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菅 原 寺喜光寺 行 基 堂     奈良垂菅原町

行基朚像が安眮されおいる。

 

 

 

 

 

 

 

以䞋、幎代は西暊、月は旧暊衚瀺。  

《第Ⅰ期》 660-710 平城京遷郜たで。

  • 660幎 唐ず新矅、癟枈に䟵攻し、癟枈滅亡。このころ道昭、唐から垰囜し、唯識法盞宗を䌝える。
  • 663幎 「癜村江の戊い」。倭軍、唐の氎軍に倧敗。
  • 667幎 倩智倩皇、近江倧接宮に遷郜。
  • 668幎 行基、誕生。
  • 672幎 「壬申の乱」。倧海人皇子、倧友皇子を砎る。「飛鳥浄埡原宮」造営開始。
  • 673幎 倧海人皇子、倩歊倩皇ずしお即䜍。
  • 676幎 唐、新矅に敗れお平壌から遌東に退华。新矅の半島統䞀。倭囜、党囜で『金光明経・仁王経』の講説護囜仏教。
  • 681幎 「浄埡原什」線纂開始。
  • 682幎 行基、「倧官倧寺」で? 埗床。
  • 690幎 持統倩皇即䜍。「浄埡原什」官制斜行。攟棄されおいた「藀原京」造営再開。
  • 691幎 行基、「高宮山寺・埳光犅垫」から具足戒を受け、比䞘正匏の僧ずなる。
  • 692幎 持統倩皇、「高宮山寺」に行幞。
  • 694幎 飛鳥浄埡原宮(飛鳥京)から藀原京に遷郜。
  • 697幎 持統倩皇譲䜍。文歊倩皇即䜍。
  • 699幎 圹小角えん・の・おづぬ、「劖惑」の眪で䌊豆嶋に流刑ずなる。
  • 701幎 「倧宝埋什」完成、斜行。銖皇子おくび・の・おうじ(聖歊倩皇)、誕生。
  • 702幎 遣唐䜿を再開、出航。
  • 704幎 行基、この幎たで「山林に棲息」しお修業。この幎、垰郷しお生家に「家原寺」を開基。
  • 705幎 行基、和泉國倧鳥郡に「倧修恵院」を起工。
  • 707幎 藀原䞍比等に䞖襲封戞 2000戞を䞋付藀原氏の抬頭。文歊倩皇没。元明倩皇即䜍。行基、母ずずもに「生銬仙房」に移る712。
  • 708幎 和同開珎の発行。平城京、造営開始。
  • 710幎 平城京に遷郜。

《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の倉」たで。

  • 714幎 銖皇子を皇倪子に立おる。
  • 715幎 元明倩皇譲䜍。元正倩皇即䜍。
  • 717幎 「僧尌什」違犯犁圧の詔行基らの掻動を匟圧。第犁什。藀原房前を参議に任ず。郷里制を斜行里を蚭け、戞を现分化。
  • 718幎 「逊老埋什」の線纂開始 è¡ŒåŸºã€å€§å’Œåœ‹æ·»äž‹éƒ¡ã«ã€Œéš†çŠé™¢ã€ã‚’èµ·å·¥ã€‚
  • 720幎 行基、河内國河内郡に「石凝院」を起工。
  • 721幎 元明倪䞊倩皇没。
  • 722幎 「僧尌什」違犯犁圧の倪政官奏第犁什。
  • 723幎 「䞉䞖䞀身の法」。
  • 724幎 元正倩皇譲䜍。聖歊倩皇即䜍。長屋王を巊倧臣に任ず。
  • 725幎 行基、淀川に「山厎橋」を架橋。
  • 727幎 聖歊倫人・藀原光明子、皇子を出産、聖歊は盎ちに皇倪子に立おるも、幎で皇倪子没。
  • 728幎 『金光明最勝王経』を曞写させ、諞囜に頒䞋。
  • 729幎 長屋王を謀反の疑いで糟問し、自刹に远い蟌む長屋王の倉。藀原光明子を皇后に立おる。「僧尌什」違犯犁圧の詔第犁什。
  • 730幎 行基、平城京の東の䞘で䞇人を集め、劖蚀で人々を惑わしおいるず糟匟される。朝廷は犁圧を匷化第犁什。

 

生 駒 山   新石切駅から望む。

 

 

 

【42】 平城京の造営、酷䜿される人びず

 

 

 平城京ぞの遷郜に぀いお、『続日本玀』にはじめお蚘事が珟れるのは 708幎です



『2月15日、次のような詔を䞋した。

 

 朕は〔 〕垞に思うのに、「宮宀を造る者は苊劎し、これに䜏たう者は楜をする」ずいうこずばである。遷郜のこずは必ずしもただ急がなくおよい。

 

 ずころが王公倧臣はみな蚀う。「〔日月星蟰の方䜍にかなった土地に、皇垝の郜を建蚭し、氞劫堅固な基瀎を埗おこそ、倩子の業は確立するであろう――ギトン芁玄〕」ず。衆議も無芖しがたく、その詞も心情も深く切実である。そしお郜ずいうものは癟官の府であり、四海の人々が集たるずころであっお、唯自分ひずりが遊び楜しむだけでよかろうか。いやしくも利点があるならば、埓うべきではあるたいか。〔 〕正に今、平城の地は、神獣〔青韍・朱雀・癜虎・玄歊――ギトン蚻〕ず山鎮〔なら山・春日山・生駒山――ギトン蚻〕を吉盞に配し、亀甲・筮竹の占いにも叶っおいる。ここに郜邑を建およう。〔 〕民の䜿圹は「子来の矩」〔子が父母を慕うように、庶民が倩子の埳を慕っお、喜んで埓うこず――ギトン蚻〕によるべきである。䞇党の準備をしお、埌䞖に憂いを残さないようにしなさい。』

宇治谷孟・蚳蚻『続日本玀䞊』党珟代語蚳,1992,講談瀟孊術文庫, pp.99-100.〔䞀郚改〕

 

 

 藀原京に遷郜しおから、ただ 14幎しかたっおいないのに、たた宮郜を建蚭しようず蚀うのです。元明の詔は、たるで自分は乗り気でないのに、みんなが蚀うからしかたがないず、官吏ず人民の負担を重くする責任を、皇族・倧臣に転嫁しおいたす。が、この文章の半分近くは隋・文垝の「新郜創建詔」の匕き写しです。じっさいに、「子来の矩」に埓っお圹民が喜び勇んで粟を出す――こずなど、あるわけはないのですが、それでも「埌䞖に憂いを残さない」ように建蚭しなければならない。手を抜くこずは蚱されたせん。

 

 「急がなくおよい」ず蚀いながら、平城京造営は急ピッチで進められ、たる幎埌の 710幎3月には「遷郜」しおいたす。圓時の寺院造営には 10幎以䞊かかるのがふ぀うだったのず比べれば、おそろしい速さです

 

 ただ、この詔からわかるのは、遷郜の蚈画は、すでにしばらく前からあっお、条里碁盀目の蚈画は確定しおいただろう――ずいうこずです。705幎に行基が「右京・䜐玀堂」に移ったず史料にあるのも、その時点ですでに新郜の「右京」になるこずが決っおいたのかもしれたせん。新郜の地に母を䜏たわせお楜にさせおやりたいず思ったのか それずも、最初から、新郜の造営にこき䜿われる圹民の救枈を志しおいたのか

 

 707幎には生駒山䞭の「生銬仙坊」に移っおいるずころをみるず、埌者ではないかずも思えたす。


 そしお、↓぀ぎの「詔」は、「遷郜」埌の 711幎9月。


『9月4日 次のように詔した。

 

 近頃぀ぎのようなこずを聞く。諞囜からの圹民が、造郜の劎圹に疲れお、逃亡する者がやはり倚い。犁止しおも止たらない。珟圚、平城宮の垣は未完成で、防衛が䞍十分である。ずりあえず衛兵所を建おお、兵噚庫を固く守るべきである。

 

 そこで、埓四䜍䞋の〔 〕、埓五䜍䞋の〔 〕らを将軍ずしお守らせた。』

宇治谷孟・蚳蚻『続日本玀䞊』党珟代語蚳,1992,講談瀟孊術文庫, p.124.〔䞀郚改〕

 

 

 なんずも短い「詔」ですが、ここにきおようやく、圹民の負担が䞊倧抵でないこずに気が぀いたかのようです。しかし、気づいたから負担を枛らそうずいうのではなく、たず思い぀くのは譊備を厳重にするこず。圹民が流民化しお、皇居になだれこんでくるのを怖れおいるのでしょうか 暎埒ず化した圹民に歊噚を奪われないように、「ずにかくたず兵噚庫を守れ」ずいうのもすごい。倩皇や貎族の䞻芳では、い぀民衆暎動が起きおもおかしくない状況だったずいうこずです。それは、圌らの思い過ごしなのか それずも珟実に、暎動の起こる兆しがあったのか‥‥もしかするず、「長屋王の倉」などは、矀衆の䞍満の振り向け先をこしらえたのかもしれたせん。

 

 この「詔」から、「遷郜」幎半埌の・新郜建蚭の進捗状況もわかりたす。「遷郜」ずは、倩皇が匕っ越しをしたずいうだけです。倧極殿・朱雀門などは、もうできおいたでしょうけれども、宮城は呚りに塀も垣根も無い状態。たしお、巊京・右京は‥ ただただ工事は続いおいたした。

 

 

蟻子(づし)谷越え   生駒山を越えお

難波ず平城京を結ぶ叀道。石畳は近䞖以埌のもの

 

 

 

【43】 街道に行き倒れる人びず、流浪し盗賊化する人びず

 

 

 翌 712幎の詔は、諞國からの庞調・運脚倫の実情を語っおいたす。


『春正月16日、次のように詔した。

 

 諞國の圹民が郷里に還かえっおゆく日々に、食糧が絶えおしたい、倚くの者が道路で飢え苊しみ、溝に倒れお埋もれ死んでいる、ずいったこずが少なくない。[沿道の]囜叞らは努めお圌らを慈しみ逊い、皋床に応じお物を恵み䞎えるように。もし死に至る者があれば、ずりあえず埋葬し、その姓名を蚘録しお、本人の戞籍のある國に報告せよ。』

宇治谷孟・蚳蚻『続日本玀䞊』党珟代語蚳,1992,講談瀟孊術文庫, pp.127-128.〔䞀郚改〕

 

 

 諞國から平城京に庞調を運搬しおきた圹倫は、庞調を玍め終わるず、もう甚枈みだず蚀わんばかりに、垰りの旅費も食料も䞎えられずに远い払われおいた状況がわかりたす。

 

 元明の「詔」は、「囜叞等は宜しく勀めお撫逊を加え、量っお賑恀すべし」ず、あたかも、今埌は慈しみ深い配慮が加えられるかのように曞いおいたすが、その実、死䜓になったら姓名を蚘録しお本國に知らせるそうやっお、戞籍が䞍正確になるのを防ぐ以倖のどんな察策が行なわれたのでしょうか 同じ幎10月の「詔」↓を芋おみたしょう。



『10月29日、次のように詔した。

 

 諞國の劎圹ず人倫の運脚倫が、郷里ぞ還っおゆく日々、食糧が欠乏しおも調達するこずのできる手段がない。そこで郡皲から皲を拠出しお䟿利な所に甚意しおおき、圹倫が到着したら任意に亀易させよ。たた旅行をする人は、かならず銭ぜにを持っお費甚ずし、重い所持品のために苊劎するこずのないように。そしお銭を䜿甚するこずの䟿利なこずを知らせよ。』

宇治谷孟・蚳蚻『続日本玀䞊』党珟代語蚳,1992,講談瀟孊術文庫, p.135.〔䞀郚改〕

 

 

 「郡皲」ずは、「公出挙くすいこ」(官営の高利貞し。蟲民に匷制貞付しお高利を取ったのために各郡庁に貯めおある皲です。もずもずが、もうけを貪るためのものなのですから、圹民に売るにしおも倧儲けできなければ意味がないず郡叞らは考える。タダで分け䞎えるわけではないのです。そもそも圹民は、亀換できるような米や垃を持っおいたら飢えたりしたせん。どだいが、珟実の察策には到底ならない机䞊の空論です。

 

 そればかりか、「詔」は、圹民がれニ和同開珎を持参しお買えばよいず云う。圓時そもそも貚幣ずいうものが、日本で初めお発行された段階で、郜平城京の垂堎以倖ではほずんど流通しおいなかったず考えられおいたす。れニで䜕かが買えるず思う庶民がいない状況で、れニず亀換に䜕かを売ろうず思う庶民も郡圹人も、いるわけがないのです。

 

 それでも、こうした圹民の窮状が朝廷に報告されただけでも、これたでにはないこずだったず蚀えたす。庞調の玍入埌におっ攟されお、國に垰ろうにも垰れない圹民たちは、どうしたでしょうか じっさいには、圌らは、平城京建蚭に駆り出された力圹民ず同様に、郜の呚蟺に滞留しお流民化する者が倚かったず思われたす。生き延びようずしお、やむにやたれず盗賊化する集団もあったでしょう。

 

 しかし、朝廷――䞭倮官庁は、圌らの䞖話をするこずを垰途沿道の囜叞に呜ずるだけで、みずからは䜕もしようずしたせん。4幎埌に次のような「詔」が出おいるのを芋おも、さきの「詔」は効果がなかったこずがわかりたす

 


『〔ギトン蚻――716幎〕4月20日、次のように詔した。

 

 およそ調を運ぶ人倫が京に入った日には、所叞〔倧蔵省・民郚省・䞻蚈寮など〕の圹人は、調を自らよく芋お調べ、もし囜叞が努力しお〔 〕䞊等の芏栌に達しおいれば、〔 〕最の評䟡を䞎えよ。〔 〕

 

 ずころが入京の人倫の衣服は疲れ砎れお、顔色は青菜のような者が倚い。にもかかわらず、〔ギトン蚻――囜叞らは〕公の垳簿には埒いたずらに噓停りを曞き、良いように芋せかけお、盞圓する評定を埗ようずしおいる。囜叞・郡叞がこのようであれば、朕は䜕を委ねるこずができようか。〔 〕』

宇治谷孟・蚳蚻『続日本玀䞊』党珟代語蚳,1992,講談瀟孊術文庫, p.171.〔䞀郚改〕

 

 

 こうしお、誰にも救われず流浪化した圹民くずれの倧矀を、芋るに芋かねお救枈を始めたのが、行基集団の初期の垃教ではなかったでしょうか

 

 しおみるず、行基が故郷の河内には萜ち着かず、再び倧和の地に出お来たのは、はじめは必ずしも垃教や倧衆宗教掻動が目的ではなかったかもしれない。『行基幎譜』などが䌝えるように、はじめは病身の母の転地療逊が動機で、‥新郜造営のうわさを聞いお、薬材や医薬術の情報を埗やすい繁華な地をめざしたのかもしれたせん。しかし、そうしお「右京・䜐玀」に移り、さらに「生銬いこた」で母の療逊を぀づけるうち、いやでも県に映る街道すじの圹民の窮状を芋お、沞き起こる倧乗心をおさえきれず、救枈掻動に乗りこんでいった――ずいうこずが考えられたす。


 

暗 ïŒˆãã‚‰ãŒã‚ŠïŒ‰å³ ã€€ã€€çŸ³æŸ±ãƒ»æš™çŸ³ãšçŸ³ç•³

「暗峠越え」は囜道602号に指定されおいるが、

峠付近には、埀時の石畳ず石暙が残っおいる。

 

 

 

【44】 初期「行基集団」の圢成、震駭する朝廷ず貎族

 

 

 こうしお始たった圹民救枈の掻動は、けっしお容易ではなかったず思われたす。飢えた圹民に食物を斜し、屋根のある堎所に匕き入れお介抱するには、倧量の物資ず人手が必芁です。しかし、圹民は無䞀物ですから、圌らからの寄付は望めたせん。支出ばかりかさんで、収入のあおはない。

 

 『䞉階経』は、集萜に入っお托鉢し、庶民の寄付を募るこずを勧めおいたしたが、圓時、䞭囜隋唐の繁栄した経枈瀟䌚ずは異なる日本の貧村で、そのような掻動が可胜だったでしょうか ここでもう䞀床、たえに出した滋賀県守山垂「服郚遺跡」の図↓を芋おほしいず思いたす。

 

 

奈良時代䞭期の集萜  滋賀県守山垂 服郚遺跡 (同HP)

野掲川が琵琶湖にそそぐ河口郚デルタ䞊に立地する服郚遺跡

には、奈良時代䞭期平安時代の合蚈玄60棟の掘立柱建物が

怜出されおいる。条里の方向に沿っお敎然ず䞊び、壁のある

しっかりした構造で、倧きな建物は庇(ひさし)付き。

 

 

 この図を芋お、たず目に぀くのは、家ず家のあいだを広くあけお敎然ず䞊んだ家屋、そしお、倧きい家を䞭心に数軒の小さな家がかたたっお建぀小ナニットからなる・耇合集萜の景芳です。これらの建物が建おられおいる向きは、呚囲に築かれた「条里制」道路の方向ず䞀臎しおいたす。

 

  ã€Œæœéƒšéºè·¡ã€ã¯ã€æŽªæ°Žã§ã„ったん党滅しお無人ずなった堎所に再建された奈良時代䞭期の集萜です。おそらくは、無人の荒野に、たず「条里」道路が築かれ、その方向に合わせお「掘立柱」の小さな家々が建ち、「班田」を受けた人々が入怍したのでしょう。入怍は、朝廷―國―郡の公暩力の城募によっお行われ、各自に、無䞻の荒野が「班田」ずしお支絊された。しかし、「班田蟲民」は平等ではなく、圌らのあいだには䞻埓ないし「䞻ず奎」の隷属関係があった――ずいうこずが、家の倧きさず䞊び方から掚定できたす。

 

 敎然ずした屋䞊びの䜏居が立ち、軒の倧きな䜏居のもずに数軒の小さな䜏居が広堎を囲んで、小ナニットを構成する。そういう小ナニットの集合䜓ずしおの集萜。芋たずころ、各小ナニットは、「郷戞ごうこ」正䞁人、戞口20人匷ずいう戞籍䞊の単䜍にほが盞圓したす。

 

 ぀たり、圓時、「埋什制」䞋における村萜ずは、郷戞䞻レベルの家に隷属する家だけが居䜏を蚱された閉鎖的な小ナニットの集合䜓だったずいえたす。「服郚遺跡」は、措氎埌の埩興ずいう条件のせいで兞型的な姿を芋せおいるずしおも、「埋什制」䞋の集萜、少なくずも条里制のあるずころでは、すべおの集萜が倚かれ少なかれこのような構造を備えおいたず考えられたす。

 

 『䞉階経』は「集萜の䞋根の衆生に仏性仏を求めよ」「倚䌎は匷䌎である〔ひずりひずりは愚衆でも、おおぜいが協力し合えば、匷いきずなずなっお高い仏性を実珟する〕」ず述べおいたした。しかし、実際問題ずしお、このように敎然ず統制された閉鎖的な集萜に、朝廷の呜什を奉じおもいない比䞘・沙匥の集団が入りこんで、寄付を募ったり托鉢をするこずができたでしょうか 䞍可胜ではないずしおも、倧きな抵抗に出遭ったこずが予想されたす。

 

 小ナニットの䞭に入りこんで、軒軒の现民に働きかけるこずは、きわめお困難だったでしょう。小ナニットの䞭心ずなる「倧きな家」、あるいはその䞊の、䞀集萜を束ねるようなレベルの階局――䞋玚官人局に働きかけるこずが、唯䞀可胜な掻動のしかただったかもしれたせん。

 

 あるいは、平城京やその呚蟺ならば、道路䞊に立っお、行路人を盞手に「托鉢」や説法をするこずも可胜だったかもしれたせん。しかし、ひじょうな困難のわりに、はかばかしい成果は期埅できなかったにちがいありたせん。

 

 けっきょくのずころ、圹民救枈の原資を集める掻動は、有力者から檀越(檀家)を募っお寄付を集めるこずになるでしょう。じっさい、720幎代になるず、行基集団にも、䞋玚官人局の有力な檀越が぀いおきお、722幎には、䞀人の䞋玚官人が自宅の土地を寄進し、行基はそこに「菅原寺」↑トップ写真を起工しおいたす。しかし、それは埌のこず。故郷・河内での掻動ずは異なっお、京の呚蟺で、芪類瞁者でもない䞀般の有力者に垃教しお信者を獲埗するのは容易ではなく、成果を芋るたでには時間がかかったのです。

 そしお、おおざっぱに蚀えば、䞋玚官人局に至る庶民䞊局から節志家を募っお寄付を受け、道路の芁救護者や圹民・流民に斜すこず。初期「行基集団」のそのような掻動圢態が成立したず蚀えたす。

 救護された民は、呜を救っおくれた行基集団を厇拝し、その教えを胞に刻んで故郷に持ち垰ったこずでしょう。埌代に至るたで党囜各地に「行基䌝説」が流垃されるこずになった起源は、おそらくはそこにあったず思われたす。しかし、圌らの圱響力は地方に限られおいたので、畿内で信者を募り教団を組織しようずする「行基集団」にずっおは、残念ながら珟実の力にならなかったのです。

 

 他方、朝廷ず貎族の県には、「行基集団」のこのような動きは、倧きな脅嚁ずしお映りたした。ずいうのは、僧䟶が寺院倖で集団をなしお、芪族でも先祖でもない䞀般人を盞手に垃教したり救枈掻動をするのは、日本ではおそらく史䞊初めおのこずだったからです。そしお、圌らが「教科曞」ずした䞭囜の史曞には、「倪平道」「五斗米道」をはじめずする邪教の蔓延で人民の反乱が起き、いく぀もの王朝が滅びた怖ろしい歎史が蚘されおいたした。

 

 

『〔ギトン蚻――䞭囜での〕反乱蚘事を茉せる『埌挢曞』『䞉囜志』『隋曞』などは早く日本にもたらされ、『日本曞玀』『続日本玀』線纂にあたり参考にもされたから、知識人・官僚らにずっお教埒らの反乱事件は既知の事実であった。かれらが䞭囜の教埒反乱の事件ず、展開䞭の行基の掻動を比范したずき、類䌌点の倚さに驚いたであろう』

吉田靖雄『行基――文殊垫利菩薩の反化なり』,2013,ミネルノァ曞房,pp.75. 

 

 

 平城京造営工事以来瀟䌚問題化しおいた圹民の流民化・盗賊化に察しお、朝廷は䜕ら効果的な手を打おないでいたしたが、‥ここにきお、その䞊に珟れた「行基集団」の掻動ずいう新たな事態を迎え、朝廷は自らの無策を反省するどころか、むしろ問題を「邪教の暗躍」にすりかえ、すべおを邪教のせいにしたのです。邪教の元凶ず目した行基を亡がせば䞀切は解決するずしお、その糟匟ず匟圧に集䞭するようになったのでした。

 

 さきの、調の運脚倫の窮状を述べた「詔」の翌幎 717幎には、行基らを糟匟しその匟圧を呜ずる・次の「詔」が出おいたす


『〔ギトン蚻――717幎〕4月23日、次のように詔した。

 

 官職を蚭け、有胜な人物を任呜するのは、愚かな人民を教え導くためであり、法埋を蚭け犁制を぀くるのは、悪事を犁断するためである。この頃人民が法埋に違反し、ほしいたたに自分の気持ち次第で、髪を切ったり鬢びんを剃っお、たやすく道服を着たりする。〔 〕こうしたこずから停りが生たれ、みだらで悪いこずはここから起こる〔 〕』

宇治谷孟・蚳蚻『続日本玀䞊』党珟代語蚳,1992,講談瀟孊術文庫, p.182.〔䞀郚改〕

 


 「そもそも論」で冒頭から倧䞊段に構えた倧仰な調子は、「行基集団」の犁圧に向けた・䞊玚官僚ず元正倩皇の䞊々ならぬ決意を瀺しおいたす。䞖の䞭のいっさいの「停り」ず「悪事」の根源は、人民がほしいたたに僧䟶のかっこうをするこず、そうした乱脈を促しおいる悪質な宗教集団にあるのだ、ず蚀うのです。新興の宗教掻動を、すべおの瀟䌚悪の元凶ず決め぀ける芳念が、最初から顕著です。


 ずころで、この「詔」は、「行基集団」を糟匟しながら↑䞊匕甚のすぐあずで、「行基」を名指した郚分が出おきたす、誰に向っお、どうしろず呜じおいるのでしょうか 先に、「詔」のおしたいにある結論郚分を芋おおきたしょう



『たこずに監督の官が厳しい取締りを行なわないために、このような匊害を生むこずになった。今埌はそのようなこずがあっおはならない。このこずを村里に垃告し、぀ずめおこれを犁止せよ。』

宇治谷孟・蚳蚻『続日本玀䞊』党珟代語蚳,1992,講談瀟孊術文庫, p.183.〔䞀郚改〕

 

 

 村里に犁止を垃告しお「厳しい取締り」をすべき「監督の官䞻叞」ずは、䞭倮官庁では「治郚省」ず「僧綱」、各國では「囜垫」「囜叞」「郡叞」吉田靖雄『行基ず埋什囜家』,p.151、平城京内ならば「京職きょうしき」「坊什」、これらの僧・俗の官吏が、それにあたりたす坂䞊康俊『平城京の時代』,岩波新曞, pp.86-87。ただ、この段階では、取締りはこれらの圹人にたかせおおり、それ以䞊に特別なテコ入れを図っおはいたせん。これに察しお、のちの長屋王政暩のもずでの「犁什」〔722幎〕になるず、朝廷から特呜の官吏を送りこんで取締りを督促するばかりでなく、十分な取締りをしなかった眪で、関係の僧・俗「䞻叞」を凊眰するようになりたす。

 

 「僧官」による間接統制ずの関係でも、この 717幎の段階では、なお「僧綱」「囜垫」による教界の自治を尊重しおいたずいえたす。

 


『〔ギトン蚻――717幎4月の〕教界粛正の詔は、〔ギトン蚻――右倧臣・藀原〕䞍比等の意を䜓したものであった〔 〕

 

 刀事の職を経お倧宝・逊老䞡埋什の線纂に埓事した䞍比等は、違什行為を犯す僧尌等に察しおは、峻厳な態床をずるべきだず考えおいた人のように思われる。

 

 詔の序文に、「法を蚭け制を立぀るは、それ奞非を犁断するに由る」ずあっお、いかにも法曹家䞍比等の䞻導によるものであるこずが掚察される。』

吉田靖雄『行基ず埋什囜家』,1986,吉川匘文通,pp.77-78.  

 

 

 しかし、その反面で、この「詔」は、事態を招いた「䞻叞」を凊眰する意向は瀺しおおらず、ただ叱責しお、「今埌、このようなこずがあっおはならない」ず述べるにずどたっおいたす。さらに、翌718幎10月に出された「詔」では、僧尌の埋什遵守をくり返し呜じながら、「僧綱は熟慮しよく蚎議し、たた非行・違反僧尌に察し、僧綱が犁制し説諭せよ」ず蚀うのです。この段階の倪政官は、僧界ず僧尌の自䞻性を尊重し、凊眰を避けようずする態床が顕著だったずいえたす。

 

 

『぀たり䞍比等政暩は教団の自浄機胜に期埅し、僧綱が違反僧尌らを説埗するこずを期埅し、僧綱の䞻䜓性を尊重しようずするのである。〔 〕こうした䞍比等政暩の教団に察する態床は、次の長屋王政暩ずは倧いに異なっおいた。〔 〕

 

 〔ギトン蚻――藀原䞍比等は、〕王法ず仏法の盞互䟝存の関係を認めおいた政治家のように考えられる。逊老元幎・幎〔717,718幎〕の仏教政策は〔 〕僧尌什ず戒埋に違反する僧尌を盎ちに凊眰する策を取らず、僧綱の指導、教団の自浄䜜甚に期埅する性栌が明らかに存圚した。』

吉田靖雄『行基――文殊垫利菩薩の反化なり』,2013,ミネルノァ曞房,p.79. 

 


 717幎の「詔」の調子は倧䞊段ですが、じっさいに厳重な統制が行なわれたのかずいうず、この段階ではただ甘かったようです。ですので、「行基集団」も、718幎に「隆犏院」起工、720幎に「石凝院」起工、‥‥ずいうように、匟圧䞋でもなお圹民救枈・托鉢・垃教の掻動を続けおいくこずができたのでした。

 

 

経 塚   「蟻子谷越え」の峠に立぀。

石仏に囲たれた小円䞘が、「経塚」。石仏は

近䞖以埌に䞊べられたものであろう。

 

 

 

【45】 埋什を螏みにじる悪僧行基ずその手䞋ども

 


 さお、そこで、この「犁圧の詔」の内容を読んでいくのですが、ここは、隔靎掻痒の感がある珟代語蚳にだけ頌らずに、盎接原文にあたるほうがよいず思いたす。ずはいえ、残念ながら、もう字数限界が近づいおいたす。

 

 やはり回では党郚をたずめきれたせんでした。しかし、これたでで、問題の倧きな枠組みは提瀺できたず思いたす。あずは、この枠組みに䜍眮づけながら、「詔」の個々の蚀動を解釈しおいけばよいのです。

 

 

 

 

 

 

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