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光 明 皇 后 陵         奈良市法蓮町

巨大な聖武陵のとなりに、ひっそりとたつ。

 

 

 

 

 

 

 

 

興 福 寺 北 円 堂 と 回廊・南門址        奈良市登大路町

北円堂」は、元明太上天皇と元正天皇が、藤原不比等の一周忌に

長屋王に建てさせたもの。現在の建物は 1210年の再築で八角円堂。

取り囲む回廊と南門の礎石は 2011年の調査で発掘された。

 

 


【148】 社会経済史への「行基集団」の位置づけについて

 

 

 前回までに見てきた社会変動の中で、「行基集団」の活動は、どのように位置づけられるでしょうか?

 

 たしかに、先進地の他の「知識」集団と同様に、「行基集団」も、地域の有力者と民衆をまとめて、灌漑土木工事や交通整備に向かわせるうえで、大きな力を発揮しています。地域の特性によっては、新興の有力氏族が、「行基集団」の影響力を利用して地域をまとめてゆくこともあったでしょう。

 

 行基集団」は、開墾や商業にコミットして致富した新興有力者階層に基盤をおいていたとする見解には、なるほど一理あるかもしれません。

 

 

『行基の宗教活動は、たんに仏の教えを人々に説くというだけではなく、人々を貧しさや苦しみから救い、暮らしの質を向上させるような社会事業的実践をともなっていた。その成果が、彼によって畿内各地に設けられた道路や橋、行旅人の救援施設である布施屋、ため池や用水路などの灌漑設備なのである。〔…〕

 

 このように考えていくと、耕地開発を進めたい地方豪族と行基の関係が明確になる。地方豪族からすれば、行基が布教に訪れてくれれば、多くの人が集まり、彼らを開発に必要な労働力として利用できる可能性が生じる。行基の立場からすれば、地方豪族を巻きこんで協力をとりつければ、〔…〕灌漑設備や道路建設など、彼の理想とする宗教実践をスムースに実現することができる。

 

 また、仏の教えを説く行基の前では、地方豪族間の対立が解消される可能性も生じる。行基の存在を前提とすることで、地方豪族たちは世俗の世界では容易ではなかった耕地開発にかかわる利害対立を解決することができただろう。

磐下徹『郡司と天皇』,2022,吉川弘文館,pp.94-95. 

 

 

 とはいっても、私の考えでは、行基の仏教思想は、社会の中で上昇中の進歩階層と、没落中の保守反動階層を選別して、前者を応援するようなものではなかったと思います。行基は、あくまでも宗教者であって、政治活動家ではありません。特定の階層の利害を代表したとは言えません。彼の理想は、下は道路に斃れようとする運脚夫や極貧階層から、上は貴族・天皇に至るまで、まったく分け隔てなく救済し、「もろともに菩提に至らん」とすることにあったのです。

 

 『年譜』が行基作と伝える・つぎの和歌があります(聖武天皇が「輦車」を賜ったのに対する答礼。輦車賜与は勿論フィクションですが):

 

 

『止不久留末、和礼仁多末部利以加人東毛、諸共尓古曾、於久利和多佐女(とふくるま われにたまへり いかにとも もろともにこそ おくりわたさめ)

『行基年譜』行年六十六歳条, in:大阪狭山市教育委員会・編『行基資料集』,2016,大阪狭山市役所,p.92.
 

 

 これに乗って謁見にいらっしゃいと、お車をくださったのは有難いけれども、仏さまは、天皇だからって特別待遇はしませんよ。衆生すべてもろともに、彼岸に送り渡してあげましょう。――そう言っているように、私には読めるのですが‥

 

 そこで想起されるのは、故郷の陶器生産地「陶邑 すえむら」における行基の活動です。当時、「陶邑 すえむら」は、かつて国内の須恵器生産を一手に担っていた独占的地位から転落し、没落に瀕していました。没落しつつある須恵器工人層に対して、行基は、集会所・慰安施設としての「院」を提供し、心の支えとしての信仰を説く(大修恵院大野寺《土塔》等)一方、灌漑工事等によって新たな生業をもたらそうとした(土室池、長土池、茨城池)のです(⇒:(11)【36】)。つまり、「行基集団」の援護は、没落しつつある古い階層をも排除することなく、社会の中で困難を強いられている人びとに均しく向けられていました。

 

 

栂 61 号 窯 跡(復元レプリカ) 堺市南区若松台2丁 大蓮公園内

和泉監・大鳥郡には、古代須恵器の大生産地「陶邑(すえむら)」があり

盛期であった 5-6世紀には 300基以上の窯が稼働していた。

 


 他方で、「行基集団」の活動は、畿内に限られていました。後世に称された「行基四十九院」は、すべて畿内にあります。


 「行基集団」が先進地である畿内をテリトリーとしたのは、後進地と先進地とでは「知識」のあり方が異なっていたからです。畿外諸道の後進地・中間地における「知識」は、在地首長層🟰郡領層が、自分たちの結束を固めるための組織だったと言えます。しかし、先進地では、もはや伝統的な首長の統率力を持つ者はいなかったのです。そこでは、旧来、新興を問わず、さまざまな氏族集団が互いに自己主張していました。彼らのあいだで調整を図り、連合を作り出すことが求められたのです。そこでこそ、せまい血縁や地域の絆にとらわれない「行基集団」が、広域的なつながりを強みとして活躍する場がありました。
 

 「行基集団」は、他の「知識」とは異なって、郡・國を超えた広範囲で活動し、必要があれば広範囲の人びとから寄付を集めることもでき、応援の労働力や技術者集団を呼んで来ることもできました。

 

 しかし、このような活動は、狭い地域の枠にこだわり、外部からの干渉を嫌い、首長層が民衆を統率しきっている後進地・中間地の「首長層」支配体制のもとでは、入りこんでいく余地がなかったのだと思います。

 

 古い「首長制」が崩壊した畿内の社会経済条件においてこそ、行基集団」は、自らの活動基盤を見出すことができたのです。

 

 


【149】 「行基集団」の活動開始まで

 


 さて、これまでの数回は、おもに地理的な地域性の違いに着目して、奈良時代の社会を見てきました。(41) (42) では、後進地として北陸諸道、中間地として飛鳥・大和、先進地として近江の事例をひろって、《初期荘園》の経営動向と消長を見ました。(44) (45) (46) では、後進地として上州、中間地として備中・播磨、先進地として和泉・河内を採って、「智識」集団のあり方から、在地農村の社会的構造にセンサーを入れてみました。その間、(43) では、倭国の古代社会に対して外部から導入された制度である「奴婢・賎民」身分制の消長を、ざっと概観しました。

 

 そこで、今度は、一連の考察を時間軸の上に置きなおして、総合的に見ておきたいのです。

 

 便宜上、奈良時代から平安初期までに、7つの期間を設定します。《律令制》以前の7世紀は「先行期」とします。これらの期間は、あくまでも思考の整理をするための便宜的なものですから、長さなどまちまちです。

 

 年表中、史料はオレンジで表示します。史料の年代は、あくまでもそこに一事例があるということにすぎません。社会現象としては、前後の時間的広がりを想像する必要があります。

 

以下、年代は西暦。  

《先行期》 「在地首長層」の支配。公民制の導入。奴婢制度の身分的拘束は弱い。

  • 645年 乙巳の変(大化改新)。奴婢従賎「男女の法」→《良賎の通婚は自由》。
  • 646年 「改新の詔」:「品部・部曲」等の廃止。
  • 666年 「野中寺弥勒像銘」:中間地:《在地首長層の相互連携としての「智識」》


 「大化」クーデター後の「詔」から、「律令」導入以前の倭国の賎民・奴婢の状態について考察を得ることができました。それによると、倭国には大陸諸国のような厳しい身分制度はなく、奴婢と良民のあいだの通婚も禁止されていませんでした。また、「改新」の一環として、隷属的な住民を解放して「公民」とし、租税負担の基盤を拡大する政策がとられています。

 

 しかし、「野中寺弥勒像銘」に現れているように、当時は備中のような中間地でも古墳時代以来の伝統的な「首長層」が地域を支配しており、一般民衆は「智識」から排除されていました。

 

 

奈 良 三 彩  復元模造品と出土品(右の壺) 橿原考古学研究所付属博物館

 

 

 

《第1期》 「班田収授」公民制の安定。奴婢制度の導入。「行基集団」の活動。

  • 690年 「庚寅年籍」に奴婢身分関係を明記。
  • 701年 「大宝令」施行。良賎間・奴婢種別間の通婚を禁止。
  • 723年 「三世一身の法」。
  • 727年 「行基集団」、大野寺・尼院と《土塔》を起工。
  • 729年 長屋王の変。「藤原4子政権」成立。
  • 730年~ 畿内各國で「行基集団」の寺院・土木建設活動が爆発的に増加。
  • 730年 『和泉監知識経』:先進地:《在地首長が民衆を「智識」に組織し、広域的な「行基集団」に参加。》
  • 734年 『既多寺知識経』:中間地:《在地首長層の相互連携としての「智識」》
  • 739年 大伴家持、初瀬の竹田庄で、大伴坂上郎女と問答歌(万葉集):《名門貴族の荘園経営》
 

 聖武朝廷が「行基集団」を公認する 742年に至るまでの期間を《第1期》とします。

 

 から継受した「律令」制によって、「奴婢・賎民」身分が制度として導入されます。戸籍に「奴婢身分」と隷属関係が表示され、通婚が禁止されます。奴婢の売買や寄進(贈与)も、公式に完備した形で行なわれるようになりました。

 

 他方で「三世一身法」によって、農民、貴族、寺社の別なく未墾地の開墾が公認されます。ただ、一般には、それによってただちに開墾が盛んになったわけではありません。「三世」にわたって開墾地を所有するためには、新たに池や灌漑設備を建設しなければならず、それは、ふつうの「班田農民」にできることではなかったからです。彼らの力をまとめて発揮させることのできる「行基集団」などが関与した場合にだけ、灌漑工事と開墾が盛行しました。とくに、「長屋王の変」によって、禁令の取締りが事実上解除されてから、「行基集団」の活動は爆発的に増加します。

 

 他方で、播磨のような中間地では、なお一般班田農民は「在地首長層」に抑えられており、先進地の一部では、在地首長が配下の民衆を「智識」にまとめて「行基集団」に参加してくる例もありました。「行基集団」の広域的な活動の背景には、税運搬と早馬のための朝廷の街道整備に伴なって勃興してきた・民間の商品流通と交通の隆盛があります。

 

 この段階では、大和國でもなお、伝統的な名門貴族が、安定した《荘園経営》を行なっていました。

 

 

(すき) 木部復元          平城宮址資料館

農具のほか土工具としても使われた。

 

 


【150】 「行基・聖武の理想」の挫折。「仲麻呂政権」の効果。

 

 


《第2期》 「行基集団」の公認。「紫香楽」への遷都工作。聖武:奴婢解放政策か?

  • 742年 行基集団の公認行基の報告書「天平十三年記」を検査・承認)。「紫香楽宮」の造営を開始:《奴婢開放方針か?》
  • 743年 紫香楽で「墾田永年私財法」発令:《理論的には、①大寺社・貴族の墾田、②農民の墾田、の双方が可能》
  • 744年 「賎民・奴婢」の一部を解放する勅。
  • 745年 「紫香楽」に遷都。行基を大僧正とす。

 

 もともと行基は、良民と奴婢を区別せず、もろともに彼岸〔死後の幸福な生〕へ渡そうと願う仏教の考え方を実践していました。「行基集団」を公認した聖武天皇は、みずからの理想とする仏都「紫香楽」を建設するにあたって、行基の影響のもと、朝廷のそれまでの「奴婢・賎民制」導入政策に逆らって、奴婢・賎民の解放をめざしていた可能性があります。

 

 「墾田永年私財法」も、そうした政策の一環と思われますが、こちらは、①貴族・大寺社と、②一般「班田農民」のどちらにも、利益をもたらす可能性がありました。主な受益者がどちらになるかは、時期と環境(先進地か後進地か、など)に大きく左右されたと考えられます(その点を、このあと↓議論します)。

 

 しかし、「紫香楽宮」遷都の試みは、遷都宣言から 5か月しないうちに挫折したのです。

 

 

《第3期》 東大寺の創建←奴婢労働力の利用。《荘園》経営は、在地首長層に依存。先進地では《有力農民》が抬頭。

  • 745年 平城京」に都を戻す。平城京の東大寺で、大仏造立を開始。
  • 741-756 東大寺大宅朝臣貢賎」文書群。
  • 749年 行基没。聖武天皇譲位、孝謙天皇即位。藤原仲麻呂を紫微中台(太政官と実質対等)長官に任ず。
  •     孝謙天皇、河内「智識寺」に行幸:茨田宿禰弓束女宅に 7日間逗留:《畿内・先進地で新興有力農民の抬頭》。
  •     越中守・大伴家持東大寺に墾田百町を占定。
  • 751年 『東大寺奴婢見来帳』:東大寺の奴婢を紫香楽で逮捕し連れ戻す。『茨田久比麻呂解 げ』:逃亡奴婢として東大寺に連行された奴婢らが刑部省に訴え出たが、敗訴。
  • 752年 東大寺で、大仏開眼供養。
 
 「平城宮」還都後、「紫香楽」で挫折した大仏造営は、東大寺で再開されましたが、これを機に事業の性格は大きく変質することとなります。東大寺は、大仏造営と伽藍建設に必要な膨大な労働力を「奴婢」によって調達しようとし、朝廷のほか多くの貴族から「奴婢」の寄進を受けます。「大宅朝臣可是麻呂」という人が寄進した奴婢に関する文書群が「正倉院」に残されています。というのは、この人の寄進した奴婢には、逃亡する者が多く、捕えて連れてくるために地方官との間でやり取りした多数の文書があるのと、連行された「茨田久比麻呂」が、自分たちは奴婢ではないと主張して東大寺を訴えたので、その訴訟に関する文書がまた膨大にあるからです。(小倉道子「律令良賎制下の奴婢の存在形態」PDF『市大日本史』14巻,pp.59-88,2011年5月)
 
 しかし、一連の紛争のおかげで、奈良時代の「奴婢」に関する多数の史料が後世に残されることとなりました。なお、小倉氏の詳細な研究によると、訴訟では「久比麻呂」が敗訴したものの、じっさいには彼らは良民なのに「奴婢」として寄進された疑いが濃いとのことです。
 
 このように、奈良朝廷による「奴婢・賎民制」導入のもとでは、良民(班田農民)を暴力的に奴婢身分に転落させて、大寺社に便宜を与えたり、大寺社が労働力を確保する場合があったようです。これは、班田農民からの税貢を確保しようとする「律令制」官僚にとっても、ゆゆしいことでした。公的身分制度としての「奴婢」制度の導入には、やはり無理があったのであり、やがて同制度は廃止に向かうこととなります。
 
 ところで、良民身分を主張して訴えた「茨田久比麻呂」は、河内「智識寺」で孝謙天皇らを接待した「茨田弓束女」の一族ではないでしょうか? もしそうだとすれば、「久比麻呂」とその親族を「奴婢」だと主張する東大寺の言い分には根拠がありません。そもそも、奴婢が漢文で申立書を書いて訴えることなどできるでしょうか?‥‥ともあれ、当時の社会では、「弓束女」と「久比麻呂」のように、同じ一族のなかで、天地にも等しいほどに明暗が分かれてしまう場合があったのかもしれません。
 
 「茨田弓束女」のほうは、当時、畿内・先進地で抬頭してきた《有力農民》の典型と思われます。この時期にはもう、先進地では伝統的な「首長層」の支配が崩壊して、墾田開発や商業によって致富した無名の氏族が、伝統的首長を抑えて抬頭してきていたのです。彼らは、在地の民衆をまとめるとともに、それを基礎として、朝廷の有力者と親交を結び、カバネ・位階や官職を獲得して上昇しつつありました。
 
 しかし他方で、北陸などの後進地では、東大寺などの大寺社が、広大な未墾地(山林や沼沢地)の占定を受けて、「永年私財法」による利益を独占していました。大寺社が後進地の《荘園》で経営の支柱としたのは、地域をなお支配していた伝統的な「首長層」でした。
 

 

法 華 寺        奈良市法華寺町882

光明皇后宮の跡に建てられ、日本国総国分尼寺の寺格をもった。

皇后宮職」もここにあったとされるので、孝謙朝「紫微中台」の

所在地であった可能性もある。当時の建物は残っていない。

 
 
 749年に、藤原仲麻呂が「紫微中台」の長官である「紫微令」に任命されています。「紫微中台」は、国政の最高機関である「太政官」に次ぐとも、「太政官」と対等ともいわれる新設の機関です。
 
 

『聖武の譲位に伴なってあらわれた紫微中台とは、光明皇后の〔…〕家政機関である皇后宮職が拡大・改組された機関であった。それは、国政の最高機関である太政官に次ぐ位置づけを与えられることになる。〔…〕

 

 一線から隠退した聖武に代わって、光明皇太后が政治の実権を掌握するために作られたのが紫微中台〔…〕とする定説が生まれるに至った。〔…〕

 

 紫微中台はまた、藤原仲麻呂が自己の権力を拡大するための拠点として利用したといわれることが多い。仲麻呂は〔…〕、光明皇太后からみて甥にあたる。

遠山美都男『彷徨の王権 聖武天皇』,1999,角川選書,pp.193-194.  

 

 
 こうして、「藤原仲麻呂政権」が成立します。しかし、仲麻呂が本格的に国政を掌握するのは、大師(太政大臣)に昇格した 760年からでしょう。「大宝律令」施行以来、太政大臣は空席にされていました。それ以前には、皇太子が2名、太政大臣となった例があるだけです。ですから、仲麻呂の就任は、臣籍としてはじめての最高権力を握ったことになります。
 

 

《第4期》 仲麻呂政権の冷遇により、大寺院《荘園》経営の衰退。先進地では《有力農民》が抬頭。

  • 754年ころ 東大寺領・越前國坂井郡・桑原荘が成立。《→在地首長の協力が得られず、経営困難、荒田化。》
  • 754年 河内國『家原邑知識経』:最先進地:《民衆から、有力「智識」氏族の抬頭》
  • 756年 孝謙天皇、河内六寺に行幸、「智識寺南行宮(茨田弓束女宅か)」に聖武、光明とともに宿泊:《新興有力農民の抬頭》。聖武太上天皇没。
  • 757年 橘奈良麻呂の変東大寺領・越前國足羽郡・道守荘が成立。《→道鏡政権下で、在地首長の協力を得て、経営安定。》/東大寺領・越前國坂井郡・鯖田国富荘が成立。《→在地首長の協力により、経営安定。》
  • 758年 孝謙天皇譲位、淳仁天皇即位。
  • 760年 藤原仲麻呂を大師(太政官の長)に任じる。光明皇太后没。

 

 この時期に北陸で成立した東大寺の3つの《荘園》のうち、在地首長の協力が得られたところでは経営が安定しましたが、得られなかったところは衰退しています。後進地(遠隔地)の《荘園》は、その地域の伝統的首長層の権威に依存するほかはなかったのです。

 

 しかも、「仲麻呂政権」は、貴族の《荘園》と班田農民を優遇した結果、寺社とくに大寺院に対しては、これまでの権益を切り捨てる傾向に出ました。その影響をもろに食らったのが「桑原荘」であり、「道守荘」も、のちに仲麻呂が倒れて道鏡政権が成立するまでは、不遇な地位におかれたのです。

 


『初期庄園が、律令国家そのものの中に成立した、きわめて律令制的な土地経営であったことは、〔…〕東大寺の越前庄園を事例にとれば明瞭になる。そこでは成立からその後の経営に至るまで、律令制機構が全面的に利用されている。〔…〕

 

 もっともこうしたあり方は、中央政府が東大寺領庄園を抑圧する方向に転じたときにも逆の大きな力となって東大寺にのしかかってくることとなる。事実、藤原仲麻呂が政権を完全に掌握したのち、759年頃から、仲麻呂政権は自らの土地経営のためにも東大寺領庄園を抑圧するようになり、造東大寺司は弱体化し、越前国司も東大寺領庄園を維持しようとはしなくなる。〔…〕東大寺は三綱〔寺ごとに置かれる・寺を管理し僧尼を統括する僧職:上座,寺主,都維那。――ギトン註〕自らが寺田維持に乗り出すが、その努力もむなしく、その経営は一時的に衰退に追い込まれている。庄園経営が復活するのは、仲麻呂没後の道鏡政権による「僧綱政治」〔「僧綱」は、全国の僧尼全体を監督する僧官:僧正,僧都,律師。――ギトン註〕が開始されるまで待たなくてはならない。』

小口雅史・吉田孝「律令国家と荘園」, in:網野善彦・他編『講座 日本荘園史 2 荘園の成立と領有』,1991,吉川弘文館,pp.20-21.  

 

 

 対照的に、先進地・河内では、地域に権威をもつ伝統的「首長層」はもはや存在せず、新興《有力農民》の成長が、ひきつづき顕著です。


 760年、仲麻呂は太政官の長に就任して権力の最高位を極めますが、半年後には光明皇太后が死没。仲麻呂の没落が始まります。

 

 

奈良時代の 貴 族 の 食 卓           平城宮址資料館

 


 じつは、今回で最終回にするつもりだったのですが、内容が膨れ上がって、字数制限に収まらなくなってしまいました。次回は、《第5期》~《第7期》を扱います。最終回が短くなってしまって、みっともないですが、やむをえません。

 





 

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