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東 大 寺 戒 壇 堂        757年創建。現在の建物は 1732年再建。

756年、鑑真が弟子らとともに来日し、授戒の場として大仏殿前に戒壇が

設けられ、聖武・光明・孝謙ほか 440余名に菩薩戒を授与した。

覆屋と囲い(戒壇院)は翌年完工。再建時に現在の場所に移転した。

 

 

 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の変」まで。

  • 710年 平城京に遷都。
  • 717年 「行基集団」に対する第1禁令
  • 718年 「行基集団」に対する第2禁令
  • 722年 「百万町歩開墾計画」発布。「行基集団」に対する第3禁令
  • 723年 「三世一身の法」。
  • 724年 元正天皇譲位。聖武天皇即位長屋王を左大臣に任ず。
  • 728年 聖武天皇、皇太子を弔う為、若草山麓の「山坊」に僧9人を住させる(東大寺の前身)。
  • 729年 長屋王を謀反の疑いで糾問し、自刹に追い込む(長屋王の変)。「藤原4子政権」成立。「行基集団」に対する第4禁令

《第Ⅲ期》 731-752 大仏開眼まで。

  • 730年 平城京の東の「山原」で1万人を集め、妖言で惑わしている者がいると糾弾(第5禁令)。
  • 731年 行基弟子のうち高齢者に出家を許す詔(第1緩和令)。
  • 736年 審祥が帰国(来日?)し、華厳宗を伝える。
  • 737年 疫病が大流行し、藤原房前・麻呂・武智麻呂・宇合の4兄弟が病死。「防人」を停止。
  • 738年 橘諸兄を右大臣に任ず。諸國の「健児」徴集を停止。
  • 739年 諸國の兵士徴集を停止。郷里制(727~)を廃止。
  • 740年 聖武天皇、河内・知識寺で「廬舎那仏」像を拝し、大仏造立を決意。金鍾寺(のちの東大寺)の良弁が、審祥を招いて『華厳経』講説(~743)。藤原広嗣の乱聖武天皇、伊賀・伊勢・美濃・近江・山城を巡行し、「恭仁」に入る。行基、恭仁京右京に「泉大橋」を架設。
  • 741年 「恭仁京」に遷都。諸国に国分寺・国分尼寺を建立の詔。「恭仁京」の橋造営に労役した「行基集団」750人の出家を許す(第2緩和令)。
  • 742年 行基、朝廷に「天平十三年記」を提出(行基集団の公認。官民提携の成立)。「紫香楽」の造営を開始。
  • 743年 墾田永年私財法」。紫香楽で「大仏造立の詔」を発し、廬舎那仏造立を開始。「恭仁京」の造営を停止。
  • 744年 「難波宮」を皇都と定める勅。行基に食封 900戸を施与するも、行基は辞退。行基、摂津國に「大福院」ほか4院・付属施設3所を起工。
  • 745年 「紫香楽」に遷都。行基を大僧正とす。「平城京」に都を戻す。平城京の「金鍾寺」(のち東大寺)で、大仏造立を開始。
  • 749年 行基没。聖武天皇譲位、孝謙天皇即位。藤原仲麻呂を紫微中台(太政官と実質対等)長官に任ず。孝謙天皇、「智識寺」に行幸。
  • 752年 東大寺で、大仏開眼供養。

《第Ⅳ期》 750-770 称徳(孝謙)天皇没まで。

  • 754年 鑑真、来朝し、聖武太上天皇らに菩薩戒を授与。
  • 756年 孝謙・聖武、「智識寺」に行幸。聖武太上天皇没。
  • 757年 「養老律令」施行。藤原仲麻呂暗殺計画が発覚、橘奈良麻呂ら撲殺獄死(橘奈良麻呂の変)。
  • 758年 孝謙天皇譲位、淳仁天皇即位。
  • 764年 藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱道鏡を大臣禅師とする。淳仁天皇を廃位し配流、孝謙太上天皇、称徳天皇として即位。
  • 765年 寺院以外の新墾田を禁止道鏡を太政大臣禅師とする。
  • 766年 道鏡を法王とする。
  • 769年 道鏡事件(天皇即位の可否で政争)。
  • 770年 称徳天皇没。道鏡失脚、左遷。光仁天皇即位。
  • 772年 墾田禁止を撤回
  • 773年 行基を顕彰し、菩提院ほかの荒廃6院に寺田を施入。

 

 

東 大 寺 東 塔 址              現在、整備工事中。
 

 


【135】 東大寺の奴婢が「紫香楽」に逃げた!



 東大寺所蔵の古文書に、「東大寺奴婢見来帳(げんらいちょう)」というものがあります。東大寺が、他所に隠れていた奴婢を捕えて連行してきた件を記した帳簿で、連行した奴婢の名前と、捕えた場所、年月日などが記されています。そのなかに、751年に「甲賀宮」の「国分寺・大工の家」で、「忍人」という逃亡奴がいるのを発見して連行したという記録があります。(栄原永遠男『聖武天皇と紫香楽宮』,2014,敬文舎,pp.197-199)

 

 「甲賀宮」とは《紫香楽宮》のことで、751年といえば、聖武天皇が《紫香楽宮》から退去して《平城京》に還都した 745年から 6年も経っています。その時点でまだ《紫香楽宮》には「大工の家」があった。おそらくは、「甲賀寺」の後身である「近江国分寺」の造営に従事していたと思われます。

 

 この「忍人」という逃亡奴は、①もともと東大寺にいた奴が逃亡して《紫香楽》の大工のもとで働いていたのか、それとも、②東大寺建設のために、朝廷官司が所属の奴婢を東大寺に属させたなかに《紫香楽》の大工の家の職人がいて、東大寺に連れて来られたのか。いずれなのかは不明です。しかし、②だとしても、「奴婢見来帳」に、この者を「捉え進む〔捕えて東大寺に献上した〕」と記されていることからすると、スムースに指示にしたがって東大寺に移ったのではない。本人は身分的束縛を嫌って、《紫香楽》に居残って抵抗していたことが考えられます。《紫香楽》では、厳しい束縛を受けなかったことが考えられるのです。

 

 《紫香楽》での大仏造営が中止され、《平城京》での大仏造営と東大寺の建設が開始されたのは、745年《平城京》還都の後ですから、東大寺に多数の官奴婢が施入されたのも、それ以後のことです。そこから考えると、「忍人」も、東大寺建設のために施入された奴婢のひとりであった可能性が高い。②であった蓋然性が高いことになります。

 

 745年の「平城京還都」のあとも、しばらくのあいだ、《紫香楽宮》には多数の官司の役人や職人が残っていたことが、複数の文書から明らかにされています(栄原永遠男『聖武天皇と紫香楽宮』,p.162)。743年10月の布告で、743年分の東海・東山・北陸3道の庸・調は《紫香楽宮》に納入されました。744年には、全国の庸・調が《紫香楽》に運ばれたと、紫香楽出土の木簡から推測されます。それらの庸・調は、少なくとも 745年いっぱいは《紫香楽》で消費されていたことになります。また、「甲賀寺」には、大仏造営のために集められた多額の「知識銭」――おそらく大部分は「行基集団」が各地で集めたもの――が貯蔵されていました。745-747年には、甲賀寺および「甲賀宮」から東大寺に、合計 1095貫もの多額の「知識銭」が収納されています(栄原永遠男『聖武天皇と紫香楽宮』,pp.194-197)。おそらく、東大寺が要求して移させたものでしょう。〔《紫香楽》に集まった「銭1095貫」がどれほどの価値だったかというと:のちに東大寺での大仏造営のために、東大寺に直接寄付した最高額の寄進者は「銭100貫」でした――ギトン註〕

 

 《紫香楽宮》には、多数の役人や、雑用に従事する労働者がいました。宮殿の造営を管掌する「造宮省」は、多数の「衛士」「火頭」を配下で使っていましたが、745年時点では「衛士」の 97%、「火頭」の 100% を《紫香楽》で使役していました。「衛士」は本来、都の守備警護にあたる兵士として、「火頭」は「衛士」の炊事にあたるために、諸国から徴集された人びとですが、じっさいには両方とも、諸種の労役に使われていたのです。ただし、彼らは奴婢・賎民ではなく、故郷では口分田を支給される良民です。(栄原永遠男『聖武天皇と紫香楽宮』,2014,敬文舎,pp.220-229)

 

 同様にして、「木工寮」は、所属技術者の 89%、「宮内省」と「主工署」は、非技術者の全員を《紫香楽》に配置していました。

 

 中央政府のほとんどの官司は、《紫香楽》に本庁または分署を置いていました。天皇が《平城京》に戻ったからといって、それらの役所は、そうすぐには移転できなかったのです。

 

 以上のように、《紫香楽宮》は、《平城京》に匹敵するほどの「みやこ」の実体を備えつつありました。もしも聖武天皇が退去しないで、そのまま《紫香楽》にとどまっていたら、紫香楽は奈良、京都と並ぶ古都になっていたでしょう。しかも、ここで推測されるのは、《紫香楽》は、《平城京》とは異なる “自由な みやこ” になっていた可能性があるということです。《紫香楽》では、「奴婢」「賎民」の厳格な身分差別が、行なわれていなかったと推測されるのです。それは、聖武行基が懐いていた理想の実現であったかもしれません。そのことを、次節で述べましょう。

 

 

東 大 寺   正 倉 院    正面・中央の閂扉。

 

 


【136】 奴婢の統制と解放――

中国式の “奴隷制” をめざした8世紀

 

 

 「紫香楽遷都」の前年 744年のことですが、聖武天皇は、一部の賎民と官奴婢を解放して良民とする「勅」を出しています。上で見たように、《紫香楽》では、奴婢が厳しい統制から解放されてゆくようすが、かいま見られるのですが、《紫香楽》遷都を推進した聖武自身が、そういう方向へ政策を進めていた可能性があります。奴婢を良民と区別しない平等志向をもった「行基集団」との関わりでも、これは注目に価します。
 


〔744年〕2月12日 天下の馬飼の雑戸(賎民に准ずる手工業者)の人たちを解放して公民とした。そこで、次のように勅された。

 

 汝らの今名のっている姓は人の恥じる姓である。そこで解放して平民の身分と同じにする。ただし、いったん解放された後でも、汝らの身についた技術を子孫に伝え習わせなければ、子孫はしだいに前の卑しい品位に従うことになってしまう(から気をつけよ)。

 

 また、官奴婢 60人を解放して良民とした

宇治谷孟・訳註『続日本紀(中)』全現代語訳,1992,講談社学術文庫, pp.26-27.〔一部改〕



 この「勅」は「和泉離宮」へ行幸した際に出されています。この年 1月11日、「難波宮遷都」を主張する貴族の大勢に押されて《難波宮》へ向かった聖武天皇でしたが、難波には1か月も滞在しないうちに「和泉離宮」に移り、そこで、この「勅」を出しています。新都《難波宮》の設営に忙しい貴族たちの監視を潜り抜け、彼らの目が届かない離宮で、自分の本懐を吐露したのではないでしょうか。

 

 ここで、奴婢・賎民に関して、より長いスパンで歴史の流れを見ておきますと(小倉道子「律令良賎制下の奴婢の存在形態」PDF『市大日本史』14巻,pp.59-88,2011年5月)、彼らの社会的処遇がわかる最初の史料は 645年「大化の改新」の際に出された「詔」です。そこでは、良民の男と婢の間の子は母に属させ(奴婢とする)、良民の女と奴の間の子は父に属させる(奴婢とする)、といったことを定めています。つまり、この段階では、良賎の通婚が禁止されておらず、厳格な身分差別はなかったと考えられます。「大化の改新」では、諸國の「品部」「部曲」が廃止されたとされており、多くの隷属民が解放されて公民(班田農民)の地位を与えられたと考えられます。

 

 このように、7世紀までの倭国・日本では、厳格な身分差別というものはなく、天皇家や豪族が所有する事実上の隷属民も、公民を増やして税収を確保する政策に基いて、解放してゆく方向にあったのです。670年の「庚午年籍」〔日本最初の戸籍〕では、良賎の区別は記載されなかったと考えられます。

 

 ところが、690年の「庚寅年籍」では、奴婢とその身分関係が記載され、701年「大宝律令」では、賎民を五色に分類し、結婚は各色内でのみ許されることとなります。「公民」の身分が確立した結果として、特殊な職能や強固なしきたりによってそこから零れ落ちた人びとは、「奴婢」等の「賎民」として、厳格な差別統制の対象とされることになったのです。なお、律令は、奴婢にも良民の3分の1の口分田支給を定める一方、奴婢は無税としていましたから、貴族・寺社にとっては、賎民制度には、合法的に納税を免れる旨味があったのです。

 

 こうして、8世紀(奈良時代)の「律令」機構確立の過程では、中国の制度に倣って、「奴婢」「賎民」制度も法的に厳格に確立しようとする方向を見せました。この方向は、同世紀なかばまで続きます。東大寺が創建された8世紀半ばには、「逃亡奴婢の捜索」という名目で、良民(班田農民)を捕えて奴婢化してしまうことも横行したようです。それに対して、自分たちは先祖代々の良民だとして刑部省などに訴え出る者も多かったことが、史料として残っています。前節で見た《紫香楽》での「逃亡奴婢」逮捕・連行も、そうした鬩ぎ合いの一齣であったのです。

 

 しかし、無税の「賎民」が増えることは、国家財政破綻の一因となりえます。この点から 789年(桓武天皇)には、従来の定めを変えて、良賎通婚によって生まれた子は全員良民とする、との太政官奏が允許されています。そして、最終的に 907年の「延喜格 えんぎきゃく」によって「奴婢」は公式に廃止されるのです。

 

 このように、全体として見れば、8世紀は「賎民」「奴婢」制度が公式の国家制度として厳格に行われようとした・日本では稀な時代だったと言えます。そのなかで聖武天皇は、時代の趨勢と、朝廷・貴族の大勢に逆らって、奴婢の解放を志向したと考えられるのです。“唯我独尊の帝王” を自認する聖武としては、さもありなんと思われる行動ですが、“国民の一体性” という彼の心奥の理想から発した面もあったと思われます。またそこには、行基の平等互恵思想の影響も読みとることができると思われます。

 

 《紫香楽》での「廬舎那大仏」造顕は、そうした聖武独自の理想を実現すべく邁進した事業でしたが、集中した地震と火災のために(実質的には貴族の無理解と反対のために)撤退を余儀なくされました。そして、《平城京》の「東大寺」に場所を移して継続されたものの、それ以降、この事業の内実は大きく変質してしまったと見ることができます。なによりも、「東大寺」がその建設と「大仏」造立の労働力を確保するために、「奴婢」の逮捕・連行という手段に頼り、事実上の官位の売買によって多額の寄付(相場は銭100貫)を集め、さらにその 10倍以上の「知識銭」――民衆からの少額の無償の寄付を積み上げたもの――を《紫香楽》「甲賀寺」に要求して移させたことに、それは現れています。

 

 

黄 金 山 神 社  宮城県遠田郡涌谷町涌谷字黄金宮前 ChiefHira - Wikimedia

749年、日本最初の産金地として大仏造営の金を産出した「陸奥國少田郡」

は、江戸時代の国学者・沖安海によって、この地と考証されたが、

戦後の調査で付近土壌に高純度の砂金が含まれていることが判り

建物遺構と古瓦も発掘され、産金遺跡として確実視されている。

 

 


【137】 行基の死没と「陸奥産金」――

「大仏造顕」事業の変質、「三宝の奴」を名乗った聖武

 

 

 749年2月、行基は 81年の生涯を閉じています。同じ月、陸奥國で黄金が発見されたとの報告が朝廷に入ります。陸奥国守として赴任した百済王敬福が、おそらくは渡来系の技術者に開発させたのでしょう、産出された黄金を献上してきました。砂金の採取によるものであったようです。

 

 これで、東大寺の廬舎那仏の鍍金(メッキ)に必要な金を、どうやって入手するかという問題は解決しました。廬舎那大仏は、『華厳経』から想像されるとおりの荘厳な金むくの巨像として造顕されることとなったのです。

 

 行基が、この晴れやかな知らせに接する前に入滅したことは、本人にとって幸せなことだったかもしれません。かつて、街頭での布教を開始して以来の行基の初心は、道路に斃れる庸調運役夫の救済――律令体制と社会の苦難を最底辺で背負った人びとを救済し、彼らの一人たりとも漏らさず「もろともに菩提に達する」こと――仏国土へ往生することでした。金むくの巨大仏像が、いったい何の役に立つでしょうか?

 

 行基入滅の2か月後、聖武天皇は 4月1日に光明皇后、皇太子阿倍内親王とともに建設中の「大仏」に御幸し、群臣・百寮・士庶の前で仏に向かい、自らを「三宝〔仏・法・僧〕の奴」と称して「陸奥産金」の件を報告します。橘諸兄が聖武の宣命を読み上げます:

 

 

『三宝の奴としてお仕え申し上げている天皇のおことばとして、廬舎那仏像の御前に申し上げるようにと仰せである。この大倭国は天智開闢以来、黄金は〔…〕この国のうちにはないものと思ってきたのに、〔…〕陸奥の国守である従五位上の百済王敬福が、管轄内の少田郡から黄金が発見されたと奏上して献上してまいった。〔…〕これはきっと廬舎那仏がお恵みになり、祝福してくださったものにちがいないと受け賜わり、おそれ畏まって〔…〕お仕え申し上げるということを、〔…〕三宝の御前に畏まり畏まって申し上げるようにとの仰せである。

『続日本紀』天平勝宝元年4月条, in:遠山美都男『彷徨の王権 聖武天皇』,1999,角川選書,pp.187-188.  

 


 この世に並び立つ者のない至上の帝王を自認する聖武が、自らを「仏の奴隷」と称するのは、いかなる意図なのか? ここで私が想起するのは――ずっとのちの時代の伝説ですが――「安寿と厨子王」物語の中で、厨子王が事実上の奴隷として閉じ込められていた山椒大夫のもとから逃げ出し、廃寺に駆け込んで追手から逃れるために「仏の奴」となる、という故事です。山椒大夫の手下たちも、「この少年はもはや仏の奴隷なのだから、おまえたちには指一本触れさせぬ」と寺の僧に言われて、徒手で引き揚げるほかはありません。「仏の奴になる」とは、俗界の身分秩序から離脱することにほかならない。

 

 聖武は、誰の拘束も受けない至上の地位に立つことを欲したのですが、たとえ最高位であっても、俗界の秩序に捉えられていることに変わりはありません。廬舎那大仏像の造立という畢生の宿願が叶うときになって、ようやく彼はそのことを悟ったのではないでしょうか。公的にも私的にも多くの犠牲を払って自己の意思を押し通すことに努めてきたにしては、あまりにも情けない到達点ではなかったか


 

住 吉 大 社          大阪市住吉区住吉2丁目

住吉御津」は、南海道方面から「難波津」に向かう商船航路の停泊地だった。

「行基四十九院」中の「呉坂院」「沙田院」が設けられている。

 

 

 他方、行基はといえば、朝廷と律令官僚による激しい弾圧のためとはいえ、当初の街頭布教も行路人の救済も中途半端に終わり、晩年は「大僧正」に列せられて別世界に君臨しました。行基は初志を貫徹しえなかったのか?

 

 しかし、その死後における社会の変動までを長いスパンで見れば、決してそうは言えないことがわかります。行基の生きた時代には頂点にあった「班田収授」田制と「租・庸・調」税制の組み合わせも、8世紀後半になると、一方では、墾田による「初期荘園」の拡大、他方では商業の発達によって、変容を余儀なくされます。「庸・調」の京師 みやこ への運搬は、しだいに商業によって置き換えられていきます。こうして、運脚夫による無償の運搬作業から生ずる悲惨な結果は、ひとまずは解消することとなったのです。行基が生涯の後半に、弾圧による教団潰滅から立ち上がって遂行した「智識」事業――溜池灌漑、堤防治水、交通路の整備による、民衆みずからの手による農業と商業の振興――が、そうした社会経済的変化をいっそう促したことは言うまでもありません。つまり、行基の「転向」後の努力は、めぐりめぐって、ただちには実を結ばないかに見えた初期の救済事業をも、“社会の歴史的な力” によって完結させることに寄与したと言えます。

 

 


 

 

 

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