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玉 丘 古 墳  陪塚第1号墳(左)        兵庫県加西市玉丘町

古墳時代中期(5世紀前半)の前方後円墳。墳丘は3段築成で、周濠を

めぐらす。外堤には、家形、鶏形をふくむ円筒埴輪が林立していた。

北播磨の首長・針間鴨国造の墓と推定される。

 

 

 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の変」まで。

  • 710年 平城京に遷都。
  • 717年 「行基集団」に対する第1禁令
  • 718年 「行基集団」に対する第2禁令
  • 722年 「百万町歩開墾計画」発布。「行基集団」に対する第3禁令
  • 723年 「三世一身の法」。
  • 724年 元正天皇譲位。聖武天皇即位長屋王を左大臣に任ず。
  • 728年 聖武天皇、皇太子を弔う為、若草山麓の「山坊」に僧9人を住させる(東大寺の前身)。
  • 729年 長屋王を謀反の疑いで糾問し、自刹に追い込む(長屋王の変)。「藤原4子政権」成立。「行基集団」に対する第4禁令

《第Ⅲ期》 731-752 大仏開眼まで。

  • 730年 平城京の東の「山原」で1万人を集め、妖言で惑わしている者がいると糾弾(第5禁令)。
  • 731年 行基弟子のうち高齢者に出家を許す詔(第1緩和令)。
  • 736年 審祥が帰国(来日?)し、華厳宗を伝える。
  • 737年 疫病が大流行し、藤原房前・麻呂・武智麻呂・宇合の4兄弟が病死。「防人」を停止。
  • 738年 橘諸兄を右大臣に任ず。諸國の「健児」徴集を停止。
  • 739年 諸國の兵士徴集を停止。郷里制(727~)を廃止。
  • 740年 聖武天皇、河内・知識寺で「廬舎那仏」像を拝し、大仏造立を決意。金鍾寺(のちの東大寺)の良弁が、審祥を招いて『華厳経』講説(~743)。藤原広嗣の乱聖武天皇、伊賀・伊勢・美濃・近江・山城を巡行し、「恭仁」に入る。行基、恭仁京右京に「泉大橋」を架設。
  • 741年 「恭仁京」に遷都。諸国に国分寺・国分尼寺を建立の詔。「恭仁京」の橋造営に労役した「行基集団」750人の出家を許す(第2緩和令)。
  • 742年 行基、朝廷に「天平十三年記」を提出(行基集団の公認。官民提携の成立)。「紫香楽」の造営を開始。
  • 743年 墾田永年私財法」。紫香楽で「大仏造立の詔」を発し、廬舎那仏造立を開始。「恭仁京」の造営を停止。
  • 744年 「難波宮」を皇都と定める勅。行基に食封 900戸を施与するも、行基は辞退。行基、摂津國に「大福院」ほか4院・付属施設3所を起工。
  • 745年 「紫香楽」に遷都。行基を大僧正とす。「平城京」に都を戻す。平城京の「金鍾寺」(のち東大寺)で、大仏造立を開始。
  • 749年 行基没。聖武天皇譲位、孝謙天皇即位。藤原仲麻呂を紫微中台(太政官と実質対等)長官に任ず。孝謙天皇、「智識寺」に行幸。
  • 752年 東大寺で、大仏開眼供養。

《第Ⅳ期》 750-770 称徳(孝謙)天皇没まで。

  • 754年 鑑真、来朝し、聖武太上天皇らに菩薩戒を授与。
  • 756年 孝謙・聖武、「智識寺」に行幸。聖武太上天皇没。
  • 757年 「養老律令」施行。藤原仲麻呂暗殺計画が発覚、橘奈良麻呂ら撲殺獄死(橘奈良麻呂の変)。
  • 758年 孝謙天皇譲位、淳仁天皇即位。
  • 764年 藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱道鏡を大臣禅師とする。淳仁天皇を廃位し配流、孝謙太上天皇、称徳天皇として即位。
  • 765年 寺院以外の新墾田を禁止道鏡を太政大臣禅師とする。
  • 766年 道鏡を法王とする。
  • 769年 道鏡事件(天皇即位の可否で政争)。
  • 770年 称徳天皇没。道鏡失脚、左遷。光仁天皇即位。
  • 772年 墾田禁止を撤回
  • 773年 行基を顕彰し、菩提院ほかの荒廃6院に寺田を施入。

 

 

玉丘古墳群  ク ワ ン ス 塚 古 墳        兵庫県加西市玉丘町

古墳時代中期(5世紀前半)の円墳。墳丘は2段築成、墳頂に

竪穴石槨。鶏形をふくむ円筒埴輪、朝顔形埴輪、杵形・

円盤形土製品(祭具か)、剣、桙、短甲などが出土している。


 


【143】 「歴史相対主義」と「歴史修正主義」

 

 

 前回、「渡来人」「帰化人」という用語について所感を述べました。半世紀ほど前まではもっぱら「帰化」と呼ばれていた現象を、「渡来」と言い換えるようになった延長で、古代史の叙述にまで「用語法の塗り替え」が及んでしまったのは、はたしてよかったのか?‥という問題提起ですが、どう思われたでしょうか。

 

 「帰化人」→「渡来人」という用語の変更が起きた経緯は、個人的には十分に承知しているつもりです。その動力となったのは、金達寿 きむたるす 氏をはじめとする在日知識人による「日本の中の朝鮮文化」掘り起こし運動であり、私が歴史を学び始めたのは、その渦中においてであったからです。当時、日本人の側からは江上波夫氏による「騎馬民族征服説」などが提起され、江上氏の主催する団体が、私が通っていた予備校の大講義室を借りて月例会を開いていました。

 

 私が現在でも、この国の歴史を、この列島だけの歴史として見ることができず、地域の中の一「倭人」種族の歴史として把握しようとするのは、ひとつにはそれらの影響を受けたためです。

 

 戦後の日本人の歴史研究に大きな影響力をもったのは、ひとつは「唯物史観」ないしマルクス主義ですが、もう一つ、より広く深い影響力をもった思潮として英米流の「歴史相対主義」があります。その典型的な主張は、E.H.カー『歴史とは何か』で手軽に読むことができます。

 

 「歴史相対主義」は、事実としての “ただひとつ” の「歴史」というものの存在を真っ向から否定します。歴史研究は、“ただひとつ” の「歴史的事実」を対象として探究するものではなく、「過去と現在の対話」によって、「歴史」なるストーリーを創造するものだ。だから、時代(現在)ごとに、異なる過去の「歴史」がある、というのです。(存在しないものと、どうやって対話するのか知らないがw)

 

 このような考え方は、人類史全体を、「唯物史観」というひとつの絶対的図式にあてはめようとするマルクス主義とは根本から相いれないかに見えます。ところが、じっさいには、日本のマルクス主義傾向の歴史学者の多くには、「歴史相対主義」が深く浸潤していたのです。「歴史的事実なんてものは存在しないよ。行って見るわけにいかないじゃないか。」と、したり顔で言う・当時の大学教授らの顔が、私の脳裏には鮮やかに浮かびます。

 

 彼らは、ひとつには「唯物史観」のもつ絶対主義の教条性を、アメリカ流の相対主義によって和らげようとしていたのかもしれません。しかし、「相対主義」思考のもたらす結果は、それを越えていました。むしろ、“過去の事実” とは異なる・“現在” 本位の思惟を、「相対主義」によって安易に過去に投映することが行なわれていました。たとえば、「渡来人」という用語法が行き過ぎれば、「過去」にあったことを否定して、古代を現代人の趣味に合うように塗り替えることが横行してしまいます。同じことは、「奴隷制」「首長制」などの現代に考えられた社会構成を、古代史に圧しつけようとする試みにも言えるでしょう。「渡来人」などは、現代人が考えた用語であり、あくまでも現代思想として有効なのです。古代には「渡来人」という言葉は無く、言うなら「帰化人」ですが、そもそも古代人は日常そんな区別をしておらず、「何某は新羅の人なり」「もと、百済国の王なり」などと言っていました。

 

 それから何十年も経過して、こんどは「歴史修正主義」が抬頭してきました。ナチスによるホロコースト、戦前の日本帝国が関与した慰安婦の拉致・凌辱などを「無かった」ことにする、そのように歴史的事実を修正してしまおうとする思潮及び運動です。そのような忌まわしい事実が存在する「過去」は、現在の一部の人びとの趣味に合わないので、それらが存在しない「過去」に取り替えようということです。「歴史相対主義」者からすれば歓迎すべきことであるはずですが(ちがいますか?)、さすがに彼らもそうは言いません。かといって、いまさら絶対主義に転向するわけにもいかないのでしょう。歴史観を棚に上げて「修正主義」を批判しています。その舌鋒を弱々しく感じるのは私だけでしょうか?

 

 ところで、「歴史修正主義」の主張の一部には、学ぶべきこともあると私は思っています。それは、古代人には古代人の思惟があり、それはわれわれ近代人の思惟とは異なっていた、ということです。「修正主義」者たちは、そこから、現代の民主主義的な思惟によって古代を評価すること自体を否定しようとします。この後半の部分を私は採りません。評価は必要です。評価が無ければ、一貫性のある歴史の叙述も認識も不可能です。

 

 しかし、評価は歴史的事実を変えるものではない。どう評価されようと、古代人には古代人の思惟があった。「歴史相対主義」に毒された「左慾の人だち」には、このことを強く言っておきたいのです。

 

 

1973年2月「『季刊・日本の中の朝鮮文化』を励ます会」の風景

左から、司馬遼太郎、岡本太郎、金達寿、竹内好

 神奈川新聞サイト「カナロコ」より。

 

 


【144】 「智識」と首長層――中間地の事例①

 

 

 前回に続いて取り上げる第2の事例備中國――現在の岡山県です。史料は、「野中寺弥勒菩薩像銘」。「野中寺 やちゅうじ」といえば河内ですが、そこにある弥勒菩薩像は、他所から移されたものであることが判っています。銘文じたいに「栢寺智識之等、……誓願之奉弥勒御像也」とあるので、もとあった場所は「栢寺」です。

 

 この「栢寺 かやでら」がどこにあった寺院かについては、現在も諸説あって定まらないのですが、ここでは、岡山県総社市の「栢寺廃寺」に比定する磐下氏の見解を採ります。つまり、この「弥勒像銘」は、備中でこの弥勒像が造られた時(666年)の記録だと理解します。

 

 なお、河内の「野中寺」と弥勒信仰については、こちらで詳しく書きましたから、いまは触れません。

 

栢 寺 廃 寺      岡山県総社市南溝手

上は復元された塔・基壇。塔・心礎は現存するが

後世の石塔の台座に使われているため詳細不明。

出土した古瓦から、白鳳~平安期まで存立した

寺院と推定される。

 

 

 まずこの「栢寺」の建立された「備中國・賀陽 かや 郡」についてですが、『扶桑略記』の引く『善家秘記』〔9世紀末〕には、「賀陽良藤」という人がキツネに妖惑された説話が記されています

 

 

『そこに〔…〕備中國賀陽郡の賀陽一族のようすが記されている。

 

 賀陽一族は加夜国造の系譜に連なっていると考えられ、古くから当該地域を支配してきた地方豪族である。〔…〕

 

 良藤は「賀夜郡人」で、備前少目(しょうさかん)という国司の地位を買得した者とある。〔…〕良藤はおそらく中央出仕の経験があり、そこで形成したコネクションを使って都の有力な貴族に任料〔任官者として推薦してもらう対価。わいろ〕を納め、備前少目の地位を手にしたのだろう。』

磐下徹『郡司と天皇』,2022,吉川弘文館,pp.84-85. 

 

 

 このような官職の売買――「年官」と呼ばれた――が成立したのは、有力貴族(公卿 くぎょう)が官職の出挙権を持っていて、下級官職は彼らが出挙したとおりに任命されたからです。当時としては、売官は犯罪でも例外でもなかった。もっとも、この慣例が確立するのは平安時代初めです。

 

 

『一方、良藤の兄である豊仲は賀陽郡大領〔郡の長官〕、弟の豊蔭は統領であったとされる。統領とは、西海道(九州)防衛のために設定された選士の統率者のことである。またもう一人の弟の豊恒は、賀陽郡に所在する吉備津彦神宮の禰宜(ねぎ)、そして良藤の子の忠貞は左兵衛佐とあり、都で活動していたと考えられる。彼らは総じて「頗る貨殖有り」「皆豪富の人なり」とされている。〔…〕

 

 このように賀陽一族は、兄である大領のほか、弟や甥たちが地元神社の禰宜の地位や、中央出仕の機会を獲得している。おそらく賀陽郡にはこうした地方豪族の一族がほかにも存在しており、大領の豊仲は、彼らにもしかるべき官職・地位を配分し、郡司層全体の調和を図っていたのだろう。そう考えると、〔…〕備中國賀陽郡の地方豪族が、各々官職や地位を得て郡司層を構成していたようすを具体的に読みとることができる。

磐下徹『郡司と天皇』,2022,吉川弘文館,pp.85-87. 

 

 

 また、「郡司」〔郡の行政機関。大きな郡では4等官からなる〕を構成する「大領」以下の官職も、その郡の各地域の首長である地方豪族のあいだで、持ち回りで就任されていました。律令の定めでは、「郡司」の各官は終身とされていましたが、じっさいには、その就・退任の運営は在地に任されていたので、数年ごとに交替する慣例が行なわれていたのです。

 

 

〔ギトン註――東大寺文書から復元された 740-765年・山城國宇治郡の郡司交替状況によると〕郡司は同一職(大領もしくは少領)に在任するのは、長くて十数年程度、短い場合には 4年以下だったことになる。少領・大領の在任期間を通算しても、長くて 20年、短ければ 10年未満ということもありえただろう。〔…〕

 

 一郡内には郡司を輩出するような地方豪族が複数競合しており、それぞれの郡司就任の希望をかなえるため、一定期間郡司を勤めたら次に交替するという前提のもと、彼らの間で郡司職が持ち回り的に運用されていた〔…〕この同一郡内に複数競合する、郡司を輩出する地方豪族の勢力の総体が「郡司層」〔「郡領層」ともいう。――ギトン註〕なのである。

磐下徹『郡司と天皇』,2022,吉川弘文館,pp.74-75. 

 

 

 このことから、ひとつの郡内のあちこちに「郡衙」〔郡の役所〕らしい遺跡が発掘される場合が珍しくないという、考古学上の謎も解決します。各「郡司を輩出する勢力」が、郡内のそれぞれの地域に地盤を持っている場合、おのおのが自分の根拠地に「郡衙」を建設しておき、持ち回りで移転したと考えることができるからです。

 

 このように、一郡に複数の豪族勢力があって、いずれかの一族が支配権を独占するのではなく、たがいに持ちつ持たれつの形で地域を支配していたという構図は、「栢寺」についても運営の実態を示唆してくれます。

 

 ここは「賀陽郡」の中心地と見られることから、「賀陽氏」の氏寺ということも考えられるのですが、「栢寺廃寺」からは、「評太君服……」と刻まれた文字瓦が出土しています。「賀陽郡」に属する郷に「服部郷」があり、現存する地名にも「服部」があります(「栢寺廃寺」の最寄り駅は、JR服部駅)。「評・太君 おほきみ 服[部]」は「評(郡)の監督官である服部」と解することができます。「栢寺」の建立には、「賀陽氏」のほかに「服部氏」も関与していたことになる。単純に、ある一族の氏寺だとは言いきれない実態があるのです。

 

 

野 中 寺 ・ 弥 勒 菩 薩 半 跏 坐 像

 

 

 以上のような地方豪族(郡司・郡領層)の実態を前提として、備中栢寺の「弥勒像銘」を読んでみましょう。

 

 

『丙寅年〔666年〕四月大朔八日癸卯開に記す。栢寺(かやでら)の智識ら、中宮に詣(いた)り、天皇大御身労(いたつ)き坐(ま)しし時、誓願し奉(まつ)りし弥勒御像也。友等の人数一百十八。是れ依り六道四生人等、此の教を相(み)るべき也。

 

 

 大意は、栢寺の「智識ら」が、中宮で病床の天皇を見舞い、平癒を願って、この弥勒像を献上した、というものです。この「天皇」とは誰かですが、「中宮」にいたということから、もと皇后の女帝が考えられます。そこで、磐下氏は、もと舒明天皇の皇后であった皇極天皇(重祚して斉明天皇)をあてています。ただ、斉明天皇は 661年に没しているので、666年の日付をもつこの「銘」と合わないようにも見えます。しかし、「銘」は、弥勒像が鍍金された後に刻まれており、刻字部分の金がめくれています。したがって、斉明天皇に献上したのは 661年以前で、崩御後の 666年に返却された像に経緯を記して安置したと考えれば矛盾しません。

 

 備中の「賀陽氏」は、舒明天皇のキサキを出していた可能性があります。そういう繋がりがあった。また、斉明天皇は、660-661年には「白村江」遠征の督軍のために、瀬戸内~筑紫の離宮を転々としています。備中の「智識ら」が詣でた「中宮」は、それらの西国方面の離宮のどれかで、天皇が近くに御幸して来られたので参上したのだとすれば、その点でも「天皇」を斉明と解するのは適切です。

 

 ところで、この「銘」で重要なのは、「栢寺の知識ら」が願主であること、そして「友等の人数一百十八」という部分です。

 

 この「118人」が「智識」の人数だとすると、前回に見た上州金井沢碑」の9人よりはるかに多人数です。しかし、これは、「佐野三家」のような狭い範囲の人脈ではなく、「賀陽」一郡全体にわたる「知識」だとすれば、必ずしも多くはないのです。のちほど見るように、先進地の「智識」は、1つの郷で 709人、といった人数なのです(『和泉監知識経』)。先進地の「智識」がこんなに多人数なのは、地域支配層のみならず民衆を含んでいるからです。

 

 したがって、備中「栢寺」の場合は、先進地(和泉)とはちがって、「智識」の範囲は一般民衆を含まない、「郡領層」すなわち首長層に限られていたと見られるのです。ただ、その人びとは、上州の場合のように男系・女系の血縁でつながっていたわけでは必ずしもない。複数の一族が、互いに持ちつ持たれつで地域の共同支配権を握っていた、そのような地域エリート層であったのです。

 

 

『栢寺の 118人には民衆層は含まれず、賀陽氏を中心とした地方豪族の勢力のみで構成されたと見ることができるだろう。〔…〕

 

 栢寺知識の 118人は、国造の系譜を引く賀陽氏を中心とする勢力であるため、賀陽郡の大部分に影響をおよぼすような勢力による知識だったと考えられるが、賀陽郡の郡司層全体とは言い切れない。

磐下徹『郡司と天皇』,2022,吉川弘文館,pp.139-140. 

 

 

播 磨 國 賀 茂 郡 の 風 景      兵庫県加西市上野町

国府寺↓(既多寺址 から 400メートル地点、万願寺川。

 

 


【145】 播磨『既多寺知識経』――「中間地」の事例②

 

 

 つぎに取り上げるのは、お隣りの兵庫県西部:「播磨國」の事例です。史料は『既多寺知識経』〔734年〕:播磨國・賀茂(賀毛)郡の「智識」集団が写経して、同郡の「既多寺 きたでら」に納めた全 100巻の『大般若経』です。

 

 「既多寺」は、兵庫県加西市殿原町の「殿原廃寺」(現・国府寺 こうでら)が最有力候補で、ここでは、白鳳時代から中世まで存続した寺院遺構が発掘されています。

 

 『既多寺知識経』に参画した氏族は、「針間直 はりまのあたひ」氏、「針間国造」氏などで、いずれも播磨國・賀茂郡を本拠としています。


 賀茂郡の地方豪族には、古くは「玉丘古墳群」(↑トップ写真)を造営した「針間鴨国造」があり、奈良時代の「針間直」氏、「針間国造」氏は、その流れをくむ一族と見られます。古墳時代の「針間鴨国造」は、この地方の首長層に朝廷から与えられた称号であり、実体は、いくつかの氏族の総称であったと考えられるのです。

 

 

国 府 寺 (こうでら)(殿原廃寺= 既 多 寺 址) 兵庫県加西市殿原町寺ノ前

4次の発掘調査により、塔心礎、塔基壇、金堂と思われる基壇、僧房址

等が検出され、出土古瓦から(こうでら)白鳳~中世に及ぶ寺院の存在が判明した。



 『既多寺知識経』は、現在、日本国内各地の寺・博物館・大学図書館に分散しており、34巻分は所在不明です。古い書籍や論文でのみ確認できるものもあります。

 

 『既多寺知識経』の各巻の最後には「奥書」があって、写経の完成年月日と人名が記されています。たとえば、第66巻末の「奥書」は、次のとおりです:

 

 

『天平六年歳次甲戌十一月廿三日写 針間國賀茂郡既多寺

 

       針間直・蛭売

 

 

 日付は(私が見た限りでは)全巻同じですが、人名は、巻ごとに異なります。その巻の写経の責任者となった「智識」員の氏姓名と思われます。

 

 現在、66巻分について、「奥書」の内容を確認することができます。現物を見られる巻にはすべて、↑これと同様の奥書がありますから、おそらく 100巻すべてが同じ(責任者名だけが違う)奥書を持っているものと思われます。

 

 そこで、『既多寺知識経』各巻の「奥書」人名から、播磨國賀茂郡の地方豪族層の実態、および「智識」集団のあり方を探ることができるわけです。

 

 各巻の奥書人名を一覧表にすると、↓つぎのようになります。

 

 

 

 

 

 

 

 第41巻以降を見ますと、10巻または 20巻ごとにグループになっていると見ることができます。各グループの中では、はじめに「針間国造」氏と「針間直」氏が並び、そのあとにほかの氏が続きます。全体として、「針間国造」氏が圧倒的に多いですから、「針間国造」氏は、この「智識」集団の中心であり、おそらくは、賀茂郡を支配する中心的な氏族でもあります。

 

 

『通常、経典は 10巻〔1巻は1本の巻物。10巻なら 10本――ギトン註〕ごとに帙(ちつ)とよばれる覆いに包まれて保管される。針間国造氏・針間直氏+他氏族というパターンの出現は、帙による経典のまとまりに対応していることになる。』

磐下徹『郡司と天皇』,2022,吉川弘文館,p.111.  

 

 

 つまり、10ないし 20巻、すなわち1つ、ないし2つの帙の写経を、〈針間国造氏・針間直氏+他氏族〉の1つのグループに割り振って、写経を分担したわけで、これらのグループ(一覧表↑の「集団a,b,c,d」)は、賀茂郡内の地域小集団と見ることができます。

 

 

『既多寺知識経の書写を分担した針間国造氏・針間直氏+他氏族の集団a,b,c,d――ギトン註〕は、〔…〕伝統的に現地を支配してきた地方豪族である針間国造氏、針間直氏を中心に、そこに他氏族も加わって構成される地域小集団ととらえることができる〔…〕

 

 各集団内では、より有力な勢力・人物から順に、早い巻数が割り当てられている〔…〕

 

 各集団の〔…〕前半の巻数がこの2氏族〔針間国造氏と針間直氏――ギトン註〕に割り振られているのは、彼らが国造の系譜を引く賀茂郡内の最有力勢力だからだろう。〔…〕針間国造氏のほうが針間直氏より上位だったと考えられる

磐下徹『郡司と天皇』,2022,吉川弘文館,pp.113-115.  

 

 

 このように見ると、『既多寺知識経』の奥書は、たんに「智識」集団の構成を表しているだけではなく、そこには、賀茂郡内における豪族氏族間の現実の力関係が反映していると見ることができます。すなわち、写経の分担と順序は、郡内各小地域における日常的・現実的な力関係によって割り振られたと見られるのです。

 

 そこで眼につくのは、各巻の写経責任者に女性が少なくないことです。のみならず、「集団d」の先頭である第91巻の責任者は女性です。このことは、「智識」のような宗教集団においてはもちろんのこと、地域の日常的な社会関係においても、支配層の中で、女性が少なからぬ役割を担当していたことを推測させるものです。

 

 (41)【129】で、大伴坂上郎女が、超有力貴族である大伴氏の複数の荘園について、管理・監督を任されていたことを見ました。こうしたケースは、当時決して例外ではなかったのです。


 さて、↑いちばん上の第31~40巻を見ると、第41巻以降とは大きく様相が異なっています。

 

 

『沙弥尼〔出家(得度)後、具足戒を受ける前の見習い段階の尼――ギトン註〕や優婆夷〔在家仏教信者の女性。出家に制限のあった奈良時代には、官許の出家を経ていない民間の私度尼を多く指した――ギトン註〕といった仏教者が含まれ、仏教色が濃い。また、知られる限りでは全員女性である可能性が高い。〔…〕

 

 第40巻を境に、それ以前は、仏縁をより重視して構成された知識による写経ということになる』

磐下徹『郡司と天皇』,2022,吉川弘文館,pp.118-119.  

 

 

 ところで、『既多寺知識経』からは、全部で 13氏が確認できます。しかし、『播磨國風土記』や出土木簡からは、『既多寺知識経』に現れない 7氏が、播磨國賀茂郡の氏族として確認できます。したがって、『既多寺知識経』の「知識」に参加しているのは、郡内 20氏族のうち 13氏族:65%程度だと見ることができるでしょう。

 

 それでは、各氏族の影響下にある民衆まで含めると、どのくらいの人数になるでしょうか? 『播磨國風土記』によれば、賀茂郡には 12の「郷」がありました。

 

 

『郷は 50戸で構成された人為的な行政区分である。正倉院などに伝わった奈良時代の戸籍などによれば、当該期の戸は平均 20人程度で構成されていた。したがって、1郷の所属人口は約 1000人となる。すると 12郷からなる賀茂郡の全人口は 12000人程度となるだろう。

 

 以上を踏まえると、既多寺知識経を構成する地方豪族全体の影響下におかれた賀茂郡の人々は、12000人の 65%、約 7800人と試算できることになる。〔…〕

 

 集団a,b,c,d――ギトン註〕間に勢力の差がないとすれば、集団 a~d はそれぞれ約 2000人の人々をその影響下においていたということになるだろう。

磐下徹『郡司と天皇』,2022,吉川弘文館,pp.122-124.  

 

 

 ところで、↑上の一覧表から、4つの各小グループで「針間国造」氏が占める割合は 35~60%です。各 2000人のうち 35~60%を勢力下においているということは、各小地域で「針間国造」氏は、700~1200人の人びと(一族および民衆)を従えていたことになります。これが、最有力の氏族が統率していた人数です。

 

 逆に、もっとも弱小な氏族が統率していた人数は 100~200人程度と考えられます。

 

 

播 磨 國 賀 茂 郡 の 風 景      兵庫県加西市殿原町

国府寺(既多寺址 隣りの「国府池」。

 

 

 以上から、備中播磨のような「中間地」では、いまだ伝統的な首長層が強い力を持っており、首長氏族のあいだの力関係が、「知識」の構成と運営にも反映されていたと言えます。

 

 しかし、他方で、必ずしも氏族的な血縁にとらわれない「仏縁」によるつながりも、一定の役割を果たしていました。そこでは、女性が中心的役割を担って活動していたことがわかります。

 

 『日本霊異記』には、美濃國片県郡〔現・岐阜市〕の少川市 おがわのいち にいた「力女」の説話が載せられています(中巻第4縁):

 

 

『腕力に物をいわせ、市を行き来する商人らを妨害し、商品を奪うなどの悪行を繰り返していた。彼女は、〔…〕美濃の狐直氏の出身とされている。直(あたひ)のカバネが、国造や郡司クラスの豪族に与えられるものであることからすれば、彼女も地方豪族の女性と見なせる。

 

 この力女の悪行を第27縁に登場する力女尾張國中嶋郡[現・愛知県一宮市・稲沢市]の大領の妻――ギトン註〕が聞きつけ、少川市に赴く。彼女は狐直氏の力女と力比べをして勝ち、市に平穏をもたらした。これもあくまで説話である。しかし、当時の地域の物流に地方豪族の女性が関与していた事実をもとにしているのだろう。

 

 同書の下巻第26縁には、讃岐國美貴郡大領の妻である田中真人広虫女が、水で薄めた酒を売って多大な利益をあげていることがみえる。このこともふまえれば、地域における商品生産や流通に、地方豪族の女性が関与していた様子が復元できる。

磐下徹『郡司と天皇』,2022,吉川弘文館,p.117.  

 

 

 美濃、尾張、讃岐と同様に隔地間交通の要所であった播磨でも、地方豪族の女性が市、物流、商品交換の方面に進出していたことは、十分に考えられることです。彼女らは、そうして蓄えた実力と人脈のネットワークの上に立って、「知識」の諸活動をも遂行していたことが考えられるのです


 

 

 

 

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