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越 中 国 司 館 址    富山県高岡市伏木古国府

 

 

 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の変」まで。

  • 710年 平城京に遷都。
  • 717年 「行基集団」に対する第1禁令
  • 718年 「行基集団」に対する第2禁令
  • 722年 「百万町歩開墾計画」発布。「行基集団」に対する第3禁令
  • 723年 「三世一身の法」。
  • 724年 元正天皇譲位。聖武天皇即位長屋王を左大臣に任ず。
  • 728年 聖武天皇、皇太子を弔う為、若草山麓の「山坊」に僧9人を住させる(東大寺の前身)。
  • 729年 長屋王を謀反の疑いで糾問し、自刹に追い込む(長屋王の変)。「藤原4子政権」成立。「行基集団」に対する第4禁令

《第Ⅲ期》 731-752 大仏開眼まで。

  • 730年 平城京の東の「山原」で1万人を集め、妖言で惑わしている者がいると糾弾(第5禁令)。
  • 731年 行基弟子のうち高齢者に出家を許す詔(第1緩和令)。
  • 736年 審祥が帰国(来日?)し、華厳宗を伝える。
  • 737年 疫病が大流行し、藤原房前・麻呂・武智麻呂・宇合の4兄弟が病死。「防人」を停止。
  • 738年 橘諸兄を右大臣に任ず。諸國の「健児」徴集を停止。
  • 739年 諸國の兵士徴集を停止。郷里制(727~)を廃止。
  • 740年 聖武天皇、河内・知識寺で「廬舎那仏」像を拝し、大仏造立を決意。金鍾寺(のちの東大寺)の良弁が、審祥を招いて『華厳経』講説(~743)。藤原広嗣の乱聖武天皇、伊賀・伊勢・美濃・近江・山城を巡行し、「恭仁」に入る。行基、恭仁京右京に「泉大橋」を架設。
  • 741年 「恭仁京」に遷都。諸国に国分寺・国分尼寺を建立の詔。「恭仁京」の橋造営に労役した「行基集団」750人の出家を許す(第2緩和令)。
  • 742年 行基、朝廷に「天平十三年記」を提出(行基集団の公認。官民提携の成立)。「紫香楽」の造営を開始。
  • 743年 墾田永年私財法」。紫香楽で「大仏造立の詔」を発し、廬舎那仏造立を開始。「恭仁京」の造営を停止。
  • 744年 「難波宮」を皇都と定める勅。行基に食封 900戸を施与するも、行基は辞退。行基、摂津國に「大福院」ほか4院・付属施設3所を起工。
  • 745年 「紫香楽」に遷都。行基を大僧正とす。「平城京」に都を戻す。平城京の「金鍾寺」(のち東大寺)で、大仏造立を開始。
  • 749年 行基没。聖武天皇譲位、孝謙天皇即位。藤原仲麻呂を紫微中台(太政官と実質対等)長官に任ず。孝謙天皇、「智識寺」に行幸。
  • 752年 東大寺で、大仏開眼供養。

《第Ⅳ期》 750-770 称徳(孝謙)天皇没まで。

  • 754年 鑑真、来朝し、聖武太上天皇らに菩薩戒を授与。
  • 756年 孝謙・聖武、「智識寺」に行幸。聖武太上天皇没。
  • 757年 「養老律令」施行。藤原仲麻呂暗殺計画が発覚、橘奈良麻呂ら撲殺獄死(橘奈良麻呂の変)。
  • 758年 孝謙天皇譲位、淳仁天皇即位。
  • 764年 藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱道鏡を大臣禅師とする。淳仁天皇を廃位し配流、孝謙太上天皇、称徳天皇として即位。
  • 765年 寺院以外の新墾田を禁止道鏡を太政大臣禅師とする。
  • 766年 道鏡を法王とする。
  • 769年 道鏡事件(天皇即位の可否で政争)。
  • 770年 称徳天皇没。道鏡失脚、左遷。光仁天皇即位。
  • 772年 墾田禁止を撤回
  • 773年 行基を顕彰し、菩提院ほかの荒廃6院に寺田を施入。

 

 

庄 川 「庄川用水合口」付近      富山県砺波市庄川町金屋

庄川流域は、古くから砺波平野の墾田開発の中心となり、貴族・寺社の

荘園が設けられた。国守・大伴家持が関わった「伊加流伎」野地

は、このすぐ下流沿岸、写真右奥である。

 


【131】 《初期荘園》:「荘民」のいない荘園

 

 

 《初期荘園》が、「延喜」以後の「中世荘園」と異なる大きな特質として、《初期荘園》には荘民がいない、ということがよく言われます。

 

 「荘園」というと私たちは、境界で囲まれた農場の中に村があって、領主の館があって、農民が生活したり働いたりしている、というイメージを思い浮かべるでしょう。しかし、日本の「荘園」に関しては、このイメージはあてはまりません。《初期荘園》にも、中世荘園にもあてはまらないのです。

 

 中世について言うと、「なになに荘(しょう)」という村があって、役人がいて、領主の土地は村のあちこちや隣りの村にバラバラにある。そういう状況で、領主の役人が村びとたちを支配している。これが、日本の中世「荘園」です。

 

 古代の《初期荘園》となると、常識的な「荘園」イメージから、もっと懸け離れています。農民は《初期荘園》の中にはいない、農民は《荘園》の外にいるのです。

 

 残存する乏しい史料の研究から、《初期荘園》の・そういうコンセプトが割り出されます。

 

 そこで想像を逞しくすると、この時代の農民の多くは「班田農民」で、律令国家の事業として碁盤の目の道路が敷かれた「条里制」のなかに集落を割り当てられ、「条里制」の耕地を支給されている。だから、貴族や大寺院の世話にならなくても、いちおうはどうにかやっていける。「荘園」のなかに抱え込まれて、奴隷のように働かなければならない理由がないです。

 

 そういうわけで、《初期荘園》の荘園主は、荘園を経営するためには、荘園の外部にいる農民たちに、なんとか頼んで働いてもらわねばなりません。「大化」以前のように、伝統的に、自分らは何々さまのもとで働くしきたりなのだ、と信じている人びとなら話は早い。ところが、奈良時代ともなると、そういう人はたいへん少なくなります。畿内の先進地(交通盛んな地方)では、ほとんどいなくなります。

 

 そこで、荘園主は、まわりの農民たちに、雇賃を払ったり、農地を賃貸ししたり、あるいは「私出挙〔高利貸し〕」の罠にはめて借金のカタにタダ働きさせたり、さまざまな手段を駆使することになります。

 

 それでは、もっと遅れた地方――畿外諸道、とくに東国・北陸のような後進地域――では、どうか。遅れた地域ならば、《荘園》の経営は、もっと容易だったのか‥というと、実際はむしろ逆でした。

 

 たしかに、後進地域ならば人びとはまだまだ純朴で、上の人の言うことをよく聞きます。伝統的な支配に従順です。しかし、彼らが従う伝統的な支配者とは、あくまでもその地域に昔からいる「首長」たちです。ミヤコのほうからやってきた役人や荘官が、彼らを従わせるのは、畿内先進地よりもはるかに難しいのです。後進地域の人びとは、まだ商業経済に汚染されていないので、利益をちらつかせても誘導されません。慾のない人間ほど操りにくいものはないのです。

 

 

庄 川(矢印) と 砺 波 平 野    伊加流伎の推定地:砺波市旧庄川町は、

写真に見える平野中央部あたりの庄川沿岸。

 

 


【132】 《初期荘園》と2つの地域――後進地・北陸

 

 

 そこで、史料が現存する各地の《初期荘園》のなかから、「後進地」→「先進地」の順にケースを挙げて、《初期荘園》経営の実態を見ておきたいと思います。「後進地」は畿外諸道、「先進地」は、畿内とその近國――ということになります。

 

 まず、後進地域として北陸の例を見ます。

 

 726年に越中〔富山県〕国守に任命された大伴家持は、749年、東大寺から派遣された僧・平栄に協力して、砺波郡伊加流伎野〔富山県砺波市徳万~同市庄川町庄〕一百町を東大寺の「墾田」〔開墾を許可した原野〕として占定しています。しかし、家持は同時に、橘奈良麻呂ら友誼のある貴族や姻戚貴族の「墾田」を、その隣接地に占定しています。規模はみな百町前後と思われます。

 

 橘奈良麻呂は、橘諸兄の嫡子で、大伴家持が諸兄の屋敷で諸兄らと歌会を催すなど橘家と親交が深かったことは、(31)【101】で見ました。

 

 家持は、そればかりでなく、隣接する越前國加賀郡〔石川県金沢市周辺〕に一百余町の「墾田」の占定を受けています。これには、越中國の掾から越前国司の掾〔三等官〕に転任した大伴池主の口利きがあったようです。池主は同族であっただけでなく、橘諸兄邸の歌会に家持とともに参加し、越中では家持と相聞歌〔恋人同士の問答歌〕を交わすほど親密な間柄でした。家持とは、ひじょうに深い関係があった人です。

 

 家持と池主については、じつに大量の掛け合い和歌が資料として残されており、私としては別に「同性愛史」の一章として扱いたいので、ここでは和歌の鑑賞は省略しておきます。

 

 

 

 

『北陸型荘園の典型である東大寺の越前荘園を事例にとれば〔…〕成立からその後の経営に至るまで、律令制機構が全面的に利用されている。』

小口雅史・吉田孝「律令国家と荘園」, in:網野善彦・他編『講座 日本荘園史 2 荘園の成立と領有』,1991,吉川弘文館,p.20.  

 

 

 中央で東大寺の造営と財政に深く関与していた「造東大寺司」は、律令政府の八省にも匹敵する巨大官庁で、東大寺の地方荘園の設定・運営についても、太政官・民部省と密接に連携しながら機能していました。《初期荘園》は、「荘園とはいっても律令国家の手により、〔…〕寺院のために用意された一種の国営の耕地」だった(石井進氏)と言ってもよいのです。

 

 

『一方現地においては、〔…〕墾田永年私財法によって国司が墾田地選定の許可権を握っていたわけであるが、越前国司は常に中央政府の意向を極めて忠実に体現して〔…〕東大寺領荘園の成立・維持に大きな影響力を有していた。』

小口雅史・吉田孝「律令国家と荘園」, in:『講座 日本荘園史 2 荘園の成立と領有』,pp.20-21.  

 

 そこで、「墾田永年私財法」成立当初から「大仏」造立・開眼に至る時期には、こうした機構によって、広大な原野が東大寺の《荘園》用地として占定され、開墾が開始されています。

 

 ところが、これに続く「藤原仲麻呂政権」時代には、仲麻呂の貴族優遇政策のもとで、一般に寺領荘園の開発は抑えられ、「造東大寺司」自体が機構縮小されます。越前国司も、中央の政策変更に合わせて、東大寺領荘園の一部を没収して農民に班給したり、東大寺領と農民の境界紛争で、農民に有利な裁定を下すようになります。こうして、東大寺領荘園は、国家機構に依存する性格がかえってアダになって、「仲麻呂政権」時代には衰退を余儀なくされるのです。

 

 その後、「道鏡政権」になると、寺院優遇・寺院以外の墾田禁止の政策下で、東大寺領荘園は息を吹き返すことになります。

 

 

竹 田 川              福井県あわら市

 

越前國 東 大 寺 桑 原 荘 荘所の想像図      福井県あわら市桑原

竹 田 川 右岸に、国衙・郡家にも匹敵する堂々たる荘所を設けて

威厳を示したが、荘園経営は失敗であった。

 

 

『律令国家において国司の下で地方政治の実権を握っていたのは郡領〔「郡司(郡の役所)」の役人たち――ギトン註〕である。越前荘園においても、〔…〕成立から衰退・復活と一連の過程において、郡領の活動がその経営と密接な関係を有している。』

小口雅史・吉田孝「律令国家と荘園」, in:『講座 日本荘園史 2 荘園の成立と領有』,p.21.  

 

 「郡領」すなわち「郡司層」は、国司のような・中央から派遣される貴族(律令官僚)ではなく、現地の在地実力者です。とくに、北陸のような後進地域では、「大化」以前からの在地「首長」層が、「郡領」を占めていました。じっさいに地方政治の実務を握っているのは彼らであり、地域の農民たちを統率しているのも彼らです。後進地域での《初期荘園》経営は、彼ら在地「首長」層の協力を得られるかどうかによって、その盛衰は大きく左右されたのです。

 

 たとえば、越前國坂井郡の東大寺領・桑原荘〔現・あわら市桑原~堀江十楽付近〕は、「造東大寺司」から派遣された田使が、国司の史生と、足羽郡大領〔「大領」は、郡司の長官〕生江東人の協力のもとに経営することとなっていました。荘園の経営拠点である「荘所」は、郡衙と同様の立派な “ミニ朝堂院” が建築され、荘園の賃租〔小作料〕と口分田の租を区別せずに一括徴収するなど、“国営” ともいうべき権威的な経営が行なわれました。

 

 ところが、このような桑原荘の経営は、大失敗でした。生江東人は、たしかに自分の足羽郡では大きな力を持っていましたが、桑原荘のある坂井郡の農民を従わせる権威も力も持たなかったからです。まず、既墾地・未墾地とりまぜて 32町ほどの土地を、周辺の農民に「賃租」〔小作〕に出しましたが、「百姓不買」との理由で、すべて荒田化してしまい、そこで別の未墾地を「賃租」に出すと、それもまた荒田化してしまう。その繰り返しでした。つまり、桑原荘の土地は、周辺の農民から見向きされなかったために、耕作不能となってしまったのです。

 

 

九 頭 竜 川      福井県永平寺町五松橋から東望

東大寺領 鯖田国富荘 の推定地は、左方沿岸の手前。

 

 

 これに対して、同じ越前國坂井郡の東大寺領・鯖田国富荘〔現・坂井市春江町中筋~同市丸岡町磯部新保〕は、地元の坂井郡大領・品治部君広耳が寄進した田地でした。田地はあちこちに散在していたものの、みな上田・中田の肥沃地で、広耳が有していた時から、「周辺の農民を幅広く動員する賃租によって経営されており」、寄進後もそれが維持されていました。

 

『このように、寄進を契機として東大寺と関係を有した在地首長を、その影響下にある共同体労働力ごと寺田経営に登用できた結果、鯖田国富荘は〔…〕安定した経営の維持が可能となった。

 

 〔…〕広範囲に亙って散在している寺田の把握は、〔…〕在地首長としての広耳個人の権威によるところが大きかった。』

小口雅史・吉田孝「律令国家と荘園」, in:『講座 日本荘園史 2 荘園の成立と領有』,pp.23-24.  

 

 

 ところが、そうして農民たちに権威を認められていた広耳が死亡すると、東大寺はもはや農民たちの「賃租」労働力を集められなくなってしまいます。そして、地元の神社の「神田」を取り込むといった新たな方策に向かうこととなるのです。

 

 越前國の東大寺領で最大の規模をもつ足羽郡・道守荘〔現・福井市西部、日野川・足羽川合流点付近〕も、鯖田国富荘と同様に地元の郡司大領が寄進した田地に、占定開墾地を加えたものでした。寄進したのは、桑原荘↑にもかかわった足羽郡大領・生江東人です。しかし、この生江東人という人は、東大寺との関係がよくなかったようです。「仲麻呂政権」のもとで国司が寺院冷遇に転じると、それに合わせて、さっそく支配下の労働力を道守荘から引き揚げて、自分の田地新開に振り向けたので、東大寺から「賃租」する農民は減り、道守荘は衰退してしまいます。東大寺は、開墾者に「功」を支払って労働力を集めようとしますが、いくら報酬を奮発しても、地元で権威のある在地「首長」がそっぽを向いていては、農民もやって来ないのです。

 

 このように、後進地域の《初期荘園》経営は、在地「首長」を取り込めるかどうかで、その成否が大きく左右されました。国家的な権威も、物質的利益誘導も、在地の伝統的秩序の前では無力だったのです。

 

 


藤 原 宮 址  大 極 殿 址 付近        奈良県橿原市高殿町

 

 


【133】 畿内・先進地の《初期荘園》

 


 前節で見た北陸の場合とは異なって、畿内諸國や、畿内に近い近江國では、在地「首長」制は、奈良時代にはすでに解体していました。これらの地方の《初期荘園》は、在地《首長》に依存することなく、直接、農民を相手に経営されたのです。

 

 さいしょに見るのは、「中間型」というべきタイプの《初期荘園》です。《畿内》ではあっても、その経営内容が古い要素を重く背負っている、時代遅れになって衰退しつつある荘園です。

 

 奈良盆地南部・「藤原宮」の発掘調査のさいに、長さ1メートル弱の巨大木簡が発見されました。これには、大極殿址の近くにあった荘園の、平安初 810年の稲の収支状況が克明に記されていました。「藤原京」が放棄されたあと、この地には農地が営まれていたのです。

 

 この貴重な記録から判明したのは、当時この地方の《荘園》経営では、荘園主側が農民を誘致するために、たいへんに重い費用を負担していたという驚くべき事実でした。

 

 荘園主は、平安京に居住する貴族と思われますが、荘官を派遣して経営していました。田地の8割が「佃(つくだ)〔領主の直営田〕で、残り2割が「賃租」に出されています。

 

 

『この庄の経営では、種子営料をはじめとして耕作に関わる費用を全面的に庄側〔荘園主――ギトン註〕が準備している〔…〕庄側の負担はそれだけではなかった。田租・義倉の負担分を国衙・郡衙の正倉に納入するための様々な費用〔…〕祭祀料、節料、その他様々な雑物の代金及びその運搬費、人夫の食糧・酒手代などを併せると、〔…〕全収入の半分近くが経費となってしまっている。〔…〕

 

 庄の直接経営(佃)を維持するためには、労働力確保のためにかなりの動産を保有していることが必要条件であることがわかる。畿内において庄の経営を安定的に発展させ得るのはやはり大寺院・貴族なのであって、庄の維持発展にはその投資が不可欠なのである。』

小口雅史・吉田孝「律令国家と荘園」, in:『講座 日本荘園史 2 荘園の成立と領有』,pp.27-28.  

 

 

 この《荘園》の場合には、直営地の労働力に対して「雇賃」は支払っていなかったようですから、働いているのは奴婢か、奴婢でなくとも、荘園主と因習的なつながりのある従属的な農民でしょう。そのような差別的地位を利用しているにもかかわらず、収穫の半分を費用にとられてしまうほど、経営は苦しいのです。

 

 8世紀の平城京周辺では、下級官人が「功銭(雇賃)」支給による直営田を営んでいましたが(『講座 日本荘園史 2 荘園の成立と領有』,p.39)、その場合にはさらに経営は苦しかったと思われます。

 

 したがって、このような直営田経営を続けてゆくことは難しく、早晩、直営田を分割して、付近の農民に「賃租」に出さざるを得ないでしょう。しかし、「賃租」に出すなら出すで、ほかの荘園主と競争して農民を集めるには、より有利な条件を提供したり、あるいは農民が協力せざるを得ないように追いやる手段を弄するなど、荘園主としては悩みが絶えないのです。それというのも、《初期荘園》には「荘民」というものがいないからです。

 

 そのことを、↓つぎの最先進地の事例で見ることにしましょう。

 

 

愛 知 川 と 河辺いきものの森    滋賀県東近江市建部北町

東大寺領愛智荘・元興寺領依知荘 の推定地は、左方沿岸の平野部。

 

 

 近江國愛智(えち)郡は、琵琶湖南岸、安土・近江八幡東方の平坦地で、その開発は古く、また、北陸道・東山道につながる回廊として、古くから商業交通の要衝でした。現在、「近江商人郷土館」という見学施設も建てられています。

 

 ここでは史上、各大寺の荘園が営まれました。奈良時代には、東大寺領と元興寺領があり〔現・滋賀県東近江市(旧湖東町)清水・菩提寺・小田苅付近〕、それぞれ経営文書を残しています。

 

 この地域の《初期荘園》も、↑藤原宮址の事例と同じく「佃(直営田)」と「賃租」地からなっており、これは《畿内型・初期荘園》の共通項であるようです。残された史料には偏りがあって、東大寺領の文書には主に「直営田」の経営が、元興寺領の文書には「賃租地」の経営が記されています。

 

 876年の東大寺領・経営文書を見ると、直営田(佃)が1/6(2割弱)で、8割強が「賃租」田。上の藤原宮跡の荘園とは比率が逆になっています。「賃租」中心の経営に移行しているわけですが、直営田も無くなりはしない。むしろ直営田は、荘園経営に重要な役割をしていました。



〔ギトン註――藤原宮址の〕宮所庄の場合とはやや異なり、東大寺〔愛智荘〕の佃は、諸経費を差し引いても獲稲の7割余りがその収入になるという。最も〔ギトン註――賃租地などよりも〕収納率の高い田地であるから(逆に〔…〕参加する農民にとっては最も不利な耕作となる)、そこでの労働力は、私出挙などによる何らかの債務を媒介に考えなくてはならない』

小口雅史・吉田孝「律令国家と荘園」, in:『講座 日本荘園史 2 荘園の成立と領有』,p.29.  

 

 

 藤原宮址の場合とは異なって、この東近江の地の《初期荘園》が安定した経営を展開していた秘密は、「直営田」の優良な収支にありました。なぜ収支が良いかといえば、技術的な生産性が高い以上に、労働力への出費を節約できるからです。藤原宮址の「直営田」経営を圧迫していた「祭祀料」「酒手代」などの慣習的な出費を切り捨て、「雇賃」を切り下げて、荘園主の取り分を7割にすることができたのは、労働力の多くが荘園主に累積「債務」を負って従属していたからと考えられるのです。

 

 このような「債務」の累積は、国司・郡司に対する貢租の滞納や災害に対して、荘園主・東大寺が積極的に、救援という名の高利貸し(私出挙)を行ない、その返済の滞納・累積によって、農民たちを、荘園主に従属せざるを得ない地位に陥れていたからです。

 

 この累積債務による従属関係は、いまだ身分的隷属を伴なうものではありません。農民は、何らかの幸運によって債務を完済することができれば、いつでも荘園主への従属から自由になることができます。したがって、彼らは「荘民」ではない。荘園主にも土地にも緊縛されてはいないのです。

 

 彼らは、荘園主による債務拘束以上に、「口分田」「班田収授」を介した国家への従属関係に、依然として拘束されていたといえます。

 

 とはいえ、東大寺の積極的な高利貸しの原資は、「直営田」の収入によって賄われていました。東大寺は、佃の獲稲の 1/4(佃収入の 1/3強)を翌年の「私出挙」に回していました。これは、「賃租田」を耕作する農民に対して、「賃租田」の種子として貸し付けられたのです。そして、回収された「出挙」の本稲(元本)は、佃耕作の「雇賃」・食糧〔佃の労働者にふるまう食事〕に当てられました。

 

 つまり、東大寺は、「直営田」の経営と、「賃租」農民への高利貸しを伴なう「賃租田」経営とを、効率よく結合して高い荘園収益を上げていたのです。

 

 

近 江 商 人 郷 土 館    滋賀県東近江市小田苅町

ここは、古代 東大寺領愛智荘 の中心部にあたる。

古代~近世を通じて、商業交易の要衝地であったことがわかる。

 

 

 このような・東近江での東大寺の荘園経営を可能にした要因として、北陸などではいまだ残存していた古い「在地首長制」が、この地方ではすでに解体していたことが挙げられます。農民たちは、災害時の減収や租税滞納を埋めるためには、もはや在地「首長」の力や、共同体的な相互扶助を当てにすることができない、という事情がありました。そこに、東大寺などの荘園主による「私出挙」高利貸しが、参入してくる余地があったのです。

 

 この愛智郡で、古くから在地「首長」層として郡司職を独占していたのは依知(えち)秦氏でした。ところが、その依知秦氏は、この時代・この地方で大量に見いだされる田地「売券」の売主として知られているのです。これらの「売券」は、いずれも零細な墾田地の売買にかかわるものです。依知秦氏は、公出挙・正税の負担と自らの直営田・営料を賄うために、所有する「墾田」の切り売りを余儀なくされ、没落の途上にあったといえます。

 

 こうして、先進地・東近江では、在地「首長」層はもはや、農民に対して統率力を持たないばかりか、零細な荘園主としても困窮していました。(13)【44】で見たような整然たる「ユニット」農民の共同体編成は、9世紀には解体に向かったと思われます。そして、東大寺のような・豊富な動産〔収穫物の備蓄と布銭財物〕財力をもった大寺院が、大荘園主として出現し、この地方の耕地を呑み込んでゆく条件が形成されたのです。

 

 他方、元興寺領の「賃租田」経営文書を見ると、「賃租」経営に関しても、先進地の大荘園主は、新しい方式を導入していることが分かります。それが「預作名(よさくみょう)」です。元興寺は、農民への貸出し地(賃租田)を細かく分割して「預作名」に編成し、その「名(みょう)」ごとに地子〔小作料。収穫の 1/5 程度〕納入の責任者を設定して、地子は「名」に一括して課していました。そして、「名」耕地の運用は、責任者以下の農民に任されていました。

 

 

『名の責任者は依知秦氏以外からの有力農民である〔…〕依知郡ではこうした有力農民が確実に成長しつつあった。〔…〕元興寺は、在地首長層に代って〔在地首長層を手下にしても農民を支配できないので、もう在地首長層は排除して――ギトン註〕、自らに従う有力農民を〔中間管理職として――ギトン註〕保護しようと努め、その有力農民の〔運営する〕預作名の利益と自ら〔荘園主〕の利益とを一体のものとして認識し、積極的に在地を直接掌握し〔…〕ていくのである。〔…〕

 

 こうして佃〔直営田〕においても庄田〔貸出し地〕においても、庄園所有者が、在地首長に依存しないで直接在地を掌握する体制が形成されていった。』

小口雅史・吉田孝「律令国家と荘園」, in:『講座 日本荘園史 2 荘園の成立と領有』,pp.31-32.  

 

 

 この先進地での動きが進行していった先には、「多数の荘民をかかえて支配し、国司への納税も国司の入境も拒否(不輸不入)する中世型の荘園」の成立が見えてくるといえます。

 

 しかし、その動きが表面化するのは、「延喜・天暦」の10世紀を待たなければなりません。律令制下に存続してきた《初期荘園》は、「延喜荘園整理令」〔902年~〕によって、いったん解体し、その後に「寄進地系」などの新しい・王朝国家的な荘園類型が成長してくることになります。

 

 

東 大 寺 開 田 図 (部分)        奈良国立博物館

奈良時代に越中・越前にあった東大寺領荘園の開発状況を記録した図面。

条里で区画された各土地について、地番、地種、耕作面積、来歴等が記されている。

 

 


【134】 まとめ――《初期荘園》と律令農民統制の変質

 

 

『住民不在の庄園、これこそ初期庄園の特色の最たるものである。したがってその労働力の獲得こそが経営の要となる。北陸型(畿外型)庄園の最大の特徴は、律令制地方行政機構を活用し〔…〕郡領=在地首長を積極的に利用し、その影響下にある班田農民を賃租労働力として確保するというものであった。

 

 しかし時代の進展とともに、有力農民が抬頭することによって、在地首長制による共同体規制は次第に弛緩していく。〔…〕例えば紀伊國では、もはや大規模な田地経営を維持できなくなった在地首長紀宿禰氏による、当時他に例を見ないほどの大規模な売却が行なわれている。在地首長による大規模な農民動員のみによって維持されていた北陸型庄園は、こうした時代の流れとともに没落していくこととなった。

 

 これに対して畿内型荘園は、もともと在地首長制による規制の少ない地域に成立したもので、〔…〕そこでは〔…〕、大寺院は大量の動産所有〔収穫物や財物を資本として持っていること――ギトン註〕を背景に田地を集積し、自らの直営地佃において在地の営料を準備する一方、地子田は小規模な預作名に分割し、その責任者に、在地において新たに抬頭してきた有力農民を採用し、その経営を保護するなど、在地を直接掌握する方向へ進んでいる。これは律令制社会の変質過程と軌を一にするものといえよう。』

小口雅史・吉田孝「律令国家と荘園」, in:『講座 日本荘園史 2 荘園の成立と領有』,pp.31-32.  

 

 

 こうして、奈良時代――8世紀における律令国家の末端・農村部での変化は、「有力農民」の抬頭が重要なカギを握っていることが見えてきました。この「有力農民」の抬頭の過程は、「行基集団」と「智識」の背景として、私たちがこれまでに見てきた・「畿内」在地における「農民層分解」、郡司層の交代と下級官人層抬頭の動きに重なってくるといえます。

 

 そこで、次回は、この「有力農民」に焦点をあてながら、《初期荘園》などの社会経済的変動と、行基の宗教運動との関係を考察してみたいと思います。




 

 

 

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