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柄谷行人・著『力と交換様式』著者サイン入り本。
 

 

 

 


 

 柄谷行人氏が 2022年10月に出した大著『力と交換様式』は、氏のこれまでの社会・経済・人類史にかかわる論著を大成したものといってよいと思います。しかし、ここで扱うのは、著者自身がこの著の構想をわかりやすく述べた講演、インタビュー、斎藤幸平氏らとの討論、大澤真幸氏らによる論評などをまとめた新書本です。

 

 なんだ書評の書評か、とおっしゃるかもしれませんが、本著を自分で読みこなすには時間がかかるので、とりあえずは紹介本のレヴューにおつきあいください。

 

 『力と交換様式』で中心となっているのは、『世界史の構造』〔2010年〕までの諸著で論じてきた・人類史における4つの「交換様式」の変化発展という見方ですが、こんどの著では、その基本図式にも多少の修正が見られます。これまでは、農耕・定住以前の段階で支配的であったとされた「原・遊動 げんゆうどう U」が、言及されなくなっています。

 

 しかし、「原遊動U」という・個々人の独立と平等に根ざした原始社会の特質は、無視されているのではなく、むしろより重要視されて、「交換様式A」と合体して考えられているようです。そして、人類の未来における「原遊動U」の再現とされた「交換様式D」は、「交換様式A」の「高次元における回復」として、単なる遊動性を超えたものとして描かれています。そこには、ネグリハートの言う「マルチチュード」による世界変革という・楽観的すぎる構想への批判が感じられます。いわば「D」は、「高次元における回復」の「高次元」に力点をおいて肉付けされたと見ることができます。具体的には、現在の世界における「国連」の役割を、ひじょうに不十分ではあっても、国家を超える「D」の現れとして肯定的に評価していることが注目されます。そこには、カントの「恒久平和論」にかかわる氏の思索が反映されていると思います。

 

 他方で、柄谷氏の「D」は、論者によって「神」と言い換えられたりもします。現に、バーグルエン哲学文化賞〔哲学界のノーベル賞――ギトン註〕受賞の前後から、氏のもとには、世界中のキリスト教神学者からの講演依頼が寄せられているそうですが、氏はそれらをすべて断っているといいます。人類の希望ある未来というべき「D」を神学的に理解するのは、一面的に過ぎると、氏は考えているようです。

 

 

 

 4つの「交換様式」とマルクスの「生産様式」

 

 

『柄谷さんは、四つの交換様式から社会構成体を見るという視点を、「トランスクリティーク」〔2001年著――ギトン註〕で最初に提起されました。そして、それが人類の歴史の中で具体的にどのように働き、存在しつづけてきたかを「世界史の構造」において示された。今回のご著書では、そこからさらに踏み込み、交換様式Dについて、始めて詳細に分析されています。』

柄谷行人・他『柄谷行人「力と交換様式」を読む』,2023,文春新書1410,p.73.  

 

 

 柄谷氏の言う「四つの交換様式」とは、つぎのようなものです:

 

 

『A 互酬(贈与と返礼)

 B 服従と保護(略取と再分配)

 C 商品交換(貨幣と商品)

 D Aの高次元での回復』

柄谷行人・他『柄谷行人「力と交換様式」を読む』,2023,文春新書1410,p.30.  

 

 

 

 

 「交換様式」は、マルクスエンゲルスの「生産様式」にヒントを得た社会経済概念ですが、内容は大きく異なります。したがってそれに基づく社会構成体史の構想も、唯物史観とは異なるものです。

 

 マルクスエンゲルスの「生産様式」は、人と自然との関係である「生産力」と、人と人との関係である「生産関係」の総称で、「生産関係」がどんな形態をとるかは、「生産力」の発展程度に規定されると彼らは考えました。「生産力」が増大するのに応じて、社会の「生産関係」は「原始共産制」→「奴隷制」→「農奴制」→「資本制」→「社会主義」と発展してゆくとしたのです。

 

 しかも、「マルクス主義」者のいう「唯物史観」はそれにとどまらず、「生産様式」を経済的「下部構造」と呼び、国家・法律・文化といった政治的法的イデオロギー的なものを「上部構造」と呼んで、「上部構造」は「下部構造」に規定されるとしました。

 

 もっとも、「下部構造」が一方的に完全に「上部構造」を規定する(経済決定論)と考える人は、マルクス主義者にも多くはありません。多かれ少なかれ、「上部構造」にはそれ自体の相対的「自律性」があるとするのがふつうです。マルクスのあとから出てマルクス主義を批判したウェーバーフロイトは、この「上部構造」(宗教的実践倫理/人間の無意識)の・経済に規定されない自律性を強調したのです。ウェーバーによれば、むしろ「唯物史観」とは逆に、プロテスタンティズムの宗教倫理(上部構造)が、資本主義という「生産関係」(下部構造)をもたらした。そういう「逆方向」の影響が起きることも歴史にはあるのだ、というわけです。

 

 しかし、柄谷氏の「交換様式」は、「生産様式」とはまったく異なる考え方です。異なるものですから、「生産関係」の歴史とは、ある場合には両立すると考えることもできます。しかし、根本的な発想が異なっているのです。人間の経済活動のなかでは、「生産」以上に、生産したものの「交換」が重要である。いくら膨大なモノを生産しても、消費する者の手に渡らなくては無駄になってしまい、生産自体ができなくなってしまう。売れなければ生産はストップする。

 

 じつは、これ↑は、マルクス自身が『資本論』のなかで書いていることなのですが、彼はそこから「交換様式」論を全面的に展開してはいません。それでも『資本論』の目次を見ると、「商品」→「貨幣」→「資本」という順序で論述を展開しています。そして、最終的に「資本」じたいが「商品」となる「株式資本(金融資本)」の段階に至って、『資本論』の叙述は完結する予定でした。

 

 どうしてマルクスはそこまで書かなかったかというと、柄谷氏によれば、政治的アジテーションを優先させたためです。いますぐにも資本主義は終焉して社会主義に移行するのだぞ、と言いたいがために、「株式資本」段階に至る以前の「第1巻」末尾で、資本主義の終りを宣告してしまった。だから、もうそれ以上は書けなくなった、というのが柄谷氏の見立てです。

 

 

 

 

 

 「交換様式」が造りだす「国家」「国民」「世界戦争」

 

 

 資本制経済は、「商品」の交換にもとづくシステムで、「交換様式」の図式で言えば「C」です。しかし、それだけが人間社会の「交換」のしかたのすべてではない。まず、原始社会のコミュニティーで卓越しているのは、「交換様式A」です。現代でも、家族というコミュニティーの内部では、売ったり買ったりという「C」は、あまりやらない。もっぱら交換は、「贈与」と「お返し」です。古いしきたりが残っている村では、近隣との交換は、もっぱら「A」になります。

 

 ところが、人類学者マルセル・モースが明らかにしたのは、原始社会ではこの「贈与」に「霊力」があると信じられていることです。「贈与」を受けた者が、受けとったもの以上の「お返し」をしないと、バチが当たります。ひどい時には病気になって死んでしまう。日本の昔話でも、キビダンゴをもらったから鬼征伐を手伝うとか、贈与は必ずお返しを要求します。

 

 つまり、「交換様式」は観念になって人びとの考えを束縛するのです。それによって社会が成り立つと言ってもよい。たとえば、神様にお供えをするのは、神様が「お返し」としてゴリヤクをくれるのを期待するからです。こうした「交換様式A」の観念は、近代国家になると「ネーション」という形で再現します。「ネーション」とは「幻想のコミュニティー」です。部落の人が、皆のために力を合わせて祭りを営むのと同じように、国民は「ネーション」の一員として、兵隊になって敵と戦う。

 

 「国家」というのは、A,Cとはまた別の「交換様式B」の観念が結晶したものです。原始社会では、ある場合には「ポトラッチ」という大盤振る舞いが行なわれます。首長が自分の高価な財産を、みなの眼の前で壊したり、ばらばらに分けて皆に惜しみなく与えます。気前良く与える首長ほど、種族員から尊敬を受けます。しかし、その財産は、首長が種族員から徴収して貯めておいたものだったり、種族員を働かせて生産したものだったりします。


 同様にして、臣民は、王に服従するのと引き換えに保護を受けます。日本中世の言い方でいえば「御恩と奉公」です。これが「交換様式B」で、いわば垂直方向の「交換」です。「交換様式B」は、封建領主制や絶対主義王国で働くだけでなく、近代の民主主義国家でも同様に働いているのです。トーマス・ホッブズが『リヴァイアサン』で明らかにしたのは、そのことでした。

 

 私たちは、警察や官僚に服従する代わりに、法律による保護を受けています。近代国家では、国家とネーションと資本が一体になって支配しています。ここでは、「交換様式B」「A」「C」が、「国家」「ネーション」「資本」と重なっているのです。「国家」「国民(祖国愛,愛国心)」「資本」とは、各「交換様式」が生み出す観念にほかなりません。

 

 

『1990年頃、「歴史が終った」といわれていたときに、「終っていない」と私は言っていました。どういう歴史か。帝国主義戦争の歴史です。それがまた反復される。〔…〕

 

 ソ連邦の崩壊があり、東西冷戦の時代が終りました。1991年のことです。あの時、「歴史の終焉」ということが盛んに言われていました。民主主義と自由主義経済が勝利し、世界平和と安定が訪れる。今後、世界的な戦争や歴史を変える大事件も起こることはない。そんなことが言われた時代でした。〔…〕

 

 民主主義と自由主義経済によって歴史の終焉となるのか。一切なりません。国家は残ります。資本ももちろん残る。何も変わることはない。その証拠は、現在の世界情勢を見ればよくわかります。〈世界戦争〉が迫っている。既に起こっているといっていいかもしれません。〔…〕

 

 資本・国家・ネーションは、執拗に残るのです。それらは、それぞれ、異なる「力」によって支えられています。私は『世界史の構造』において、そのような「力」が、たんなる観念ではなく、交換様式から来る観念的な力であることを示す仕事をしました。そして、こう述べた。資本=ネーション=国家、つまり、交換様式A=B=Cを超えるのは、交換様式Dだけであると。』

柄谷行人・他『柄谷行人「力と交換様式」を読む』,pp.96,76,45.  

 

 

 

 

 

 

 「交換様式D」とは、どんなものか?

 

 

 「交換様式D」は、原始社会で卓越していた「交換様式A」の高次元での回復だといいます。どんな点が、人類の歴史とともに失われてしまった幸福な社会関係の「回復」であり、どんな点が、原始社会の偏狭さを脱する「高次元」なのか?

 

 柄谷氏の原始社会観の特徴は、社会(コミュニティー)を構成する個々人の「独立性」と、成員間の「ゆるい繋がり」にあります。それをもたらしているのは、各個々人も、その集合体であるグループも、移動がたやすく、離合集散が自由であることです。ここには、柄谷氏が柳田国男から学んだ「原遊動U」という見方が影響を及ぼしていると思われます。

 

 

『氏族社会の共同体にも、それぞれ掟はあるけれど、個々人は独立している。マルクスが晩年関心を寄せたルイス・モーガンの『古代社会』という本があります。そこでアメリカのホピ族について書いている。部族の中にいる人たちは、自分がいる部族が嫌になったらすぐに出て行くことができます。いたければ、ずっといればいい。そうしたゆるい繋がりを持ちつつ作り上げられたのが古代社会です。それは国家ではありません。』

柄谷行人・他『柄谷行人「力と交換様式」を読む』,p.81.  

 

 

 遊動する独立した個々人のゆるい繋がり――それによって、いわば物理的条件によって保証された自由と平等――。こうした原始社会のイメージは、その「高次元における回復」である「交換様式D」の内容と実現可能性の構想にも影響を及ぼしているように思われます。

 

 「交換様式D」は、意識的に実現することなど、できない性質のものだ、と柄谷氏は言う。この点で、氏の構想は、マルクス、エンゲルス、レーニンらとも、近代諸国の民主的な政治活動家たちとも真っ向から対立します。意識も計画もできないとなれば、運動方針も綱領もスローガンも公約も、いっさいの政治的目標が不可能となります。

 

 しかし、何もするなと言っているわけではない。小規模ながら実現できることはあるし、まったく実現できないことであっても努力して悪いわけではない。ただ、「交換様式D」は、それによって実現されるのでも、到来が早められるのでもなく、まったく予想しない機序によって、いつか、思わぬほうから、やってくる‥‥。

 

 

『国連には「国連システム」という運営のための組織体があって、常任理事国が大きな権力をもつ安全保障理事会もそのひとつですが、そうではないローカルで小規模な組織も多く参加していて、それぞれが独自の課題をもって独立して活動している〔…〕国連のもとで、それらが結び付くことができるのです。それによって、諸国家を超えた問題、たとえば、地球規模の環境問題に取り組むための協力体制を築くこともできる。〔…〕国連にはまだいろいろな可能性がある、〔…〕国家も簡単には介入できないからね。〔…〕

 

 今後、国連システムは世界協同組合のようなものになる可能性をもっているのだから、未来において共産主義ができるとすれば、「国連システム」がその母体の一つとなるはずだと思います。

 

 〔…〕しかし、Dは、われわれが意識的に計画したりして、実現できるものではない。われわれにできるのは、交換様式Aを意識的に広げることですね。これは 19世紀のロバート・オウエンやプルードンのようなユートピアンがやろうとしたことです。

 

 もちろん、それは小規模なもので、国家に対抗できるものではありません。しかし、たとえば、生活クラブ生協のような交換様式Aに立脚する組織がたくさんありますから、意識的にそれらを選ぶことができるわけです。〔…〕「国連システム」も、主としてかかわるのは交換様式Aにもとづく社会〔小規模なコミュニティー――ギトン註〕ですね。〔…〕

 

 一方、交換様式Dは、われわれが選んだり計画したりすることができるようなものではありません。それは、いわば「向うからやってくる」ものです。そして、それが到来する時、国家と資本、つまりBとCの霊たち〔観念的な「力」――ギトン註〕は消滅することになる。いつそうなるかはわかりません。しかし、必ずそうなるだろうと思う。

 

 〔…〕最近、東京への流入より東京から流出する人口のほうが多くなっています。私が交換様式Dとして考える将来の世界の可能性は、そういう変化に似ています。無理にやろうとしてもできないけれど、無理やりやってきたことが破綻した後に、自然に姿を現わすのだ、と……。

 

 〔…〕資本は交換様式Cで、国家は交換様式Bですが、いずれも交換からくる観念的な力にもとづいている。〔…〕それらが人間の頭に深く入っている。だからそう意図したからといって取り去ることはできない。しかし、他のところから別の観念が到来すれば、違ってくる。それが交換様式Dです。それは「神」だといってもいい。』

柄谷行人・他『柄谷行人「力と交換様式」を読む』,pp.126-129.  

 

 

 

 

 

 

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