことにいささかでもうらやましい気持ちがあるのかどうか、よくわからない。わからなくてもやもやする。ただ、こんな時には音楽を聴きながら眠りにつけたらよいのにとは考えた。

 外に出ようとして、一応着替えた。どうせ誰にも遭わないし、着替えても同じくらい古ぼけた服なのだが。

高いところに月がある。光に鋭さはない。空気の密度がそう見せているのかもしれない。まさか緑がかってはいないと思うが、見つめているとわからなくなってくる。幼いころに淡い緑色が毛羽立ったような和菓子を見た気がして、名前を思い出そうとするが、もう調べる手段がない。それとも、図書館に行けば残った本の中に記述はあるか。そんなことを知ろうとすることは、何かあの男の影響を受けているようではないか。

 遠くで鐘が鳴ったような気がした。さすがに聴き間違いか幻聴の類だろう。遠くの山は紫色に沈んでいる。足元で落ち葉がかさりという。月がくっきりと浮かび上がらせ黒白のモザイク模様を描いている。

 室内に戻ったがさらに眠りは遠のいた。