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蛇 穴 山 古 墳        群馬県前橋市総社町総社1587

7世紀後半の方墳。「総社古墳群」のなかで最も新しい。総社古墳群は、

畿内・朝廷にも進出した東国豪族「上毛野氏」の墳墓と推定されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の変」まで。

  • 710年 平城京に遷都。
  • 717年 「行基集団」に対する第1禁令
  • 718年 「行基集団」に対する第2禁令
  • 722年 「百万町歩開墾計画」発布。「行基集団」に対する第3禁令
  • 723年 「三世一身の法」。
  • 724年 元正天皇譲位。聖武天皇即位長屋王を左大臣に任ず。
  • 728年 聖武天皇、皇太子を弔う為、若草山麓の「山坊」に僧9人を住させる(東大寺の前身)。
  • 729年 長屋王を謀反の疑いで糾問し、自刹に追い込む(長屋王の変)。「藤原4子政権」成立。「行基集団」に対する第4禁令

《第Ⅲ期》 731-752 大仏開眼まで。

  • 730年 平城京の東の「山原」で1万人を集め、妖言で惑わしている者がいると糾弾(第5禁令)。
  • 731年 行基弟子のうち高齢者に出家を許す詔(第1緩和令)。
  • 736年 審祥が帰国(来日?)し、華厳宗を伝える。
  • 737年 疫病が大流行し、藤原房前・麻呂・武智麻呂・宇合の4兄弟が病死。「防人」を停止。
  • 738年 橘諸兄を右大臣に任ず。諸國の「健児」徴集を停止。
  • 739年 諸國の兵士徴集を停止。郷里制(727~)を廃止。
  • 740年 聖武天皇、河内・知識寺で「廬舎那仏」像を拝し、大仏造立を決意。金鍾寺(のちの東大寺)の良弁が、審祥を招いて『華厳経』講説(~743)。藤原広嗣の乱聖武天皇、伊賀・伊勢・美濃・近江・山城を巡行し、「恭仁」に入る。行基、恭仁京右京に「泉大橋」を架設。
  • 741年 「恭仁京」に遷都。諸国に国分寺・国分尼寺を建立の詔。「恭仁京」の橋造営に労役した「行基集団」750人の出家を許す(第2緩和令)。
  • 742年 行基、朝廷に「天平十三年記」を提出(行基集団の公認。官民提携の成立)。「紫香楽」の造営を開始。
  • 743年 墾田永年私財法」。紫香楽で「大仏造立の詔」を発し、廬舎那仏造立を開始。「恭仁京」の造営を停止。
  • 744年 「難波宮」を皇都と定める勅。行基に食封 900戸を施与するも、行基は辞退。行基、摂津國に「大福院」ほか4院・付属施設3所を起工。
  • 745年 「紫香楽」に遷都。行基を大僧正とす。「平城京」に都を戻す。平城京の「金鍾寺」(のち東大寺)で、大仏造立を開始。
  • 749年 行基没。聖武天皇譲位、孝謙天皇即位。藤原仲麻呂を紫微中台(太政官と実質対等)長官に任ず。孝謙天皇、「智識寺」に行幸。
  • 752年 東大寺で、大仏開眼供養。

《第Ⅳ期》 750-770 称徳(孝謙)天皇没まで。

  • 754年 鑑真、来朝し、聖武太上天皇らに菩薩戒を授与。
  • 756年 孝謙・聖武、「智識寺」に行幸。聖武太上天皇没。
  • 757年 「養老律令」施行。藤原仲麻呂暗殺計画が発覚、橘奈良麻呂ら撲殺獄死(橘奈良麻呂の変)。
  • 758年 孝謙天皇譲位、淳仁天皇即位。
  • 764年 藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱道鏡を大臣禅師とする。淳仁天皇を廃位し配流、孝謙太上天皇、称徳天皇として即位。
  • 765年 寺院以外の新墾田を禁止道鏡を太政大臣禅師とする。
  • 766年 道鏡を法王とする。
  • 769年 道鏡事件(天皇即位の可否で政争)。
  • 770年 称徳天皇没。道鏡失脚、左遷。光仁天皇即位。
  • 772年 墾田禁止を撤回
  • 773年 行基を顕彰し、菩提院ほかの荒廃6院に寺田を施入。

 

 

遠 見 山 古 墳        群馬県前橋市総社町総社1410

5世紀後半の前方後円墳で、墳丘は三段からなる。「総社古墳群」のなかで最も古い。

周堀で、6世紀初頭の榛名山大噴火の火山灰堆積が検出されている。


 


【138】 「智識」と首長層――後進地の事例

 

 

 さて、私たちは前々回までに、8世紀を中心とする「初期荘園」の社会経済史的な流れを概観しました。その傍らで、「行基集団」をはじめとする各地の「知識集団」――それらの宗教運動は、どんな位置づけを与えられるでしょうか? ここでもまた、古いほうから新しいほうへ、「後進地」から「中間地」「先進地」へ、という流れを追って見ていきたい。これを、【聖武と行基集団】の最後のテーマとして扱いたいと思います。

 

 はじめに扱うのは上野國――現在の群馬県の事例です。上野國――上州は、常陸と並んで、東国では最も早くから開発が進んだ地方です。ここには古くから多数の渡来人が移住してきたと思われますが、残念ながら残された文字史料が少ないために、実体は謎に包まれています。

 

 上州では、6世紀に榛名山の2回の大噴火があり、被害復興のために積極的に渡来人を誘致したと言われています。また、その後の上州は、東北地方と同様に、馬産地として繁栄しました。「群馬」という地名も、馬産地であったことに基いています。以上2つが、上州が東国の他の地方に先駆けて開発された主な要因と思われます。

 

 このような経緯からでしょう、古代上州の豪族「上毛野氏」「車持氏」「物部氏」等はいずれも、中央(畿内)および各地にも根拠地を持ち渡来系の血筋ともつながる一族でした。「上毛野」氏は『日本書紀』等の朝鮮・蝦夷外交・遠征に登場し、奈良~平安初期の中央官人にも多数現れています。

 

 「車持」氏は、大王の車駕(輿)を持つ職能集団から発した氏族ですが、「群馬」の語源にも関わります。「群馬」という地名は、江戸時代までは「くるま」と読んでいました。古代には「車評」〔「評」は「郡」の古い名称〕と呼ばれましたが、「くるま」が「群馬」と書かれるようになったのは、その頃には牧馬が盛んになっていたためだと言われています。「車持」氏は、百済外交、筑紫、摂津での活動が『日本書紀』に記され、また藤原不比等の母は車持氏であり、「車持千年」という宮廷歌人が元正聖武帝のもとにいました。

 

 「物部」氏については述べるまでもありません。畿内豪族の「物部氏」と、出自までが同じかどうか分かりませんが、同視されます。上州出身の首長氏族だとしても、中央の「物部氏」に合流し支脈となったものでしょう。

 

 純父系であれば、異なる氏族が合体することはありえないのですが、古代ないしそれ以前の日本(倭人)は双系制だったと言われています。↓このあとの碑文の検討でもわかりますが、奈良時代になっても、母系の痕跡が濃く混じりこんでいます。双系制の場合、家系の合併はありうるので、畿内以外の地方首長層では、氏族の合体や吸収は珍しくなかったと思われます。

 

 上の写真2枚↑の「総社 そうじゃ 古墳群」は、「上毛野氏」の首長墳墓と推定されています。前橋市街西方の利根川右岸・台地上にあり、のちにはこの地に「上野国府」と「国分寺」が営まれています。また、ここには、のちほど述べる「山上碑」の建立者の住寺「放光寺」の址があります。

 

 

 

 

 


【139】 「智識」結成の記念碑として

 

 

 最初に取りあげるのは「金井沢碑」です。「総社古墳群」から 14km ほど南方の丘陵地に立っていますが、その 1.4km 南東に「山上碑」、総社放光寺」の末寺と見られる「田端廃寺」址、烏川を挟んで北側に、↓碑文にある「下賛(しもさぬ)郷」の推定地・下佐野町があります。2つの碑を建てた「佐野三家(みやけ)氏」は、このあたりを本拠とする一族であったと思われ、総社の「上毛野氏」とも関係が深かったようです。「上毛野氏」の支族だったかもしれません。

 

 

金 井 沢 碑              群馬県高崎市山名町

「上毛野氏」のもとで「佐野ミヤケ」を管理した地域豪族「三家氏」が

726年に建てたと推定される。朝鮮半島の石碑と、形態が類似する。


 

『上野國・羣馬(くるま)郡・下賛(しもさぬ)郷・高田里、三家(みやけ)子□、七世父母・現在父母の為に、現在侍る家刀自(いへとじ)なる他田(おさだ)君・目頬刀自(めづらとじ)、又、児なる加那刀自、孫なる物部君・午足、次の馴*刀自(ひづめとじ)、次の若馴*刀自、合せ六口、又、知識結(ゆ)ふ所の人、三家(みやけ)毛人(えみし)、次の知万呂、鍛師(かぢし)・礒部(いそべ)君・身麻呂、合せ三口、是(か)くの如く知識を結ひて天地に誓願し仕へ奉(まつ)る石文(いしぶみ)

 

 神亀三年丙寅〔726年〕二月二十九日

* つくりは「爪」。   

 

 

『内容は、既存の2つの知識が統合し、新たな知識を結んだというものである。大意は、上野國群馬郡の下賛(しもさぬ)郷の三家(みやけ)子□〔「子□」は人名。□は判読不能文字――ギトン註〕が、先祖代々の父母のために、妻の他田・目頬刀自と娘の加那刀自、そして孫(加那刀自の子)の物部午足、馴*刀自、若馴*刀自〔「~刀自」は女性名――ギトン註〕の合せて6名で構成した知識と、これと別に三家毛人と三家知万呂、そして礒部身麻呂の3人で構成された知識とが合わさり、新たに知識を結ぶ、というものである。石碑が建てられた時期は碑文末にある神亀三年〔726年〕頃となる。

磐下徹『郡司と天皇』,2022,吉川弘文館,pp.128-129.  

 

 

 すこし補足しておきますと、「群馬郡」というのは非常に広い郡でして、「上毛野氏」の本拠地である・総社古墳群のある辺りから利根川を越えて現在の前橋市街、さらに高崎市北部までを含みます。この碑の願主〔碑を建てた中心人物〕である「三家・子□」は、その「群馬郡」の南端「下賛(しもさぬ)郷」(現在の高崎市下佐野町)に住んでいたわけです。↑上の地図でわかるように、利根川の支流・烏川を挟んで北側が「群馬郡」、その川岸に下佐野町があります。

 

 「七世父母・現在父母の為に」というのは、当時の写経の跋や仏像の銘などによく書かれる常套句でして、この文句を重視して、先祖の供養のために建てた碑だ、と見なすのは(地元の教育委員会の見解ですが)、私は適切でないと思います。磐下氏が正しく指摘するように、この碑の目的は、2グループの「知識」の合併と新しい「知識」の結成を宣言し、後人の証拠とすることにあります。

 

 「現在侍 はべ る家刀自」という、見慣れない表現があります。「家刀自」は主婦という意味です。ここは碑文の解読にあたって論争になってきた部分ですが、私は、藤岡北高校教諭・小池浩平先生の見解がすぐれていると思いました(多胡碑記念館・編『金井沢碑の遺産』,2020,pp.33-38)。当時は「多産多死」型の社会で、30歳未満で死亡する人が大部分だった。したがって、妻を亡くした夫の再婚が多かったが、逆に、夫を亡くした妻の再婚は難しかった。一定年齢以上の女性が結婚するのは難しかったからです。したがって、再婚相手の後妻は、夫よりかなり若いことになります。

 

 そこで、↑この「現在侍る」主婦とは、「三家子□」が前妻を亡くした後に再婚した後妻、と読むことができます。「他田・君・目頬刀自」が、その後妻で、夫の「子□」よりも、かなり若いはずです。ちなみに、当時は夫婦別姓でして、妻は生家の氏姓を名のり、子供たちは婚家(つまり父)の氏姓を名のります。

 

 そして、「児なる加那刀自」は、後妻の若妻「目頬刀自」の娘ではなく、前妻の娘であり、そのあとの「孫なる物部‥‥」以下3名も、前妻のほうの孫、ということになります。なぜなら、そう考えるのが年齢構成上もっとも自然だからです。「次」は、この時代の戸籍記法で、兄弟姉妹の関係を表します。

 

 「三家子□」の孫、つまり「加那刀自」の3人の子は「物部」氏になっていますが、そこから、「加那刀自」は物部氏の夫と結婚したことがわかります。

 

 第2の「知識」集団3名のうち、「三家毛人」と「知万呂」は「次」でつながっていますから、兄弟です。また、鍛冶師の「礒部・君・身麻呂」は、小池氏の考察によれば〔いま、推定の根拠は省略〕、「毛人」らと婚姻関係でつながった姻族(義兄弟等)である可能性が高い。「礒部(磯部)」は、「磯部温泉」として現在も群馬県西部にある地名です。数十年後の史料ですが、『続日本紀』によると 766 年に上野國甘楽郡の「礒部牛麻呂」ら4人が朝廷から「物部公」の姓を賜っています。「磯部氏」は、もともと「物部氏」とつながりのある地方氏族だったと考えられます。

 

 以上から系図を書くと、↓次のようになります。

 

(前妻)  (物部・君・某)

         ┃

  ┠── 三家・加那刀自 ─┬─物部君・午足

  ┃            

三家・子□          ├─物部君・馴*刀自

  ┃            

他田・君・頬刀自(後妻)   物部君・若馴*刀自

 

     ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―

 

 ┌─ 三家・毛人

 │

 └─ 三家・知万呂

 

 :

 └…… 鍛師・磯部・君・身麻呂

 

 ( )でくくったのは、碑文に現れない人物です。つまり、「知識」員に入っていません。この2人は、物故していたのかもしれません。

 

 系図を見て、まず気づくのは、女系でつながっている部分が多いということです。その部分を赤い線で示しました。「知識」員中の女性の割合も、4/9 です。「知識」の結成にあたって、女性と女系のつながりが大きな役割を果たしています。おそらく、「知識」の活動においても、女性が中心になっていたのでしょう。

 

 つぎに気づくのは、「三家」氏は無姓だということです。若妻の「他田」氏にも、孫の「物部」氏にも、鍛冶師にさえ姓 かばね があるのに、人数が多く有力な「三家」氏に姓が無いのは、異様に思えます。小池氏は、これは「三家」氏が渡来人であるためと考えておられるようです。しかし、渡来人だから無姓だ、ということは言えないと思います〔※↓〕。

 

 ※註: 当時、渡来人は多くの場合、移住にあたって、朝廷で「帰化」の儀式を行なっていました。天皇に忠誠を誓って服属するための儀式です。その結果として「姓 かばね」を賜与されました。だから「帰化人」と呼ばれるのです。現在の日本の社会では、歴史学界でも、「帰化人」という呼び方は失礼だということで、「渡来人」と呼ぶことになっています。それに文句を言うつもりはありませんが、「帰化人」という言葉を禁止用語にすることが、はたして歴史認識としても正しいのかどうか、疑問に思わないではありません。重要なのは、言葉ではなく人権意識であり “こころ” です。「渡来人」と呼びならわしながら、「強制連行追悼碑」を「群馬の森」から撤去せよと要求する人びとの行動は、歴史に学ぶ姿勢を二重に裏切っています。

 

 私はむしろ、「山上碑」を見て思うのは、「三家」氏は土着性が強いから無姓なのではないか? ということです。というのは、「金井沢碑」より約 50年古い「山上碑」の登場人物には、無氏・無姓が多いのです。「氏(うじ)」も「姓(かばね)」も、もともと東国には無かったのではないか? ‥‥

 

 そこで、――「金井沢碑」の分析に、やや深入りしてしまいましたが――「山上碑」に移りたいと思います。

 

 


【140】 「山上碑」――ウジもカバネも無視する強者たち

 


 「山上碑」は、「金井沢碑」からほど近い丘陵南側の斜面に、「山上古墳」とセットで建てられています。紀年は「金井沢碑」の半世紀前、7世紀後半のものです。

 

 

山 上 古 墳              群馬県高崎市山名町

7世紀半ばの山寄せ円墳。「佐野ミヤケ」を管理した地域豪族「三家氏」の

墳墓で、横穴式石室は複数の被葬者を収容する。中世に観音窟として

再利用されたため、石棺・遺物等は残っていない。

 

山 上 碑              群馬県高崎市山名町

「山上古墳」の前に建つ。681年の銘を持つ。総社「放光寺」

の僧「長利」が、「山上古墳」に追葬した母の供養を祈る碑

 

 

『辛己歳〔681年〕集月〔10月〕三日記す。


 佐野三家(みやけ)を定め賜(たま)へる健守命(たけもりのみこと)の孫・黒売(くろめ)刀自、此(ここ)に新川臣(にっかわのおみ)の児・斯多々弥足尼(したたねのすくね)の孫・大児臣(おおごのおみ)に聚(とつ)ぎて生める児・長利僧、母の為に記し定むる文也。 放光寺僧


 

 「山上碑」は、「金井沢碑」の 45年前に建てられていますが、碑文の最初に「佐野ミヤケ」が記されており、下賛(しもさぬ)郷(現在の高崎市下佐野町)に「屯倉(みやけ)〔律令国家成立以前の天皇・皇族の領地ないし直轄地。公式的には「大化の改新」で廃止された〕があったということが分かります。

 

 この「山上碑」と「金井沢碑」を建てたのが、同じ一族だとすれば、それはかつて「佐野屯倉」を管理していた氏族で、その由緒から、「金井沢碑」の8世紀には「三家(みやけ)」氏と名乗るようになったことが考えられます。

 

 碑文の大意は、「佐野屯倉」を設置した「健守命」という先祖がいて、その子孫に「黒売刀自」という女性がいる。この碑を建てたのは、総社の「放光寺」の僧「長利」という人で、「黒売刀自」の息子である。母が亡くなったので、一族の墳墓である「山上古墳」に追葬して、供養のために、この碑を建てる。ということです。

 

 碑文には、「黒売刀自」が嫁いだ・「長利」の父方も記されています。それによると、「新川(にっかわ)臣」の息子の「シタタネのスクネ」の子孫である「大児(おおご)臣」が「長利」の父、ということです。「新川」「大胡(おおご)」は、現在もある地名で、前橋市から東に延びる上毛電鉄の駅名になっています(↑地図参照)。そのあたりは赤城山の裾野で、「上毛野氏」の勢力圏だったところです。この父方の家系も「上毛野氏」の支族だったかもしれません。

 

 

漆 山 古 墳              群馬県高崎市下佐野町

佐野屯倉」の中心部と推定される古墳。屯倉を管理した「三家氏」の本拠地。

訪れた時、ちょうど墳頂・石槨部の発掘・調査中であった。

 

 

 それにしても気になるのは、この碑には登場人物の氏(うじ)も姓(かばね)もほとんど記されていないことです。ニッカワ・オオゴの「臣」は、カバネのように見えますが、先史の独立王国であった「毛の国」の臣かもしれません。「スクネ」もカバネとして存在しますが、カバネならば「宿禰」と書かれるはずです。「山上碑」は現存する日本最古の石碑ですが、よく見ると、じつに奇妙な書き方が見られるのです。

 

 そこで、私が感じるのは、父系の繋がりを表すウジ、天皇への服属を示すカバネに対して、東国の人びとは、異和感を持ったのではないか? ということです。「金井沢碑」と同様に、「山上碑」でも、女系のつながりが感じられます。被葬者の「黒売刀自」は、大胡の臣に嫁いでも、住地は、自分の一族の「佐野ミヤケ」にとどまり(妻問い婚)、「佐野ミヤケ」の地域の墳墓に葬られているのです。

 

 しかし、そうしてウジやカバネに対して抵抗を感じている人びとが、なぜ先祖代々、天皇の「屯倉」の管理者として君臨しているのか?‥ここに重要な問題があります。一族の始祖「健守命」が「屯倉」を「定め賜」わったということは、自分の領地を天皇に献上して、その管理者におさまったことを意味します。そうして生じた垂直のつながりを利用して、進んだ渡来文化を受け容れ、貢納を集めて中央に納める拠点を建設して、地域の支配をはかったということです。

 

 しかも、「屯倉」は、645年の「大化の改新」で、中央では公式的には廃止されているのです。にもかかわらず、それから 40年近くたっているのに、いまだに「ミヤケ」の設置を誇示しているのです。中央の「屯倉」廃止は、律令制の導入・公民化政策に基くものでした。が、「佐野ミヤケ」の一族は、それに抵抗して「屯倉」管理者の既得権益を守ろうとしているようにも見えます。

 

 


【141】 東国に及んできた律令制と「寺院統制」

 

 

 もう少し広い見方をすると、「大化の改新」で制度上廃止された屯倉、部曲、部民などは、柄谷行人氏のいう「交換様式A」〔原始的贈与・返礼の水平交換〕から「交換様式B」〔国家による保護と支配の垂直交換〕への移行の拠点であったと言えます。縄文の遺制が濃く残る東国では、この移行に対して抵抗が強かったのではないか? 抵抗が大きいために、在地の独自の発展によって「B」に移行することは困難であった。

 

 そこで、東国では(倭国の他の後進地でも)、先進地の支配機構を移植して、それに依存することによって、移行してゆくこととなった。もともと倭国の社会は、原初からの平等性への固着が強く、縄文時代には、人びとが互いに規制を結んで、原初の社会構成を維持しようとしたのです(このへん、私の調査はまだ進んでおらず、構想の段階なのですが‥)。垂直的な社会編成はなかなか育ちませんでした。「B]に移行するには、外部から垂直的な文化やイデオロギーを受け入れる必要があったのです。

 

 しかし、抵抗を排除して受け入れるには、(武力征服を受けるのでなければ)何らかのきっかけが必要です。自然災害は、そうしたきっかけになりえたと思うのです。6世紀の上州で起きた榛名山大噴火のような大災害からの復興は、外部から異質な文化・イデオロギーを受け容れる契機となりえたのではないでしょうか。

 

 

高崎市下佐野町付近の 烏 川     左岸に下佐野町と「漆山古墳」。

右岸中央の丘陵上に、「金井沢碑」「山上碑」「山上古墳」がある。

 

 

 ところで、中央朝廷・律令制との緊張関係ということで言えば、この「山上碑」を建てたのが「放光寺」の僧である点も重要です。「放光寺」は碑建立の 2年前 679年に「定額寺」〔官大寺・国分寺に準ずる寺格を与えられた私寺〕に指定されています。そのことによって、僧尼統制が強められたことが考えられます。「僧尼令」〔701年「大宝律令」で定められたが、それ以前の 668年近江令などにもすでに個々の規定があったとする見解もある〕によれば、僧侶は寺外で布教活動をしてはならないこととされていました。「長利」にしてみれば、郷里の同族や配下の民に対して布教をするなというのは無理な話でしょう。そこで、自分がしているのは亡き母の供養であり、一族の先祖の追慕である、ということを示す碑を建てて、朝廷と国司に対して寺外の活動を正当化したのではないか。小池氏は、そう指摘しておられます。

 

 そうした「三家」一族への布教が、のちの「金井沢碑」に見られる「知識」の活動につながっていくわけです。

 

 

山 王 廃 寺 (放 光 寺 址)        群馬県前橋市総社町総社

看板のあたりが金堂址。右の「日枝神社」(ブロック塀内)の中に、

発掘された石製鴟尾、塔心礎などがある。

 

 


【142】 後進地域「智識」の特徴――地域首長層と女系

 

 

 さて、以上から、「金井沢碑」を建てたのが、「佐野屯倉」の管理者として抬頭した「三家(みやけ)氏」を中心とする「知識」集団であったことが明らかになったわけですが、碑文には「三家氏」のほかに「他田(おさだ)氏」「物部氏」「礒部氏」が登場します。この碑の建立によって合同した一方の「知識」(6人)には「三家氏」「他田氏」「物部氏」がおり、他方の「知識」(3人)には、「三家氏」「礒部氏」がいます。前者の「三家子□」をはじめとする6名の住地は、「上野國羣馬郡下賛郷」と記されているように、「群馬郡」所属の「佐野ミヤケ」です。

 

 ところが、「金井沢碑」も「山上碑」も、立っている場所は「群馬郡」ではなく、烏川をへだてて南側の「多胡郡山部郷」なのです。「群馬郡」の「知識」が、その結成を記念するのに、隣りの「多胡郡」に碑を建てるのは、考えてみれば変です。

 

 そこで、磐下氏が指摘するのは、後者の3人の「知識」は、「多胡郡山部郷」の人びとなのではないか。つまり、2つの郡で別々に活動していた「知識」が合同したのが、この碑が記念するイベントだったということです。

 

 そして、この合同を導いたのは、「三家」氏という同族のつながりであったと考えてよい。「多胡郡」のほうにいる「礒部氏」は、「物部氏」の支族と見ることができるので、「物部氏」も両方のグループに居て、合同の基礎になっている。

 

 

『群馬郡と多胡郡で別々に結ばれていた2つの知識は、神亀3年に至り、三家氏のルーツである「佐野三家」を前提に、〔…〕9名・4氏族からなる新たな知識に再編されたのである。

 

 ミヤケは、〔…〕その管掌者の一族や子孫から郡司が登用されることがあった。〔…〕また、碑文に登場する他田氏、物部氏、礒部氏も、上野國の郡司やそれに相当するような官職・地位を得ていたことが史料上確認できる。すなわち、かれらは郡司輩出氏族とみなすことができる。

磐下徹『郡司と天皇』,2022,吉川弘文館,pp.133-134.  

 

 

 この時代には、他の諸國でも一般に言えることですが、1郡内には、10名・5氏族ほどからなる首長グループがあって、それぞれのグループから交代で「郡領」「国造」「兵衛」「軍毅」などの郡の役人や軍指揮官を出していました。各グループは複数の氏族で構成され、各氏族は、多数のグループ・郡にまたがる血縁でつながっていました。そのような「郡領」層=在地首長層の一部が「知識」集団を結んでいたことが、上州の事例から確認されたわけです。

 

 ここで特徴的なのは、「知識」員として名があがっているのは、みな首長層であり、民衆は含まれていないことです。それが後進地の「知識」の特性であり、「行基集団」のような畿内・先進地の「知識」とは異なる点です。

 

 ただ、ここでも確認できるのは、女性が「知識」のなかで重要な役割を担っていることです。これは、「行基集団」などとも共通します。そして、おそらくは後進地の卓越点と思われますが、女系が、「知識」の結合に重要な役割を果たしているのです。

 

 

放 光 寺   出土した文字瓦   前橋市総社歴史資料館

平瓦の凹面にヘラで「放光寺」と陰刻されている。

 

 

 今回にかかわる踏査記録⇒:[ヤマレコ] [ヤマレコ] YAMAP YAMAP

 

 

 

 

 

 

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