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菅 原 寺(喜光寺) 行 基 堂     奈良市菅原町

行基木像が安置されている。

 

 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

《第Ⅰ期》 660-710 平城京遷都まで。

  • 660年 唐と新羅、百済に侵攻し、百済滅亡。このころ道昭、唐から帰国し、唯識(法相宗)を伝える。
  • 663年 「白村江の戦い」。倭軍、唐の水軍に大敗。
  • 667年 天智天皇、近江大津宮に遷都。
  • 668年 行基、誕生。
  • 672年 「壬申の乱」。大海人皇子、大友皇子を破る。「飛鳥浄御原宮」造営開始。
  • 673年 大海人皇子、天武天皇として即位。
  • 676年 唐、新羅に敗れて平壌から遼東に退却。新羅の半島統一。倭国、全国で『金光明経・仁王経』の講説(護国仏教)。
  • 681年 「浄御原令」編纂開始。
  • 682年 行基、「大官大寺」で? 得度。
  • 690年 持統天皇即位。「浄御原令」官制施行。放棄されていた「藤原京」造営再開。
  • 691年 行基、「高宮山寺・徳光禅師」から具足戒を受け、比丘(正式の僧)となる。
  • 692年 持統天皇、「高宮山寺」に行幸。
  • 694年 飛鳥浄御原宮(飛鳥京)から藤原京に遷都。
  • 697年 持統天皇譲位。文武天皇即位。
  • 699年 役小角(えん・の・おづぬ)、「妖惑」の罪で伊豆嶋に流刑となる。
  • 701年 「大宝律令」完成、施行。首皇子(おくび・の・おうじ)(聖武天皇)、誕生。
  • 702年 遣唐使を再開、出航。
  • 704年 行基、この年まで「山林に棲息」して修業。この年、帰郷して生家に「家原寺」を開基。
  • 705年 行基、和泉國大鳥郡に「大修恵院」を起工。
  • 707年 藤原不比等に世襲封戸 2000戸を下付(藤原氏の抬頭)。文武天皇没。元明天皇即位。行基、母とともに「生馬仙房」に移る(~712)。
  • 708年 和同開珎の発行。平城京、造営開始。
  • 710年 平城京に遷都。

《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の変」まで。

  • 714年 首皇子を皇太子に立てる。
  • 715年 元明天皇譲位。元正天皇即位。
  • 717年 「僧尼令」違犯禁圧の詔(行基らの活動を弾圧。第1禁令)。藤原房前を参議に任ず。郷里制を施行(里を設け、戸を細分化)。
  • 718年 「養老律令」の編纂開始? 行基、大和國添下郡に「隆福院」を起工。
  • 720年 行基、河内國河内郡に「石凝院」を起工。
  • 721年 元明太上天皇没。
  • 722年 「僧尼令」違犯禁圧の太政官奏(第3禁令)。
  • 723年 「三世一身の法」。
  • 724年 元正天皇譲位。聖武天皇即位長屋王を左大臣に任ず。
  • 725年 行基、淀川に「山崎橋」を架橋。
  • 727年 聖武夫人・藤原光明子、皇子を出産、聖武は直ちに皇太子に立てるも、1年で皇太子没。
  • 728年 『金光明最勝王経』を書写させ、諸国に頒下。
  • 729年 長屋王を謀反の疑いで糾問し、自刹に追い込む(長屋王の変)。藤原光明子を皇后に立てる。「僧尼令」違犯禁圧の詔(第4禁令)。
  • 730年 行基、平城京の東の丘で1万人を集め、妖言で人々を惑わしていると糾弾される。朝廷は禁圧を強化(第5禁令)。

 

生 駒 山   新石切駅から望む。

 

 

 

【42】 平城京の造営、酷使される人びと

 

 

 平城京への遷都について、『続日本紀』にはじめて記事が現れるのは 708年です:



『2月15日、次のような詔を下した。

 

 朕は〔…〕常に思うのに、「宮室を造る者は苦労し、これに住まう者は楽をする」ということばである。遷都のことは必ずしもまだ急がなくてよい。

 

 ところが王公大臣はみな言う。「〔日月星辰の方位にかなった土地に、皇帝の都を建設し、永劫堅固な基礎を得てこそ、天子の業は確立するであろう――ギトン要約〕」と。衆議も無視しがたく、その詞も心情も深く切実である。そして都というものは百官の府であり、四海の人々が集まるところであって、唯自分ひとりが遊び楽しむだけでよかろうか。いやしくも利点があるならば、従うべきではあるまいか。〔…〕正に今、平城の地は、4神獣〔青龍・朱雀・白虎・玄武――ギトン註〕と3山鎮〔なら山・春日山・生駒山――ギトン註〕を吉相に配し、亀甲・筮竹の占いにも叶っている。ここに都邑を建てよう。〔…〕民の使役は「子来の義」〔子が父母を慕うように、庶民が天子の徳を慕って、喜んで従うこと――ギトン註〕によるべきである。万全の準備をして、後世に憂いを残さないようにしなさい。

宇治谷孟・訳註『続日本紀(上)』全現代語訳,1992,講談社学術文庫, pp.99-100.〔一部改〕

 

 

 藤原京に遷都してから、まだ 14年しかたっていないのに、また宮都を建設しようと言うのです。元明の詔は、まるで自分は乗り気でないのに、みんなが言うからしかたがないと、官吏と人民の負担を重くする責任を、皇族・大臣に転嫁しています。が、この文章の半分近くは・文帝の「新都創建詔」の引き写しです。じっさいに、「子来の義」に従って役民が喜び勇んで精を出す――ことなど、あるわけはないのですが、それでも「後世に憂いを残さない」ように建設しなければならない。手を抜くことは許されません。

 

 「急がなくてよい」と言いながら、平城京造営は急ピッチで進められ、まる2年後の 710年3月には「遷都」しています。(当時の寺院造営には 10年以上かかるのがふつうだったのと比べれば、おそろしい速さです)

 

 ただ、この詔からわかるのは、遷都の計画は、すでにしばらく前からあって、条里(碁盤目)の計画は確定していただろう――ということです。705年に行基が「右京・佐紀堂」に移ったと史料にあるのも、その時点ですでに新都の「右京」になることが決っていたのかもしれません。新都の地に母を住まわせて楽にさせてやりたいと思ったのか? それとも、最初から、新都の造営にこき使われる役民の救済を志していたのか?

 

 707年には生駒山中の「生馬仙坊」に移っているところをみると、後者ではないかとも思えます。


 そして、↓つぎの「詔」は、「遷都」後の 711年9月。


『9月4日 次のように詔した。

 

 近頃つぎのようなことを聞く。諸国からの役民が、造都の労役に疲れて、逃亡する者がやはり多い。禁止しても止まらない。現在、平城宮の垣は未完成で、防衛が不十分である。とりあえず衛兵所を建てて、兵器庫を固く守るべきである。

 

 そこで、従四位下の〔…〕、従五位下の〔…〕らを将軍として守らせた。』

宇治谷孟・訳註『続日本紀(上)』全現代語訳,1992,講談社学術文庫, p.124.〔一部改〕

 

 

 なんとも短い「詔」ですが、ここにきてようやく、役民の負担が並大抵でないことに気がついたかのようです。しかし、気づいたから負担を減らそうというのではなく、まず思いつくのは警備を厳重にすること。役民が流民化して、皇居になだれこんでくるのを怖れているのでしょうか? 暴徒と化した役民に武器を奪われないように、「とにかくまず兵器庫を守れ」というのもすごい。天皇や貴族の主観では、いつ民衆暴動が起きてもおかしくない状況だったということです。それは、彼らの思い過ごしなのか? それとも現実に、暴動の起こる兆しがあったのか?‥‥もしかすると、「長屋王の変」などは、群衆の不満の振り向け先をこしらえたのかもしれません。

 

 この「詔」から、「遷都」1年半後の・新都建設の進捗状況もわかります。「遷都」とは、天皇が引っ越しをしたというだけです。大極殿・朱雀門などは、もうできていたでしょうけれども、宮城は周りに塀も垣根も無い状態。まして、左京・右京は‥ まだまだ工事は続いていました。

 

 

辻子(づし)谷越え   生駒山を越えて

難波と平城京を結ぶ古道。石畳は近世以後のもの

 

 

 

【43】 街道に行き倒れる人びと、流浪し盗賊化する人びと

 

 

 翌 712年の詔は、諸國からの庸調・運脚夫の実情を語っています。


『春正月16日、次のように詔した。

 

 諸國の役民が郷里に還(かえ)ってゆく日々に、食糧が絶えてしまい、多くの者が道路で飢え苦しみ、溝に倒れて埋もれ死んでいる、といったことが少なくない。[沿道の]国司らは努めて彼らを慈しみ養い、程度に応じて物を恵み与えるように。もし死に至る者があれば、とりあえず埋葬し、その姓名を記録して、本人の戸籍のある國に報告せよ。』

宇治谷孟・訳註『続日本紀(上)』全現代語訳,1992,講談社学術文庫, pp.127-128.〔一部改〕

 

 

 諸國から平城京に庸調を運搬してきた役夫は、庸調を納め終わると、もう用済みだと言わんばかりに、帰りの旅費も食料も与えられずに追い払われていた状況がわかります。

 

 元明の「詔」は、「国司等は宜しく勤めて撫養を加え、量って賑恤すべし」と、あたかも、今後は慈しみ深い配慮が加えられるかのように書いていますが、その実、死体になったら姓名を記録して本國に知らせる(そうやって、戸籍が不正確になるのを防ぐ)以外のどんな対策が行なわれたのでしょうか? 同じ年10月の「詔」↓を見てみましょう。



『10月29日、次のように詔した。

 

 諸國の労役と人夫の運脚夫が、郷里へ還ってゆく日々、食糧が欠乏しても調達することのできる手段がない。そこで郡稲から稲を拠出して便利な所に用意しておき、役夫が到着したら任意に交易させよ。また旅行をする人は、かならず銭(ぜに)を持って費用とし、重い所持品のために苦労することのないように。そして銭を使用することの便利なことを知らせよ。』

宇治谷孟・訳註『続日本紀(上)』全現代語訳,1992,講談社学術文庫, p.135.〔一部改〕

 

 

 「郡稲」とは、「公出挙(くすいこ)」(官営の高利貸し。農民に強制貸付して高利を取った)のために各郡庁に貯めてある稲です。もともとが、もうけを貪るためのものなのですから、役民に売るにしても大儲けできなければ意味がない(と郡司らは考える)。タダで分け与えるわけではないのです。そもそも役民は、交換できるような米や布を持っていたら飢えたりしません。どだいが、現実の対策には到底ならない机上の空論です。

 

 そればかりか、「詔」は、役民がゼニ(和同開珎)を持参して買えばよいと云う。当時そもそも貨幣というものが、日本で初めて発行された段階で、都(平城京)の市場以外ではほとんど流通していなかったと考えられています。ゼニで何かが買えると思う庶民がいない状況で、ゼニと交換に何かを売ろうと思う庶民も郡役人も、いるわけがないのです。

 

 それでも、こうした役民の窮状が朝廷に報告されただけでも、これまでにはないことだったと言えます。庸調の納入後におっ放されて、國に帰ろうにも帰れない役民たちは、どうしたでしょうか? じっさいには、彼らは、平城京建設に駆り出された力役民と同様に、都の周辺に滞留して流民化する者が多かったと思われます。生き延びようとして、やむにやまれず盗賊化する集団もあったでしょう。

 

 しかし、朝廷――中央官庁は、彼らの世話をすることを帰途沿道の国司に命ずるだけで、みずからは何もしようとしません。4年後に次のような「詔」が出ているのを見ても、さきの「詔」は効果がなかったことがわかります:

 


〔ギトン註――716年〕4月20日、次のように詔した。

 

 およそ調を運ぶ人夫が京に入った日には、所司〔大蔵省・民部省・主計寮など〕の役人は、調を自らよく見て調べ、もし国司が努力して〔…〕上等の規格に達していれば、〔…〕最の評価を与えよ。〔…〕

 

 ところが入京の人夫の衣服は疲れ破れて、顔色は青菜のような者が多い。にもかかわらず、〔ギトン註――国司らは〕公の帳簿には徒(いたずら)に噓偽りを書き、良いように見せかけて、相当する評定を得ようとしている。国司・郡司がこのようであれば、朕は何を委ねることができようか。〔…〕

宇治谷孟・訳註『続日本紀(上)』全現代語訳,1992,講談社学術文庫, p.171.〔一部改〕

 

 

 こうして、誰にも救われず流浪化した役民くずれの大群を、見るに見かねて救済を始めたのが、行基集団の初期の布教ではなかったでしょうか?

 

 してみると、行基が故郷の河内には落ち着かず、再び大和の地に出て来たのは、はじめは必ずしも布教や大衆宗教活動が目的ではなかったかもしれない。『行基年譜』などが伝えるように、はじめは病身の母の転地療養が動機で、‥新都造営のうわさを聞いて、薬材や医薬術の情報を得やすい繁華な地をめざしたのかもしれません。しかし、そうして「右京・佐紀」に移り、さらに「生馬(いこま)」で母の療養をつづけるうち、いやでも眼に映る街道すじの役民の窮状を見て、沸き起こる大乗心をおさえきれず、救済活動に乗りこんでいった――ということが考えられます。


 

暗 (くらがり)  石柱・標石と石畳

「暗峠越え」は国道602号に指定されているが、

峠付近には、往時の石畳と石標が残っている。

 

 

 

【44】 初期「行基集団」の形成、震駭する朝廷と貴族

 

 

 こうして始まった役民救済の活動は、けっして容易ではなかったと思われます。飢えた役民に食物を施し、屋根のある場所に引き入れて介抱するには、大量の物資と人手が必要です。しかし、役民は無一物ですから、彼らからの寄付は望めません。支出ばかりかさんで、収入のあてはない。

 

 『三階経』は、集落に入って托鉢し、庶民の寄付を募ることを勧めていましたが、当時、中国隋唐の繁栄した経済社会とは異なる日本の貧村で、そのような活動が可能だったでしょうか? ここでもう一度、まえに出した滋賀県守山市「服部遺跡」の図↓を見てほしいと思います。

 

 

奈良時代中期の集落  滋賀県守山市 服部遺跡 (同HP)

野洲川琵琶湖にそそぐ河口部デルタ上に立地する服部遺跡

には、奈良時代中期~平安時代の合計約60棟の掘立柱建物

検出されている。条里の方向に沿って整然と並び、壁のある

しっかりした構造で、大きな建物は庇(ひさし)付き。

 

 

 この図を見て、まず目につくのは、家と家のあいだを広くあけて整然と並んだ家屋、そして、大きい家を中心に数軒の小さな家がかたまって建つ小ユニットからなる・複合集落の景観です。これらの建物が建てられている向きは、周囲に築かれた「条里制」道路の方向と一致しています。

 

  「服部遺跡」は、洪水でいったん全滅して無人となった場所に再建された奈良時代中期の集落です。おそらくは、無人の荒野に、まず「条里」道路が築かれ、その方向に合わせて「掘立柱」の小さな家々が建ち、「班田」を受けた人々が入植したのでしょう。入植は、朝廷―國―郡の公権力の徴募によって行われ、各自に、無主の荒野が「班田」として支給された。しかし、「班田農民」は平等ではなく、彼らのあいだには主従ないし「主と奴」の隷属関係があった――ということが、家の大きさと並び方から推定できます。

 

 整然とした屋並びの住居が立ち、1軒の大きな住居のもとに数軒の小さな住居が広場を囲んで、小ユニットを構成する。そういう小ユニットの集合体としての集落。見たところ、各小ユニットは、「郷戸(ごうこ)」(正丁4人、戸口20人強)という戸籍上の単位にほぼ相当します。

 

 つまり、当時、「律令制」下における村落とは、郷戸主レベルの家に隷属する家だけが居住を許された閉鎖的な小ユニットの集合体だったといえます。「服部遺跡」は、洪水後の復興という条件のせいで典型的な姿を見せているとしても、「律令制」下の集落、少なくとも条里制のあるところでは、すべての集落が多かれ少なかれこのような構造を備えていたと考えられます。

 

 『三階経』は「集落の下根の衆生に仏性仏を求めよ」「多伴は強伴である〔ひとりひとりは愚衆でも、おおぜいが協力し合えば、強いきずなとなって高い仏性を実現する」と述べていました。しかし、実際問題として、このように整然と統制された閉鎖的な集落に、朝廷の命令を奉じてもいない比丘・沙弥の集団が入りこんで、寄付を募ったり托鉢をすることができたでしょうか? 不可能ではないとしても、大きな抵抗に出遭ったことが予想されます。

 

 小ユニットの中に入りこんで、1軒1軒の細民に働きかけることは、きわめて困難だったでしょう。小ユニットの中心となる「大きな家」、あるいはその上の、一集落を束ねるようなレベルの階層――下級官人層に働きかけることが、唯一可能な活動のしかただったかもしれません。

 

 あるいは、平城京やその周辺ならば、道路上に立って、行路人を相手に「托鉢」や説法をすることも可能だったかもしれません。しかし、ひじょうな困難のわりに、はかばかしい成果は期待できなかったにちがいありません。

 

 けっきょくのところ、役民救済の原資を集める活動は、有力者から檀越(檀家)を募って寄付を集めることになるでしょう。じっさい、720年代になると、行基集団にも、下級官人層の有力な檀越がついてきて、722年には、一人の下級官人が自宅の土地を寄進し、行基はそこに「菅原寺」(↑トップ写真)を起工しています。しかし、それは後のこと。故郷・河内での活動とは異なって、京の周辺で、親類縁者でもない一般の有力者に布教して信者を獲得するのは容易ではなく、成果を見るまでには時間がかかったのです。

 そして、おおざっぱに言えば、下級官人層に至る庶民上層から篤志家を募って寄付を受け、道路の要救護者や役民・流民に施すこと。初期「行基集団」のそのような活動形態が成立したと言えます。

 救護された民は、命を救ってくれた行基集団を崇拝し、その教えを胸に刻んで故郷に持ち帰ったことでしょう。後代に至るまで全国各地に「行基伝説」が流布されることになった起源は、おそらくはそこにあったと思われます。しかし、彼らの影響力は地方に限られていたので、畿内で信者を募り教団を組織しようとする「行基集団」にとっては、残念ながら現実の力にならなかったのです。

 

 他方、朝廷と貴族の眼には、「行基集団」のこのような動きは、大きな脅威として映りました。というのは、僧侶が寺院外で集団をなして、親族でも先祖でもない一般人を相手に布教したり救済活動をするのは、日本ではおそらく史上初めてのことだったからです。そして、彼らが「教科書」とした中国の史書には、「太平道」「五斗米道」をはじめとする邪教の蔓延で人民の反乱が起き、いくつもの王朝が滅びた怖ろしい歴史が記されていました。

 

 

〔ギトン註――中国での〕反乱記事を載せる『後漢書』『三国志』『隋書』などは早く日本にもたらされ、『日本書紀』『続日本紀』編纂にあたり参考にもされたから、知識人・官僚らにとって教徒らの反乱事件は既知の事実であった。かれらが中国の教徒反乱の事件と、展開中の行基の活動を比較したとき、類似点の多さに驚いたであろう』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,pp.75. 

 

 

 平城京造営工事以来社会問題化していた役民の流民化・盗賊化に対して、朝廷は何ら効果的な手を打てないでいましたが、‥ここにきて、その上に現れた「行基集団」の活動という新たな事態を迎え、朝廷は自らの無策を反省するどころか、むしろ問題を「邪教の暗躍」にすりかえ、すべてを邪教のせいにしたのです。邪教の元凶と目した行基を亡ぼせば一切は解決するとして、その糾弾と弾圧に集中するようになったのでした。

 

 さきの、調の運脚夫の窮状を述べた「詔」の翌年 717年には、行基らを糾弾しその弾圧を命ずる・次の「詔」が出ています:


〔ギトン註――717年〕4月23日、次のように詔した。

 

 官職を設け、有能な人物を任命するのは、愚かな人民を教え導くためであり、法律を設け禁制をつくるのは、悪事を禁断するためである。この頃人民が法律に違反し、ほしいままに自分の気持ち次第で、髪を切ったり鬢(びん)を剃って、たやすく道服を着たりする。〔…〕こうしたことから偽りが生まれ、みだらで悪いことはここから起こる〔…〕

宇治谷孟・訳註『続日本紀(上)』全現代語訳,1992,講談社学術文庫, p.182.〔一部改〕

 


 「そもそも論」で冒頭から大上段に構えた大仰な調子は、「行基集団」の禁圧に向けた・上級官僚と元正天皇の並々ならぬ決意を示しています。世の中のいっさいの「偽り」と「悪事」の根源は、人民がほしいままに僧侶のかっこうをすること、そうした乱脈を促している悪質な宗教集団にあるのだ、と言うのです。新興の宗教活動を、すべての社会悪の元凶と決めつける観念が、最初から顕著です。


 ところで、この「詔」は、「行基集団」を糾弾しながら(↑上引用のすぐあとで、「行基」を名指した部分が出てきます)、誰に向って、どうしろと命じているのでしょうか? 先に、「詔」のおしまいにある結論部分を見ておきましょう:



『まことに監督の官が厳しい取締りを行なわないために、このような弊害を生むことになった。今後はそのようなことがあってはならない。このことを村里に布告し、つとめてこれを禁止せよ。』

宇治谷孟・訳註『続日本紀(上)』全現代語訳,1992,講談社学術文庫, p.183.〔一部改〕

 

 

 村里に禁止を布告して「厳しい取締り」をすべき「監督の官(主司)」とは、中央官庁では「治部省」と「僧綱」、各國では「国師」「国司」「郡司」吉田靖雄『行基と律令国家』,p.151、平城京内ならば「京職(きょうしき)」「坊令」、これらの僧・俗の官吏が、それにあたります(坂上康俊『平城京の時代』,岩波新書, pp.86-87)。ただ、この段階では、取締りはこれらの役人にまかせており、それ以上に特別なテコ入れを図ってはいません。これに対して、のちの長屋王政権のもとでの「禁令」〔722年になると、朝廷から特命の官吏を送りこんで取締りを督促するばかりでなく、十分な取締りをしなかった罪で、関係の僧・俗「主司」を処罰するようになります。

 

 「僧官」による間接統制との関係でも、この 717年の段階では、なお「僧綱」「国師」による教界の自治を尊重していたといえます。

 


〔ギトン註――717年4月の〕教界粛正の詔は、〔ギトン註――右大臣・藤原不比等の意を体したものであった〔…〕

 

 判事の職を経て大宝・養老両律令の編纂に従事した不比等は、違令行為を犯す僧尼等に対しては、峻厳な態度をとるべきだと考えていた人のように思われる。

 

 詔の序文に、「法を設け制を立つるは、それ奸非を禁断するに由る」とあって、いかにも法曹家不比等の主導によるものであることが推察される。』

吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,pp.77-78.  

 

 

 しかし、その反面で、この「詔」は、事態を招いた「主司」を処罰する意向は示しておらず、ただ叱責して、「今後、このようなことがあってはならない」と述べるにとどまっています。さらに、翌718年10月に出された「詔」では、僧尼の律令遵守をくり返し命じながら、「僧綱は熟慮しよく討議し、また非行・違反僧尼に対し、僧綱が禁制し説諭せよ」と言うのです。この段階の太政官は、僧界と僧尼の自主性を尊重し、処罰を避けようとする態度が顕著だったといえます。

 

 

『つまり不比等政権は教団の自浄機能に期待し、僧綱が違反僧尼らを説得することを期待し、僧綱の主体性を尊重しようとするのである。〔…〕こうした不比等政権の教団に対する態度は、次の長屋王政権とは大いに異なっていた。〔…〕

 

 〔ギトン註――藤原不比等は、〕王法と仏法の相互依存の関係を認めていた政治家のように考えられる。養老元年・2年〔717,718年〕の仏教政策は〔…〕僧尼令と戒律に違反する僧尼を直ちに処罰する策を取らず、僧綱の指導、教団の自浄作用に期待する性格が明らかに存在した。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.79. 

 


 717年の「詔」の調子は大上段ですが、じっさいに厳重な統制が行なわれたのかというと、この段階ではまだ甘かったようです。ですので、「行基集団」も、718年に「隆福院」起工、720年に「石凝院」起工、‥‥というように、弾圧下でもなお役民救済・托鉢・布教の活動を続けていくことができたのでした。

 

 

経 塚   「辻子谷越え」の峠に立つ。

石仏に囲まれた小円丘が、「経塚」。石仏は

近世以後に並べられたものであろう。

 

 

 

【45】 律令を踏みにじる悪僧行基とその手下ども

 


 さて、そこで、この「禁圧の詔」の内容を読んでいくのですが、ここは、隔靴掻痒の感がある現代語訳にだけ頼らずに、直接原文にあたるほうがよいと思います。とはいえ、残念ながら、もう字数限界が近づいています。

 

 やはり1回では全部をまとめきれませんでした。しかし、これまでで、問題の大きな枠組みは提示できたと思います。あとは、この枠組みに位置づけながら、「詔」の個々の言動を解釈していけばよいのです。

 

 

 

 

 

 

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