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  分岐点に戻って、「山上碑」へ向かう。コナラ、アカマツ、ハリギリ、イヌザクラなど。陽樹が増えてきた。


 

 

 


 ↓有名な和歌。碑の周りに笹を生やして、演出が凝っている。この現代語訳は、無いほうがいいくらいだ。

 

 

 

 

 

 まもなく「山上碑」だが、「山名城址」というのがあるので、ちょっと寄ってみる↓。

 

 

 


 「山名城・本丸」址↓。

 

 

 



 

 「山名城」は、平安末から戦国時代まで使われた城砦で、源義家(八幡太郎義家)の曾孫・義範〔~1175-95~〕が、この城を拠点として「山名氏」を名乗り、以後8代にわたって君臨した。義家の系譜を継ぐ源氏諸派のうち、主流の頼朝は伊豆~相模に拠って鎌倉幕府を開いたが、義家の孫・義重(新田義重)の系統は、関東各地に散って、それぞれの地方に勢力をもった。上野國西部の「山名氏」、東部の「新田氏」、下野の「足利氏」、『南総里見八犬伝』で後代有名になる安房の「里見氏」がある。
 

 「山上碑」に向かう。↓碓氷峠を詠みこんだ防人歌。このあたりの出身者の歌にちがいない。

 

 


 

 

 

 「山上 やまのうえ 古墳」に到着↓。「山上古墳」は7世紀前半~半ばに造営された佐野三家 みやけ」一族の墳墓。佐野市といえば栃木県だが、佐野に本拠を置く古代豪族「三家氏」が、この高崎市のあたりまで勢力を伸ばしてきた。そうした経緯は、古墳の前に立てられた「山上碑 やまのうえひ」に記されている。

 

 

 

 

 古墳の前に↓覆屋が建ち、中に「山上碑」がある。碑文については、後日【聖武と行基集団】で説明するが、「新川 にっかわ」「大胡 おおご」といった上毛の現存地名も出てきて興味深い。それらの土地を配下に収めながら、「三家氏」が進出してきたということだ。

 

 

 

 

 

 しかし、「山上碑」の重要な歴史的意義は、丘陵の向う側の「金井沢碑」と同じ「三家」一族が関係している点にある。しかも、「山上碑」の建立は 681年、「金井沢碑」は 726年で、50年近い時差があるので、両方の情報を組み合わせると、「毛の國」の首長層の動向が立体的に分かる。碑文の解読と推理によって、同じ土地のうえでかつて営まれていた人のありよう、社会のありようが浮かび上がってくる。歴史探究の醍醐味というものだろう。

 

 「山上古墳・碑」の下には長い石段があって川沿いに下りられる。石段の途中には、宝篋印塔と、碑文を刻んだ石柱↓もあって、古いもののようだ。案内板の説明によると、石段が造られたのは近世らしい。宝篋印塔と碑石柱も、その時代のものか?

 

 

 

 

 

 下に下りると、無料バスの乗り場がある↓。直行便で「多胡碑」へ行こうと思ったのだが、数分の違いで間に合わなかった。別方向の便と「上信電鉄」を乗り継いで移動することにした。

 

 

 


 

 ↓上信電鉄「吉井」駅。「多胡碑」へは、ここからまた無料バスに乗る。

 

 

 

 

 

 多胡碑」は、遺跡公園の中にある。

 

 

 

 

 

 れいによって、↓覆屋の中に置かれている。

 

 

 

 

 

 多胡碑」は、他の2碑より大きく、碑の文字がはっきりと読める。711年に「多胡郡」の建郡を記念して建てたもので、すぐ近くでは、郡衙(郡庁)の「正倉」址が発掘されている。ここは当時、多胡郡の役所の建物が立ち並ぶ一角だったことになる。

 

 



 「多胡碑記念館」↑。詳しい説明展示を備えている。詳しすぎて、ちょっと くどいくらいだが。

 

 

 踏査記録⇒:YAMAP

 

 

 

 

タイムレコード 20230804 [無印は気圧高度]
 (1)から - 1207根小屋城址分岐※1209 - 1224山名城址分岐*[172m]  - 1230山名城址[181mGPS]1235 - 1240分岐* - 1246山上碑[142mGPS]1251 - 1305山上碑東駐車場(バス停)[105mMAP] 。